「異説 現象としての空気の構造」

「異説 現象としての空気の構造」

今回は「空気」というものを日本的特別性を帯びたものというのではなく、集団的意識・無意識が成り立ち、それが「空気」として存在できる可能性について述べていきます。つまり「空気」というものはある程度普遍性を帯びたもので、それが日本の場合どのように機能してきたのかという問題提起が以前書評した「「空気」の構造」でありました。
しかしコメントで頂いた「個人の認識・意識・無意識の関係を元に「空気」をつくっており、集団的無意識というものは教育の結果集団的として認識されている」というご指摘を受け、改めて書評の域を超えて個人の認識から他人の認識、そして集団として捉えられる意識の可能性について意見を言うべきでないかと考えた次第です。(ご指摘をかなり単純化しました。原文を知りたい方はこちらをご覧ください)

まずは後期フッサールの経験の地平構造による連関で構成される<世界>とは何かをみてみましょう。

認識であれ生活上の実践であれ、われわれの対象についての経験は、決してそれだけで完結したものではなく、つねに潜在的な地平をもっている。...こうした地平は、対象を取り巻く外延的空間の方向へも、また、その対象そのものの性質や部分的契機といった内包的な方向へも、さらには時間的地平としても展開されうるわけであり、それらはさまざまに含み合い基礎づけ合い複雑に錯綜(さくそう)している。 「現代の哲学」 木田元 著 pp.74 

現代の哲学 (講談社学術文庫)

現代の哲学 (講談社学術文庫)

フッサールはこれらすべての地平を包括する全体を<世界>と呼ぶのですが、それは存在者全体のことではなく、経験の根本構造という意味で使っているのです。
ここから様々な地平に経験は広がり、集団的意識・無意識にまで延長できる可能性をもっているのはないでしょうか。たとえばマスコミがある精神異常者がなんらかの犯罪を行い、それをテレビなどを通していろんな人が知ります。その事件に対しての反応は様々でしょうが、精神異常者に対する犯罪を「怖い・怖くない」という2項対立にした場合、どちらが多数派・少数派に関わりなく、自分自身の反応(リアクション)があります。ここで単純な2項対立にしましたが、実は犯罪に対しての人間の反応は驚くほど単純な場合が多いのです。(いまでは体感治安なんて言葉があるんですね)
この「指数治安」と「体感治安」の違いは、個人がマスコミや警察の宣伝の影響によって勘違いしているだけでしょうか?個人に対する啓蒙が足りないし、個人の勉強不足により起こっている現象とみなすこともできますが、どうにもそれだけでは説明できていない部分が残っているように感じます。
最初は個人の経験・反応が始まりでも、それがまわりに拡がるにつれて経験と反応が差延エスカレート)され、ついに集団的意識・無意識とみなす段階(レベル)に到達し、それが「空気」として認識(この認識にはなんとなくも含まれる)され、それが逆に個人の経験と反応に影響を与えていると見ることはできないでしょうか。


さて話が多少ずれましたが、もちろんこれだけでは集団的意識・無意識による「空気」の成り立ちの説明には足りないでしょう。
次は複雑性科学からこの検討を進めましょう。

われわれ人間は嗜好、思想、信条、行動に関してはたしかに複雑だが、個人としてのわれわれ一人一人を複雑な存在にしている事情は、大勢の集団に組み込まれたときには大して重要でない場合が多い。一人一人の正確にはさまざまな差異があるが、十分な人数からなる集団の内部では、そうした差異もある程度相殺されるので、集団全体としては個人間の違いがあまり問題にならない行動の仕方をする。 「複雑で単純な世界」 ニール・ジョンソン 著 pp.110

複雑で単純な世界: 不確実なできごとを複雑系で予測する

複雑で単純な世界: 不確実なできごとを複雑系で予測する

ニール・ジョンソンの思考は複雑なものを単純に整理しようというもので、個人の認識を脳と遺伝子の機能から出発している方にはあまりに単純化しすぎていると思われるでしょう。
しかし事はそれほど単純でもないのです。続けましょう。

