Hatena::ブログ(Diary)

マぜンタとシアん

2009-12-01

Twitterとはなんだったのか——「コンテンツ」としての日本Twitterユーザー(後編) - コンテンツ編

Twitterは「残念」だったのか?

はてな村は、なぜそう呼ばれるのか

前半では、Twitterの「アーキテクチャ」を分析し、その上で日本のTwitterユーザーはどのようにTwitterを利用し、どのような活動を行ってきたのか、ということに焦点を当ててみました。

さて、前半冒頭の問題意識に戻ってみましょう。この記事は「日本のTwitterは残念だったのか?」という問いから始まりました。この「残念」という言い回しは、梅田望夫さんの岡田有花記者によるインタビュー記事のタイトル、「日本のwebは残念」から取ったものです。そこで、まず、「なぜこの記事で、日本のwebは『残念』と呼ばれているのか」について確認しておきましょう。かつてweblogの発明を「一億総表現社会の到来」と言祝ぎ、進化していくウェブの姿を機敏に捉えた梅田さんはなぜ今になって「日本のweb」を見切らざるを得なかったのでしょうか。

それは、たとえば梅田さんも大いに関わった株式会社はてなの「はてなダイアリー」の顛末一つを見て取れば明らかであるように思えます。はてなダイアリーは、「weblog」という概念が輸入されて間もないころに、トラックバックなどの独自の機能を、キーワードリンクという形で適切に「文化の翻訳」をしたサービスだとして注目を集めました*1

たしかに、当時のはてなダイアリーに、技術的なイノベーター層や、ブログアーリーアダプター層、ことに専門的な議論を得意とする層(梅田さんの言う「ハイブロウ」)が集中して参入したということは本当なのでしょう。そしてその雰囲気自体は今日に至るまで受け継がれています。また、日本のSBMサービスでもっとも多数のアクティブユーザーユーザーを保有しているのが、はてなブックマークだという事実も大きかったといえるでしょう。その結果、現在でもはてな界隈では、多方面の分野においてたびたび濃密な議論が行われています。

しかし一方で、「はてな界隈」での論争に漂う内輪感、閉鎖性はしばしば批判の的となっています。流行りの言葉を使えば「ブログ論壇(笑)」になり果ててしまっている「はてな界隈」を揶揄する言葉が「はてな村」です。すなわち、これは「一見オープンなことを言ってるように見えるけど実は全然オープンでない感じ」を村落共同体、すなわち(疑似的)対面コミュニケーションが成員の全員に行き渡っている集団にたとえて皮肉る言葉なわけです。「新たな言論空間」の誕生が期待されていたのにも関わらず、「はてな村」で活発に議論されるのは「はてな村」内部でしか理解されないようなことばかりだったりします。また、たとえ興味深い記事があったとしても、「はてな村」的文脈依存度の高さゆえに「村」外部の人のアクセス遮断されてしまうこともありえます。いまだに日本では、学術的研究、特に文系的な分野のそれでは、ウェブ媒体の文献が軽視され、紙媒体の文献のみがとりあげられる傾向があるようですが、これには書き手の信頼性への疑いと同時に、「ネット論壇」に対する以上のような意識も起因しているのではないでしょうか。はてなダイアリーとその周辺も、「weblog」という欧米渡来の文化が適切な形で日本に根付かなかったことの一例として考えられるのです。*2

繋がりの社会性に終始する日本のウェブ

そしてこのような状況は、なにもブログに限って発生しているわけではありません。「BBS」は、「2ちゃんねる」という、巨大で不気味な匿名空間に落ち着き、「SNS」は「mixi」という、既存の人間関係を効率的に管理するだけのシステムに置き代わりました。そして、このようなサービスは「開かれたウェブの可能性」を信じてウェブの動向を見守っていたユーザーにとっては鋭く批判されます。

この記事では何度も触れてきた『アーキテクチャの生態系』も同様の問題の意識のもとで書かれた本です。つまり、ウェブのイノベーター層にとって「残念な」だと認識されているサービスは多数あるが、それらは決して単純につまらないと言い切れるものではない(具体的には、日本文化論的な文脈の中で適切に位置づけられる特質を持っているサービスである)、というわけです。そのためこの本の中では「2ちゃんねる」「Winny」「mixi」など、たとえば梅田望夫さんなら黙殺するであろう固有名詞に対し積極的に触れられています。

日本のネットにおけるこの普遍的な状況は、Twitterにも当てはまります。イラン大統領選報道などでTwitterは「ボトムアップ的な、新たなジャーナリズムを媒介するメディア」として注目され、日本でもそのように報道されました。しかし、ほとんどの日本人Twitterユーザーが行っているのは「繋がりの社会性」を自己充足的に満たすことにすぎない、ということは今まで見てきました。

それでも、今年に入ってから新規参入者の増加で日本のTwitterにもある程度の変化がおとずれました。「有名Twitterユーザー」ともいうべきユーザーも増えます。このときの、「古参」ユーザーの気分を端的に反映させている投稿がこれではないかと思います。

fkgw
@fkgw
 こんなこと言っても仕方ないことだけど、こういう風に「Twitter内の出来事について」大勢の人が絡む(?)みたいなの少しだけど寂しく思ってるから みんなが全く関係ないことをバラバラに好き勝手に呟いてるのを読むのが私は好きだから(2009-07-23 00:15:44) link

少し前に、Twitter上で「Twitterは終わった」という話題が盛んに交わされたことがありました。この「気分」大量の新規ユーザーの参入者によって、従来の「クラスタ」が少しずつに解体されていくことに対する、違和感の表出だったのだと解釈できます。たとえば広瀬香美さんのような「誰もが知っていて誰もが一斉に話題にするユーザー」の登場は、今まで用いてきた言葉を使えばTwitterの「選択同期」感、つまり普段はバラバラだが、必要な時に同期を選択できるという感覚を、「みなが一度にその人のことを話題にしている」という一斉の同期感で壊してしまったといえるでしょう。

このような「クラスタ」の感触は、いうなれば「マイミク」のイメージに近いのでしょう。話題が通じる内部での安心感と閉鎖性、これはイラン大統領選でのTwitterのイメージとは正反対です。「日本のTwitter」もまた、mixi的なもの、ひいては日本文化的なものから袂を分つことができずにいるのです。

この視点をもって梅田さんの問いにかえれば、さしあたって「日本のTwitterは残念なのか」という命題には、首肯せずにはいられないでしょう。日本のTwitterは、少なくとも梅田さんの思うような理想型には絶対なっていません。また、「繋がりの社会性」を認めた上で「Twitterでやってることは他でもできる」といっている濱野智史さんについても、これは至極まっとうな主張だというほかありません。いや、ほんとうにもっともです。どうもすいませんでした。

しかし、ここで終わってしまっては、「残念」の一言で断罪された日本の幾万ものウェブユーザーが浮かばれません。というより、貴重な大学受験期の時間をきりきり削りながらこの「残念」なエントリに費やしてきた僕自身が浮かばれません。どうせここまで書いたんだし、Twitterを肯定できる言葉の一つでも書いて終わりたいものです。しかし、そのためには話をどっちにもっていったらいいのでしょうか。

