Loveless(愛無き世界) このページをアンテナに追加 RSSフィード

2010-07-20

最近、坂本美雨の"Phantom Girl's First Love"を作業中に聴いている事が多い。声質が聴き疲れしないし、開放感のあるメロディ・歌詞なので気分も良くなる……ような気がする。

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しかし、この曲と一緒に"The Other Side of Love"を並べると見事に対称的に過ぎて笑ってしまう。これ、1997年の曲なので13年経ってると思うと中々に感慨深い。中谷美紀版の「砂の果実」よりこっちの方が好きでよく聴いていた。

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90年代後半の世紀末の閉塞した空気と、ゼロ年代以降のバックラッシュ的な開放感漂う空気と、互いに曲調は対称的ではあるものの、暗い空気を震わせる甘い死を予感させる優しい声も、朝焼けの水たまりに落ちるような声も、どちらも少し背伸びをした少女の声のように瑞々しく聞こえて、変わらず好きだなーと思った。

2010-07-09

わたしを離さないで(カズオ・イシグロ)

わたしを離さないで

わたしを離さないで

去年購入して積んでた「わたしを離さないで」(カズオ・イシグロ 早川epi文庫)を読み終わった。カズオ・イシグロ作品を読むのは始めて。

ネタバレしてしまうと……(以下ネタバレです)

臓器提供の為にクローン技術で生まれた主人公が、臓器提供を行う前に同じ提供者であるクローンを「介護」する介護人として生活しながら、自分たちの生い立ちを回想する話。全体的には一見イギリスの田舎の施設で暮らす少年少女の青春群像劇だけど、上述した臓器提供者としてクローニングされた人々、という設定が話が進むに従って、徐々に明らかになるミステリー要素もある。

ただし、カズオ・イシグロ自身が述べているが、この設定自体にSF的要素や、ミステリー要素は意図していなかったそうだ。事実、主人公たちがクローンである、臓器提供を運命づけられている→なぜ?という事は作中であまり問われない。

本人のインタビューでは

http://www.globe-walkers.com/ohno/interview/kazuoishiguro.html

「私の世界観は、人はたとえ苦痛であったり、悲惨であったり、あるいは自由でなくても、小さな狭い運命の中に生まれてきて、それを受け入れるというものです。みんな奮闘し、頑張り、夢や希望をこの小さくて狭いところに、絞り込もうとするのです。そういうことが、システムを破壊して反乱する人よりも、私の興味をずっとそそってきました。」

「我々が自分の運命を受け入れ、その運命から尊厳を育てていこうとするといったテーマは同じです。」

と言っている。テクストに対しては、作者の言説はあくまで読み手たちの紬ぐ言説と同じ水準のone of themでしかないという事を踏まえても、まあ普通に読めばそういった事を取り扱いたい小説なんだなー、という事はなんとなく分かる。

「我々が自分の運命を受け入れ、その運命から尊厳を育てていこうとするといったテーマ」というのは、希望的であり絶望的な両義的な認識だと思う。

主人公たちはなぜ自らがクローンとして生まれたかは問わない。というか、そのような問題意識を持たない。抵抗もしない。かと言って投げやりに生きているわけではなく、そこには愛があり、友情があり、他者との関わりがあり、成長がある。これは私たちの生きる状況と同じであると言えると思う。

「そのように」生まれた事を受け入れなければいけないことは、そうでない者から見れば悲劇的だな、と思う。受け入れられなければならない状況の中で、尊厳を持とうとする事に意味があるのか?という事を考えたときに、割とすぐそばの足元に、深淵がぽっかり覗いているのに気づく。

この小説で重要な点は、主人公たちは再帰的に「あえて」この極小の限られた状況から自らの人生を尊厳あるものに育てていこう、と考えている訳でも、決断主義的に「ルール」自体に干渉しようとしているのでは「ない」という点だと思う。

