Loveless(愛無き世界) このページをアンテナに追加 RSSフィード

2009-07-17

自意識ゲームの終わりとケータイ小説

ちょっと以前の文章だけど、載せてみる。

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私たちの世代が持つところのヲタク的感性というのは既に耐用年数を過ぎてしまったんじゃないかな、と感じることがある。GREEとか見てると、今のヲタクって屈託ないんだなぁって感じで、それはそれで良いとか悪いとかは脇に置いて、要は単純に「そういう事」なんだと思う。

それに関連して、ケータイ小説の話題で、そのような「ヲタク的感性」の失墜、自意識ゲームの終わりが『恋空』をベタに受け止めてしまう所以かなあ、とか思ったりした。

多分、25歳付近から下のヲタクに(要するに就職氷河期世代ではなく、エヴァブームを通過していない世代)このような感性が存在しないのと同様に「村上春樹ってハルキストとか言ってダセェよなプゲラ」みたいな感性も既に失われてしまっている。

古くから言えば「中上、中上って批評空間ってダセェよなプゲラ」って思ってた奴が村上春樹を指示したんだろうし、村上春樹は上述のとおりだし、まあ、ある意味連綿と続く現象なのかもしれないし、ヲタクの話と文学スノッブの話を同列に置くのもいい加減と言えばいい加減ですが。

要するに言いたいのは何事かを1回転、2回転させるようなメタ病的な感性=ヲタク的感性は失われつつある=自意識ゲームは終了しつつあるんじゃないかなあ、という事。もろ印象論だから何の根拠もないけど。

消費の様態の変化というか。よりサプリメント的(大塚英志にならえば)な消費の作法が進行した、とも言えるかもしれない。もっと言うと、物語がイデオロギーを代替するような事態が訪れている、とも言えるのかも。それは、イデオロギーや思想なんて小回りの効かない大層なものではなくて、

でもそれってどうなんだろう、というのはある。良い点もあれば悪い点もあるんだろう。というか、そういう「ベタ」である事の良さがプラス方向に作用すると初期の佐藤友哉みたいになって、悪い方向に作用すると最近の佐藤友哉みたいになるんじゃないかな(笑)

もっと言うとネタ/ベタ/メタ、なんていちいち分けるような作法はもう若い世代には必要とされてないのかもしれない。もっと単純に、その作品というアプリケーションが意識の上で「機能」すればいいだけなのかもしれず、意識そのものはアプリケーションの機能を受容するだけのベースでしかない、みたいな印象を受ける。なので「俺ってわかってるよな」なんて自意識を尖らせる必要は全くないのだ(半回転ぐらいはあるのかもしれないが)

そもそも、そんなネタ/ベタ/メタなんて区分を持ち込まざるを得なかった我々の「自意識」とやらそのものがどうしようもなく鈍重で不完全な代物だっただけなのかも、とも感じる。

……と、最近会社に入ってくるピカピカの新入社員とかを見てると思ってしまう次第。でもなんかこれって典型的な年寄りの繰言のような気がしてきたわー。

単純に、小説に対するリテラシーの低下、ってだけなのかもね。そんなリテラシーはもう随分前に失われてしまったんだけど。

政治の工学化?

東浩紀は『動ポ』で書いてたのと同じ水準で、政治も工学化というか、動物化してるので「ひとりひとりのアイデンティティとか承認欲求とか、そんなものは基本的には政治の話ではない」と言っている。

http://www.hirokiazuma.com/archives/000362.html

私は東浩紀の政治的態度に興味が無く、ただ単に文芸評論家として好きなだけなんだけど、これもまた『動ポ』と同じ水準で、半分当たってて半分外しているように思う。

現在の状況として、

  • マクロな面での富の再分配

物語や政治が富の分配装置として機能しなくなって、テクノロジーとかセキュリティの問題であったり、金融の話であったり、工学的な問題に変化してしいる。環境管理型権力、とか、政治の動物化、と言い換えてもいい。東浩紀が言っている「政治」はこの意味で使用されている。

  • ミクロな面での富の再分配

個々の島宇宙と言う(それは家族とか会社とかサークルとか、そういう小さな共同体から、世代や学校や所属する団体ぐらいの位相を指している)で考えた場合、富や価値を再分配するために機能しているのは、やはり小さな物語(大塚英志風に言えば天皇制に還元できるフェイクの物語)であり、イデオロギーであり、個々人のアイデンティティとか承認欲求とか、そんなものの話である。これは従来の意味での「政治」だ。

