蟹に

潮《しほ》満ちくれば穴に入《い》り、
潮落ちゆけば這《は》ひ出《い》でて、
ひねもす横に歩むなる
東の海の砂浜の
かしこき蟹《かに》よ、今此処《ここ》を、
運命《さだめ》の波にさらはれて、
心の龕《づし》の燈明《みあかし》の
汝《なれ》が眼よりも小《ささ》やかに
滅《き》えみ明るみすなる子の
行方《ゆくへ》も知らに、草臥《くたび》れて、
辿《たど》り行くとは、知るや、知らずや。


老《お》いたるも、或《ある》は、若きも、
幾十人、男女《をとこをみな》や、
東より、はたや、西より、
坂の上、坂の下より、
おのがじし、いと急《せは》しげに
此処《ここ》過ぐる。
今わが立つは、
海を見る広き巷《ちまた》の
四の辻。――四の角なる
家は皆いと厳《いか》めしし。
銀行と、領事の館《やかた》。
新聞社、残る一つは、
人の罪嗅《か》ぎて行くなる
黒犬《くろいぬ》を飼へる警察。

此処過ぐる人は、見よ、皆、
空高き日をも仰がず、
船多き海も眺めず、
ただ、人の作れる路《みち》を、
人の住む家を見つつぞ、
人とこそ群れて行くなれ。
白髯《しらひげ》の翁《おきな》も、はたや、
絹傘《きぬがさ》の若き少女《をとめ》も、
少年も、また、靴鳴らし
煙草《たばこ》吹く海産商《かいさんしやう》も、
丈《たけ》高き紳士も、孫を
背に負へる痩《や》せし媼《おうな》も、
酒肥《さかぶと》り、いとそりかへる
商人《あきびと》も、物乞ふ児等《こら》も、
口笛の若き給仕も、
家持たぬ憂《う》き人人も。

せはしげに過ぐるものかな。
広き辻、人は多けど、
相知れる人や無からむ。
並行けど、はた、相逢《あ》へど、
人は皆、そしらぬ身振、
おのがじし、おのが道をぞ
急ぐなれ、おのもおのもに。

心なき林の木木も
相凭《よ》りて枝こそ交《かは》せ、
年毎《としごと》に落ちて死ぬなる
木《こ》の葉さへ、朝風吹けば、
朝さやぎ、夕風吹けば、
夕語りするなるものを、
人の世は疎《まば》らの林、
人の世は人なき砂漠。
ああ、我も、わが行くみちの
今日ひと日、語る伴侶《とも》なく、
この辻を、今、かく行くと、
思ひつつ、歩み移せば、
けたたまし戸の音ひびき、
右手なる新聞社より
駆け出でし男幾人《いくたり》、
腰の鈴高く鳴らして
駆け去りぬ、四の角より
四の路《みち》おのも、おのもに。
今五月、霽《は》れたるひと日、
日の光曇らず、海に
牙《きば》鳴らす浪もなけれど、
急がしき人の国には
何事か起りにけらし。


夏の街の恐怖

焼けつくやうな夏の日の下《もと》に
おびえてぎらつく軌条《レール》の心。
母親の居睡《いねむ》りの膝《ひざ》から辷《すべ》り下りて、
肥《ふと》つた三歳《みつつ》ばかりの男の児が
ちよこちよこと電車線路へ歩いて行く。

八百屋の店には萎《な》えた野菜。
病院の窓の窓掛《カーテン》は垂《た》れて動かず。
閉《とざ》された幼稚園の鉄の門の下には
耳の長い白犬が寝そべり、
すベて、限りもない明るさの中に
どこともなく、芥子《けし》の花が死落《しにお》ち、
生木《なまき》の棺《くわん》に裂罅《ひび》の入る夏の空気のなやましさ。

病身の氷屋の女房が岡持《をかもち》を持ち、
骨折れた蝙蝠傘《かうもりがさ》をさしかけて門を出《いづ》れば、
横町の下宿から出て進み来る、
夏の恐怖に物言はぬ脚気《かつけ》患者の葬《はうむ》りの列。
それを見て辻の巡査は出かかった欠呻《あくび》噛《か》みしめ、
白犬は思ふさまのびをして、
塵溜《ごみため》の蔭に行く。

焼けつくやうな夏の日の下《もと》に
おびえてぎらつく軌条《レール》の心。
母親の居睡《いねむ》りの膝《ひざ》から辷《すべ》り下りて、
肥《ふと》つた三歳《みつつ》ばかりの男の児が
ちよこちよこと電車線路へ歩いて行く。


物なやみ

青草の茂みの中に
我一人身を横《よこた》へて、
鉄軌《レール》の路《みち》の彼方なる
真夏の城の銀《しろがね》の柵かと見ゆる
白樺の木立《こだち》を遠く眺めつつ、
眺め入りつつ、
ふと、八月のいと暗き物のなやみを、
捉へがたなく、言い難き物のなやみを
思ひ知りにき。――目の前を暗き暴風《はやち》の飛ぶごとく
汽車走せ過ぎて、またたく間《ま》、
白き木立を遮《さへぎ》りし
あはれその時。