2012-01-17
高齢者の世界の悲しい現状
高齢者の世界での問題について色々なことを感じてきました。
もうすぐ、日本は4人に1人が高齢者、という世界でも稀な「超高齢化社会」を迎えます。
そこに愛がなければ、山ほどの深刻な問題が起こってきます。
人生の最後が地獄絵図になるとしたら、どうでしょう。
人は皆、これを自分自身の問題として受け止められるでしょうか・・・
高齢になって認知症になると、短期記憶が失われてしまいます。
しかし、長年やっていたことや昔のことはちゃんと覚えていて、依然としてその人であるのです。
身体的な障碍を負っても、もちろん、その人自身は自分らしさや人間性、感情を持ち続けています。
問題は、高齢者が障碍を負うと、あらゆる生活が困難になり、家族にも重い負担をかけることになります。
そして、本人の本当の意思とは関係なく、施設に強制的に収容されている場合があることです。
そして、いったん施設に入ると、「家族に連絡を取りたい」「家へ帰りたい」「買い物がしたい」「○○が食べたい」等という希望が叶えられない方も多いのが現状です。
着替えや入浴の場面でも、現状は、プライバシーも確保されていないことが多いのです。
認知症になると、人間としての権利も自由も奪われてしまうのでしょうか?
私が思うのは、日本は、人間への愛情と善意を持った良い「介護士兼相談員」を育成すること、
そして労働環境でも給与でも、介護士の環境を改善することをしなければならないということです。
なぜなら、最後に一番近くにいて、愛によって守れるのは介護士(現ヘルパーと呼ばれる人々)だからです。
医療や薬も大事ですが、それは「生活」や「人生」ではないのです。
介護士は、その人自身を知り、心の側にいて、現状のその人らしい生活への自立支援を実現するために欠かせない存在です。
そして、私は、「安楽死」「尊厳死」はやはり必要だと思います。
医療も手を尽くしたけれど弱りきって、もうご自分では食事をすることが不可能になったお年寄りに、
「いらない」と言うのにスプーンで食事を口に運んで無理に食べさせたり、チューブを入れて無理に生かすことは、
もうやめにするべきだと思うのです・・・。
そんなことをしているのは日本だけだといいます。
人間には「寿命」というものがあるでしょう。
ある日突然、障碍を負って、元気だが自分では食べられない場合や、一時的な食欲不振で回復の見込みがある場合は別ですが、
医療も手を尽くし、それでも、心も体も自発的に活動せず、自分で摂食できなくなった場合は、寿命として認めるべきではないでしょうか。
介助されている方も死ぬほど辛いし、支える方も死ぬほど辛い、そんなことを続ける意味はあるのでしょうか。
私は、訪問したある老人ホームで、ご利用者様の独り言を聞きました。
「この苦しみも、もうすぐ終わるかな。もうすぐ終わるかな。
早く終わりになればいい。早く終わればいい。
世界は移り変わっていく。」
この方は、重度の認知症で、ご自分がどこにいるかもわからず、絶えず徘徊されています。
それでも人間として苦しまれていて、ずっとこのようなことをつぶやかれているのです。
これは別の方の言葉です。
「誰か助けてください。私に哀れみを持ってください。助けてください。
ああ、良かった。
あなたは、私と同じ心を持っているから解るわね。
ありがとう。
寂しいから、カーテンは開けておいて。
あなたと、旦那様と、ご家族にもみんな、健康で幸せがありますように。」
この方も100歳近く、重度の認知症で、ご自分で起きることもできず、食事も排泄もできず、
放っておくと不自然な体勢になって体をぶつけたり、服も全部脱いでしまうのです。
そんな状態で一日中「助けてください」と仰っていますが、何度服を着せ、体勢を整えても、同じ状態になってしまうのです。
それでも、人間として心を持っています。
だからこそ、苦しんでいらっしゃるのだと思います。
30年以上、ヘルパーを続けてきた素晴らしい先生が仰っていました。
あらゆる問題を、愛情を持って研究し、看護士や医者以上に解決し、治療されてきた方です。
障害者の子供の心を治してしまい、糖尿病も食事療法で魔法のように治してしまいました。
その方が、しみじみとゆっくりとした口調で言われたことが忘れられません。
「私はね、やっぱり、安楽死は必要だと思うの。」
もちろん、良い家族やヘルパーに恵まれ、一生たくさんの人々に囲まれて、認知症にもならず、健康で天寿を全うされる方もいると思います。
でも、そうではない方も多く、施設へ入ることになります。
人生の最後が、家族に見放され、見知らぬ世界で、日々体調が悪く苦しみながら、親戚や周りに負担をかけ、
言うことも聞き届けられずに、食事や排泄をただ管理される施設に入れられる。
認知症のために、家族の生死も知らされず、すべて適当なことを言ってごまかされてしまう。
認知症でも、心の底では、そういったことをちゃんと理解されています。
そして、最後にはストレスで心に異常をきたし亡くなってしまうのだと思います。
これは私の考えですが、過酷な人生を生き抜いてきて、最後くらい、人間として、死に方くらい決められるようになって欲しいと思います。
なぜなら、これは「天命」でさえもないのだから。
人間が、人工的に作り出した「流れの無い世界」だと思うのです。
家族も無く「こんなところにいたくない。家へ帰りたい。私は、もう、死にたい」と血を吐いている方に、点滴をして生かし、また別の施設へたらい回しにする。
ついには失語症になり、言葉も話せなくなってぐったりしている人々。
それが寿命といえるのでしょうか。
その人達の心は、自分の家で安らかに亡くなりたかったのではないかなと思うのです。
家族の迷惑になっている、その悲しみは、他人の愛情では埋めることができません。
介護士達が、最大の努力をしている場合でも・・・
その方々の気持ちを考えると、人生の最後にしては、あまりに厳しすぎるものだと思うのです。






