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2012-05-27

Studygiftと善意の捌け口

studygift 〜学費支援プラットフォーム〜

studygiftはなぜ暴走したか 「説明不足」では済まされない疑念、その中身

Webに爆誕した「studygift」という善意の塊の壮絶なオチ


まず、今回の特定のケースはあまりに酷すぎます。「詐欺になるかもしれない」というレベルで不誠実だったことは完全に論外です。志や目的によって正当化できるものではありません。これが多様性だの何だので許されるのであれば、「適当に見た目の良い若い子を拾ってきて、学生に仕立て上げ、学費支援詐欺の片棒を担がせる」ことが許されることになってしまいます。実際、今回のケースの構造はそれに近かったわけですから。

ただ、この総括だけではまだ足りないと思える部分があるので、ちょっと書き留めておきます。「学生が顔と名前をWebに晒して学費援助を募るシステム」がそもそも是か非か、ということについて。

この件を通して、首謀者の一人である家入一真氏の発言であるとか、別の企画であるとかを色々知ったのだけども、僕の感想は率直に言って「怖い」です。彼の活動は、浦沢直樹風に表現すると、「僕を見て!僕を見て!僕の中の善意がこんなに大きくなったよ!」というアピールのように思えます。しかも彼個人が暴走する善意に振り回されているだけではなく、Webを通じて多くの人間に「善意の捌け口」を与えようとしているように見えます。

映画『マグノリア』に、ドニーというキャラクターが出てきます。ドニーはかつては天才クイズ少年だったものの、今では落ちぶれて冴えない中年です。同性愛者であるドニーは、とあるバーテンに恋をするのだけれども、実際にアプローチをすることが出来ずに悶々としています。バーテンの気を引くため、彼と同じ歯の矯正をしようと金策に駆けまわって周りの人間にバカにされています。そんなドニーが、酔っ払ってこんなことを叫びます:

「この胸には、愛が溢れているのに、愛の捌け口が見つからないんだ」

ドニーは苦しんでいるわけです。しかしなぜこれが苦悩になるかといえば、「人に愛を与える」ことは大変難しいことだからです。人間は普通、与えた分、見返りが欲しくなります。受け手がそれを返してくれないと一層苦しくなります。仮に口で見返りなんていらない、と言ったとしても、与えられた側にとっては重荷に、そして迷惑になり得ます。愛を与えようとして拒絶されることは、人間の心にとって最も苦しいことの一つです。だからドニーは一歩が踏み出せない。彼の中の愛を持て余して苦悩を続けているのです。

家入氏が、「顔の見える援助」に拘るのは、支援者の側が支援することに満足感を得られるシステムにしたいからではないか、と思います。あの枠組みにおいては、まず支援者は学生を見て、その個人を支援するかどうかを決める。そしてその学生がその後どういう生活を送るかを「監視する」権利を得る。誰にどれだけ金が回るのか判らない匿名の寄付よりも、ずっと生々しく「支援した!」という感覚が得られます。そうやって支援者が、自己の善意に生々しい満足感を与えることができるシステムを彼は求めているのではないか。

だけれども、「支援者は善意の捌け口を得て、学生は金を得るのだからwin-win」というのは短絡的に過ぎます。愛と同じく、「人に善意を与える」ことは本来大変難しいんですよ。善意は相手を選び、適切なやり方で実行されなければ、最終的に相手を本当に助けることになりません。不用意に善意をばらまいても、与えられた側にとっては重荷に、そして迷惑になり得ます。だからこそ、「人を助ける仕事」の多く(医者とか、弁護士とか)は、長い間訓練を積んで、プロフェッショナルとして対価を得てその技術を提供する職業になっているわけです。

「学生に学費支援を行う」というのは、本来大変な熟慮が必要な問題です。どれぐらいの金額を、どういう条件で支援したら、その学生が本当に助けられるのか、あるいはどれだけの学生が助けられるのか。それを真面目に考えて設計された学費支援システムは、おそらく分かりやすい「善意の捌け口」にはなりません。例えば、学生が支援者に、一方的に支援の見返りを要求されて不幸になることを防ごうとするなら、システムは匿名にならざるを得ないんです。


