Hatena::ブログ(Diary)

マぜンタとシアん

2009-11-29

Twitterとはなんだったのか——「コンテンツ」としての日本Twitterユーザー(前編) - アーキテクチャ編

いままでTwitterに使い慣れてきたユーザーにとって、@kohmiこと広瀬香美さんの登場はかなり大きな衝撃だったのではないでしょうか。

もちろん、有名な小説家やミュージシャンなどの「有名人」のTwitterへの参入は、それまでもよく見られたことでした。しかし、それでもkohmiさんのようにある一時期に、あれほど多数のユーザーの注目を集めるような「有名人」がTwitterに現れることはなかったのではないでしょうか。今は少し鎮静化して穏やかになったものの、彼女の発言や「ヒウィッヒヒー」話などは、一時は新聞等の外部メディアまでに取り上げられるほどまでの過剰なの盛り上がりを見せていました。では、あの異様な盛り上がりは、いったいなにによって引き起こされたものだったのでしょうか?いったい彼女のどのようなところが、Twitterユーザーをあそこまで惹きつけたのでしょう?

この疑問についてはいくつかのアプローチが考えられますが、最終的な結論はこの記事の終わりのほうに出すことにしましょう。しかし、kohmiさんのような「天然キャラ」、つまりいかにもネットに使いなれていない、世間ずれしてない感じのキャラクターが、Twitterにはもともとほとんどいなかったということはいえると思います。

Twitterはもとから米国発のサービスであり、かなりネットリテラシーの強い層にまず受け入れられたという背景があります。そして、その背景は先進ユーザーと後発ユーザー間のギャップーー「キャズム」として現れていました。そんな中でkohmiさんの登場は、この高い壁の内側にいる人たちにとって、その障壁を取りはらう希望のようなもの感じられたのではないでしょうか。kohmiさんの登場でTwitterの「キャズム」は本当越えられたのか?という議論は彼女の紹介者、勝間和代さんのエントリにまとめられています。

しかし、彼女のような新しいユーザーの参入は、同時に次のエントリでのような騒動をまき起こすことになってしまいました。

広瀬香美ついコンで公開して騒動 - nipottern - はてなグループ::ついったー部

「ついコン!」を巡ってのこの騒動は、単なる「古参」の「新参」に対するからかいである、その場にいた人たちのモラルが足りなかっただけだ、と済ませてしまえばそれまでかもしれません。しかし、この新参と古参との間にあるディスコミュニケーションは、キャズムのこちら側と向こう側の、未だ越えがたい文化的断絶を端的に示すものであるようにも思えます。この手の軋轢は、新しい参入者が一時期に多数入ってきたサービスでは、常に生まれるものかもしれません。しかし、その軋轢の解消を試みるか、ないしはきちんと利用者層の棲みわけが行われるような仕組みを考え出さない限り、「キャズム」が解消されたとはいえないのではないでしょうか。なぜなら、まったく異なる趣味趣向を持つユーザーが混ざりあっていて、それが当たり前になっている状態こそが、普遍性を持つメディアに求められるものだからです。

では、なぜ従来ユーザーはこのような形でkohmiと激突してしまったのでしょうか。この文化的断絶はなにに由来するものなのでしょうか。考えられることは、Twitterの短い歴史のなかでそれでも濃厚に培われてきた「風土」が、新規参入者に対して高い壁としてそびえているということではないでしょうか。メンバーの凝り固まってしまった集団で、やりとりの内容が高度に文脈依存的なものに偏ってしまい、結果その外側の人たちとまったくコミュニケーションがとれなくなってしまう、というのはよくあることです。たとえば1995年ぐらいの人が、今の2ちゃんねるVIP板でのやりとりを読んだとするなら、なにか拒絶されているような印象を受けるのではないでしょうか。

Twitterにおいても、Twitter内部でしか流通していないようなネットジャーゴンは多数見うけられます。(「爆発しろ!」を街中などでナチュラルに使ってしまうと大変です。)しかし私が取り上げようと思っているのはジャーゴンではなく、もっと高次なレベルでコミュニケーションの前提のなっている、暗黙の了解のようなものです。それはあるいは「風土」と言い換えられるかもしれません。2ちゃんねるには2ちゃんねるの「風土」があり、はてな界隈にははてな界隈の「風土」があるように、TwitterにはTwitterの「風土」があるのではないか。そして、「風土」にそぐわないようなユーザーに対して、住民たちは反発してしまう。ならばTwitterの「風土」はどのように形成されてきたのか、その経緯がみつかるはずです。Twitterを利用し始めるユーザーは今も増えつづけていますが、「新参」と「古参」の間にいまだ断絶があるとしたら、それにはいったいどんな原因があり、またその原因はどのようにして生まれたのか。このことを考えていくことが、このエントリの目的の一つです。