人々の集団の行動の仕方は「単純である」ということではない。集団としての挙動は、一人一人がどう振る舞うかをスケールアップしたものにすぎないということでもない。むしろ、その正反対だ。そもそも、交通渋滞や金融市場の暴落といった創発現象が示す挙動は、基本的にはどんな特定の個人の振る舞いも反映していない。ここで提示したいのは、一人一人をとれば、その特質には幅広い差異があっても、彼らが属すそれぞれの集団全体としての振る舞いは、多くの場合、きわめて似たものになるということである。関係している個々の人々には大きな違いがあっても、日本、イギリス、あるいはアメリカ、オーストラリアで発生する交通渋滞に国による差異がないように見えるのも、同じ理由による。


...これが、こうした複雑性で生じるパターンが非常によく似たものになる理由の一つで、専門用語を使って、創発現象には普遍的な性質のようなものが見られると言ってもいい。


...したがって、集団全体がとる行動という観点に立てば、個々の人間の一風変わった行動も集団内ではある程度まで互いに打ち消し合ってしまう。 「複雑で単純な世界」 ニール・ジョンソン 著 pp.111−112

さてここまで引用しても、あまりに個人を軽視して集団全体を問題にしすぎるという批判があるかと思われます。しかし個人=集団が差異にして部分的同一存在であり、実際は対立しているのではなく、サイバネティックスフィードバックループで形成されていると考えれば、個人でもあり、集団でもあり、集団の一部でもあるという関係性に矛盾がなくなるのではないでしょうか?単純なサイバネティックスを考えれば、「個人(認識・意識含む)→社会内環境→(インプット)集団(集団的意識・無意識も含む)→(アウトプット)個人(認識・意識含む)」とみなすことができ、これが同一段階(レベル)において弁証法エスカレーションをともなうことがあれば、違う時間・空間方向にも同じようなカタチ(同時に違うカタチ)のサイバネティックスによるフィードバックがおきていると考えれば、人間の認識・意識は後期フッサールの意味で経験の根本構造としての<世界>が立ち上がってくるのではないか?
そうだとすると集団的意識・無意識が存在する「場」という経験は成り立ち、それが「空気」としても認識(これもなんとなくを含む)されることで人々に「空気」の発見がなされるという経緯を想定することができます。

本当にずいぶんとわかりにくい文章になってしまいました。大変反省したいですね。

しかしこのモデルでは歴史的存在としての「空気」は表現できていません。
そこで最後に「「空気」の構造」の著者である池田氏の説明を借りたいと思います。
池田氏丸山眞男レヴィ=ストロースモデルを借り、以下のようにまとめます。

・表層・・・法律(論理)
・古層・・・長期的関係(慣習)
・最古層・・・集団淘汰(遺伝)  「「空気」の構造」 池田信夫 著 pp.208

さらにダニエル・カーネマン2層モデルを使い、表層がシステム2、古層と最古層がシステム1にあたると想定し、表層の論理が古層の慣習に変化する可能性はあるが、最古層はほとんど遺伝的に決まっていて変わることがないと説明します。
この表層と古層の関係は、上で述べたサイバネティックスフィードバックループによる弁証法的・循環的・パラレル的多元構造としてみると、われわれの意識の中で変化が可能ですが、問題は遺伝レベルの事態は、私達ひとりの人間ではほとんど変わらない層だということです。以前のコメントでは遺伝子レベルによる認識の影響はア・プリオリレベルまでしか言及しませんでしたが、このア・プリオリレベルに影響を与えている遺伝の影響というのは、生物学・心理学で「生まれか育ちか」というずっと続いている論争に片足を突っ込みます。
そして最古層は、表層と古層からの変化は容易ではないということです。最古層は数万年単位で変化が感じられる層なので、ここから個人に対する影響、さらに集団に対する影響があたえる意識・無意識が作るミームなようなものが現状の「空気」になにかしら痕跡を残しているのではないかという仮定での議論しかできないでしょう。
これ以上「空気」にあまり関係なさそうな「深層」に立ち入りませんが、わたしはこれら上記で上げた有機的連関が日本だけでなく、様々な大きな社会・文化・組織だけでなく、同じく小さな社会・文化・組織などにも「空気」が成り立つ可能性を見出すのです。(小さな組織はより個人の振る舞いに「空気」はゆらぎます)