Lo-Fi Project ANNEX: Studygiftのこと

なんかねぇ、教育も、臓器も、「人生」なんですよ、きっと。「”俺”が、”こいつ”に、人生を与えてやったんだ!」と、一人でも、かけらでも、思わせてしまうと、往々にしてよくない結果を招くことになる気がします。


本当にそうだと思う。そして、studygiftの運営が、支援対象の学生に「よくない結果」が起こるリスクを無視して「顔の見える援助」に拘るのであれば、それはもう学生のためのサービスではない。おっさんが苦学生を生贄に捧げて、「善意の捌け口」を得ているだけです。

2012-03-22

教育にイノベーションは必要か

茂木健一郎(@kenichiromogi)さんの連続ツイート第540回「ダメなものを排除するより、良いものに光を当てた方が場外ホームランを飛ばすオーバーアチーブ出るよ」

まとめ内、モギケンのツイートから:

むしろ話は逆で、すばらしい活動、教育をしている先生を見つけ出し、その人に大阪市長賞をあげればいいのでしょう。みんなの前で大いに褒めたらいい。君の教育法は画期的だ。すばらしい。教育界のオスカーをあげよう。場外ホームランを飛ばす教師を見いだすことが、全体を引き上げる。


「場外ホームランを飛ばす教師」というのが気になるのである。場外ホームラン飛ばす教師、ってどんなのだろう。僕は普通の人よりも学生歴が長い(日本で五年、アメリカで五年大学院に通った)分、多分普通の人よりも少し多めに教師を見てきた。その中には、本当に大切なことを教わった、「恩師」と呼べる人が何人かいる。でも僕の恩師が場外ホームランを飛ばしてたかというと、どうしてもそれはイメージが違う。

僕にとって素晴らしい先生だった人達は、誰一人として、何も特別なことはしていなかった。普通の授業、普通のテキスト、普通の板書。これまでの授業の概念を覆す!とか、「教育を再発明します!」みたいな何かとか、そんなものは一切なかった。皆、これまで学校で誰もが使っていた手法と同じことをやっていた。

じゃあ一体、僕は彼らの何が良かったのだろう。どうして彼らは僕にとって恩師なのだろう。そんな感じのことを考えてみた。そうしたら、およそ具体例を挙げられるような「知識」として、彼らから学んだと断言できることって全然無いことに気付いたのだ。高校時代の英語の先生から、英語に関して何を学んだのか、全く思い出せない。大学以降で得た言語学の知識は、それが先生から教えられたものなのか、自分で本や論文を読んで知ったことなのか、どうもはっきりと区別がつかない。あの先生達は、僕に新たな知識を授けてくれたから恩師として記憶されている、ということではないらしい。

僕があの先生達から学んだと言えるもの、それは言葉で表現しようとすると、「哲学」とか「生き方」とか「人格」とか、そんな感じの他人とは共有しがたい何かになってしまう。例えば、「世界の隠れた秩序を見出すことに真摯な情熱を燃やす」とか、「自分が正しいと思うことを、勇気を持って堂々と他人に語る」とか、「損得勘定からは離れて、他人を助けることに時間を費やす」とか、「学ぶことに敬意を払い、自分が知らないことを謙虚に受け止める」とか。で、それらのことは、先生達が自らの振る舞いを通して体現していたことだった、と思う。あの先生達は、大人が・研究者が持つべき性質のいくつかを具現化させたような存在だった。僕は言葉で「ああしなさい、こうしなさい」と言われたことよりも、そういった先生達の存在そのものから何かを学んだのだと思う。


自分が教える立場になってみて、「ああしなさい、こうしなさい」という言葉のみの指導の無力さを痛感している。例えば「文献はしっかり読みなさい」ものすごく大事なことだけど、いくら口を酸っぱくして言っても、それだけでは学生は決して動かない。僕が学生の前で、「圧倒的にしっかり文献を読む人」であり続けなければならないのである。「文献をしっかりと読む」という、学問をやる上で欠かすことのできない概念を教えようとしたら、唯一効果的な方法は、学生に対してその概念を、自分自身で具現化してみせることなのだ。