繰り返し書いてきたとおり、これまでの章立てでは、Twitterの「アーキテクチャ」に焦点をあて、その影響下において、日本のウェブユーザーがどのような言動をとるのかということについて書いてきました。その結果が「日本のTwitterユーザーは『残念』なことになりがち」というものでした。では、実際にTwitter上で生み出されている「コンテンツ」は「残念」なものばかりなのでしょうか。私はそうは思いません。Twitterアーキテクチャが、日本人の「繋がりの社会性」志向という伝統的素地と合致していたという事実とはまた別のレベルで、日本のTwitterには興味深いコンテンツが多数存在しています。そして、それらの中には、2010年以降のウェブを考えていく上で重要な示唆をもたらしてくれるサンプルも含まれている、そうとさえ私は考えています。そこで、ここからの記事では、実際にTwitter上で「発生」したコンテンツをいくつか取り上げ、それについて考えていくことにしたいと思います。

しかし、どのユーザーにとっても普遍的なTwitterの「アーキテクチャ」を考えるパートから、まったく個別的な「コンテンツ」を考えるパートに移るにいたって、一つ注意しなくてはいけないことがあります。それは、「followの可変性」の項でも書いたように、各個人の構成するタイムラインはそれぞれまったく別々のものであるということです。私にとって見えている「Twitter」は、他人にとって見えている「Twitter」とはまったく別物であり、またその内容は個々人によって完全に恣意的に決定されます。私はいわゆる「アルファついたったー」でもなんでもありませんし、follow数も一時期は500近くまであったものの、今では300ちょっとで落ち着いています。そんなユーザーが「Twitterではこんなことが起きている」などといって個々の事例を取り上げていくのは、あまりに危険なことです。

これまで私は一応、もうTwitterをはじめてずいぶん経つ人から、これから始めようかなと思っている人まで、(多少の飛躍や省略はあったかもしれませんんが)広いユーザー層を対象とするつもりで、この記事を書いてきました。しかしここから個別例を提示していくにあたって、それらを通じて普遍性のあるTwitterの面白さを提示することが目的とはいえ、「内輪話」の匂いがしてくることは否めません。しかしこの危険性を認識した上で、あえてここでは「コンテンツ」について考えることを選ぼうと思います。

続く「コンテンツ編」への布石を築くために、取り上げておきたいウェブサービスがあります。それが「TLの可変性」の最後でも少し触れた「ふぁぼったー」です。

ふぁぼったーとコンテンツ

ふぁぼったーとは何か

日本のTwitterユーザーで「ふぁぼったー」についてよく知っているという人は多いと思います。ふぁぼったーは現在のようにTwitterが大きく広まる以前から盛んに使われていたサービスです。しかし、そうはいってもふぁぼったーは日本のTwitter公式が提供しているサービスというわけではなく、ある一人の日本人ユーザーが独自に運営している非公式サービスにすぎません。にも関わらず、なぜここでふぁぼったーの名前を取り上げなくてはいけないのでしょうか。それは、日本のTwitter上の「コンテンツ」を考える上でふぁぼったーは欠かすことのできないサービスであると、私が考えているからです。

では、念のためふぁぼったーについて簡単な解説を加えておきましょう。Twitterには、他人の発言を「お気に入り登録」しておくための「favorite」という機能があります。気になった発言について☆マークを押すと、ワンタッチでその発言を自分のリストに保存しておけるという機能です。ふぁぼったーはこの「お気に入りリスト」を発言ごとに集計し、任意の発言の「ふぁぼられ数」を表示する、というサービスです。

ふぁぼったーの行っていることは、こうやって説明すると本当に身も蓋もありません。たとえば「はてなブックマーク」であれば任意のエントリーの「ブクマ数」は当然表示されるわけですし、ニコニコ動画の「マイリス数」なども同様です。つまり、ふぁぼったーはほかのサービスだったら当たり前のように公式が提供しているであろう機能を補助しているだけ、ともいえるのです。

しかし、たったそれだけの当たり前のこと操作によって可能になっていることはとても大きな意味をもっていたりします。たとえば、一日の終わりにふぁぼったーの「人気タブ」(その日の発言をふぁぼられ数の多い順に表示する)を見れば、その日に特に話題になった発言などを一覧することができます。つまり、buzztterやReTweeterの提供している「話題の表示」機能の一端がここで担われていると見ることができるわけです。

自分のふぁぼられでF5連打する日本ついったらー

しかし、それ以上に大きな意味を持っていると思われるのがふぁぼったーの「個人ページ」です。このページはもちろん、ある特定のユーザーの「ふぁぼられ」を一覧表示するページです。まず、他人の「ふぁぼられ」一覧は、それだけで便利なページです。私は、フォロー通知が来たユーザーの中で気になった人がいると、必ずその人物のふぁぼられの「人気タブ」を見ることにしていました。ここを見ると、その人の全発言のなかで特に注目を集めていると思われるものがわかるので、彼/彼女がどんな傾向を持ったユーザーであるのかということをある程度は知ることができるわけです。

しかし、更に重要度が高いと思われるのは「閲覧者自身のユーザーページ」です。私がふぁぼったーの中で最もよく見るページは実はここです。それどころか、ブラウザの全履歴を検索にかけても、「gottosのふぁぼられ」は、他のウェブサイト差し押さえて、トップレベルの頻度で見られているページだったりします。firefoxの「awesome bar」では、自分のふぁぼられページは2,3番目ぐらいによく見られているサイトなので、下キーを二回押したぐらいですぐでてくるようになっています。僕にとって自分のふぁぼられとは、そんな、何となく見たくなってしまうような魔力を持っているページです。

しかし、これは僕だけが特殊に持っている性癖みたいなものなのでしょうか。いや、そうであるならばこの先の話はする必要はないのです。しかし、もしかしたら、いや、たぶん、いやひょっとすると、かなり高い確率で、ふぁぼったーを閲覧しているユーザーの中ではこういう傾向を持っている人が結構な数いるのではないでしょうか。もちろん、他人の目などまったく気にすることなく気ままにつぶやきを続けているユーザーたちも多いことと思います。しかし、そうではない、ふだんからなにかと、なにをするにつけても他人の評価を気にしてしまうような「普通」な人たちであれば、ふぁぼったーが提供してくれるコンテンツはありがたいことこの上ないものに見えるはずなのです。

僕の経験です。ふぁぼったーは、今はそれなりに高い頻度で「ふぁぼられ」の更新をしているようですが、昔は一時間に一度だけ、00分にしか発言を更新していませんでした。そこで私は、なにか「してやったり」な投稿をしたかと思うと、その次の00分まで待ってから、自分の「ふぁぼられ」を見るのです。そこで、ちょっとでもたくさんのfavがついていると、つまりいい反応が返ってきていると、それだけ少し嬉しくなったりします。逆に何の反応もなければ、ちょっとヘコんだりします。このヘコみが、気合いを入れて書き込んだpostであればあるほど大きいのです。

こんなことを書いているとなんだか自分がものすごく小心者な気がしてきてイヤになってきます。私は実際そんな小心者なのですが、しかしふぁぼったーのアクセス数はそんな無数の「小心者」によって支えられているような気がしてならないわけです。「人気タブ」ではたまに「この発言が○○favまでいったら××します」といったタイプの発言が見られますが、こういった「釣り」現象がたくさん見られるというだけでも、人にふぁぼられるということの魅力の強さを垣間見ることができようというものです。