Twitterは残念だったのか?」

Twitterとはなんだったのか」という問いは、もっと直截的にいってしまえば「日本のTwitterは残念だったのか」ということでもあります。つまり、コンテンツのレベルにおいて、Twitterは国内外で大きな差がついているのではないかという問題意識です。舶来のサービスである「weblog」が日本では「はてな村」に、「SNS」が「mixi」に、「動画配信サービス」(YouTube)が「ニコニコ動画」に落ち着きつつあるように、「マイクロブログ」は「日本のTwitter」というかなり特殊なコンテンツに落ち着いてしまっているのではないでしょうか。この感覚の背後には、すでにリリースから三年ほどが経過し、日本では主に「ギークな人たちの情報交換の場・遊び場」を発端として浸透してきたTwitterが、いまさまざまな場所で、新たに、別の形で再評価されつつあるという状況があります。

たとえば海外では、オバマ大統領が就任前からTwitterで発言していたことが知られているように、Twitterは初期から大文字の政治を配達するメディアとしても大いに使われていましたが、最近Twitterが改めて注目されるきっかけになったのは、やはりイラン大統領戦をめぐる抗議運動でしょう。これ以降、イランでのTwitterユーザーの「実況中継」を、ジャーナリズムの再誕を伝える祝砲として賞賛する記事はインターネット上でよく見られるようになったばかりか、新聞などのインターネット外のメディアでも書かれました。

日本では、シンポジウムの内容などをTwitterで要約してリアルタイムに発信するという津田大介さんの活動が話題になり、「Tsudaる」と呼ばれる同様の活動が別のユーザーによっても行われるようになりました。また、日本の国会議員地方自治体議員の間にもTwitterは徐々に浸透するようになって、ようやくこのへんも本国アメリカの状況に追いついてきたといった観です。



このように、国内外で起こっているTwitterを利用した新たな試みがあって、Twitterは公的な場を形成するメディアとして、とりわけ新しい形のジャーナリズムの場としていま日本でも大いに注目を集めています。しかし留意すべき点は、これは本当にここ数ヶ月のあいだに起こったできごとだということです。それ以前の日本のTwitterは、本当に「普通」のユーザーたち——そしてそれはやはり少し特殊で他国には存在しない——が、いただけにすぎないのです。彼らがTwitterでしているのは、昼食の話だったり、今見ているアニメの話だったり、ネット上で炎上している記事の話だったり、オフ会の予定調整だったり、そしてたまに有用な技術的情報の交換や高度な批評的議論の展開(しかし両者とも限定的にしか流通し得ない)だったり、ということでしかない。そして、それらは一見しただけでは今まで2ちゃんねるはてなで行われていたものと大差ありません。おそらく、梅田望夫さんならこの状況を「残念」と批判するのだと思います。しかしそれは本当にそうなのでしょうか?



もちろん、さっきからこんな不遜なことばかり書いている僕も、極めて「残念」なTwitterユーザーのひとりです。そして、日本の「残念」なTwitterで「残念」なユーザーたちの日常を眺めてきました。だからこそ、Twitterの「残念さ」は従来のサービスで代替可能なものだとはまったく思っていませんし、ここで起きている「残念」な現象の数々は、私たちがもう一度じっくりと眺め、考えてみる価値のあるものだと信じています。そこで、まぁ、梅田さんを言い伏せるまでは絶対いかないにせよ、この「残念さ」がいかなるものだったのか考えてみたいと思うのです。そして、この欲望は純粋に現象の問題であって、Twitterというサービスがどんな機能を備えているもので、それは従来のものとどう異なってどう凄いのかという構造の問題とはもはやなんら関係ありません。だから「Twitterとはなんだったのか」という疑問は「コンテンツ」に軸足をおいて考えよう、というのです。



ところで、この記事には「Twitterとはなんだったのか」というあからさまな釣りタイトルがついているのですが、この疑問は大きく二つの問いに分かれます。それは「Twitterの持つどのような機能が特殊だったのか」ということ、そして「Twitterの上で起きてきたことはなんだったのか」ということです。



前者について、これは流行のことばを使えば、まさにTwitterの「アーキテクチャ」ーーウェブサービスなどの構造に内在して、利用者を無意識のうちに変化させたり、従わせたりする「建築」設計ーーについて考えることと位置づけられるでしょう。しかし、Twitterはどのような機能をもっているサービスで、それは利用者にどのような利害をもたらしているのかということに関しては、ある程度評価が定まっているところではないでしょうか。このエントリではアーキテクチュアルな部分の分析は先業に譲り、なるべく最小限に抑えておこうと思っています。