僕は教師になって五年目の超ペーペーだけども、「わかりやすく授業をする」ことには結構な情熱を燃やしている。ところが実際、たとえ学生が「先生の授業、すっごくわかりやすかったです」と言っていたとしても、僕が教えた知識そのものは、驚くほどあっさりと学生の頭から抜け落ちるのである。「C統御って何?」「えーっと。。。」「去年の統語論でやったじゃん!君テストすごく良くできてたじゃん!」みたいなことは日常茶飯事だ。だけれども、学生の前で「ものごとを上手に整理して、工夫して分かりやすく説明してくれる人」であり続ければ、どうも彼らは「人に何かを説明する時、整理して工夫して分かりやすくしようと努力する」ことは身に付けてくれるようなのだ。


もしこれが「教育の本質」とでも呼べるものに、多少なりともカスっているのだとすれば。だとすれば、教育において「イノベーション」とか呼ばれる何かは実は枝葉末節に過ぎないのではないだろうか。人に何かを教えるものが、究極的には教師の人としてのありさまなのだとしたら、紙のテキストだろうが電子教科書だろうが、板書であろうがパワーポイントであろうが、それらは教師のありさまを表現する媒介でしかない。一人一人の教師が、自分のありさまを最も効果的に伝えられるメディアを選べばいいだけのことだ。

Khan Academyの本質は、ビデオだYouTubeインターネットだ云々ではなくて、「Salman Khanがすっげえ楽しそう」ってことなのではないか?彼が数式を使って問題を解いて見せる時の語り口は、殆ど「おばあちゃんに大好きな電車について説明する男の子」みたいなイメージを喚起させる。あの楽しげなありさまが人々を魅了して、心の中で(例えば)「こんな風に楽しく数学ができるようになりたい」と思わせていることが、成功のほぼ唯一の原因なのではないだろうか。

おそらくインターネットは、Khanのような教師がより多くの人にそのありさまを伝えるのには多大な貢献をするだろう。でも僕の経験では、学ばれるべき性質を沢山持っているけど、それはネット上のメディアに載せて表現するのには向いていない、というような教師は沢山いるのである。彼らは古典的な授業と、面談と、その他の生徒との交流を通して真価を発揮し、そこから生徒は「知識」以外の何かを学んでいる。だったら、それはそれでいいではないか。それができている教師に、わざわざ「イノベーション」を要求する必要はどこにあるのだろうか。

僕はここまで書いてきたことが「正しい」のかはわからない。結局僕は自分の経験を通して良かったことしか「良い」と判断できないわけで、僕が経験してない「良い教育」ってのも沢山あるんだと思う。だけどもどちらかに賭けるとしたら、教育に「場外ホームラン」だとか、「イノベーション」だとか、そういった現状を画期的に変えてしまう一撃なんて存在しない、っていう方に賭ける。教育システムや道具がどのように変わろうと、一人の教師にできるのは生徒に対して「自分がどのような人間であるか」を表現し続けることしかないと思う。そうだとすれば、生徒が一人の教師から学ぶことは、システムや道具の変化では本質的には変わらないのだ。

2012-01-08

憧れよう

僕が大学院に入ったときに、師匠が授業中にこんなことを言いました:

「人と自分を比べてはいけない。俺はあいつよりできる、といい気になっても、私はあの人に負けている、と落ち込んでも、何も得るものはないんです。」

この言葉は、その後の僕の人生において、心の支えとなってきたものです。あれから十数年経って、僕はこの言葉が間違いなく真実だと確信しています。

で、僕はこないだこんなことを書きました:

周りを見渡してください。自分の所属する研究室大学院だけでなく、世界中を見渡してください。あなたの年齢に+10歳ぐらいまでの範囲で、「一番良くできる人達」を見つけ、その人達がどれぐらいの研究業績を持っているのか、どれだけ論文を出しているのかを調べてください。

