アニメの感想

学戦都市アスタリスク(2クール目)

王道学園バトルトーナメントアニメ。
本作は原作を読んでいないためそれほど多く語れないが、アニメを見る限りストーリーの本番はトーナメント後にあるように思います。
そのための伏線も残しているが、果たして3クール目は作られるのだろうか・・・?
たぶん本作よりも「さすおに」の続篇が先だろう・・・というか映画化決定していたんですね。


Re:ゼロから始める異世界生活

繰り返す人生という地獄。
昨今「小説家になろう」という小説投稿サイトでは『転生系』というジャンルが確立されています。
私もちょくちょく読んでいるのですが、本作はその中でも異質さを放った作品と言えます。
だいたいの『転生系』は主人公かそれに近い人物が何らかの特殊能力(いわゆるチート)をもって転生するのですが、この作品での主人公はまったく特異な能力(転生は本人というより○○の能力)を持っていません。
そのために彼は地獄の苦しみを受け続けるのですが、これ以上はネタバレになるので割愛。
リゼロの作者長月達平氏の文章力と物語構成力は高く、なろう系では頭一つ抜けているように思います。
しかし300万字を超える長編作品のため、アニメにすると非常に中途半端なところで終わることになるでしょう。
アニメーションは丁寧に作られていますが、内容が内容なため2016年冬アニメの「この素晴らしい世界に祝福を!」のような面白さや「灰と幻想のグリムガル」のような雰囲気を求めると不快な思いをするかもしれません。


迷家-マヨイガ-

グロテスク群像劇☆。
すでに第一話から突っ込みどころしか無い登場人物たちとアレな世界観が特徴なアニメ。
この作品は誰が死んだり殺したりしたかや、レイプといった常軌を逸した行動に不快感を覚えない人向けと言えるでしょう。
本作のラストはおそらく国家機関や何らかの組織が廃村に人を集めて社会実験をしていた・・・といった展開になるでしょうが、そういったおおまかなストーリーよりも明日何が起こるかわからないといったようなジェットコースター展開がキモになるでしょう。

80年代バブルの幻影

今やオッサンやオバちゃんになってしまった人にしかわからないシリーズ。
柴田恭兵が突然踊って走ったり、舘ひろしが過酷なアクションシーンを見せたり、80年代のバブリーな雰囲気をあますところなく伝えてきます。

しかしこの作品は改めて見ると刑事としてむちゃくちゃ過ぎて笑えます。
警察が簡単に発砲したり、捜査令状無く捜査したり、挙句は恐喝まがい・・・
このノリが許されていた時代といえばそれまでですが、当時はまだ新左翼の武力闘争路線が残っていて、構成員が爆弾作ったり銃火器武装していたりすることがありました。
それでも警察や公安が簡単に発砲することはありませんが、今より爆弾物や銃火器に対する抵抗は薄かったかもしれません。

思えば『シティハンター』も同じ時代で同じノリですね。
あんなに銃弾が飛び交う日本というのは今では想像の埒外になってしまったのか、今の刑事物はリアルに捜査したり、心理描写を濃くしたミステリがほとんどになりました。
ドンパチする刑事物の系譜は『攻殻機動隊S.A.C』や『Psycho Pass』のようなアニメにミステリとの混合として引き継がれたのかもしれません。


あぶない刑事

あぶない刑事

またまたあぶない刑事

またまたあぶない刑事

久しぶりに日本のコメディドラマを見て笑いました。

以前ニコニコ生放送でぶっ続け放送があったのは知っていませんでしたが、ほとんど見ていなかったのでストーリーを全く知りませんでした。
ドラクエネタはスクエニが公式で提供していても、他局のドラマ・アニメネタもふんだんに取り入れていてびっくり。
これギリギリOKがでたんでしょうか。

最近だと大河ドラマの『真田丸』がコメディタッチで良い評判を聞きます。
信繁が大暴れするのは終盤も終盤なので、父親の昌幸と兄の信幸がそれまでどう引っ張るかが鍵でしょう。


勇者ヨシヒコと魔王の城 DVD-BOX(5枚組)