評価システムにより提供される「限定客観性」

なぜ、「ふぁぼられ」はこれだけ人を惹きつけるのでしょうか。それは、自分の提供している投稿に対する評価が、ふぁぼられ数という「客観的な」形で返ってくるからではないでしょうか。もちろん、ふぁぼられ数が「客観的」に投稿の優劣を決めるという考え方は妥当とは言えません。なぜなら多くふぁぼられているpostは、あくまでそのユーザーのfollowerにとって興味をそそられたpostなのであり、誰にとっても当てはまる面白いpostであるというわけではないからです。また、followerがたくさんいて、発言の多いユーザーの方が多くのふぁぼられを獲得するのは当然のことです。

しかし、ユーザーは自分の発言に「ふぁぼられ数」という目に見える形の評価が返ってくるのをみて、やはり安心したり、逆に不安になったりするようなものなのです。そしてそれは、その人物にとってのTwitterの中では十分に「客観的」な評価です。『アーキテクチャの生態系』で濱野さんは、このように、そのウェブサービスの中でだけ当てはまる客観的な評価について、社会学の「限定合理性」という概念を引用しながら「限定客観性」と名付けています。

考えてみると、コンテンツをCGM的に収集するウェブサイトにとって、このような「限定客観的」な評価システムによってコンテンツを順列づける仕組みは付き物であるといえるでしょう。先ほどのはてなブックマークニコニコ動画の例はもちろんのこと、googleページランクシステムですら、ウェブ上に転がる無数のコンテンツを「客観的」な基準で順列づけているという意味では同様な評価システムであるといえるでしょう。いまや、ウェブ上のすべての「コンテンツ」は何らかの形で必ず評価づけられているのです。

ということは、Twitter上のすべての発言は、ふぁぼったーの評価システムを通過することによって初めて個別の「コンテンツ」として認識され、ふぁぼったーのページに陳列される、と考えることも不可能ではないはずです。私が重要視しているのは、このふぁぼったーの「コンテンツ化」機能です。

もともとTwitter上の発言は「Tweet」、つまり「つぶやき」であるのですから、ユーザーによって自ずから発せられた、どこにも方向性の向かないものであってかまわないはずです。いや、むしろそのような、どこにも方向性の向かない発言が大量にすれ違いつつ、たまにぶつかり合って曖昧なコミュニケーションが生じる、というのがいままで確認してきたTwitterの風景であったはずです。「Twitter上の6割は意味のない発言」という調査結果がありますが、それでよかったはずなのです。

しかし、ふぁぼったーを見るユーザーにとって、投稿はコンテンツ、つまり「見せ物」としての性質を余儀なくされます。「つぶやき」から「コンテンツ」へ。これがふぁぼったー上で観測することのできる変化です。

なお、最後に、このような「コンテンツ化」の役割を果たすウェブサイトは別にふぁぼったーに限られるわけではないということを付け加えておきます。特にReTweetが普及してきてからは、postがRTされた回数を表示する「ReTweeter」が登場したりするなど、評価の解釈の形式も多様化しています。ここでは、筆者にとって馴染みの深いふぁぼったーを例にとって考えてみました。

荻野君事件

荻野君事件とは

さて、かくして「つぶやき」は「コンテンツ」に変わっていったのでした。とはいえ、それだからといってTwitterタイムラインで起こっていることはいつもと変わりません。ただたくさんのユーザーたちが、意味のあることやらないことやらを気ままにつぶやいているだけです。

しかし、長い間タイムラインを眺め続けていると、ときたまTwitterユーザーの発言がその「コンテンツ」としての側面を露わにする瞬間を目撃することもあります。そして私は、こうした瞬間こそTwitterを最も面白く感じます。

個人の勝手気ままなつぶやきが、「見せ物」に変わるとき。そのときTwitterは、なんらかの形で人のつぶやきを歪ませ、環境に適した形に再編成しているはずです。そうだとするならば、「コンテンツ」と「つぶやき」の間の差異には、どういった意味が含まれているのでしょうか。

このようなことを考えてゆくべく、この項では、ある人物に関する一本のエントリを取り上げてみたいと思います。荻野君と呼ばれるその男性についての記事は、itkzさんというTwitterユーザーによってアップロードされ、直後から反響を得ました。僕は確か、英語の授業中に漫然と携帯でRSSリーダーを眺めている最中にこの記事を見つけ、食い入るようにそのまま読み切ったことを覚えています。

なお、実はこのエントリで描かれている事件は、そのままTwitter上に現れたコンテンツについて扱っているわけではありません。しかし、この事件に関わった関係者がTwitterを通じて連絡や現状報告を逐次行っていたことから、この項で取り上げてみたいと思います。そして、この事件で起きている事態そのものが、ある部分でTwitter上の「コンテンツ」たちと通底していると私は考えています。

Blogger: ブログが見つかりません

流麗な文体で書かれながらも、分量はやや大きい記事ですので、未読の方については詳しいところは実際に読んでいただくとして、要点だけ追って説明します。

2008年の8月31日、渋谷センター街マクドナルドインターネットをしていたTwitterではyuisekiさんという名前で活動しているユーザーが、元自衛隊員を自称する荻野という無職の男に話しかけられました。彼はyuisekiさんのパソコンを使って職を探させてほしいと頼みます。面白がったyuisekiさんはTwitterSkypeで翌日人を募って集まります。衣服以外になにも持っていない荻野君を、集まったうちの一人であるitkzというユーザーが自分のうちで泊まるようにいいます。集まった人々は荻野にノートパソコンを買い与え、SkypeTwitterアカウントを取らせてまっとうな生活と就職活動ができるような環境を整えるのですが、荻野君の生活はちっともよくなりません。彼は周りとの意志疎通を正常に取ることが全くできず、そのくせ傲岸不遜な態度を取るので常に周囲を苛立たせたり、あきれさせたりするばかりです。なんやかんやあって、追い出されたり出戻ってきたりしながら周囲が荻野君を観察したり、という日々が続くのですが、結局荻野君は自転車盗難などの軽犯罪を理由に、警察に引き渡されてしまいます。この事件の関係者によって後に顛末を振り返る記事が書かれましたが、それによると、荻野くんを警察に引き渡した理由は「単純に犯罪者だったから」という非常にあっさりとしたものでした。

itkz邸の荻野君と周囲との接触は、主にSkypeを通じて行われていたわけですが、その様子は断片的ながらもTwitterを通じて周囲に漏らされており、一部のユーザーは事の顛末を興味深く見守っていました。しかし、結局上記エントリのような結末を迎え、周囲のユーザーの評価は賛否両論といったところでした。関係者の無情を非難する人もあれば、むしろ荻野君を見捨てたのは当然のことであるといった反応をする人もいました。

もしかすると、この一連の出来事は、ネットコミュニティによる生活困窮者の救済と成長という電車男ばりの美談に収まる可能性もあったのかもしれません。しかし、結局その道は荻野君自信の手で閉ざされてしまいます。この記事は「ネットで人間は救えない」という話でもあり「対人・メディアの両方のリテラシーがないなら、結局人間どうしようもならない」という話でもあると思いますが、その倫理的価値判断については、ここではいったん棚上げするほかありません。