問題は後者です。Twitterというメディアがどのような言説を生み、どのような「社会」を構築してきたのかという問題に対しては、実際に記録に残されているユーザーの発言、会話ログ、あるいは何らかのイシューに対して随時ネット上にアップロードされる「まとめ記事」を読んでいくことで一定の答えを出すことができるでしょう。これはつまりコンテンツを読みとく、ということです。



ここで注意すべき点はアーキテクチャーの分析とコンテンツの分析は分割して行うべきである、という点です。たとえば昨年、「アーキテクチャ」という概念を決定的に浸透させた情報環境論者の濱野智史さんは、自分がコンテンツについて語ることに対して回避するのは、論理的要請でもあり、また半ば直感からでもあるといっています。*1



そして、今回このエントリでメインに考えようとしているのはこのコンテンツのほうです。Twitterという固有のアーキテクチャをもったウェブサービスは、その特殊性の反映として何らかの方向性をもった現象や言説を生み出してきたものと考えられます。



というわけで、この記事の前半ではTwitterアーキテクチャの特徴を、「投稿の即時性」の「タイムラインの可変性」「ユーザーの同期性」という三つの視点で見ていきたいと思います。

postの即時性

Twitterの140字制限



Twitterのもっている第一のアドバンテージといえば、ユーザーが「いま、ここ」で何をしているのか、何を考えているのか、ということが、即座に、直接別のユーザーに伝わるということではないかと思います。



冒頭でも例に挙げた「tsudaる」やイラン大統領選問題での報道は、Twitterの「実況性」、つまり「即座に」他ユーザーとつながることができる、という利点を活かした利用法です。また、政治家Twitterユーザーが増加しているということは、自分の「いま、ここ」が「直接」有権者に届くというTwitterの利点が認知されつつあるということだと思います。



では、このような「postの即時性」はTwitterのシステムのどのような特徴によって可能になっているのでしょうか。



この原因として考えられるのが、Twitterの140文字制限です。Twitterというサービスの特徴の第一としてまず挙げられるのが、この簡潔性、全半角140文字までの文章しか投稿できないということでしょう。Twitterやこれに後続するサービスが「マイクロブログ」と呼ばれるのは、このような特徴からです。



一投稿あたりの情報量が制限されるため、Twitterはまとまった思考や意見を記述することより、その場の思いつきや今現在起きていることをそのまま書き残すことのほうに向いています。このため、多くのユーザーは自らの「いま、ここ」に密着したタイプの投稿をしています。日本のTwitterユーザーが投稿している内容のほとんどは「飯くった」だの、「今日は暑い」だの「またニコニコ動画見てる」だのといったものです。



また、情報量が制限されれば当然のことながら投稿そのものの量は相対的に増えます。投稿頻度が増加することで、ユーザーがパソコンや携帯デバイスを使いながらサービスに触れている時間も伸びることになり、結果受け手のレベルでも情報がより即時的に伝わりやすくなります。

ウェブカメラのように「実況」する



この条件のもと、Twitter上では「実況」が盛んに行われています。「実況」が成立するためには、情報の送り手が常時Twitterに接続されていることが必要ですが、携帯用のクライアントデスクトップに常駐するプログラムなど、Twitterではこのための仕組みが充実しています。また、「実況」の内容は後から追って読むことが可能であるとはいえ、多くの受け手もなるべくリアルタイムの情報を得たいと考えているでしょう。このため、Twitterでは屋外からでも情報をやりとりできる携帯クライアントからの利用が多いといわれています。そういえば勝間さんもTwitterを始める人に対してiPhoneの利用を強く勧めていました。リアルタイムで情報を受けるための環境を、なるべくよい状態に設定することを重視しているということの現れではないでしょうか。





もちろん「実況」の形には、様々な形式が考えられます。テレビ番組を見ながら、タイムライン上で感動やツッコミを共有することも「実況」ですし、オフ会の様子を(周囲の人たちと会話することもなく)つぶさに報告することも「実況」であれば、報道管制下のイランで現状を世界中に発信することも同等に「実況」です。また、何らかの大きなニュースや誰かの訃報などが瞬く間にTwitter上に広がることも「実況」の派生型としてとらえてもいいかもしれません。いずれにせよそれらの共通点はユーザーが獲得した「いま、ここ」の情報を、即時的にウェブに接続していることです。あたかもニュースの生中継のような「いま、ここ」の実況が、Twitterによってユーザー一人で可能になっているわけです。