格差ある島宇宙(クローン人間たちの共同体)から、彼らは別の島宇宙へ渡り歩こうと言う意志を持たない。そもそもそのような発想がない。そのような発想がない故に「あえて」この限定された状況の中で「豊か」に生きようなどと言った、ヒューマニスティックな空々しい態度も取ったりはしない。にも関わらず安易に絶望するわけでもなく、彼らは生きており、日々生活を感情を積み重ね、物事を、感情を感じ、怒り、喜び、失望し、存在している。そのようなささやかさ、強さ、悲しさをこの小説は淡々と伝えてくる。

ひきこもって絶望してみよう、絶望して露悪的になってみよう、いやいや絶望しているけど「あえて」はしゃいでみせよう、いや「あえて」この小さな共同体からコツコツコミュニケーションしていこう、いやいやこのルールを作ったシステム自体と戦っていこう、という態度に分かれがちな作品群からは奇妙に距離を置いて成立している、割と珍しい小説であり、読後感は独特である。あと翻訳は非常に読みやすい。

ツイッターの事

http://twitter.com/gosyu

別に何か言いたい事があるわけじゃないんだけど、先日ツイッターでフォロワー数が3,000人を超えて(勿論フォロワー数というのは単なる数字に過ぎないけど、個人的には自慢したいというかなんというか……)いくらなんでも3,000人って結構な人数ですよね、ってのはあって色々考えてみる。

去年の夏の終わり〜秋口ぐらいからTwitterを使い始めた。iPhone3GSを購入してiPhoneTwitterアプリからpostするようになって場所的な制約が無くなったことと、それにつれてフォロー/フォロワーが段々増え始めてなんとなく仲の良い感じになる人々の塊(クラスタ)が定まりSNS的な愉しみ・動機が強化され、ふぁぼったーの存在によって、ふぁぼり/ふぁぼられが楽しくなってきたから、という理由があったように思う。

元来、あまり他人が読んで大した「面白さ」を感じるような文章の書き手ではない(要するに下手という意味)と自分では思っていて、そのような理由から、はてなでもmixiでも割と考察系というか、考えたことをまとめるつもりで文章にする事が多くいわゆる「ネタ」系の文章を書く事は少ない。そもそも、人間自体が面白くないので、無理して面白い事書こうとするとボロが出てしまうのである。

自然、あまり書いた事に対して反応してくれる人も少なかった訳で、その点で何事かを書いて反応をもらうと言う、コミュニケーション上の楽しみ、承認欲求が満たされる愉しみをネットから享受した事はあまりなかった(ただし、それはそれで、考えた事を突き詰め、整理し、言語化する、という脳の違う部分を使う<考える>欲求は満たされていた訳だけど)

はてな村だとネガコメ、ブコメをどうしても意識して書かなければならなくなるような風土があるのだけど、ツイッターだと割合そういうネガティヴな空気は薄い。何か引き算すると言うよりかは、何かを足し算するのに向いた作りだと思う(なので、精緻さには欠けるし、デマが流れやすいと言う状況もあるけど)その点、適当な事を言っても許してもらえると言うか、ノリで何か言ってもいいし、気軽に他人に話しかけられる雰囲気があるので発言はし易いし参入障壁は低い上に、発言がそれほど属人的ではない、作家性が薄いので始めたばかりの人でも受け入れられやすいというメリットもあるように感じる。

そういう訳で、ツイッターでは逆にネタ系のpostと時々ポエムをpostするようになった。加えて、postする内容に制限を設けない事も当初の決め事の一つだった。思考→出力のプロセスを極端に短くして、推敲しないことで、言いたいことを適当に放言する「楽しい」ストレス解消のような使い方を狙って使用した。

去年までは思いついた事を連投していたので、一日に100post行くこともあったが、フォロワーがある程度増えたことから、年が明けてからは自粛してある程度捏ねくり回した長文postを1日10post程度するようなスタイルになっている。