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追記.2014.05.11

本文章を書くにあたって「「空気」の構造」の書評とそれに対するコメントを頂いたことから始まりました。
今回コメントを頂いたminato様から本ブログにもコメントの転載許可を頂きましたので、ここにお礼とともにコメント欄でのやりとりについて参照していただきたいと思います。


・minato様からのコメント
自分はその本を読んだことがないので何とも言えませんが、空気は自分で作り出している道徳的(常識的)で無意識的なものだと思います。人間の脳は人の顔を意識して品定めする前にその人に対する好みを無意識のうちに計算して決定しているそうです。脳は勝手に情報を補完するそうで、空気もこんな感じで無意識的に計算され、決定されているものだと思われます。

 どんな空気を感じるかは人それぞれですが、集団生活になじむにつれて徐々にその差が縮んでいき、あたかも集団が空気を作っているような錯覚をしますが、自分は、自分自身の心こそが空気を作っているものだと思っています。厳密には、集団や環境から得られる情報を脳が補完するというものなので、集団が空気を作る材料となるのは確かですが、それを感じ取る受信機としての心がなければ空気は成り立たないと思います。

 物事に輪郭があるように、感覚的な心の輪郭というのが空気のように思えます。分かりやすくいえば、空気の読めない人は輪郭を意識として認識できない人です。集団生活になじむにつれて、日本は心の輪郭が統一されつつあるのではないかと思います。そういったメタ・コミュニケーションの統一は別に構いませんが、そのせいで自分自身の意見を言えなくなったり、その空気に押しつぶされて何が自分の意見なのかが分からなくなるというのはよくないと思います。

・わたしのコメント
minato様

コメントありがとうございます。
日本的空気だけでなく様々な環境下では独自の集団的無意識というものが社会に埋め込まれており、日本では「空気」というカタチで現出しているのではないかと思われます。
そしてこの「空気」が多くの人の行動を縛り、大企業などの大きな組織から私達の所属する共同体などに対して、必要な改革を制限している部分があるのではないか、というのが私の問題提出です。

minato様は「空気」を自分で作り出した無意識的なものと定義されていますが、ではその無意識を形成するにあたって影響した存在・現象などは一体なんでしょうか。無意識がユングの言うようにすべての意識を接合する夢世界ではなく、あらかじめ人間として習得できる存在としてうまれ、また個人が体験したあらゆる経験(親にしかられたなど(家族内での経験)や近所の人に怒られた(共同体による経験)を通して実は作られているのではないでしょうか?
つまり無意識もまわりの環境に対して必ずしも独立していないと私は考えます。ここで「空気」というのは歴史的存在でもあり、それは本書の著者が丸山真男の「古層」を使い説明しようとしたことです。
minato様が基礎としておられる原子的個人という仮定において、受信ができなければ「空気」は成り立たないとのお考えは正しく、それが出来ない人間は日本の主な社会から排除される結果となります。
しかし一方でこのような空気を読めない人たちが社会で活躍することもたびたびあります(旧日本軍では辻政信は明らかに精神的欠点があるのにかかわらず、記憶力などが認めれれて参謀になっていた)。
日本における「空気」について発言する場合、1.「空気が読める人」
、2.「空気が読めない人」、3.「空気は読めるけど無視する人」に分類して研究しても面白いかと思われます。


・minato様のコメント
自分は、脳が過去の経験やもとから備わっているア・プリオリな情報処理機構によって無意識に情報処理したものを、意識に感じ取らせたものが「空気」なのではないかと思っています。無意識的なものとは言いましたが、認識するにはやはり意識に上らせる必要があると思います。