「ライフログ」から「コンテンツ」へ



ところで、この「いま、ここ」を即時的に随時発信する実況行為を、個人のレベルにだけ限定して考えてみましょう。「ニュースの生中継のような」という表現をしましたが、このようにして自分の現在状況をコンスタントに投稿し続けている「Twitter中毒」のユーザーたちは、自分の食事や就寝起床時間、その日に会った人やその日見たものに至るまで、莫大な量の行動履歴を、それこそカメラに映したかのように蓄積していることになります。このような個人の日常的な情報の蓄積を「ライフログ」と呼ぶことがあります。ではこの「ライフログ」とはなんなのでしょうか。ライフログとため込むということは、私たちにとってなにを意味しているのでしょう。



東浩紀桜坂洋による『ギートステイト』は、2045年の日本を予測するという意欲的なプロジェクトでした。2045年の日本社会が高度に地方分権化が進行、政治的にはネオリベラリズム的なイデオロギーが全面化しているのですが、この中で「ライフログ」についての描写がでてきます。2045年の日本では、人々は自分の視覚で認識した映像と、聴覚で捉えた音声をすべて記録し、アーカイブしています。この極めて私的な情報群は、自分で見返して思い出に浸ったり、過去の行動履歴を検索したりなどというまっとうな利用法もされていますが、当然のことながら犯罪捜査などの公的な行為でも大いに役立っています。



そして、『ギートステイト』の中でライフログの特徴的な利用法が登場するのが、2045年老人ホームの描写においてです。人間工学的な管理の行き届いた終の棲家で、人生の終わりを待つ老人たちは、自分の生涯をそのまま保存してきた巨大で冗長な映像を恣意的に編集し、「ライフログ発表会」と称し互いに見せ合っています。『ギートステイト』の物語を動かすのは、このように自己充足的完結している共同体に嫌気がさし、ホームを脱走する一人の老人です。



現代ではすでに、多くの繁華街に監視カメラが設置され、セキュリティの確保が至上命題化しつつありますし、また逆にプライバシーを著しく損なうこのような動きに強く警鐘を鳴らしている識者も多く存在しています。たった36年間で、ここまでラジカルに情報の保存が進んだ世界を想像することは難しいでしょう。しかし他方で、ライフログの利用法として「見せあう」ことが注目されているのは示唆的です。自分の生活を切り取り、編集したもの、それを他人に見せるものとして公開するという行動ならば、すでに現代では多くの人たちがとっています。日記っぽいブログはすべてそういうものでしょう。



Twitterでも、数多くのユーザーが、誰が読んでくれているのかもわからないのに、なぜか今日食べた食事のことやテレビ番組のことなどをとりとめもなく書き記しています。その風景は、パっと見た感じでは、数々のブログで行われてきたことと対して変わりません。しかし、私はこのような「日常の記録」ということに関して、Twitterと従来のウェブサイトとの風景は、かなり異なっているのではないかと考えています。そしてその原因はまさに「ニュースの生中継のよう」に発信する、というところにあるのではないかと思っています。



生中継のように発信できるということ、つまり自分の日常をカメラに映して放送できるということは、逆に言えば映したくないものが映ってしまうということでもあるのではないでしょうか。その昔id:thirという人が「Twitterには個人情報流出リスクがある」と言ってブックマークコメントで叩かれていたのですが、この発言はやはりある意味で正しいと思うのです。Twitterヘビーユーザーというのは、あたかもオートマトンのように自分の実生活を「模写」しているように思える。そしてそこでうっかり書かなくていいことまで書いてしまいそうな空気があるというのは確かです。そしてそれはTwitter使いたてのライトユーザーでも同じなのではないでしょうか。この「つい書いてしまう」という感覚、これは一日の終わりに出来事を再編集してアップするという「ブログ」とはまったく一線を画するものでしょう。実際に、ブログではコワモテなことばかりを書いているユーザーが、Twitterを始めるとなんだかフランクに自分の日常の行動を語り始めていた、というのはよくあることです。そして、それを読んだユーザーは、ああ、これはこの人のリアルな日常の話なんだな、と思うことでしょう。しかしそもそもどうしてこのようなことが、ニュースの生中継のように「つい映してしまう」ということが起こるのでしょう。



ネットに関する既存の議論の文脈にこれを位置づけることができます。北田暁大さんは「嗤う日本の『ナショナリズム』」で作り出した「繋がりの社会性」という言葉です。



私たちは2ちゃんねるなどでよく起こる「祭り」を見ると、その内容のあまりの空虚さに驚かされることがあります。彼らにとってはどんなスキャンダラスな画像が流出しようが、ネット有名人の未成年飲酒や不倫を発掘しようがそれらの内容には興味がなく、問題はそれをエサにしてどれだけ「祭り」を楽しめるのか、それだけでしかないのだ、という話はよく語られます。