って感じだと思う。

なので、逆説的ではあるけど、私たち個々人に限って言えば、小さな共同体の中で、一層政治的な振る舞いを強いられているし、現実の政治もそうだと思う。そして同時にマクロな面での富の再配分(島宇宙を渡り歩く事)は一層難しくなっているのでは。

分かりやすく書くと、これは非モテとか中年のワーキングプアの話でもそう。非モテである/非モテでない、ワーキングプアである/ワーキングプアでない、と言う話はミクロな島宇宙というか、一面を切り取った位相の中の話でしかない。事実、自身が非モテでありワーキングプアであり、その問題と向き合わなくてはならないとしても。

にも関わらず、絶えず非モテだのワーキングプアだの(とかそれに類するアイディンティティの問題)である事を突きつけられ、強いられ、言及しなければならない世界。堂々巡りのトートロジーというか。そっちの方向を向いている限り、全く救われないような何か、が存在する。主体の立場を表明し、主体の立場を強化し、主体の正当性を主張し続ける状況に追い込まれ、最終的には「自己責任」という言葉で一括されてしまう状況の不毛さというか。

小説がニート問題とか、自意識の問題に接近するのは、ミクロ面での富の再分配が、個人にとってクリティカルな問題になりえるからに他ならないが、であるからこそ、小説は「そうではない」ものを描かなければいけないような気もする(島宇宙を渡り歩く事の可能性)と言うのが最近感じるところ。

小説と言うのは、多分、個々人のアイデンティティとか承認欲求とか、そんなものを書くための装置として機能してきた。ただ、それじゃ立ち行かない事態がかなり前から進行していると思う。

あんにょん由美香

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オフィシャルサイト

ポレポレ東中野にて知人に連れられて観てきた。松江監督の『童貞。をプロデュース』も未見だったので、この人がドキュメンタリー作ってるって言う事自体知らなかった。

2005年に亡くなった女優・林由美香が過去に出演した日韓合同制作の『東京の人妻 純子』の謎をきっかけに、松江監督が林由美香周辺の人々にインタビューして回るドキュメンタリー形式の映画だ。

何と言うか、単純に好みの問題として、私は映像関係の業界人の斜に構えたサブカルちっくな態度とかAV女優を【敢えて】称揚するような(例えばラスコーリニコフが売春婦のソーニャに癒されてしまうようなメンタリティというか)風潮に嫌悪感を持ってるので、その辺は若干鼻についた。あと、作品の作りとして映像がどうもHDのハンディカムで撮ったみたいにのっぺりパキッっとしてるのと、やたら編集でモノローグ入れる部分が説明過剰臭くて馴染めなかった。最後に、ストーリー上、『東京の人妻 純子』の失われたラストシーンを撮り直すってシーンがあるんだけど、そういうドキュメンタリーに作り手の意図のようなものを塗りこめるのもちょっとありがちで安っぽいかなー、と思った。

と、色々難癖をつけてみたものの、全体としては「面白い」と言って差し支えない映画だったように思う。何より、林由美香の破天荒な人物像がその周辺の人々のインタビューによって徐々に浮かび上がってくる過程が面白い(面白いのだけど、若干冗長でもある)そもそも、林由美香の事自体しらなかったので。

加えて、単純に、北海道や韓国にロケに行ってて、その映像がボーっと観てると心地よかったというのもある。どうやら音楽には川本真琴が参加してるらしくって、なかなかジーンとくる曲が多くてとても良かった。

実際に、林由美香を起用して映画(所謂AVやピンク映画)を撮った監督にインタビューをしているのだが、この女傑の周囲の男たちの屈折した想いが何とも言えない。皆、林由美香との関係を綺麗な言葉やおどけた態度やしかつめらしい態度で取り繕おうとするのだが、どうしても滲み出る安っぽい性欲のような、愛欲のようなものと、「ゲージュツカ」としての自意識が混在一体となって、どうにもこうにも傍目から見るとダメなアーティスト気取りの男がメソメソしているようにしか見えない態度をさらけ出す……と言った構図が過去の林由美香作品の映像を交えて垂れ流される。このスカスカした感じはとても冗長でホームビデオを見ているがごとくなのだけど、最後には観る人の中にそれぞれの「林由美香」像を描き出すことに成功しているように思えた。何とも言えない不思議な後味のする映画だ。

どうやら、興行は好評らしく、ポレポレ東中野で8月以降も枠を増やして上映されるようです。

あ、観に行った日は松江監督が挨拶してたのだけど、若いのにとても腰が低くて、映画監督らしくない良い人に見えました。