桜 -3-

車は国道156号を北上して行く。


「あの…」
詩織が沈黙を破って聞いた。
「田辺さんって、NHKグループの、どこですか?」
「EP」
NHK−EP。聞いて詩織はますます自分の不運を呪った。
NHKグループの中で最も素晴らしい作品を作る会社。
少なくとも詩織はそう思っている。
「知ってる、EP?」
「もちろんです。強敵ですね」
善文は笑った。
「強敵?うちが?そうでもないよ」
「嫌味ですか?」
「違うよぉ、いやだなぁ、ふっふっふ」
善文は笑うとますます公家みたいだった。


郡上八幡右折の道路標識が見えた。詩織は善文の肩越しに
低い丘の上にある街を眺めた。古い歴史のある城下町。
独特の文化を今に伝える街。詩織はその特異性が
空港のスクリーンに映えるのではないかと狙った。
しかし無情にも、善文の車は郡上を通り抜ける。
詩織には足が無いのだから、仕方がないな… 最悪、
ネットで調べた分だけで番組を企画しよう…


「佐倉さんは、もうコンテ描き始めてる?」
「え?!」
善文の問いに詩織は驚いた。まだ「日本の美」で表現する
テーマすらまとめられていない。
「あれ、まだですか?」
善文は意外という声を出した。
白川郷へは取材で行くんじゃないの?」
その通りだ。取材に行くのだ。しかし目的があるわけでは
なかった。とりあえず絵になりそうな世界遺産に行けば、
何とかなると思って飛び出して来た。


善文は詩織の心の奥を覗き込むかのような、黒い瞳
「テーマが無くて取材しても、いい情報は得られないよ」
詩織は顔から火の出る思いだった。恥ずかしかった。
たぶん年下なのに、やっぱり天下のNHK−EPは違う。
詩織は上ずった声で、話題を変えた。
「田辺さんは、NHK受信料ちゃんと払ってますか?」
「ほっほっほ」
善文は前より大きな声で笑った。
「私はちゃんと払ってますよ、銀行引き落としで」
「結構、結構」
善文は何度も首をたてに振って笑った。


車はそのまま国道156号を北上した。車のほとんどが
158号へと分岐して行った。


道は途端に寂しくなった。詩織が滅多に目にすることの
ない、昔ながらの民家。やはり田の稲は刈り取られている。
詩織は渋谷のハチ公前の交差点を思い浮かべた。
まっすぐ歩くことすら難しいくらい、人であふれるスクラン
ブル交差点。肩や鞄がぶつかり合う人ごみ。
「二匹目。さっきからすれ違うのは、犬だけです」
詩織の考えていることが分かったのか、善文が笑って言った。
「ちょっと、寄って行きたい所があるんです」
善文は道路標識を気にしている。
「はぁ」
ヒッチハイカーの詩織には断る権利は無かった。


車はこの辺りにしては珍しい、コンクリートの建物の
駐車場へスルスルと入っていった。
「村役場?」
「今は高山市ですよ、ここも。市町村合併でね」
善文は車を駐車場に止めると、チノパンのポケットから
携帯電話を取り出して電話をかけた。
「NHK−EPの田辺ですが、今、駐車場に着きました」
さっと電話を切ると、シートベルトを外す。
それをじっと見ていた詩織の方に顔を向けると、
「予定がなければ、一緒に行きますか?」
詩織はここで善文が何の取材をするのか見当もつかなかった。
「はい…」
車に残っていても退屈そうだから、詩織は一緒に行く
ことにした。善文の取材にも興味があった。


車から降りると、善文はビジネスバッグだけを取って
ドアを閉めた。詩織も、ノートPCが入っている鞄だけを
取り出した。バンっとドアを閉める。
そこへ建物の中から、小柄で人の良さそうなおじさんが
ころころと走って来た。
「やあやあやあ、田辺さん」
おじさんはYシャツ、ネクタイに茶色の毛糸のチョッキを着ていた。
「遠いところ、わざわざどうも」
おじさんはニコニコしている。詩織のことは気にもしていない
様子だ。
「さあさあさあ、どうぞどうぞ」
「お忙しいところをすみません」
善文はタートルネックの折り目を直しながら建物へと入っていく。
詩織もそれに続こうと歩きかけ、ふっと気になって車を振り返った。
白い軽のナンバー。「名古屋のわ」レンタカーだ。
善文はこのコンペを一人で担当しているのだろうか?
詩織は不思議に思いながら、小走りに建物の中へと続いた。