これを書いてからずっと心に引っかかっていたものがあります。説明不足だったんじゃないかと。人によっては、これが先の師匠の「人と自分を比べるな」と矛盾するではないか、と思うかも知れません。そうじゃないんです、ってことを書き記しておこうと思いました。


師匠が言っていたのは、「研究を、研究者同士の優劣を決めるゲームだと勘違いするな」ということだと思います。本来学問とは、どこまで高いかわからない巨大な山の頂を目指すようなものです。ある人間一人の力だけで山頂に辿り着くことは決してありません。その山に登ろうとする研究者達は、皆同じ目標を目指す仲間として、緩やかに協力し合いながら、少しずつ頂上に向かって歩を進めていくのです。「こっちのルートから登るべきだ」「いやこっちがいい」と意見が割れることはよくあります。しかしどんな場面でも、やるべきことは山頂に向かって一歩でも歩を進める事で、決して登ってる者同士で「俺のほうが速い」云々と優劣を競うことではないんです。

残念ながら研究者と呼ばれる人達の中にも、周りにいる他の研究者しか目に入っていないような人はいます。「俺はあいつよりできる」「あいつより賢い」「あいつよりいい大学に就職した」云々。しかしそういう人が、本当にフィールドに貢献するような、その研究分野に関する我々の理解を一歩深めるような、後の世に残るような研究成果をあげることは殆どありません。学問とはそういう風にできています。まあ特殊な例外はいるかもしれませんが、そんなのは大学院生が目指すべきなものではないわけです。

というわけで師匠の戒めは、「研究するとはどういうことかを見失うな」ということです。そしてそれは、決して他人の存在に目をつぶり耳をふさげ、ということではない。他人のやることは無視して、自分だけの世界にこもりなさい、ということではないんです。山に登っているのであれば、一人だけでなんとかしようとするより、周りの人と上手に協力できたほうがずっといい結果が出るわけですから。

しかしまた別の事実として、研究者同士の競争は確かに存在します。例えば、サッカーチームの目的は、相手チームに試合で勝つことですが、チーム内ではチームメイト同士でレギュラー争いの競争がある。研究の世界にもそういう二重性があるわけです。そういう状況で、他者の存在とどのように向き合うべきか。特に、「自分よりもできる誰か」を見たときに、どうやったらそこで打ちひしがれずに前に進めるのか。どうやったらそこで「自分よりもできない誰か」を探して安心することに堕さないでいられるのか。これは大事な問題です。

僕がやってきたのは、「憧れる」ことです。いやほんと、先輩だろうと後輩だろうと、できる人には憧れてしまえばいいんです。なでしこジャパンが優勝した次の日、ツイッターで見かけたツイート(うろ覚え)に、「小学生サッカー小僧が二人で澤の同点ゴールを真似しようとしていた。『できねえwwwすげえwww澤すげえwwww』って楽しそうだった」みたいなのがありました。想像できますよね、その感覚。あれを思い出せばいい。すごい人のやったことを見て、それを自分の存在に対する脅威と受け取るのではなく、「ボールを持ちだしてグラウンドに出るためのモチベーション」と受け取ればいいんです。

人間、自分とかけ離れた存在には憧れても、身近な存在に憧れるのは難しかったりします。ジョブズには憧れても、自分の後輩に憧れる気持ちは湧いてこない、みたいな。そういう場合、「今自分は何をやっているのか」を思い出して欲しい。あなたは「俺はあいつよりも優れている」ことを証明するためにわざわざ大学院くんだりまで来たわけじゃないんです。あなたは研究者間の競争を生き抜くために、自分自身のパフォーマンスを最大化しなければならない。「あいつに勝っている」ことが保証してくれる小さなプライドに拘ることは、あなたのパフォーマンスを低下させるだけです。

というわけで、憧れよう。また、憧れられるようになろう。なんか最近意識高い的なことばっか書いてて、リアル友人にからかわれたりしてますけど。気恥ずかしさをごまかして終わるために、最後によいTEDトークを紹介します:

Alain de Botton: A kinder, gentler philosophy of success

ざっくりと言えば「どうやって『自分はできない』という恐怖と向き合うか」というトーク。出してくる例がいちいち面白い。憧れるわー。 

2012-01-07

公募のしくみ

要望があったので、前回エントリに追記します。

今回は、公募における選考基準を、具体的になるべく淡々と書きます。

  • たぶんあんまり面白くありません。
  • 知っている人にとっては当たり前の話です。
  • あくまで一般論ですので、あらゆる公募が全てこの通りだというわけではありません。
  • 僕が知ってる範囲のことですので、欠けてる情報もあるかと思います。

以上disclaimer、ではよろしく。


前回、「あなたは、一件の公募に対して集まる数十〜百以上の応募者の中で、一番にならなければ全く何も得られないのです。」と書きました。今回は、この「一番」を決める基準を説明します。以下項目ごとに分けて。


(1) 専門分野/担当科目適合性

当たり前のことですが、応募者の専門分野が求められているものと合致するかどうかは極めて重要な基準です。極端な例を挙げれば、英語教育公募ノーベル賞物理学者が応募しても採用されないということです。より微妙な例としては、「現在いる専任教員と専門分野が完全に被る」場合など。これは大学にもよりますが、特に文系では「全く同じ分野の人間を二人雇う必要はない」という考え方が主流だと思います。

公募が立ち上がった時点で「その公募で採用した人に担当させる科目」は大体決まっています。それらの科目を担当できそうにない応募者は落とされます。ここには募集要項に明記されない判断基準がある場合があります。例えば募集要項には「担当科目:英語学研究」と書いてあるだけですが、実はある特定のアプローチ/理論を教える授業ができる人を探している、などということはよくあります。

(2) 研究能力

これは、学位/研究業績から、客観的にはっきりとした優劣がつけられる基準です。業績の質と量、そしてどれぐらいコンスタントに成果を出しているかが審査されます。分野によっては、学位や研究論文に代わるものとして、「実務経験」が重視されることがあります。メディア論系の公募マスコミで働いていた人が選ばれたり、国際関係論の公募でJAICAでの実務経験が買われたりする、ということです。いずれの場合にしろ、応募書類にある情報から、研究能力の高さ低さはかなり正確に読み取ることができます。

(3) 教育能力

こちらは、応募書類の情報からはなかなかはっきりと分からない能力です。現在一般的に使われる基準は「(大学での)教育歴がある」というものです。「大学で教えていたことがあるんだったら、少なくても最低限はできるだろう」というロジックです。もちろんこれはあまり合理的ではなく、本当に能力がある人を見極められないので、最近は面接の際に模擬授業をやらせる公募も増えています。また、ポストの性質によって、求められている教育能力も変わります。「学部生のTOEICスコアが上がる授業ができる」というのと、「博士の論文指導ができる」というのは当然別ですね。後者の能力が求められている場合、博士論文を書いていることは重要な条件になります。

(4) 雑務能力

専任教員には色々な雑務があります。入試問題の作成や採点、時間割の作成、人事、教育実習先への挨拶回り、点検評価などなど、まあ挙げていったらキリがありません。雑務は教員間で分担されるので、サボる人がいると、その分負担が他の人にかかることになります。ですので「雑務をこなしてくれる人」を選ぶことは重要です。研究をサボっても周りに迷惑はないですが、雑務をサボる人は周りに迷惑をかけるので。とは言え、普通の応募者は「私は雑務なんかやりません!」と宣言したりはしないわけですから、「この人は雑務をこなしてくれるかどうか」を判断するのは簡単ではありません。で、ここでもやはり経験、「雑務歴」が基準となります。前の専任校で教育実習の調整をやってました!とかいうのがあると高く評価されるわけですね。

(5) 付加価値

公募要項の応募条件には載らないけれども、これがあったらプラスになる、という要素はあります。例えば「英語ができる」とか。今現在「英語で教える専門科目」を増やそうとしている大学(たくさんあります)では、どんな専門分野でも、できれば授業が英語でできるぐらいの英語能力がある人が欲しいわけです。あとは、大学外の何らかの「業界」と繋がりがあって、そこから人を呼べたりそこに学生を送り込めたりする人とかですね。

