2010-05-15
存在論的、郵便的 ジャック・デリダについて 東浩紀
「存在論的、郵便的」は評論家・現代思想研究家でしられている東浩紀氏のデビュー作にして、代表作だ。内容はかなり高度で、哲学表現になれてない人や、東氏の対談集などしか読まない人にはついていけないかもしれない。そのせいか、本書の検索でぼくのブログを訪れる人がいてびっくりする。
そしてこの「存在論的、郵便的」は、難解といわれる哲学者・文学者のジャック・デリダについて東氏が読解を試みた試論となっている。なので、ぶっちゃけこれがデリダへのまっとうな理解だとか、本書の理解でデリダが読めるようになるかはわからない。そういう正否は専門家の方たちにまかせておいて、ぼくのような素人はよくわからないなりに内容を書き留めよう。
まずは初期デリダのパロールとエクリチュールの違いについて見てみよう。
彼の主張によれば、パロール(声)はつねに現前的な主体、つまり今ここにある主体と結びついているが、エクリチュール(文字)には「自らのコンテクストとの断絶力」が宿っている。 pp14-15
デリダによれば書かれた文字(エクリチュール)と話す(パロール)は明確に違う。なぜなら文字でしるされた文章は、会話よりも幾通りの意味をもつことがあるからだ。デリダはこれを言語における翻訳不可能性と捉え、耳で捉える多様性を(多義性)、そして目に見える文字での多様性(散種)が互いに衝突と混乱をまきおこしながら目と耳の空間を要求すると言う。エクリチュールは主体からきりはなされて統御を失い、自由に引用される断絶力(引用可能性/失敗可能性)は「飽和可能な」多様性(散種)を記号に与えるのだ。
さらにデリダはコンスタティブ(事実確認的な)とパフォーマティブ(行為遂行的な)な言語分析にも批判的な考察をしている。50年代オックスフォードで創始されたという言語行為論(スピーチ・アクト・セオリー)では、コンスタティブは言明な事物のことがら/状態について「報告する」ものであり、真偽の対立を語ることができるということになっている。パフォーマティブは言明は事物の状態を報告するものではなく、話されるという事実自身を通じて何かを「行う」。つまり現実に働きかけるものだと説明できる。
これに対してデリダは、あらゆる言説はコンスタティブかパフォーマティブかを厳密に決定することはできないと主張する。なぜなら、一見パフォーマティブとされる言説も寄生(引用)の可能性を除外することによって「パフォーマティブなもの」の領域を画定しているからだ。たとえばもしわたしがあなたに「なにか約束をした」としても、その約束を守るだけではなく、実際は破る可能性を含んでいる。ひとつの言説に潜む意味を捉えるためには、寄生性(引用性)を排除しなければならない。しかしデリダはこの排除を考えない。東氏はデリダのコンスタティブ/パフォーマティブをこう締めくくる。「つまりあらゆる言説は同時に二つのコンテクストに、例えばコンスタティブとパフォーマティブという二つの読解レヴェルに所属しうることになる」 pp18
以上が前期デリダの思想の重要なエッセンスとなっている部分だ。後期デリダはこれらの逸脱が言語に限らず、現前的歴史の外部、つまり歴史上で起こらなかったことに対して広がっていく。さらにそこから脱構築とされている手法にも2種類あるのではないかと考える。いわゆる、ゲーデル的脱構築とデリダ的脱構築だ。この「存在論的、郵便的」がどのような幽霊にとりつかれているかは、読者さんが本書を読み進めてたしかめてほしい。
- 作者: 東浩紀
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1998/10
- メディア: 単行本
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