この項で注目したいのは、荻野君自身の安否や音信ではなく、Twitterのコンテンツについてでした。荻野君事件については、Twitterを通じて多くの人が関わり、またいくらかのユーザーがSkypeを通じて荻野君と雑談を交わしていました。僕はSkypeにいたわけではないので、これについてのログを持っているわけではありませんが、断片的にTwitterで公開される現状報告は当時からチェックしており、陰ながら事件の行く末を見守っていました。

人間は「コンテンツ」

そんな中、事件終了後に乱立した関連エントリを読んでいく中で、ひとつ気になったことがあるのです。それは、phaさんの

荻野はコンテンツとしてとても面白かった - phaのニート日記

に代表されるように、荻野君事件に関わっている多くの人が彼のことを「コンテンツ」であるといい、この事件を単なるコンテンツとして見ていた、ということです。

確かに荻野君にまつわるいざこざが発生したことでは、結果的に上記のitkzさんのエントリのような上質な「ウェブコンテンツ」が提供されることになりました。しかし、荻野君事件で周囲の人間がやっていたことは、客観的に見れば、(面白半分とはいえ、やはり)「人助け」です。この事件の関係者たちが、荻野君の困窮に際していろいろ手助けをしてあげたりお金を恵んであげたりしていたのは、本当に「コンテンツ」を提供したいがためだったからなのでしょうか。最近のitkzさんのエントリで「面白全部」という言葉が出てきて面白いな、と思ったのですが、しかし、本当に「面白全部」で全く見ず知らずの他人に住居を貸し与えたりできるものなのでしょうか?少なくとも「面白」だったのは「半分」くらいでで、あとの半分はさすがに真面目に荻野君の社会復帰を願っていたのではないでしょうか?では、もしこのような「半分はコンテンツだけど半分は真面目」という状況があり得るとしたら、そこで言われている「コンテンツ」とはいったいなんなのでしょうか?

この事件に関わったTwitterユーザーたちのその後の動向を追ってみると、その後も「コンテンツ」という言葉は彼らの活動(?)のテーゼ(?)として継続して用いられているのがわかります。たとえば荻野君事件の関係者を含む「クラスタ」の人々は、最近「ストリートコンピューティング」と呼ばれる謎の活動を始めて、局所的に注目を集めています。ストリートコンピューティングは、単純にノートパソコンを屋外に持ち歩き、e-mobile電波などを利用して、路上でインターネットコーディングを楽しむ、というだけの行為なのですが、なぜかこれを面白がる人がおり、一部メディアから取材も受けています。そのうちの一つ、『漫画実話ナックルズ』の記事では、「破滅インターネット」の紹介として「人間はコンテンツ」なる謳い文句が踊っています。

では、彼らの言う「コンテンツ」とはいったい何なのでしょうか。ストリートコンピューティングはまさしくストリートで、生身の人間が行っているわけです。そうすると、そこで「コンテンツ」と名指しされているのは結局人間一般だということになります。ということは、ここで主張されているのは「そもそも人間はウェブ上にのっかっているコンテンツと変わらないよね」ということです。「人間=ウェブコンテンツ」であるという主張、これは「人間=他人の視線に一方的にさらされるもの」であるという主張だと取るのが妥当でしょう。つまり、彼らは「人間ってそもそも『見せ物』だよね」ということが言いたいのではないか。

なるほど、そうすると、生身の人間に向かって「お前はコンテンツだ」というのはシニカルです。お前は俺たちに認識される過程のみに依拠して存在する、見られて楽しまれるためだけに存在する、他人に認識されなければいないのと同じだ、といっているわけですから。それはそれでよしとしましょう。しかし、問題は、「人間はコンテンツ」と自称するユーザーも、「お前はコンテンツにすぎない」と名指しされているユーザーも、それとまったく関わりのない外部にいる私たちにとっては、結局ウェブを通じてその様子を眺めざるを得ないということです。もちろん、彼らと実際に面識を持った場合は別でしょう。そうなったときに彼らを面と向かってコンテンツ扱いできるかどうかは、また別の問題です。しかもTwitterは、今まで見てきた通り、その手の出会いを非常にたくさん見つけることのできる場です。

しかし、ウェブを通じて眺めている限りは、その人物が実際にコンテンツ人間であろうがなかろうが、彼は端的に「ウェブコンテンツ」でしかありません。なぜなら、結局私たちは、Twitterのアイコンの向こう側にいる存在が、犬や、鯨や、培養液の中の脳髄である可能性を捨てきれないのですから。

いや、さすがにそれは言い過ぎかもしれません。しかし確かなことは、ウェブ上に掲載されているすべてのテキストは、さしあたって「コンテンツ」として一歩引いてみるしか仕方がないということです。その意味では、無数のTwitterユーザーたちも、そのフォロワーにとってはに「コンテンツ」以外のなにものでもありません。ストリートコンピューター(?)たちが人間を名指ししてコンテンツと呼ぶことはシニシズムかもしれませんが、ネットユーザーの言動が他のユーザーにとってコンテンツであるということは端的な事実であって、それ以上でもそれ以下でもありません。

しかし、この事実は、数々のウェブサービスに肩までどっぷり浸かっている私たちにとっては、本当に当たり前のことではなかったでしょうか。ブログエントリだって、絵師サイトのイラストだって、ニコニコ動画MADだって、すべては他人に見られるために存在しているのです。「荻野はコンテンツとして良質だった」といっても、当人たちにとってはどうだかわかりませんが、私たち部外者にとって荻野君は自明に単なるウェブコンテンツでしかありません。では、なぜいまさらそんなことを騒ぎ立てる必要があるのか。

「リアル」は存在しない

これまでに挙げてきたTwitterの特色を通じて考えてみましょう。それはユーザーの日常生活に寄り添って「即時的」に投稿され、そして「同期的」に他のユーザーに伝達されます。Twitterタイムラインでは、あたかもたくさんのユーザーの日常と日常がすれ違いあったり、結びつきあったりしているように、見えます。そして、読み手は、Twitterユーザーの「リアル」を読んでいるように感じます。このような感覚は、Twitterを取り上げたり、そこに新奇性を見いだしている人にとっては共有されているものであるように思います。Twitterジャーナリズムメディアとして注目を集めているのは、それが市民たちの「リアル」な動態を、もっとも強く反映できると考えられているからです。米国の政治家の間でTwitterが一気に広まり、また日本の政治家の間でも普及の兆しを見せているのは、Twitterでは国民の「生の声」がよく聞こえ、政治家の「生の声」を伝えやすいと多くの人が感じたからではなかったでしょうか。多くの企業がTwitterでのマーケティングに参入しだしているのも、Twitter上は大衆の「リアル」を垣間見ることができると考えているからではないでしょうか。また、googleTwitterに蓄積されている膨大な情報の入手に意欲を見せていると言われていますが、これも、通常webで入手できないタイプの情報、すなわちユーザーの「感情」を、Twitterが効率よくアーカイブしているからだ、と評されています。つまり、報道・政治・ビジネスのどの分野も、Twitterが掬いだすユーザーの「リアリティ」を買ってこれに注目しています。また、前編でも紹介したように、こういった性質、つまり「意識しようがしまいがユーザーの『リアル』が現れる」という点に注目して、Twitterでの「情報流出」のリスクに注目した記事も存在しています。(Thirのノート)この意味では、確かにid:thirさんの言うような「Twitterは身体の外延部分である」という主張は十分納得のいくものです。また、「アーキテクチャ編」で取り上げてきたようなTwitterの特徴も、これを支持するものです。