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勇者ヨシヒコと悪霊の鍵 DVD BOX

勇者ヨシヒコと悪霊の鍵 DVD BOX

最近一日一映画か、ドラマを自分に課して見ています。

アマゾンの手先ではないですが、アマゾンプライムってすごいですね。
年3900円で見放題を月に換算すると325円ですからそのすごさがわかります。
日本の企業でこういうサービスができそうなのはDMMぐらいでしょうか?いや無理か。

おひさしぶりです。

また何か駄文を綴っていきたいのでよろしくお願い致します。

最近思っているのはもう老人の政治家たちは若者、いいかえれば年金などの社会保障や税を担う人たちをみていないことです。

日本人は「ゆでガエル」になるか
http://agora-web.jp/archives/2018246.html

この記事を読むと年金制度が崩壊することは間違いなく、若者世代(20~30代)は年金がもらえない、もしくはハイパーインフレでもらってもほとんど意味が無いという事態に陥ると考えられます。

これを前提に今後若者はどう生きていくべきかや、歳を取っていく私たちにどう向き合っていくかを考えたいと思います。

いずれにせよ崩壊の足音は遠くから響いています。

「異説 現象としての空気の構造」・補考1

ご無沙汰しております。どうにも体調がすぐれず、色んな本をパラパラと読んだり、ニコニコ動画を見る生活を送っておりました・・・。サルトルチョムスキー、社会思想家の入門書を読みつつ、中でも廣松渉の「世界の共同主観的存在構造」をナナメ読みしていると、自分の集団的意識・無意識が現象的に存在できる可能性を示そうとした部分の稚拙さがはっきりと見え、いやな汗をかいております。

また以前から指摘を頂いているminato様からも新しく記事を書かれており、それらをふまえこの問題について追加すべき言葉が必要ではないかと思い、新しく文章を書く必要性を感じました。

minato様の記事
空気について(プロローグ) http://ch.nicovideo.jp/minato-t/blomaga/ar541271


また同時にminato様からグレゴリー・ベイトソンを読むことのすすめを頂きました。わたしは以前からベイトソンを思想だけではなく、人間の「精神」を問う上で重要人物と考えておりましたが、寡聞にして以下の文章などからしか彼のことを知りませんでした。


松岡正剛の千夜千冊
グレゴリー・ベイトソン 「精神の生態学|上・下」
http://1000ya.isis.ne.jp/0446.html

モリス・バーマン 「デカルトからベイトソンへ」
http://1000ya.isis.ne.jp/1241.html

サイバネティクス学者たち―アメリカ戦後科学の出発

サイバネティクス学者たち―アメリカ戦後科学の出発

本書では全10回開催された「メイシー会議」(サイバネティクス会議)に参加したベイトソンについて興味深い記述があります。


この度改めてセイゴウ先生の文章を読むと、わたしが集団的無意識をそのまま単独にせず、集団的意識・無意識としたことは正しかったと実感しています。なぜならベイトソンがもっとも気にかけたのが「精神」とは「関係」であるということは、わたしが稚拙な言葉で書いた文章ともつながりがあるからです。

そもそも集団的意識・無意識は個人同士の「関係」がなければ発生することは不可能です。わたしが最初に示そうとしたのはあくまで集団的意識・無意識が現象の空間で存在しえる可能性を検討するという試みでしたが、この部分は「世界の共同主観的存在構造」と比べればとても読めたものではないですね・・・。

それでも非実証的論理からこの問題に関わったことはそれなりに意味があるように思います。
たとえば、とある個人が他人とまったく関わりのない生活を送っているという仮定しましょう。当然ながら他者と関わりのないその人は集団的意識・無意識とまったく関係がないでしょう。他人と関わりがないのですから当然ですね。
しかし「いま」「ここ」にいるわたしはどうでしょうか。現実の家族とも友達とも話していない(コミュニケーションがない)から自分は他人と関係ないと考える人もいらっしゃるかもしれませんが、そもそもこんな文章を読んでいる時点でgreengokeの書いたこの文章と読んでいるあなたとは「関係」ができています。
これは動画視聴も同じです。たとえ動画投稿者が自分が勝手に動画を投稿しているから、嫌なら見なければいいという主張はけして間違っていませんが、どのような経緯であろうと動画を視聴し、他者に対し何らかの感情(emotion)を創発(emergence)させた以上動画視聴者との「関係性」はできてしまっているのです。つまり本当にトラブルを体験したくなければ動画を投稿するなということになります。自由であることと、自由に振る舞った結果は同一ではないといえるでしょう。