基本的に書いているのはサブカル男子(黒縁メガネにボブヘアーの風貌の男子が多いことから、勝手に「黒縁ボブ男」と名付けた)サブカル女子への罵倒芸のようなネタpostばかりなのだけど、なんで自分でこんな事を書いているのかよく分からない。気づいたらこうなっていた。自分自身がサブカル系かと言うと決してそんな事はなくて、オタクにしろサブカルにしろ非常に中途半端な知識しかない。

ただし、ある種今現在薄く広くサブカルとして名指されるもの一般が、自意識の有り様としてメインカルチャー化しているような気がして、かてて加えてツイッターにはその手の人間が集まりやすいという風土がある事から、サンプルと反応を得やすいのでそのようなカテゴリー選択になったのではないかと思ったりもする。

なのでまあよく「サブカル女子の定義ってなんですか?」とか「そういう風に類型的に他人を揶揄するしかないなんて可哀想ですね」という批判を浴びる事が多くて、それはまあある種ネタにしているから仕方のない事ではあったりするんだけど、逆に言うと私なりのサブカルチャーとは何か?という知見はありつつも、それを深化したいという願望や自分の手で類型化して整理したいという願望があるのかもしれない。

一口にサブカルって言っても難しいですよね。堀辰雄とか三島由紀夫好きな人だってある意味サブカルだし、INUとかスターリンとかヤプーズ好きな人もサブカルだし、椎名林檎とかやくしまるえつこ好きな人もミドリ好きな人もサブカルですよ。そんなんみんなサブカルやないですか!って言われたらそのとおりで、みんなサブカルです。日本皆これサブカルなのです……と言うのは冗談で、大塚英志でも読めばいいと思います(オタクよりですけど)

要はそのようなもの、あり方に対して非常に興味があるという意味で。根本は、興味があるから面白半分にからかってみたい、というそれだけの話だったりする。何しろ漫画から映画、小説から音楽、アニメまで(メインカルチャーに対する)サブカルチャーに分類されるもの、それに馴染んだ感性は現代の若者の割と最大公約数的な感覚だと思うので。

あと、もちろん、自分の発言内容と発言方法でどれくらいfavられるか、と言うゲーム的な感覚「大喜利みたい」と揶揄される感覚ももちろんあって、それは、わかりにくい発言内容でも発言方法・形式によっては広範囲に受け入れられる場合もあり、そのような実験めいた遊び方も面白いと感じたりもする。

とまれ3,000人の人が自分の発言を読んでくれるってのは凄いなと思うし、3,000人の人が少なからず自分の発言内容に興味をもってフォローしてくれたのかと思うと、得意な気持ちでもあるわけで。あと、仲良しというか、今までネットでオフ会とかやった事なかったんですが、始めてオフしたのもいい経験で、そういう友達付き合いというか、知り合いが増えるのもなかなか楽しいです。

と、何が言いたいのか全く分からなくなったけど、当分はTwitterも続けると思うので、よければフォローしてふぁぼってください(土下座)

あ、でもリプライされてもめんどくさいし非コミュだし面白いこと言えないので基本的には返しません。ごめんなさい(土下座)

2009-07-17

自意識ゲームの終わりとケータイ小説

ちょっと以前の文章だけど、載せてみる。

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私たちの世代が持つところのヲタク的感性というのは既に耐用年数を過ぎてしまったんじゃないかな、と感じることがある。GREEとか見てると、今のヲタクって屈託ないんだなぁって感じで、それはそれで良いとか悪いとかは脇に置いて、要は単純に「そういう事」なんだと思う。

それに関連して、ケータイ小説の話題で、そのような「ヲタク的感性」の失墜、自意識ゲームの終わりが『恋空』をベタに受け止めてしまう所以かなあ、とか思ったりした。

多分、25歳付近から下のヲタクに(要するに就職氷河期世代ではなく、エヴァブームを通過していない世代)このような感性が存在しないのと同様に「村上春樹ってハルキストとか言ってダセェよなプゲラ」みたいな感性も既に失われてしまっている。