 自分の言う無意識というのは脳が行う意識のする以外の情報処理機構のことです。つまり個的な無意識であって集団的な無意識というわけではありません。確かに脳の無意識が得る情報は環境から得た情報で、それを処理しているからには独立しているわけではないと思いますし、それが意識に上るときもその情報プラス環境が関わるかと思います。

 ただ、自分は集団的無意識といった、いわば神のような抽象度の高いレベルのものがすぐに存在すると決めてしまうのは早計だと思うのです。自分は集団的無意識というどこにあるかも分からない得体のしれないものからよりも、周囲の身近な環境から個的な無意識というフィルターによって搾り取られた「空気」という情報を得ている、と考えた方がスッキリします。

 つまり、集団的無意識から「空気」が生まれるのではなく、あくまで周囲の身近な環境から得た情報から個人のフィルターを通して「空気」が生まれており、集団的無意識的な「空気」は、あくまでそう感じている個人の「空気」なのです。そして「空気」が読めない人というのは、自身の「空気」と周囲の集団の「空気」が異なっており、ただかみ合っていないだけなのです。つまり、「空気」の読めない人にも独自の「空気」があるということです。もし、多数派の「空気」が集団的無意識による「空気」なのであれば、それは多数派が少数派の「空気」を読めていないと言い換えることができるでしょう。「空気読めよ」と言う人は、空気が読めない人の「空気」を読めていないということになります。

 「空気」に縛られているといいますが、それは個人が感じ取っている具体的な「空気」であって、それに比べて抽象度の高い集団的な「空気」によって縛られているわけではないと思うのです。自分の感じている「空気」が多数派のものであると考えるのは、常識として教育されたからだと思います。

 まとめますと、具体的な「空気」はあくまで個的であり、集団的「空気」は形式的なもので、常識として教育されたがために、個的な「空気」が集団的だと思い込んでいるだけなのだと思います。私たちには、教育されたものを吟味する時間と体力が必要で、「空気」はあくまで自分の作り出しているものなのだということを一人ひとりが認識する必要があるのではないかと思います。そしてそうした「空気」が常識として教育され、多数派になればいいのかなーと思います。まあ、あまりにも自分勝手な個人主義というのも考え物ですがね。



 と、ここまで長々と書いてしまいましたが、価値観は人それぞれなはずなのに、「空気」は集団的で歴史的なものだというのが面白いなーと思いました。その矛盾を解決するために、自分は個的な無意識によって作られた「空気」というのを定義した次第です。できる限り短くしようと努めましたが、こんなに長くなってしまいました……。申し訳ありませんm(__)m

・わたしのコメント
minato様

再びのコメントありがとうございます。
まずminato様のご意見をまとめてから私の意見を述べさせていただこうと思います。
1.自分の過去の経験やア・プリオリに備わった脳の機能から無意識に情報処理したものを意識上に登ったものが「空気」ではないか。
2.あくまで個的な意識であり、集団的無意識などはなく、個人がまわりから影響を得て作ったものが「空気」として認識している。
3.空気が読めていないといわれる人の場合、ただお互いに噛み合っていない。
4.つまり空気読めよという人たちは、空気が読めていない人の空気が読めていない。
5.集団的「空気」はあくまで形式的なもので、常識として教育された結果集団的であると思い込んでいる。

以上でだいたいまとまったでしょうか。
さてこれに対してどのように発言しようと考えてしまいます。あくまで本書で語られる、特別視される日本における「空気」がどのように歴史的に成り立って来たのかを紹介するか、そのともminato様のご意見に沿うように自分の考える認識構造といわゆる「空気」といわれるような現象が生まれる可能性について論じるかで話が全く変わってしまいます。
前者はあくまで本書の書評内でできますが、後者ではわたくしの異説になってしまうのです。もはやコメント欄で話すには大きすぎる話題になっていると思いますので、あらためて記事を作成してそこでわたくしの「異説 空気という現象と構造」としてあげたいですね。


以上のやりとりの後、本稿の粗雑な文章ができました...。