桜 -2-

男性は食堂の隅にちょこんと座っている詩織に目を向けた。
管理人室の方を指さし、首を少しかしげながら
「留守ですか?」
と問い掛けてきた。
詩織は男性がしたのと同じように、ちょんと首をかしげて
それから左右に首を振った。
男性は詩織より2〜3歳若く見える。こんな時期にこんな場所へ
一人旅行だろうか。


ようやく気付いて出てきた管理人のおばさんに、男性は
宿泊を依頼している。
「どうぞ。朝食は付きますよ、夕食は別料金ですけど」
おばさんは詩織にしたのと同じ説明をしている。


そうだ、夕食。どこか出先ですませようと思っていたから
断ったのだった。車が無い今となっては、食事もこの
小さな一軒屋ですまさなければならない。
あーぁ… 詩織はまた長良川の流れに目を移した。


夕食の時間になって詩織は2階の部屋から降りてきた。
部屋は8畳の和室。テーブル以外何もない部屋だった。
夕食の6時まで、押入れから布団を引っ張り出して寝ていた。
そのためか、少々ぼんやりする。
食堂は遠距離トラックの運転手風な男たちで賑わっていた。
詩織の食事は、さっき詩織が座っていた長良川の見える席に
用意されていた。
ごはん。アユの塩焼き。きゃらぶき。質素だが岐阜らしい
食事だと思った。アユの塩焼きなんて、めったに食べないぞ。


食事をしながら、ふっと昼間の男性のことを思い出した。
食堂をぐるっと見回したが、男性の姿はない。
あのすらっとした都会風の男性が、この質素な食事をしている
姿を想像してみて、詩織は少し可笑しかった。
あの、この場に不相応な人物は何者なんだろう?


翌朝、詩織は食事をすませると、管理人室へ行って
近くにレンタカー屋が無いか尋ねた。無いのは分かっていた。
郡上へは鉄道で行くとしても、そのあと白川郷へ行くには
車が必須である。郡上は午前中に取材して、午後には
白川郷に着きたいと思っているのだが、どうも無理そうだ。
「タクシーを貸切にすればどう?」
慰めにもならない管理人の言葉を聞きながら、詩織は改めて
イライラし始めた。


白川郷へいらっしゃるんですか?」
急に背後から声をかけられた。振り返ると、都会風の男性が
昨日と同じ白いタートルネックに、肩から下げられるビジネス
バッグを持って立っていた。既に出発しようとしているようだ。
「はい」
詩織は素直に答えた。男性はまた少し首をかしげて
「よろしかったら乗って行きますか?途中、ちょっと寄り道
しますけど」
「はい!」
詩織は渡りに船と、大急ぎで部屋に戻り荷物をまとめた。
管理人に一泊6,000円の部屋代を渡す。


男性は既に民宿の外に居た。
「白い軽で待っているそうですよ」
管理人に頭を下げ、急いで民宿の戸を開ける。
「軽?」
詩織は靴のつま先をとんとんやりながら、外へ出た。
民宿の駐車場には、白い小さな車が1台だけ止まっている。
男性は運転手側の脇に立って、長良川を見ながら伸びをしていた。
「すみません」
詩織はコートと荷物と、PCの入った薄い鞄を両手にごっちゃと
持って車に駆け寄った。


「いいえ」
男性は詩織を見ると
「荷物、後部座席に乗せますか?」
と、助手席側へと車を回り、後部シートのドアを開けた。
シートには既に男性のものと思われるコートと、大きな紙袋と
さきほど抱えていたビジネスバッグと…三脚をつけたままの
カメラが乗せてあった。
詩織の荷物は、その横に乗せるのに充分だった。詩織が荷物を
乗せ終わると、男性は無言でドアを閉めて、またぐるっと車を
回って運転席に座った。長身の彼には、軽は小さすぎるようだ。


詩織は自分で助手席のドアを開けると
「お世話になります」
と言ってシートに座った。シートベルトに手を伸ばすと、男性は
車のエンジンをかけた。


朝の国道は、思ったより交通量があった。小さな軽はトラックの
間にはさまれるように、国道を北上し始めた。
夜露なのか霜なのか、辺りの草は朝陽に照らされて白く光っている。


「一人でご旅行、って雰囲気じゃないですね」
男性が口を開いた。
「ええ。ちょっと仕事で」
詩織はちょっと緊張しながら答え、男性の顔をチラっと見た。
昨日は意識しなかったが、面長で線の細い公家顔の男性は、
かなり美形だと言っていい。近くで見ると、なおさら緊張する。
「僕も仕事なんですよ」
ハンドルを握って前を見たまま、男性は無機質に答えた。
「お仕事ですか」
分かりきったことを、詩織も繰り返した。
首をすっとかしげて右側のサイドミラーを覗き、窮屈そうに
体をひねって後方を確認すると、男性はぐっとアクセルを踏んだ。
軽は右車線を加速をつけて走り、大型トラックを追い抜かした。
ゆっくり左車線に戻りながら
「どんなお仕事ですか、って聞いてもいいですか?」
男性が尋ねた。
詩織はどきっとした。どこまで答えたらいいのだろう。
一瞬の沈黙に、男性はぷっと笑った。
「無理に答えなくていいですよ。僕、田辺善文っていいます。
NHKグループでディレクターやってます」
「えっ!」
詩織は驚いた。NHKの?ディレクター?詩織にとっては
もろ宿敵である。彼はなぜ、一人でこんな所に?
「そんなに驚きましたか?」
善文はちらっと詩織の顔を見た。
「あ、私…佐倉詩織です。あの…日丸テレビの制作担当です…」
「えっ!」
今度は善文の方が大きな声を上げた。
「日丸テレビ?」
詩織は小さく肩をすぼめた。
「そりゃ、とんでもないお客さんを乗せちゃったなあ」
善文の声は本気とも冗談とも取れる、自嘲を含んだ声だった。


「まさか『ようこそ、日本の美』の担当じゃないよね?」
善文がまたサイドミラーを覗きながら聞いた。
詩織は軽くめまいがした。ああ、今回は本当についてないんだわ。
善文は追い抜きを止めて、詩織の方に首を向けた。
「そうなの?!」
詩織はこくんと頷いた。
「ええー、まじで?それってヤバくないですか?」
善文はそう言いながら、笑い始めた。
「なんか、競合の手の内が見えちゃうって、やり甲斐ないよね」
笑い続ける善文に、詩織はカチンと来た。
こいつ、もう勝つつもりでいるよ。やり甲斐だと?
こっちこそ、天下のNHKを落選させてやろうじゃないの。


車はおかしな沈黙を乗せて北上を続けた。


この物語はフィクションです。実在する人物・団体・組織とは一切関係ありません。