しかし、それではTwitterは本当に「生身の人間」をそっくりそのまま映しだす、鏡のようなメディアなのでしょうか。そんなはずはないのです。Twitterが確かにユーザーの「リアル」を指向し、またユーザーの思考をそのままだだもれにさせてしまうような傾向もあることは認めましょう。しかし、当然ながらユーザーたちの投稿は、常にfollowerの視線に晒されるのであり、またそれらはfollowerの視線に晒されるために存在するといってもいいでしょう。「思考をだだもれにする」、情報流出のリスクがあるとはいえ、どんなヘビーユーザーでも、無意識のうちに投稿内容の取捨選択をしているはずです。そしてそこで投稿が中止されてしまうような事項にこそ本質的な意味が隠されているのではないのでしょうか。

これだけならまだしも、先のふぁぼったーの例で見てきたように、Twitterユーザーたちは「限定客観的」評価システムを通過することでさらにコンテンツ化に拍車をかけていきます。より大きな評価を得るために必要なことは、より「キャラ立ち」したユーザーになることです。こうしてTwitterユーザーのpostは、「投稿者」のリアルから、より大きく解離していきます。

そして、このこの意味でやはりTwitterは編集を加えられた「コンテンツ」の域を出ることはありませんし、生身の「身体」の外延であるという主張も部分的にしか認めることはできません。Twitterの「リアル」はあくまでコンテンツとしての「リアリティ」でしかないこと、これがTwitter上のコンテンツを考えていく上でまず大前提として確認しておきたい事実です。

そして、この確認作業を経た上で「ストリートコンピュター」(明らかに適切な呼称ではないのですが、暫定的にこう呼んでおきます。あるいは単に「ギークな人たち」でもいいかも)たちの「人間はコンテンツ」はやはりあまりに事態を単純化しすぎた発言として否定されることになるでしょう。人間は確かにネットを通じてはコンテンツである。私たちウェブユーザー同士はオフで会合している時間に対して、オンラインでコンタクトを取っている時間のほうがあまりにも長いために、あるユーザーは大多数の時間その人にとって「コンテンツ」かもしれない。しかし、だからといってその人自体をコンテンツと呼ぶのは単純に間違っている、ということです。もちろん「人間はコンテンツ」とうそぶく人々にとっても、このこと自体は当たり前に理解しているはずでしょう。

これについてeseharaさんの発言を誤読(?)すれば、

esehara
@esehara
 「人間はコンテンツ」というより「コンテンツは人間」という感じの逆転が必要なのか。(2009-06-10 21:59:57) link

「人間はコンテンツ」なのではなく、「コンテンツが人間」なのです。

俺たちがサブカルチャー

さて、ここまで話を進めてくれば、このエントリの中で立てた二つの問いに答えることができるはずです。まず一つ目は「@kohmiと『古参』のユーザーの間になぜ軋轢が生じなければならなかったのか」もう一つは「日本のTwitterは『残念』だったのか」です。

まずは前者から考えてみましょう。「新参」と「古参」の間に存在していた違い、それは「コンテンツ」に対する態度の差であったのです。Twitterを長く使っているユーザーは「キャラ作り」に敏感であるはずです。相手の「キャラ」を読解して「イジり」を加えることにも十分慣れているはずですし、逆に自分の「キャラ」を自在にコントロールして「イジられる」ことも日常茶飯事でしょう。しかし、@kohmiさんはネットに関しては正真正銘のド音痴です。彼女は「天然」なのです。*3この騒動で「古参」たちは、Twitterの使い方すら未だ掴みかねている彼女を、いきなり露骨に「コンテンツ」扱いしてしまったわけです。これは失礼を通りこして単なる暴力でしかないでしょう。まだひらがなも読みこなせない外国人に対して、五言絶句で決闘状を送りつけているようなものです。

しかし、(『Twitter社会論』でも触れられている通り)Twitterの「キャズム越え」は@kohmiさんのようなユーザーが大量に参入してきたときにこそ、本当の意味で果たされるのではないでしょうか。そのとき元からいたTwitterユーザーたちが彼らと棲み分けを果たすのか、それとも共存が可能なのかそれはわかりませんが、しかしこのようないざこざが何度も起こっているようでは、Twitterも他の日本の閉鎖的ウェブコミュニティなど(たとえば「はてな村」)と同じなんだなと思われるのが関の山なのではないでしょうか。

では、後者の問い、「日本のTwitterは『残念』だったのか」についてはどのように回答すればよいのでしょうか。「日本のウェブは残念」という梅田さんの苛立ちは、次のように汲み取ることができるはずです。梅田さんは『ウェブ進化論』の中で、ブログの普及により「一億総表現化社会」が実現するかと思っていたのに、実際には「一億総コンテンツ化社会」にしかならなかったのであると。あるいは、「日常」という新分野におけるUGC(User Generated Content)といい換えることも可能でしょう。しかし、コンテンツであることがそんなにまずいことなのでしょうか。梅田さんの言う「表現」という言葉には何やら高尚な響きがしてきますが、しかし「コンテンツ」は自己表現の一形態としてねじ曲がっているのでしょうか。そして「コンテンツ」の中には、本当になにも注目すべきものが発見できないのでしょうか。僕はそうは思いません。

また、梅田さんはこうも言います。「日本のウェブユーザーはサブカルチャーにしか興味がない(から私には興味がもてない)」と。そして、まさにこのような偏狭な視線こそが、日本人の「表現」への、「コンテンツ」への、不当な評価を作り出しているのです。以上の議論を踏まえれば、私たちのできることは、(まさにサブカルコンテクストに擬して)「俺が・・・・・・俺たちが、サブカルチャーだ!」と言い放ってやることしかありますまい。キリッ。

しかし、こんなセリフを吐いてしまっては、「ハァ?そんなこと言うならお前自身でTwitterコンテンツ論の勝利へのロードを提示しろよ」とつっこまれること請け合いです。その目的を本当に達成するには、もはや私の力不足は明らかです。しかし、そういってても仕方ありませんので、ここでは試みにいくつかの例をとりあげることで、Twitter上の「コンテンツ」の読解に挑んでみたいと思います。

コンテンツ読解(1) @worstman

ユーザーの「コンテンツ」化のもっとも極端な例としては、 @worstman さんを取り上げるのが一番よいのではないかと思います。

(worstmanさんは、どうやらついこの間アカウントを消してしまったようです。とても残念なことです。このエントリでは具体的な投稿を参照したりする場合は、ふぁぼったーに残っているログを中心にリンクしたいと思います)日本のTwitterには昔から「変態クラスタ」が存在していて、変態を自称するユーザーたちが日々自分の変態度を競っているのですが(もちろん僕の偏見ですw)、worstmanはその変態クラスタ天皇みたいな人で、「あぶついったー」と呼ばれる時間別の変態度ランキングを割り出すウェブサイトを運営していました。

worstmanさんが一躍名をあげたのは、やはり「乱交なう事件」でしょう。Twitterの特性はリアルタイム性にあって、これまでに日本のTwitterでも数々の「実況」が行われてきたことは何度も繰り返してきました。しかし、乱交会場にノートPCを持ち込んで場の狂乱を観察しながらひたすら冷静実況するというworstmanさんのあまりにラジカルな行動はさすがにフォロワーたちにも衝撃を与え、その日はたくさんのユーザーが興味本位でworstmanさんの「実況」を見守っていました。