建物の中に入ると、職員がいっせいに顔を向けた。
まるで珍客でも来たという風だ。その目は興味を示している。
チョッキのおじさんは相変わらず嬉しそうだ。
もしかして、善文の身内なのではないかと思い始める。
チョッキのおじさんが
「こんな田舎にNHKが来るってもんで、みんな緊張してます」
と、二人を応接室に通した。善文は優しい笑顔を作って
「NHK−EPの田辺善文です。今回は取材の協力、感謝します」
名刺を持って腰を折った。
ああ、やっぱり身内なわけではないのね。
チョッキのおじさんは緊張した表情に変わって
「飛騨荘川観光協会の長屋です」
と名刺を出した。腰を折った善文とちょうど高さが同じなので
詩織はくくっと笑った。
「さあ、どうぞ」
長屋さんは嬉しそうな笑顔に戻って、二人に席を勧めた。


荘川桜でしたね」
詩織が出されたお茶に手を出していると、二人は話を始めた。
「はい」
「あの移植は大変だったと聞いとります」
荘川桜?詩織にはまったく聞きなれない言葉だった。
「はい。記録ビデオを観てきました。老木だったんですね」
「そうです。根がつくまで大変で、移植してからも何日も
人が見張っていたといいます」
「本当なら、桜は完全にダム湖の底に沈むはずだったんですか?」
ダム湖の底?
ダム湖の底?
桜がダム湖の底?
詩織は茶碗を持ったまま目を大きく開いて、今、目の前で繰り
ひろげられている会話に惹きこまれた。
「そうです。御母衣(みぼろ)ダムの下に沈むはずでした。村と
一緒に」
長屋さんは古い白黒写真を何枚も机に広げて、御母衣ダム建設と
それにまつわる話を始めた。善文は真剣にメモをとり、時には
写真を手に取り、長屋さんの話に頷いた。
詩織は机の上にあった、寺と桜の写った写真に手を伸ばした。
「あ、それが光輪寺にあったときの桜の写真です」
長屋さんが詩織に言った。
「このとき、もう樹齢400年だったんですよね?」
善文は詩織の手の中の写真を覗き込むように言った。詩織は
善文に写真を手渡すと、善文は写真を受け取り、食い入るように
それを眺めた。
「村がなくなっても、桜だけは残そうと…」
長屋さんの顔は少し寂しげだった。
「桜を残したのは、村があった証拠というか?」
「さあ、そういうつもりであったかどうか。ただ、桜を助ける
のに、みんな真剣でした」


20分ほどで長屋さんへの取材を終えると、善文は桜を見に行きたい
と行った。
「ええ、ええ、ぜひ見とってください」
迷う道ではないというので、長屋さんとは観光協会で別れることに
なった。長屋さんはまた駐車場まで出てきて、車が車道に移ると
深く頭を下げた。善文も詩織も、車の中で軽く頭を下げた。


「いい話が聞けたでしょ」
善文が言う。
「はい」
詩織は素直に答えた。
昔、この谷には村があった。戦後日本の経済勃興期、どうしても
安定した電力供給が必要であった。電力会社がダム建設の計画をした
とき、谷にあった200近い世帯は湖の底に沈むことになった。
住民の激しい抵抗はあったものの、そこには世界でも有数のロック
フィルダムが完成した。
谷の底に沈むはずであった荘川桜2本。ともに樹齢400年を越える
老木であったが、高低差50メートルの丘の上に移植された。
そうでなくても大変なのに、400歳を越えた老木を移植するのは
簡単ではなかった。桜は最小限ながら枝を払われ、まるで瀕死の
老人のような格好で丘の上に運ばれたと言う。


善文は荘川桜の下で車を止めた。
後部シートから三脚付きのカメラを取り出し、桜を撮り始めた。
大きく枝を張った桜は、その枝を何本も支柱に支えながら、それでも
堂々と立っている。
詩織は桜のすぐ下に広がる御母衣湖を眺めた。
この下に、村があったのだ。詩織は胸が締め付けられる想いだった。
「村は救えなかったけど」
善文が言った。
「え?」
「村は救えなかったけど、桜は助けたかった。
ふるさとの象徴だったんだろうな、この桜が」
詩織は善文の言葉をかみしめた。
「残したい、そういう気持ちが世界遺産なんじゃないかな」
「え?」
「そう思わない?」
善文はカメラを持ったまま立っていた。
詩織は黙って頷いた。

この物語はフィクションです。実在する人物・団体・組織とは一切関係ありません。