ガラスの仮面を『共依存』の視点から読む

実に20年近くぶりにガラスの仮面を一巻から最新刊まで読み返した。
今読み返しても実に面白い傑作。当然、当時とは異なる感慨と感動を得たのだが、殊に主人公・北島マヤと母親の関係が『共依存』的である事が一番気にかかり、またこの視点から書かれたテキストは殆ど無いであろうと思うので書く事にした。

精神医学に興味の無い方にとって『共依存』という言葉自体に馴染みがないと思うが、これについて詳しく説明をすると一冊の本になってしまうので、検索結果リンクと以下に書く補足説明程度でご勘弁いただきたい。

共依存』とは、その字の如く互いに依存してしまう関係性であり、夫婦関係の場合もあるが、母親と娘のケースも非常に多い。父親の不在やDV、アルコール依存等で問題を抱えた母親が娘を自身に依存させるように”無意識”に仕向けてしまう例が圧倒的に多い。母親は不安のあまり、娘を依存させる事によって”自身の存在価値”を見出し、時に娘の健やかな成長を妨げたり、娘の自尊心が育たぬように仕向けるのだ。
自分に自信のない(自尊心の欠落した)子供は母親なしには生きられないと刷り込まれ、『共依存』という関係に取り込まれ、母親はこの甘美さから逃れられない。
こうした母親の行為は無意識的に行われており、悪意はないため、自覚させる事が困難なのが特徴である。


さて、ガラスの仮面において、当初マヤと母親は二人で中華料理店に住み込みで働いている。父親の死因は明かされていないが、母親の「ツラはよくないし何のとりえもない子だよ ほんとに 死んだオヤジに似たのかね 我が子ながらあいそがつきるよ」というセリフから、夫婦関係が上手くいっていたとは考えにくい。
またこのセリフのように、母親はマヤを終始徹底的に罵倒し、褒める事を一切しない。これは愛が無い訳では決してないのが『共依存』の厄介な点で、母親は自分に自信がなく、自己肯定できないために自分の娘の事も肯定できないのだ。しかしこれでは娘に健全な自尊心は育たない。

ここで一例。マヤが学校で人生で初めて芝居をする事になったが、それは国一番バカで醜い女の役だった。
マヤは母親に「あたし…なにもできなくて何のとりえもなくて 母さんがっかりさせてばかりいたけれど きっとうまくやる 母さんに恥なんかかかせないわ ほめてくれるように一生懸命やるわ……だから学校のお芝居みにきてね」と寝床で言う。
母親は「わかったよ!うるさいね!」とだけ返し、マヤが寝た後、彼女に向かって「ごめんよマヤ…おまえがにくくてつらくあたってるんじゃないんだよ ただ…なさけなくてね…」とマヤの頭を撫で、泣きながらつぶやく。
しかし母親は悩んだ末、「おまえのみっともない姿なんてみたくないんだよ…」と、娘にあれほど切望されたにも関わらず見に行くことをしない。

上記から、母親は母親なりにマヤを愛している事。マヤは母親に否定され続けていても母親を愛している事が伺えるかと思う。特殊な形ではあるが…
後に母親がマヤを思ってサナトリウムを抜け出し、彼女の主演映画上映中に亡くなる事からも、その母の死に大きなショックを受けるマヤからもはっきり分かる事になるが、『共依存』的視点無しには両者の愛は少々分かりにくいかもしれない。


共依存』は放っておくと子供が育った時にパーソナリティ障害等を起こす危険性もあり、この治療には先ず依存させている人物(母親)と距離をとることが欠かせない。
ここで登場してくるのが月影千草だ。マヤは女優になる夢を母親に告げるも、「おまえにそんな才能あるもンかね!」と全否定し反対される。しかしどうしても演劇がしたいと家出して月影千草の元へ行く。押しかけてきた母親に月影千草「この子をなんのとりえもない子にしてしまっているのはあなたです!」と言い切り、一悶着あるも追い返し、後に母親から届いた小包と手紙は全て燃やしてしまう。

月影千草は、マヤの才能を見出して育てただけでなく、母親との『共依存』関係を切らせた事においても立役者なのである。

しかし『共依存』とはやはり厄介なもので、幼少期から刷り込まれた事はそうそう簡単に消せないのである。
マヤは女優として確実に成長し、評価を受けつつも「私なんてなんのとりえもない平凡でつまらない女の子でしかない」と繰り返す。このセリフは正に母親に言われ続けてきたものであり、彼女の自尊心はやはり育っておらず、自己評価が常に低いのである。ところがマヤは唯一演技に秀でていたため、そして持ち前の明るさと粘り強さから、この刷り込みと自己評価の低さをバネにする。「だからこそ、何があっても芝居をやめるわけにはいかない」と努力する。
つまり、ガラスの仮面は、現在も増加している『共依存』下にある人々への讃歌でもあるのだ。

なお、『共依存』の子供には、演技が上手いという特徴もある。母親の機嫌をとるため、怒られないため、『いい子を演じる』癖が幼少期から育つのだ。特に幼児期は母親の不在・不機嫌=自分の死に繋がるため、子供は必死に演じる。
この事もマヤの天才的演技力を担う一端となっているのかもしれない。

ひょっとしたらマヤは、舞台を降りた日常では常に『少々内気だが明るくいい子な北島マヤ』を生涯に渡って演じ続けているのかもしれないと考えるのも面白いかと思う。そうなると、何かあれば呆気無く壊れてしまうが透明な『ガラスの仮面』は、彼女が生涯日常生活で演じ続ける『北島マヤという仮面』を示す事となる。
マヤは舞台で様々な仮面をかぶり続けているのではなく、逆に、『北島マヤというガラスの仮面』を割り続けているのだ、と。

最後に、作者美内すずえが『共依存』を意識して描いたのか否かという事について。
私は、全く意識していない所か、その言語さえ知らないかもしれないと思っている。
それはマヤが芝居の時に「なぜ今そういう演技をしたのか?」と問われた時に、しばしば「こうした方がいいと思って…」「私がこの子ならこう言うと思ったから…」と答える事によってその演技の天才性を周囲に知らしめるのと同様、「主人公の家庭はこの方がよいと思った」というのが彼女の答えだと思うからだ。
そしてこの点がまた同時に、漫画家・美内すずえの天才性を裏付けていると。