その後もworstmanは「オナニーust事件」(TENGAを使って踊り狂いながらオナニーしている様子がustreamで中継された)や、「ハメ撮りなう事件」(「ハメ撮りなう」のpostと共に裸体の女性の画像が貼られ、その後元画像は削除されたものの、tumblr等で繰り返し転載された)など、worstmanさんはたびたび騒ぎを起こしてきました。もちろん、その度に大きな批判の声は巻き起こるのですが、それでもworstmanさんの人気Twitterユーザーの座はずっと揺るがずにきた、と、思います。

いうまでもなく、worstmanさんのとってきた行動は明らかに反社会的です。もし本当に、彼がそのような行動をとって悦びを感じているのであればそれは普通に犯罪っぽい匂いがしてきます。また、単に目立ちたいから−−「変態」というアイデンティティを再確認したいから−−それらの行動をとってきたのだとすれば、いずれにせよ「変態」を自己の拠り所とする歪んだ価値観は、幼稚だと非難されても仕方のないものだと思います。

しかし、ここではそんな倫理的価値判断を問題にしたいのではありません。いかにも大衆の支持を集めそうなworstmanさんの露悪的ともいえる行動が、実際にそれが起きる度に大きな注目を集めてきた、ということのみが問題なのです。そして、このことはもちろん「観客」自身も理解しています。つまり、worstmanさんの「ショー」においては、送り手・受け手の双方で「これはウケるためにやってるだけのことで、単なるネタだよね」という了解が明確に形成されているわけです。ここでは、受け手・送り手が共にアイロニカルな主体として機能しています。

「ネタ」という言葉で思い出すべきなのは、やはり先に引用した「繋がりの社会性」という北田暁大さんの概念でしょう。「繋がりの社会性」は、2ちゃんねる的なコミュニケーションや若者のメールでのコミュニケーションなどを説明するために編み出された概念でした。しかし、worstmanさんの行動は果たして「2ちゃんねる的」でしょうか?いや、そうではありません。2ちゃんねるでの「祭り」の主役となるのが「マスゴミ」や大文字の政治家などであり、また自ら祭りを演出する者たちも匿名的な「名無しさん」であるのに対して、worstmanさんの起こす「祭り」のネタの「面白さ」は、明らかにworstmanさん自身がそれを操っているということで担保されています。北田さんはテレビバラエティが終焉した後に巻き起こった、ネタを嗤い合う状況を「(ギョーカイという)疑似超越者なきアイロニーゲーム」と表現しました。しかし、Twitterという顕名的空間の中では、居なかったはずの超越者は可視化されてworstmanという固有名詞を与えられてしまいます。worstmanさんはいわば、21世紀の「Twitter社会」において、単騎、80年代を実践していた漢であるといえるのではないでしょうか。

worstmanさんは「コンテンツ」としては(テレビの末裔という意味で)あまりに古典的な例でした。しかし重要なのは「コンテンツ」とは、本来的には、受け手・送り手双方がアイロニカルな状況(コンテンツを「ネタ」としてしか信じない)におかれることによって成立する、ということだと思います。そして、Twitterユーザーが、初期2ちゃんねるユーザーのように、「ネタ」を敏感に察知できるとき(嘘を嘘と見抜けるとき)、この状況が成立するでしょう。しかし、すでに確認してきた通り、Twitter時代は万人がコンテンツになりうる時代です。そのような時代に、果たしてこの2ちゃんねる的な前提は保たれたままでいられるのでしょうか。次の例を見てみましょう。

コンテンツ読解(2) @yuuuuki_snow

ウェブ上では、その時々のアーキテクチャの進化に従って、その時々の形態のネットアイドルが現れてきました。テキストサイト時代にはテキストサイト時代の、ブログ時代にはブログ時代の、ニコ生時代にはニコ生時代のネットアイドルが登場してきたわけです。 @yuuuuki_snow は、Twitter時代のネットアイドルとでもいうべき、島根県在住の女子高生です。といってもyuuuuki_snowは、ふつうの意味でのネットアイドル、すなわち、ウェブ上にPhotoShopとかで加工しまくったコスプレ写真とかをガンガンあげて、ギャラリーを騙しながら人気を集める、といったタイプのアイドルではありません。少なくとも今のところyuuuuki_snowは顔出ししてませんし、受け手に対し媚びを売ったりするような姿を見せるようなところもありません。しかし、たとえば(既に注1で紹介しましたが)thinkeroidさんが初期のはてなを回想しているようにウェブ上のある女性ユーザーに対して「取り巻き」と呼ばれる人々が発生するような状況はよく見られます。yuuuuki_snowも、「取り巻き」とまでは言わないものの、一時期はたくさんのユーザーたちにちやほやされていました。

yuuuuki_snowの投稿をざっ見ていると、(worstmanさんの言葉を使えば)「変態」な発言が目立っていることに気づきます。*4このような発言がたくさんふぁぼられているところを見ると、yuuuuki_snow自身は自分がある程度性的な視線に晒されることを良しとし、逆にそれを「キャラ作り」としてやっているのだなぁと思います。いや、これはもちろん女子ついったらーが「変態」なことをいうと面白い、とかそういう話ではありません。何にも臆することなく性的な発言をpostしている女子ついったらーは多い、というかどちらかといえばそれが普通なのであって、そこにアイドル性が発生する余地はどこにもありません。

しかし、yuuuuki_snowの場合は「変態」な発言で注目を集めることと同時に、彼女が「女子高生」であるというキャラづけ、つまり清純さへの幻想が霧散することなく微妙に生きており、その二つがちゃんと両立しているということが問題なのです。そして、ここに「変態女子高生」というとても奇妙な表象が成立します。普通はこういうことは起こらないのです。普通、すれっからしなJKは単に世間ずれしたJDと同一視されて終わってしまいます。しかしyuuuuki_snowに対しては、なぜか「行き遅れた処女がなんか背伸びしたこと言ってるぞ」という幻想が共有されてしまう。本当はそんなことないのにもかかわらず、です。

yuuuuki_snowはこういった意味で非常に面白い「コンテンツ」で、男子たちのコミットメントを誘う存在なのですが、さらに興味深いのは、この「キャラ」がパっと見、作られたような感じがしないということです。少なくともworstmanの「コンテンツ」性に現れていたようなあからさまな露悪性はありません。それが「キャラ作り」なのか、「天然」なのかはわかりません。もし前者であるならば、yuuuuki_snowは「コンテンツ」として非常に完成度が高いものだということになるでしょうし、後者であるならば、yuuuuki_snowは、書き手の側からは単なる自分の日常生活を書いているつもりのものが、Twitterやふぁぼったーの回路に絡めとられることによって*5、読み手の側からは「コンテンツ」にしか見えなくなるということのいい例ということになるでしょう。

いずれにせよ問題は、yuuuuki_snowは読み手にとっては「リアル」な、作り物感の薄いコンテンツに見えるということです。これ自体は単なる私の実感ですが、その根拠を示すことができます。例としてyuuuuki_snowの2009年8月31日の発言をまとめて見てみましょう。