だいぶ話がそれてしまってので戻しますと、個人から出発したはずの意識・無意識が、他者との関わりの中で、集団的意識・無意識を結果として誕生させたのではないかというのがわたしの考えです。つまり最初に集団的意識・無意識があったから個人に影響したのではなく、個人から発生したミーム(模倣子)のようなものの感染や他者に対する「共感」が作り上げた結果形成されたと考えるべきなのです。

ミームはあくまで様々な可能性を検討した結果、そのようなものが存在するのではないかと考えられている仮説の一種ですが(本稿も同じようなもの)、「共感」はミラーニューロンという現象が関わっている可能性の高い脳の働きなのです。
これはminato様の「直感」と「空気」は違う気がするという問題意識に対する、わたしなりの回答でもあります。直感は個人が遺伝的な身体構造を基礎としたものの、それまでに獲得した経験などが意識的にも無意識的にも関わりあって創発(emergence)した現象(この考えをくわしく考えるならマイケル・ポランニーの「暗黙知の次元」を参照)ですが、「空気」というものは個人だけでは成り立たなく、他者との関係性の中で無意識に作られたのにかかわらず、それを意識化(言語化)することにより、結果として現象学的に集団的意識・無意識が形成できる可能性のある場を人間が認識することにつながったことが集団的意識・無意識の存在に再帰性と補完性をたずさえることになった・・・のではないでしょうか。


自分で書いてても大変わかりづらいので、例をあげて考えていきましょう。
集団的意識・無意識がどうやら強く関わっているのは「ナショナリズム」なのではないかとわたしは考えます。近代国家・・・いわゆるネイション・ステートの枠組みはそもそも「幻想」であるという問いがベネディクト・アンダーソンの「想像の共同体」以来共有されています(吉本隆明にも「共同幻想論」があります)。この発想は必ずしもすべての思考者に一致した考えではないですが、それまでの身近な共同体や社会から、必ずし自分の感覚(feel)と関係がなかったネイション・ステートというものに対して想像が差延されているのではないかと指摘しました。最初は自分と回りの環境に存在する小集団や小社会だけに所属していたのが、それよりも大きな単位にも所属しているという意識はどう考えても人々の意識を今までの所属意識とは違うより大きな単位を意識化し、それは個人が基本でありながら感染した他者との関係性の中で集団的意識・無意識が発展してきたのではないでしょうか?

ネイション・ステートとナショナリズムの関係性は非常に難しいのですが、ナショナリズムがあるという証明は実は簡単です。
それはブログやSNSなどで「日本ってクソだよな、なんでこんな国存在するの?」と発言するだけで、ものすごい量の罵倒を受けるでしょう。
「お前なんで日本にいるの?」「日本が嫌なら出て行けよ」「そんなに嫌なら氏ねよ」
などなど自分が引き裂かれるような発言であふれるでしょう。

これはナショナリズムが最初にあったから起こるのでしょうか?わたしはこの誕生は地縁を元にした想像がネイション・ステートへの憧憬に拡大され、国家という幻想を自分のものとして引き受けた結果ではないかと思います。これについては議論待ちとしか言いようがありません。


自分という存在は一人ですが、意識の中では自分の中の自分がいて、またその中に自分がいます(無意識を含めた無限連鎖)。これは内だけでなく自分の所属している学校・会社の人々(友人・同僚・先生・上司)やアルバイトの同僚などの心のなかにも自分に対する想像があり、それは細部で違うもののいくつか同じ特徴を共有されたものが集団的意識・無意識として存在するのではないでしょうか。それらが所属しているグループに共有され、それぞれ個人に影響を与える。ここで重要なのは集団的意識・無意識の全体を知る者がいないことです。というより知ることができないというのが正しいでしょう。なぜなら自分の内部の関係性も自分と他人の関係性も他人と他人の関係性のすべてを知り、決断や行動をするのはまさに神の視座しかありえないのです。しかし人間がどれほど大きく認識を拡大したとしても、すべてを知ることはできません。ひとつの限界は単純化された大きい規模の複雑性をみることでしょう。