また、中高生の間などでやりとりされる何万通ものメールもまた内容は空虚なものです。彼らにとってはコミュニケーションの内容そのものより、コミュニケーションが「ある」という事実そのものが重要で、それによって接続されている安心感を得ているのだ、という話です。



このように、内容が無効化され、存在そのものに意味の比重が置かれるようになったコミュニケーション形式、要は「わたしはここにいるよ」の伝達だけが目的になった状態を北田さんは「繋がりの社会性」と呼びました。



Twitterにおける「つい書いてしまう」という感覚もまた「繋がりの社会性」によって駆動されていると考えられるでしょう。Twitterは即時的に情報を伝達するサービスであるため、従来のブログ的なものに比べても「常に接続している」という状態を可能にしやすくしています。そしてそのようにしてユーザー間で共鳴しながら引きずり出されていくそれぞれの「いま、ここ」は、より強い「リアリティ」をもたらすでしょう。Twitterがリアル志向のサービス、といわれる所以もここにあったのではないでしょうか。また、自分の意志とはあまり関係なく、思ったこと、やっていることが表出してしまう、という意味で「Twitterは拡張された身体」と、少々挑戦的に言ってみることもできるでしょう。



しかし、ここで見落とすべきでないのは、Twitterによって引きずり出されている投稿内容は、「生中継の映像」に似ていても、それとは非なるまったくの別物であるということです。あたりまえのことですが、Twitterに書くことと書かないことを選別する権利はすべて書き手自身にあるのですし、まったくの嘘偽りを書くことだってできます。それは「リアリティ」を持っていても「リアル」ではなく、また「身体の拡張」であっても「見られる身体」であるということを忘れるべきではないのです。この問題は「コンテンツ編」で再登場することでしょう。

TLの可変性

「ユルい繋がり」とクラスタの生成



Twitterの持つ特徴を表現するのによく使われる、「ユルい繋がり」という言葉があります。知っている人とだべるにせよ、知らない人と初めて接触するにせよ、その両者間の関係性がゆるやかで、緊張感の少ないものであることを示したのがこの言葉です。では、このような特色を可能にしている要因はどこに求めることができるでしょうか。





それは、「follow」というTwitterを考える上で最も明白で、かつ最も重要な機能からくるものなのではないでしょうか。「follow」に相当するような機能は他サービスでもいろいろあり、特にTwitterの流行以降、はてなブックマークなどの多くのサービスで類似する機能が取り付けられました。しかしTwitterは、「following」「follower」の操作によって流動的に自分の立ち位置や所属するカテゴリーグルーピングが決まってくるという意味で、やはり最も効果的にこのしくみを利用し、そしてほとんどこのしくみだけをもって成り立っているサービスといえるのではないでしょうか。



周知の通り、「follow」というものは一方通行的なしくみです。自分が誰かからfollowされたとき、その事実自体はメールで知らされますが、そのユーザーに必ずfollow返しをしなくてはいけないというわけではありません。また、following/followerは一方的な関係であるがゆえに、現在followしているユーザーをremoveすることにも、本来的にはまったくしがらみがないはずです。(もちろん、現実的にはremoveされることをひどく気にしているユーザーが多いことは事実ですし、逆にそのせいであんまり積極的にremoveができないユーザーもいるかもしれません)



自由にfollow/removeが行われている空気の中では、あるユーザーと仲良くなったり、またよく話していたユーザーと疎遠になったりということについてそれほど気を重く考える必要がありません。そして、たとえ相互followになったとしても、それ以上関係が発展していかない場合も多いわけです。日常的にコミュニケーションが取れるユーザー数の物理的限界も限られている中、多数のfollowing/followerを抱えるユーザーには、こうして「さして会話をするわけじゃないけどtimeline上でお互いをよく見る、ということだけから生じる最も希薄な連帯感」を漠然と持っている人も多いのではないでしょうか。このような感覚は「繋がり」が最も希薄でほとんどゼロに等しい形になり、お互いに直接会話を交わすことがなくなってもなお、「社会性」が存続するものであるということを示しています。Twitterの特徴についえ「ユルい繋がり」という言葉で言い当てているのは、この空気についてだったのではないでしょうか。



ところで、自分の「友達ユーザー」と「友達じゃないユーザー」の境界を決めて、「友達ユーザーの輪」を広げていくことで、知り合いを増やしていくサービス、これはまさしくmixi的な意味でSNSです。暴言かもしれませんが、Twitterは「ものすごくオープンなmixi」であるということもできます。実際、protect機能をonにしてまったくクローズドな環境で投稿している人からすれば、Twitterは単なる仲間内でのコミュニケーションの場にすぎないでしょう。ではTwitterではどのようにしてSNS的な限定的コミュニティが形成されているのでしょうか。SNSはSocial Network Serviceの略称、つまり社会的なネットワークを構築するサービス全般を指す言葉です。とすると、SNSにおけるこの「社会的ネットワーク」、つまり「ミニ社会」は、Twitterにおいては「クラスタ」という概念に該当するのではないでしょうか。