(6) 定着可能性

人事というのは手間のかかる作業ですから、せっかく採用した人がすぐに他の大学に行ってしまったりすることはできれば避けたいものです。場合によっては、転出後のポストを他の分野に取られてしまう、なんてこともあり得ます。だから、「ものすごく優秀だけど、なんだかすぐにもっと良い大学に移ってしまいそうな人」と、「普通だけど、すぐに出ていくことはなさそうな人」だと、後者が選ばれることがあるんです。「エラい先生の推薦があった候補者」は、この定着可能性という基準から評価されることがあります。推薦してくれたエラい先生の顔を潰して他所に移ることはないだろう、と考えるわけです。

(7) 年齢バランス

専任教員があまりに同じ年齢に固まりすぎると、ある年に一気に退職者が出ることになるなど、色々面倒が起こります。ですのでなるべくこれは避けようとします。公募が立ち上がった段階で、「若手が欲しい」「中堅が欲しい」「ベテランが欲しい」というイメージは大体固まっています。期待される年齢層からかけ離れた候補者は、他によっぽど強い要素がないと選ばれにくくなります。

(8) 政治

例えば教授会東大派閥京大派閥がある大学で、人事委員長京大閥で、京大卒の候補者を優先しようとする、みたいなやつですね。公募を出しても結局はその大学の卒業生から選ぶ、みたいなこともあります。その他まあ、ありとあらゆるドロドロした可能性が存在しますが、最近はそういった政治的基準が公募の結果を決めることは少なくなってきていると思います。

(9) 人格

採用する側からすれば、これから先ひょっとしたら十数年間に渡って一緒に仕事をする人を選ぶわけですから、「人格がフィットするかどうか」も基準の一つになります。面接で攻撃的な態度を取ったり、受け答えが噛み合わなかったりする候補者は避けられます。「あなたの研究について教えてください」と問うたら、その分野の別の研究者を延々批判し始めた、とかいうのも危険信号とみなされます。どうせ研究者は変人ばかりですから、「変」なことはあまりマイナスにはなりません。しかし同僚や学生と軋轢を起こしそうな性格はマイナスです。まあ、人事委員会が面接の場でそれを見抜けるかどうかは別問題ですが。


大体こんな感じでしょうか。で、これらの基準それぞれのウェイト、つまりどれがどれだけ重視されるかというのは、ひとつひとつの公募によって大きく変わります。「一番」は、言わばそれぞれの基準の素点にウェイトをかけて合計した点数で決まるわけですね。ですから、殆どの場合、公募の結果は「理不尽」ではありません。ああここの大学は研究能力よりも定着可能性を重視したんだな、みたいに合理的に解釈できるわけです。

僕の分野では、年々研究能力を重視する選考が増えている、と感じています。「へーあの大学あの人採ったんだ」みたいな。そこの大学の卒業生ではなく、他所から出た優秀な人を、すぐに他の大学に移ってしまうリスクを背負って採用している、みたいな公募を目にすることが増えています。

厄介なのは「教育歴」と「雑務歴」です。他の条件が同じであれば、これらの経験がある人が優先されます。つまり、専任の公募というのは、「新卒」が圧倒的に不利なんですね。「大学教員になるためには、大学教員だった経験がなければいけない」みたいな、なんだその無理ゲー、みたいな状況です。だから、「最初の就職が一番キツい、一度専任職を得てしまえば、そこから別の大学に移るのは比較的簡単」とよく言われます。

公募による採用、その中での研究能力重視が一般化していることは、おそらく今後の日本のアカデミアのレベルを上げます。このエントリで指摘されている通り:

日本のアカデミアの将来はきっと明るい - むしブロ+

ただ僕は、競争による選別がどこまで行くかについては、ちょっと不安を感じます。例えば今のアメリカはこの競争が激化し、要求される研究能力その他のレベルが絶賛青天井インフレ中であり、「テニュア取りたきゃリタリン食って寝ずに仕事しろ」みたいな世界の一歩手前(分野によっては踏み込んでる)です。おかげで研究レベルはものすごく高くなってますけど、中にいる人は大変なんてもんじゃないです。向こうで頑張ってる大学院時代の同級生が体壊して、正月から病院に運ばれたって話を聞いたばかりです。きっと、どこかで相対評価と絶対評価のバランスを取らなければいけないのだと思います。