この日の発言の一部を抜き出すと、こんな風になります。

この様子を見るとわかるように、yuuuuki_snowの投稿はほとんどが他ユーザーへのreplyで、朝の時間帯では特に単なるあいさつで占められています。彼女のようなユーザーが「あいさつbot」などと揶揄される所以です。

bot人工無能の研究は今に始まったものではありませんが、Twitter上にも人工無能の技術を利用したbotが多数存在しています。「彼/彼女ら」は人間のユーザーと複雑なコミュニケーションを行うことはできませんが、あいさつぐらいの単純なものだったら的確にこなすことができます。多数のユーザーと一斉にあいさつを交わすことであれば、botでも可能なのです。また、Twitter用のクライアントを使用していれば、「おはよう」「おやすみ」「起きた」「ねる」などの言葉を抽出対象ワードに指定しておけば、あいさつのやりとりはほとんど完全にシステマティックに済ませることができます。

「繋がりの社会性」という言葉はまさにこのような状況に適合しているといえるでしょう。botのように他ユーザーとの関係性を機械的にメンテナンスし、常時自分の日常をタイムラインに垂れ流しておくこと。その機能を担うものは、確かに「リアル」を映し出すツールであるといえるかもしれません。しかし、それはあくまで使い手自身にとってです。「コンテンツ」という観点からすれば、それはTwitterによる「リアル」ではなく、あくまでTwitterによる「リアリズムです。つまり、現実そのものではなく、現実のように見せる技術なのです。

かくして、yuuuuki_snowはあたかもリアルな身体を持ったコンテンツであるかのように仮構されます。ツールの力を借りて「日常」をジェネレートしていくことが、「コンテンツ」に説得力を持たせるための手段なのです。*6これは必ずしもその「日常」が虚構であるという意味ではありません。しかし、その「日常」は明らかにツールによって引き出されているものであって、日常そのものではないのです。



これは蛇足かもしれませんが、botのように自分を見せることで「リアリズム」を獲得することが可能であるならば、当然次のようにも考えてみたくなるでしょう。つまり、私たちにとってよくできたbotによってgenerateされる「日常」は、ほとんどUGCのpostと等価であるのではないかと。むろん、たとえチューリングテストに合格する人工無能であったとしても、「認識論」的に他ユーザーと同等であるとはいえ、「存在論」的にはそこに知性は存在しておいません。しかし、私が今までこの「コンテンツ編」でやってきたことは、まさにユーザーのpostを「認識論」的に、テキスト論的に読むということです。ということは、この立場からするとやはりbotに対しても人間と同様の扱いをせざるを得なくなります。では、botを認識論的に読むことが可能であるとすれば、botの存在論は構築することはできるのか、ということがやはり問題になってくるでしょう。

このあたりの話について、僕はラブプラスを巡ってはてな匿名ダイアリーで「僕が凛子を売った日」というエントリと、それに対する解説を書き、また他のブロガーの方からの応答が残っているので、もし興味があれば併せて読んでみてください。このエントリはせっかく増田で書いてたくさんブクマをもらったのでそのままにしとけばいいんですが、僕の利益にぜんぜんなってないのがやっぱり悔しいので、俗物根性を働かせて(笑)ここで宣伝しておきます。



まとめのまとめ

さて、「日本のTwitterは『残念』だったのか?」という問いかけをきっかけにして、Twitterを(梅田氏の否定する)「サブカルチャー」として、UGC的なコンテンツとして読む、ということをやってみました。その試み自体は成功しなかったかもしれません。しかし、ここで主張したかったのは、Twitterを、情報の集積体でも、無意味な繋がりの集合でもなく、ユーザーという人格を軸とする、一つのテクストとして読む方法があってもいいだろう、ということです。そのために、「ユーザーの『リアル』が、そのまま

、リアルタイムで反映される」というTwitter像を崩そうとしてきました。そして、これは多くのユーザーの直感に反する試行だったのではないかと思います。「人間をコンテンツ扱いだなんて」という考え方は、まだ根強いのではないでしょうか。たとえば−−あくまで一例ですが−−maybowjingさんの「スバツイ勉強会で言い損ねたこと」というエントリで出てくる「自分にとっての利害を勘定することなく、すべてを投稿する」という「倫理感」は、私の言う「すべてを書こうと試みたとしても、結局何を書き、何を書かないかは無意識的に決定されるのであって、それは『生身の人間』ではなく『テクスト』である」という主張と対立します。

「コンテンツ編」の最後では、結局最後まで解消されることはない「コンテンツ」と「生身の人間」の対立をどう考えるか、という観点で話を進めていきたいと思います。

とはいえ、この問題について私から提示できる解決手段は一つで、それは身も蓋もないものです。すなわち「オフ会に出ろ」ということです。「Twitterは身体ではない」が私の主張なので、そこから導かれる結論は「身体のことは身体に」です。

ネットで実存の問題や実生活の問題は解決できない、そこで得られる承認もフェイクでしかない、という話はよくな持ち出されます。ウェブで解決できる問題が限られているというのは間違いありません。しかし、ウェブが解決糸口になるということも、また確かだと思います。だから、やはり結論としては「オフ会をしろ」。また、荻野君事件の例に戻ってみることにしましょう。

先ほど、Twitterユーザーによって発見された絶好のコンテンツである荻野君が、結局身を立てることなく消えていった様子をとりあげました。このことをitkzさんは

仕事をしろ、と言われてもできない場合、精神の筋力が根本的に足りておらず、作業に対する負荷に耐え切れていないのかも知れない

という言葉で表現しています。いま、荻野くんがどこでどうして生きているのか、それを知る人はいません。

しかし、ここには同時に小さな希望、のようなものも存在しています。そもそも荻野君を描写するitkzさんの筆勢がなぜここまで鬼気迫っているのか。それは他でもなく、itkzさん自身が荻野君と同じような境遇にあったからでしょう。

私自身はitkzさんとは知り合いでもなんでもない、一読者にすぎないので、その問題に深く立ち入って語ることはとてもできません。しかし、itkzさんの半生に関しては断片的な情報ではありますが、ウェブ上で「コンテンツ」としてまとめられています。

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この記事も、荻野君事件の記事と同じく一時期話題になったので、読んでいる方も多いかと思います。ざっくばらんにいえば、元々精神病棟に幽閉されていたitkzさんがお金を借りたり排泄物を投げつけたりなんやかんやしながら一応まともな生活になっていくという話です。

僕はこの記事を初めて読み終えたとき、なんだか、なんともいえない感動みたいなものを強く抱いたのを覚えています。あるいは感動(笑)といってもいいかもしれません;感動に近いんだけど、素直に感動とはいえない、そんなものです。

ではこの(笑)はどこからきたのか。それは結局、itkzさんの周りの人たちが、徹底的に「コンテンツとして」、つまりおもしろ半分本気半分でitkzさんに関わっていたということだったのだと思います。そしてそれを読んでいる僕も、コンテンツとしてのitkzさんにしか触れることができない。

この姿勢、「面白半分」は、一億人がみなコンテンツになってしまう時代の中で、とても重要なのではないかと思います。周りのユーザーがitkzさんと実際に接するに当たって、あるいは荻野君と接するに当たって、目の前に横たわっているのは「コンテンツ」などではありません。それはその人の身体であり、その人の人生そのものであり、その人の解決されなくてはならない困難そのものであったに違いありません。実際困窮した人間に立ち会っているとき、「面白全部」でいられる人なんていないのではないでしょうか。そして、困窮している本人だけではなく、周りにいた人間も同程度その困難を共有していたはずです。