クラスタ」はTwitterではotsuneさんというユーザーが使うようになってから広まったといわれる言葉です。しかし、otsuneさん本人が指摘しているとおり、この言葉については誤解が定着しています。「クラスタ」という言葉は現在では「人文クラスタ」、「東方クラスタ」、「高専クラスタ」、果ては「オフ充クラスタ」、「変態クラスタ」など、なんとなく同質の集団をひとくくりにするカテゴリーのように捉えられ、半ば単なるネットジャーゴンと化していますが、もとはデータ解析などの分野における専門用語です。僕は完全なる門外漢なので精細に説明することはできませんが、おおざっぱにいって「誰が誰をfollowしており、誰が誰にfollowされているかというデータを大量に収集し、分析することによって、あるユーザーとあるユーザーが相対的に近くにいるか、遠くにいるかということを客観的に割り出す分析法」をクラスタ解析と呼ぶようです(otsuneさんのふぁぼったー検索「クラスタ」などを参照)。ということは、私たちがリプライの粗密度や会話内容から事後的に「人文クラスタ」とか「東方クラスタ」とか名づけている集団の背後にも、客観的な「仲良し集団="クラスタ"」が存在している可能性が高い、ということになります。このようにして、ユーザーの志向性の偏向が、Twitterに「ミニ社会」をたくさん作り出していることになります。





クラスタ間の閉塞性



クラスタ」の形成は、コミュニケーションの濃度を上昇させることに役立つでしょう。また、「友だちの友だち」「友だちの友だちの友だち」という形で広がっていく出会いも、結局クラスタという漠然とした括りがあった方がスムーズに進んでいくはずです。しかし、もちろんこのことには害悪も伴います。それは、クラスタ間の風通しの悪さです。クラスタが存在する以上、コミュニケーションがその中でのみ分厚いものとなり、ある種の緊密さと閉鎖性を生み出していることは事実となるでしょう。確かに、プライベートで緊密な関係を維持できる空間を構築することはSNSのとても重要な役割の一面です。また、その風通しの悪さのなかでも、やはり新たな出会いがあったりもします。長きに渡って完全招待制を維持し続けてきたmixiは、このような空間の構築に特化しているサービスの一例でしょう。しかし、このような内向性はやはりさまざまな弊害をもたらします。「クラスタ」で凝り固まって内輪的空気が上昇していけば、外部への排他性もまた上昇していくことは必然です。多数の人に読まれるべき、有用な発言を行っているユーザーなどの場合、クラスタ内での固執はより一層忌まれるべきことでしょう。Twitterはprotectにしない限り未登録のユーザーでも発言を閲覧でき、ちゃんとGoogleにも引っかかるという意味で最低限の開放性は確保しているといえます。しかし、一方でクラスタ間の見通しをよくするようなしくみもある程度必要ではないかといえるわけです。



このことについて一定の役割を果たしているのが「ふぁぼったー」ではないかと考えられます。このことについても、また後に取り上げることにしたいと思います。

ユーザー間の同期性

Twitterの「選択同期」



Twitterでは投稿はどうされるか」ということと「Twitterではコミュニティはどう形成されるか」ということについて書いてきました。そこで今度は、コミュニティの中で投稿と投稿がどう結びついて、どのようにその間の関係性が生まれるか、ということについて書いてみたいと思います。



アーキテクチャの生態系』のなかで濱野さんはTwitterのユーザー間で行われているコミュニケーション様態を「選択同期」という簡潔な言葉で表現しています。これはどういう意味でしょうか。この本での例をそのまま引用すれば、それはこういうことです。



たとえば誰かが「カレー食べた」と投稿したとします。Twitterでのタイムラインはこのようなとりとめもない発言がほとんどで、たくさんのユーザーがこうしたつぶやきを発しながらも、それらのほとんどが普段はスルーされながら流れています。しかし、誰かがここで「俺もカレー食べた」と投稿したとします。すると、これだけでバラバラだった投稿のなかに関係性が生じてきます。このように、普段はまったく別の時間に別々の投稿を行っているのにも関わらず、ひとたびユーザーが「選択」すれば、それらの投稿があたかも同期しているかのように結びついていく、ということがTwitterの特徴であると濱野さんは指摘し、これが「ユルい繋がり」を作っていく一因になっているといっています。



