続続「羅生門」の彫版

 午後5時すぎ、雨天。気温摂氏22度。雨は、小降りになっている。湿気が多い。こう云うときは肋間に神経痛がでる。
 木版漫画「羅生門」の彫版作業は順調である。併し、彫りの進み具合は相変わらず遅々としているが。今は、31枚目の3コマ目を彫り終った。この分でゆくと、7月上旬には全34枚の彫版は終了するかもしれない。終了すればいいなと思っている。
 最近は、版画などの表現活動のほかに心霊現象研究、超自然現象の研究も始めている。と、云っても、心霊のほうは、もっぱら実話怪談の本を読んだり、ネットでそれらの記事を読んだりするだけで、心霊スポットへ行ったりはしない。もっとも、もう若くないので、そう云う所まで出掛けるのが大儀であり、実際のところ、深夜になって出掛けてゆくことができない。・・・何故、若者でもないのに50代をすぎて、こう云う興味が出てきたのかは、多分未知なる世界へ関心を持たずにはおれない心境、つまり、死後の世界が本格的に気になりだしたからだと思う。もう、50代の身体は、生きている世界(此岸)より死後の世界(彼岸)の成分ほうが割合が高いのだろうと思う。これも、ひとつの終活の一形式だろう。墓所よりも、自分が行く場所を確認したい欲求がつよい。
 普段、なにげなく生活していると、私たちは上も下もない、右も左も確定できない世界に居ることを信じることができない。地球が丸く、回転しながら太陽の周りをまわっているとは実感できない。今いる所を実感できないのに将来死んでゆく所を想像したり実感することは難しいだろう。併し、死後の世界は一説には光に包まれた天国であり、苦悩もなく、併し、希望(欲望)も夢(情念)もない所らしい。無味乾燥している。そして、地獄もないらしい。死後の世界は魂の世界であり、魂は異次元エネルギーの集まる所であり、現実世界と死後の世界を行ったり来たりしている、と云う。俄かには信じられない話で、これは異端であり、昔の西洋なら火炙りになるところだ。併し、どんなに荒唐無稽な話であっても、私たちは自分の居る所も定かに出来ない以上、どんなに変な話でも受け入れなければならないだろう。これは、好き嫌いの嗜好を別にしてゆかなければならない。・・・私にしても、このような話と、芸術、表現の話の間には、埋めても埋めきれない感覚の断絶があることを知っている。感覚的に不安定な状態である。