にも関わらず、記事としてネット上であがってくるレポートは、みな徹底して「おもしろ半分」の「コンテンツ」です。結果的に、それを読んでいるユーザーは良質なコンテンツとして笑い飛ばせるのと同時に、そこにあった極限的な状況や深刻した現実も間接的ながらちゃんと受け取れています。このバランス感、大げさに騒ぎ立てずに淡々と物事を語るgeek的な姿勢は、人間がもはやコンテンツとしてしか読まれない現在の状況に、もっとも適応しているように思えます。

確かに、maybowjingさんのいうように、自分の生活をTwitterにトレースさせることは有意義で、さまざまなメリットがあります。しかし、やはりユーザーの実存の問題はユーザーの身体に属し、それはウェブで解決できるものではないのです。となれば、ユーザーがウェブ上で扱うことのできるのは、どこまでいっても「コンテンツ」の部分だけです。そして、もし「コンテンツ」がユーザー自身の身体から著しく乖離していっても、そのことに疎外感を感じてはいけません。それはユーザーの分身であって、ユーザーではないからです。yuuuuki_snowが持っていたのは、そのことについての直感的な強度ではなかったかと思います。

さて、二つのエントリを通して、Twitterがどのようなアーキテクチャを持ち、そしてそのアーキテクチャがどのようにコンテンツを生成してきたのか、ということについて考えてきました。ここで今一度、マーシャル・マクルーハンの「メディアはメッセージである」というテーゼを思い起こしてみましょう。どのようなメディアも、それ自体メッセージなのであり、ユーザーの発言がダイレクトに受け手に届く、ということは、いかなる状況の下でもあり得ません。そしてそれはTwitterでも同じことです。私たちは、Twitter上に生まれつつあるもう一人の自分、コンテンツとしての自分について、もう一度よく考えてみる必要がありそうです。

このエントリのタイトルは「Twitterとは何だったのか」です。このタイトル自体は前から考えていたものでしたが、書き終わってからみると、『Twitter社会論』の中にある章題『Twitterとは何なのか』と対象をなしていることに気づきました。このエントリに書かれていることは、すべて、過去に起こってしまったことです。すべて、「私にとって」のTwitterがなんであったのか、という意識のもの書いてきました。したがって、これから始まっていくことに対してこの記事がどれほどまで実効性を持ちうるのかはわかりません。しかし、コンテンツとしての私たちが、コンテンツとしてTwitterで何かを発信していくことは変わらないでしょう。そして、その時依然として必要となってくるのは、このようなコンテンツに対する「引いた」態度です。

Twitter社の夢は、10億のユーザーを獲得して、Twitterを地球の鼓動そのものにすることらしいです。全人類の行動のみならず、全人類の「感情」すらも一カ所に集められ、しかもその情報をgoogleが買っているとなると、これはなんともディストピア的な空気を帯びてきます。しかし、全人類がみな一人一つ、自分の分身を「コンテンツ」としてTwitter上にもち、それを飼い馴らしながらじゃれ合わせている、と考えれば、少しは楽しくなってきませんか?ならないかもしれないな。

いずれにせよ、日本Twitterの「キャズム越え」は、まだまだ先の出来事だと言われています。

(情報の授業で紹介しました)

*1:当時のはてなダイアリーの熱気を伝える記事としてRirikaの思い出:「はてなアイドル」の系譜 - 殺シ屋鬼司令などがありますが、私自身はこのころの空気間を(はてなキーワードなどの間接的な形でしか)享受していません

*2:なお、梅田望夫さんの「日本のwebは残念」は、具体的にはTwitterにおける梅田さんの発言(はてな取締役であるという立場を離れて言う。はてぶのコメントには、バカなものが本当に多すぎる。本を紹介しているだけのエントリーに対して、どうして対象となっている本を読まずに、批判コメントや自分の意見を書く気が起きるのだろう。そこがまったく理解不明だ。)がはてなブックマーク炎上した事件を念頭をおいて発言されたものと思われます

*3:しかし、広瀬香美さんは日本中に名前の知れ渡っている人気歌手なのですから、「偶像化の視線」がどういうものであるのかというのは自ずから知っているはずなのではないか?という疑問がここで立ち上がってきます。むろん「ついコン」の騒動はある一人の人気ユーザーに狼藉に不遜な言動を取った人がいた、というだけのことなのでこれ自体は別に「アイドル」にも「コンテンツ」にも起こりうる事態です。しかし、「アイドル視」の視線と「コンテンツ視」の視線は微妙に異なっているのではないか?というテーマ自体はおもしろいものかもしれません

*4:「ふぁぼったら襲う」、「透けブラなう!」、「ゆきちゃんは騎乗位がすk   とわああああああお」、「痴女のゆきちゃんだよー☆」「どうも、変態系女子です☆ 」など

*5:yuuuuki_snowは「このpostが20favいったら、いまから東大目指す」というpostをして、その後もたびたび東大受験をネタにされています

*6:めちゃくちゃに唐突に聞こえるでしょうし、多くの読者にはまったく何の話かわからないと思いますが、この話はおそらく佐藤心による美少女ゲームの三層理論に接続可能です。彼によれば美少女ゲームは「キャラクターの層」「コミュニケーションの層」「トラウマの層」の三つによって成層しています。そして、美少女ゲームの目的はキャラクターの「トラウマ」を治癒することですが、Keyの特異なゲーム群においてはこれが「奇跡」という形で唐突に訪れる。いささか突飛すぎるこの「奇跡」の妥当性はキャラクターとの延々と続く「コミュニケーション」(掛け合い漫才)をクリックし続けるという没入的でトランスな体験によって担保される、という議論です。同様に、Twitterにおいても延々と続く日常の垂れ流しが「キャラ」の特異性を保証するものとして現れます。これは、worstmanさんのようなユーザーにとっても同じことです。というわけで、ここにギャルゲーとしてのTwitterの回路が開かれます。しかしこれはおおよその直感に反して、巷で観測されている「Twitter婚」や、文化系トークラジオLifeで投稿されていた「Twitterセフレできますた」などの事例とは対極を行く回路です。Twitter上そのものでギャルゲーを実践すること、それのみが専らの目標です。僕はこの方法を実践している事例をあまり見かけていません。しかし、「腐男子(観測)クラスタ」としてひとこと、 @cress_cc と @sohju がアツかったとだけ記しておきましょう。詳細はもうみんなググったりすればいいと思う。

worstmanworstman 2009/12/02 13:36 どうも、古典的なコンテンツの最低人間です。
取り上げて下さってありがとうございます。

やはり第三者の目で見た印象というのは大変参考になりますね。
Twitterでの活動をここまで理解してくださっていたのは本当に嬉しい限りです。

Twitterでコンテンツとして生きていくことは引退しましたが、いつかまた何かしらやらかしたいと思います。

もちろん、「ショー」として。

harutoharuto 2009/12/09 19:15 こんにちは。

エントリを読んで思い出したのは、ジョルジョ・アガンベンの最初の本である『中味のない人間』のことです。英訳のタイトルは、The Man Without Content 。よかったらご一読を。

murakamimurakami 2010/05/01 16:27 なるほど
勉強になりました

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