そんな感じです。では。

2012-01-05

文系の研究者になりたい人達に知っておいてほしいこと

もしあなたが、大学の授業を通して学んだ学問分野に、ものすごく心を惹かれているとしましょう。あなたはこう考えます「この研究は面白いなあ。もっと勉強してみたいな。大学院に行くのもいいかもしれないな。ひょっとしたら、この研究を仕事にして、それで食べていけるようになるかもしれないし!」

このエントリは、そんな人に向けた、「研究で食べていくことを目指すときに、知っておいて欲しいこと」です。対象は、いわゆる「文系」に絞ります。理系でも当てはまる部分はあると思いますが、あちらにはまた色々と異なる慣習があるので。

まずは、「研究で食べていく」とはどういうことか。文系の学問分野においては、それは殆ど「大学の先生になる」ということと同義です。「大学の先生」には、大きく分けて二通りの形態があります。

  1. 専任
  2. 非常勤

専任は、「その大学でフルタイムで仕事をする人」です。授業を担当し、会議に出席し、大学運営における様々な雑用をします。自分の研究室が与えられ、研究費が配分されます。業務の一貫として研究を行うことになっています。一方非常勤は、「その授業だけを教える人」です。大学運営には参加せず、普通は研究室や研究費も与えられません。専任と非常勤の間には、給与その他の待遇で大きな差があります。非常勤の給料は非常に安く、食べていくためにはかなり多くのコマ数を教えなければいけません。本やPCを買ったり、学会に出張するための研究費もありませんので、自費で賄うことになります。非常勤の契約は大抵一学期単位ですから、いつまでその授業を担当できて、いつまで収入が得られるかは常に不透明です。というわけで、実質的・持続的に「研究で食べていく」ためには、「専任職を得る」ことがほぼ必須であると言っていいでしょう。

では、「研究で食べていく」ためのゴールを、「専任職を得る」と設定しましょう。そのゴールに辿り着くためには何が必要なのでしょうか?

非常勤の職は、殆ど全てコネで決まります。たくさんの大学院研究室で、代々そこの院生が担当してるポストがあったりします。そういうところでは、まあ普通に院生として精進していれば、先輩から非常勤の職が回ってきたりするわけです。これに対して専任は、大多数が「公募」によって決まります。以下、公募による選考のシステムを簡単に説明しましょう。

  1. ある大学で、専任のポストに空きがでる。理由は定年退職・転出・新設など。
  2. その大学内で、人事委員会が立ち上がる。人事委員会公募書類を作成し、大学HPJREC-INなどに掲示する。
  3. 応募者から応募書類が集まる。人事委員会が書類審査を行い、二〜三人に候補を絞る。
  4. 絞った候補者を対象に面接を行い、人事委員会が最終的な候補者を一人選ぶ。
  5. 人事委員会は、教授会に候補者をはかる。教授会が承認して決定。

大学によって色々やり方に違いはありますが、大体はこんな感じです。

というわけで、「専任職を得る」ためには、「公募に応募して選ばれる」ことが必要なわけです。ここでものすごく大事なことは、ここでの選考は本質的に相対評価である、ということです。あなたの大学や大学院での成績は絶対評価で決まります。例えばあなたの修士論文が、一般的な修士論文が満たすべき基準を上回っていれば、それで高く評価されるわけです。ところが公募においては、あなたがどんな優れた実績を持って応募したとしても、それよりも優れた候補者がいたら、そちらが選ばれるのです。あなたは、一件の公募に対して集まる数十〜百以上の応募者の中で、一番にならなければ全く何も得られないのです。

そもそも僕がこのエントリを書こうとしたのは、(文系)大学院生の多くが、「就職の際に評価が絶対評価から相対評価にシフトする」ことをちゃんと認識していないように思えたからです。公募というのは、実はものすごく残酷なシステムです。あなたが本当にその研究が好きで、院生時代心血を注ぎこんで研究して、大きな価値のある結果を得ていたとしても、それ自体はあなたが「研究で食べていける」ことを保証しません。大学院を修了して、就職マーケットに出て、そこで初めてこの残酷なシステムに向き合うと、悲惨なことになりかねない。