古くから言えば「中上、中上って批評空間ってダセェよなプゲラ」って思ってた奴が村上春樹を指示したんだろうし、村上春樹は上述のとおりだし、まあ、ある意味連綿と続く現象なのかもしれないし、ヲタクの話と文学スノッブの話を同列に置くのもいい加減と言えばいい加減ですが。

要するに言いたいのは何事かを1回転、2回転させるようなメタ病的な感性=ヲタク的感性は失われつつある=自意識ゲームは終了しつつあるんじゃないかなあ、という事。もろ印象論だから何の根拠もないけど。

消費の様態の変化というか。よりサプリメント的(大塚英志にならえば)な消費の作法が進行した、とも言えるかもしれない。もっと言うと、物語がイデオロギーを代替するような事態が訪れている、とも言えるのかも。それは、イデオロギーや思想なんて小回りの効かない大層なものではなくて、

でもそれってどうなんだろう、というのはある。良い点もあれば悪い点もあるんだろう。というか、そういう「ベタ」である事の良さがプラス方向に作用すると初期の佐藤友哉みたいになって、悪い方向に作用すると最近の佐藤友哉みたいになるんじゃないかな(笑)

もっと言うとネタ/ベタ/メタ、なんていちいち分けるような作法はもう若い世代には必要とされてないのかもしれない。もっと単純に、その作品というアプリケーションが意識の上で「機能」すればいいだけなのかもしれず、意識そのものはアプリケーションの機能を受容するだけのベースでしかない、みたいな印象を受ける。なので「俺ってわかってるよな」なんて自意識を尖らせる必要は全くないのだ(半回転ぐらいはあるのかもしれないが)

そもそも、そんなネタ/ベタ/メタなんて区分を持ち込まざるを得なかった我々の「自意識」とやらそのものがどうしようもなく鈍重で不完全な代物だっただけなのかも、とも感じる。

……と、最近会社に入ってくるピカピカの新入社員とかを見てると思ってしまう次第。でもなんかこれって典型的な年寄りの繰言のような気がしてきたわー。

単純に、小説に対するリテラシーの低下、ってだけなのかもね。そんなリテラシーはもう随分前に失われてしまったんだけど。

政治の工学化?

東浩紀は『動ポ』で書いてたのと同じ水準で、政治も工学化というか、動物化してるので「ひとりひとりのアイデンティティとか承認欲求とか、そんなものは基本的には政治の話ではない」と言っている。

http://www.hirokiazuma.com/archives/000362.html

私は東浩紀の政治的態度に興味が無く、ただ単に文芸評論家として好きなだけなんだけど、これもまた『動ポ』と同じ水準で、半分当たってて半分外しているように思う。

現在の状況として、

  • マクロな面での富の再分配

物語や政治が富の分配装置として機能しなくなって、テクノロジーとかセキュリティの問題であったり、金融の話であったり、工学的な問題に変化してしいる。環境管理型権力、とか、政治の動物化、と言い換えてもいい。東浩紀が言っている「政治」はこの意味で使用されている。

  • ミクロな面での富の再分配

個々の島宇宙と言う(それは家族とか会社とかサークルとか、そういう小さな共同体から、世代や学校や所属する団体ぐらいの位相を指している)で考えた場合、富や価値を再分配するために機能しているのは、やはり小さな物語(大塚英志風に言えば天皇制に還元できるフェイクの物語)であり、イデオロギーであり、個々人のアイデンティティとか承認欲求とか、そんなものの話である。これは従来の意味での「政治」だ。

って感じだと思う。

なので、逆説的ではあるけど、私たち個々人に限って言えば、小さな共同体の中で、一層政治的な振る舞いを強いられているし、現実の政治もそうだと思う。そして同時にマクロな面での富の再配分(島宇宙を渡り歩く事)は一層難しくなっているのでは。

分かりやすく書くと、これは非モテとか中年のワーキングプアの話でもそう。非モテである/非モテでない、ワーキングプアである/ワーキングプアでない、と言う話はミクロな島宇宙というか、一面を切り取った位相の中の話でしかない。事実、自身が非モテでありワーキングプアであり、その問題と向き合わなくてはならないとしても。