また、同じく『アーキテクチャの生態系』で触れられていることですが、このようななにげない投稿の連鎖のなかで、たまに企画会議のブレインストーミングのようにしてあることについてのアイデアが多数でてきたり、ある話題について短期集中的に議論が深まったりすることがおこります。このような貴重なやりとりの内容は、Twitterまとめブログの管理人や、ユーザーたちのtumblrなどによって随時まとめられています。いくつか例を探してみましょう。





フラッシュモブの生成力



アーキテクチャの生態系』でTwitterについて触れらている章の題名は「アーキテクチャはいかに時間を操作するか?」というもので、Twitterニコニコ動画セカンドライフについて「時間の操作」という点に絞られて詳細に考察されているものの、他のことについては詳しく触れられてはいません。そこでこの時間的な同期性を、空間的な同期性に拡張して考えてみましょう。すなわち、ここで取り扱いたい事象は「突発オフ」です。



Twitterをはじめてからオフ会の頻度が増えた、あるいはまったくオフに参加したことがなかったけれど、何度か顔を出すようになったという人は多いのではないでしょうか。今年のはじめにpixivを訪問したとき、社長が「pixivはリアル指向サービス」と語っていたのが印象に残っているのですが、Twitterもまたリアル指向の側面が大きいととしてみられるサービスです。これまでの記事の流れに従えば、Twitterはユーザーをそれぞれの「いま、ここ」の中で位置づけるという側面が大きいサービスなのですから、ユーザーそれぞれの日常的風景、つまりユーザーのバーチャルなキャラクターよりも具体的な身体を持ったキャラクターに投稿のシフトが当たってくるのは当然だといえます。そして、日常的な時間を普段長期に渡って同期させているユーザー同士は、実際に初対面で会うときにもあまり気兼ねしたり緊張したりすることなく話せる。これは多くのユーザーにとって実感があることだと思います。



しかし、従来的なオフ会は、事前にみんなで日程と場所を決め、一斉に集合するという形式がほとんどであり、機動性と頻度のレベルで即効性に欠くものではなかったのではないでしょうか。この点でいえば、比較的長時間に渡って他ユーザーと同期することが可能であるTwitterにおいては、他のユーザーとほとんどまったく無計画に集まるということがかなりの頻度で起こっているのではないかと思います。



ユーザーのpostは「いま、ここ」に集約されているのであって、多くのpostの中には「ここ」に関する情報が含まれています。Twitterの投稿のうち、携帯デバイスからのものがかなり多いことからもわかるように、ユーザーの現在地はかなり逐次的に報告することができます。TL上の他のユーザーが、このユーザーに対し物理的に近いところにいることをキャッチすれば、たちまち突発オフが始まるというわけです。すなわち、「いま」の同期が「ここ」の同期をも導くのです。



この現象に関して象徴的なのが、休日の秋葉原リナックスカフェでしょう。Twitterが初期に流行したのは、主に比較的ITリテラシーの高い層、また「ネットオタク」的層が中心でした。このため土日の秋葉原Twitterをやれば多くのユーザー近場にいることが発見されるわけです。このような状況下で、殊にギーク的な層が電力、ネット環境などの条件が優れていることからよく利用していたリナックスカフェに次第にユーザーがたまるようになり、今日に至るリナカフェクラスタが形成されていきました。



SNS利用のビジネス面でのメリットでよく挙げられるのが「人脈構築」ですが、人脈を作っていくためにはある時点で対面して会話をする必要がでてくるでしょう。Twitter利用者たちの間では特にビジネス的な利用を心がけていなくても、なんとなく人とだべって、なんとなくオフ会を重ねていくうちに、自然と人脈(のようなもの)が作りあがってしまいます。

また、このことからTwitterはしばしば「出会い系」と揶揄されます。ネット中に登録されたデータベースの中から男女の対面での出会いを求める場所として設定されるのが「出会い系」サイトです。Twitter上にはTwitterで知り合ったと思われるカップルもたくさんいますし、Twitter婚の事例が報告されたりもしていますが、多かれ少なかれTwitterでの「出会い」はさし当たり健全に進んでいるようです。いまのところとりあえずニコニコ生放送の事例のようになモラルハザードが今のところ起きていないのは、ユーザーのリテラシーの高さによるものなのか、はたまたニコニコ生放送のように「顔」に焦点化したサービスではもともとないからなのか、それはわかりませんが、いずれにせよ道徳的に許容される範囲でユーザー間の対面的交流が盛んに計られることは、結果的にネット上の活動を考えた上でもプラスにはたらいてくるのではないかと思います。









ところで、『アーキテクチャの生態系』のなかでは、Twitterに対し以上の分析を加えた上で、日本においてTwitterがこれ以上成長することはあまり望めないだろう、と結論づけています。その根拠はこうです。