ですので、覚悟を決めてください。覚悟を決めるタイミングは、早ければ早いほどいい。「研究者?なれたらなりたいなあ」というスタンスは、実家がマンションいっぱい持ってて働かなくても食べていける人以外は取ってはいけません。周りを見渡してください。自分の所属する研究室大学院だけでなく、世界中を見渡してください。あなたの年齢に+10歳ぐらいまでの範囲で、「一番良くできる人達」を見つけ、その人達がどれぐらいの研究業績を持っているのか、どれだけ論文を出しているのかを調べてください。あなたは大学院を修了するまでの間に、その人達の業績に匹敵する結果を得ていないといけません。業績そのもので敵わないのであれば、それを補完するような何らかの売りが必要になります。あなたの業績一覧が1ページで終わり、同じポストに応募している人の業績一覧が4ページある時に、何があなたを選ぶ理由になりますか?

大学院にいる間が勝負です。修了後には生活に追われることになります。院にいる間に成果が出なかった人が、院を出てから十分な成果をあげることは限りなく不可能に近い。思い出してください、相対評価です。あなたが院を出てからどんなに頑張ったとしても、あなたの競争相手は「院にいる間からガンガン成果を出していた人」なんです。そういう人達は、大抵院を出た後も成果を上げ続けているんです。

いよいよ切羽詰ったときには、「一度リセットする」方法があります。一つは、海外の大学院に入り直すことです。学費を賄うための奨学金(日本の「奨学金という名のローン」ではなく、本当の奨学金です)を得ることができるならば、これは是非考慮すべき可能性です。分野によっては、一度大学を出て実務をこなすことで、その実務経験を応募書類の売りにすることもできるでしょう。

人との繋がりは、ものすごく大事です。「コネで就職が決まる」とかそういう話ではありません。あなたの研究のデキは、「あなたがどれだけ賢いか」よりも、「あなたがどれだけ助けてもらったか」に依存します。「誰から、どれぐらいアドバイスを得て、それをどれだけ反映させることができたか」が大事だということです。指導教官や先輩、同級生、学会で出会った他大学の先生や院生と常にコミュニケーションをとり、彼らがくれる大切なアドバイスや教訓をスルーしないようにしましょう。新しい人との繋がりを得られる機会があったら、無駄にしてはいけません。あなたが窮地に陥ったとき、思いもよらないところから救いの手が伸びてくることはよくあるんです。

あなたの指導教官は、博士論文も書かずに、エラい先生の推薦状一本で専任が決まってた時代の人かもしれません(昔はそうだったんです)。彼らは往々にして、「ある時気がついたら、『自分とは全然住む世界が違うエリート』だと思ってた人達と競争しなければならなくなってた」という状況の恐ろしさを想像できません。今は地方大学の任期付きのポジションに、海外の大学院Ph.D.を取って山ほどジャーナルペーパーを書いてる人が応募してきます。大学の専任ポストはこれから減るばかりですから、競争はさらに激しくなります。上の世代の人達の、「俺はこれでも就職できた」という体験談で安心してしまわずに、冷静に着実に準備を重ねてください。


書いてみて、何だかえげつない話になってしまったなあ、と思います。学部生が研究室にやってきて、「先生、私研究者を目指したいんです!」と目を輝かせて言ったとする。そんな場面でここで書いたことをそのまま告げる勇気は僕にはありません。やりたい事を見つけた若者に、あまりに酷じゃないですか。だけど一方で、この現実のえげつなさは、研究者を目指す大学院生がどこかの時点で自覚しなければならないことです。これを読んでくれた人達は、全てを真正面から受け止めて愕然としたり、研究者への道を諦めたりする必要はありません。分野によって、人それぞれの運のめぐりによって、様々な可能性があります。頭の片隅に留めておいて、そういう目で世界を見渡すようにしてくれれば十分です。