にも関わらず、絶えず非モテだのワーキングプアだの(とかそれに類するアイディンティティの問題)である事を突きつけられ、強いられ、言及しなければならない世界。堂々巡りのトートロジーというか。そっちの方向を向いている限り、全く救われないような何か、が存在する。主体の立場を表明し、主体の立場を強化し、主体の正当性を主張し続ける状況に追い込まれ、最終的には「自己責任」という言葉で一括されてしまう状況の不毛さというか。

小説がニート問題とか、自意識の問題に接近するのは、ミクロ面での富の再分配が、個人にとってクリティカルな問題になりえるからに他ならないが、であるからこそ、小説は「そうではない」ものを描かなければいけないような気もする(島宇宙を渡り歩く事の可能性)と言うのが最近感じるところ。

小説と言うのは、多分、個々人のアイデンティティとか承認欲求とか、そんなものを書くための装置として機能してきた。ただ、それじゃ立ち行かない事態がかなり前から進行していると思う。

あんにょん由美香

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オフィシャルサイト

ポレポレ東中野にて知人に連れられて観てきた。松江監督の『童貞。をプロデュース』も未見だったので、この人がドキュメンタリー作ってるって言う事自体知らなかった。

2005年に亡くなった女優・林由美香が過去に出演した日韓合同制作の『東京の人妻 純子』の謎をきっかけに、松江監督が林由美香周辺の人々にインタビューして回るドキュメンタリー形式の映画だ。

何と言うか、単純に好みの問題として、私は映像関係の業界人の斜に構えたサブカルちっくな態度とかAV女優を【敢えて】称揚するような(例えばラスコーリニコフが売春婦のソーニャに癒されてしまうようなメンタリティというか)風潮に嫌悪感を持ってるので、その辺は若干鼻についた。あと、作品の作りとして映像がどうもHDのハンディカムで撮ったみたいにのっぺりパキッっとしてるのと、やたら編集でモノローグ入れる部分が説明過剰臭くて馴染めなかった。最後に、ストーリー上、『東京の人妻 純子』の失われたラストシーンを撮り直すってシーンがあるんだけど、そういうドキュメンタリーに作り手の意図のようなものを塗りこめるのもちょっとありがちで安っぽいかなー、と思った。

と、色々難癖をつけてみたものの、全体としては「面白い」と言って差し支えない映画だったように思う。何より、林由美香の破天荒な人物像がその周辺の人々のインタビューによって徐々に浮かび上がってくる過程が面白い(面白いのだけど、若干冗長でもある)そもそも、林由美香の事自体しらなかったので。

加えて、単純に、北海道や韓国にロケに行ってて、その映像がボーっと観てると心地よかったというのもある。どうやら音楽には川本真琴が参加してるらしくって、なかなかジーンとくる曲が多くてとても良かった。

実際に、林由美香を起用して映画(所謂AVやピンク映画)を撮った監督にインタビューをしているのだが、この女傑の周囲の男たちの屈折した想いが何とも言えない。皆、林由美香との関係を綺麗な言葉やおどけた態度やしかつめらしい態度で取り繕おうとするのだが、どうしても滲み出る安っぽい性欲のような、愛欲のようなものと、「ゲージュツカ」としての自意識が混在一体となって、どうにもこうにも傍目から見るとダメなアーティスト気取りの男がメソメソしているようにしか見えない態度をさらけ出す……と言った構図が過去の林由美香作品の映像を交えて垂れ流される。このスカスカした感じはとても冗長でホームビデオを見ているがごとくなのだけど、最後には観る人の中にそれぞれの「林由美香」像を描き出すことに成功しているように思えた。何とも言えない不思議な後味のする映画だ。

どうやら、興行は好評らしく、ポレポレ東中野で8月以降も枠を増やして上映されるようです。

あ、観に行った日は松江監督が挨拶してたのだけど、若いのにとても腰が低くて、映画監督らしくない良い人に見えました。