そもそも、電話のような同期的なコミュニケーションは、自分の意志に関わりなくいきなり呼び鈴が鳴り、しかもその状態では相手が誰なのかわからない、といういささかストレスフルなものです。これはチャットなどでも同じで、チャットやIMで「沈黙」を避けて何か言葉をつないでいこうとすることはユーザーにとってプレッシャーでしょう。「選択同期」は、普段は非同期的にバラバラに投稿しているのにも関わらず、必要な時だけ同期的になれる、という意味で、このような同期的コミュニケーションの欠点を取り除いたものです。また、必要なだけ相手とリンクすることができるという意味で「繋がりの社会性」を志向する日本文化的なものとも合致したものです。



そしてだからこそ、「選択同期」的なコミュニケーションは、すでに日本の従来のネットユーザー、殊に携帯ユーザーの間では行われてきました。mixiなどで、一日に何度も、細やかにその時々の自分を「実況」する日記を書いたり、受け手のレベルでもマイミクの日記一覧で何度も更新したりということは選択同期的なコミュニケーションです。同じようなことを別のサービスでやっている層が一定数いる以上、Twitterにそれほど大きな特異性を見いだすことはできません。また、このことは多くのユーザーが実感していると思うのですが、日本のTwitterユーザーは普段からブログRSSリーダーなどの比較的新しいウェブサービスを使いこなし、メディアに対しての関心度が高い「イノベーター層」と呼ばれる「クラスタ」の人々が多くの割合を占めていました。このため、携帯ユーザーを始めとするような層に訴えかけ、新たなユーザー層を発掘するためには、そのための新しい契機をTwitterが発掘しない限り難しいだろう、というのです。



この予想はやはりある部分では当たっていたといえるでしょう。実際、Twitterはなにか新しい活路を見いだしたわけではありません。昔からのユーザーは、昔からと同じく、日々なんとなくつぶやき、なんとなく繋がっているだけで、ギークは今まで通りギークらしく遊びまくり、オタクたちは毎晩深夜アニメで盛り上がり、そしてたまに深刻な話をする。急に得体の知れない女子高生が大量に参入してきたりbuzztterがヤンキー文化圏の単語で埋まったりということはないわけです。



しかし、一方で、冒頭に書いたように現在のTwitterなにか妙にフワフワした、バブルめいた盛り上がりを見せています。象徴的だったのは勝間和代さんの参入だったのではないでしょうか。勝間さんは、Web2.0的な知識と技術、つまり今までイノベーター層たちが独占してきたような情報技術を駆使した「ライフハック」を、ハウツー本として、つまりまだそれほどリテラシーが高くないユーザーに対する紹介者として登場した人物です。これを視認した上で、「Twitterキャズムを越えたのではないか」、つまりイノベーター層とフォロワー層の格差が縮まりつつあるのではないかという議論が出てくるのは実にもっともなことです。そしてそれよりさらに不気味だったのは、その友人である広瀬香美さんの登場だったわけですが……これについては後述します。



この現在のTwitterの奇妙な盛況ぶりは、一つには先にも述べたように、イラク大統領選マイケル・ジャクソンの死去、日本政治家の参入などのトピックが相次いだことをきっかけに、一斉に外部のメディア報道されたことが原因である、つまりバブルでしかないと考えることができます。しかし同時に、濱野さんの予測ーーTwitterの持つアドバンテージは他サービスによっても代替可能なのではないかという主張ーーは誤りだったのではないか、Twitterをブレイクスルーさせる「なにか」はすでにTwitterに内包されているのではないか、と考えることもできます。いずれにせよこのことについて結論を出すには、時期尚早すぎるかもしれません。この記事はあくまで、Twitterのこれからがどうなるか、よりも、Twitterのこれまでがどうであったか、に焦点を当てていきたいというコンセプトです。





さて、これまで「postの即時性」「TLの可変性」「ユーザー間の同期性」の三つの観点で、Twitterがどのようにユーザーのpostを配列し、独自的なコミュニケーションを作り出しているかということについて簡単に僕の考えてをまとめてみました。これにて「アーキテクチャ編」はいったん終了です。

peak-hunter8848peak-hunter8848 2009/11/30 10:25 素晴らしい記事だと思う。内容、意見の善し悪し、自分と遭っているかどうかの議論は様々あるだろうが、私自身、。twitterを初めてわずか2週間低度だが、なんとなく感じていたこと、気づいていたこと、意見が形成されそうでいてなんとなくもやもやしていたことなど、結構目からうろこな感じで朝から熟読してしまった。このブロガーさんって、高校3年生ってホント?

ばーかばーか 2009/11/30 18:46 twitterを語る奴は糞

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