これも話がそれてしまいましたが、わたしがいままで語ってきた集団的意識・無意識があるのかという議論は、個人の意識・無意識は存在するのかという議論とも密接に関わってきそうだということです。行動主義心理学者のB.F.スキナーなどは「意識だって?そんなものが見えるのかね?長さや重さや周囲が測れるのかね?だとしたら、まるっきり存在していないも同じじゃないか」
と言い切ります。
わたしも意識・無意識は特別視するべきではないと思いますが、内省でも、個人の振る舞いでも、集団化した自分の振る舞いをみても、それぞれ意識・無意識が働いているのではないかと見えることが多々あります。これは社会科学上で「以上のデータから意識はあるのではないかと推測できる」や「以上のデータはあくまで選好によるデータであり、意識が実証されてない以上意識はないと考える」、また「たしかに生理的反復や自分では意識していない行動を行っていることもあり、それは意識ある行動とは確かめられない」などなど。


補考と言うレベルでないほどずいぶん多く語ってしまいました。いくつかまとめると、集団的意識・無意識は関係の結果として生まれた、それが個人や集団の振る舞いにも影響がある、個から他に対する認識の拡大ではないか?、そもそも個人の意識ってあるの?といったあたりでしょうか。


やっぱり今まで言ってきたことも片手落ちな気がします。しかし疲れてしまったので、気が向いた時にでもまた考察したいと思います。それよりコメントしたい本があるんですうう。

昨日の記事に関して頂いたコメントとその応答

昨日アップした記事についてニコニコのブロマガでコメントを頂き、それについて応答しました。
転載許可を頂いたので本ブログでもアップしますが、正直気力が尽きたのでしばらくこの問題に立ち入りません。
ですので、これ以上のコメントを頂いても返答しませんので、ご理解のほどお願いいたします。

コメント

・minato様

体調にかかわらず自分のコメントからここまで書いてくださり、ありがとうございます!



 個が集団の一部というのはわかるのですが、個即集団となるには集団的個(集団としての個)と個的集団(個としての集団)がなければならないと思います。ただ無媒介に個から集団へと昇華するのはちょっと無理があります。

 サイバネティックスに考えるとしても、インプットはあくまで集団プラス環境であり、集団の意識や無意識はあくまで抽象的に個々の中で勝手に解釈して想像されたものだと思います。仮に集団的無意識が存在するとしても、それは死の世界のごとく認識できないレベルのもので、生きている側からすれば形式的なものだと思うのです。

 集団的無意識による「空気」の場合、集団的個は分かりますが、果たして個的集団というのがあるのでしょうか。

 個的集団というのがなければ、個人の行動一つ一つが集団に影響を与えるというよりも、個人が集団と同化しているから個即集団ということになって、個人の自由意志が否定されているように思えるのです。All for one ではなく、One for all 一辺倒になってしまうのは避けなければならないと思います。

 「空気」はあくまで個人が感じているもので、自由に書き換えることができるとしなければ、個人の自由、個人の存在意義が見失われてしまうのではないでしょうか。それとも、個人は「空気」を変える能力を持っていても、個人間の差異が集団的に見て切り捨てられるように、その能力は確率的に限りなく低いものとして切り捨てられてしまうのでしょうか。

 個があくまで集団のために奉仕するといった、集団に同化した成員とするのでは、個の存在意義があくまで集団形成のためになり、個人の自由意思として成り立つという構造自体が成り立たなくなってしまいます。極端に言ってしまえば、単純な集団への同化は究極の全体主義に他なりません。




 自分は無下に集団的無意識を否定しているわけではありません。それが抽象的ではなく具体的な構造として露わにならない限り、否定的な立場をとらざるを得ないのです。むしろ否定的な立場に立たなければそれによる「空気」に飲み込まれてしまうので直接的に肯定するというのは避けなければなりません。

 個人的には、集団的無意識というよりも、集団的傾向と書いた方が無難なように思えます。無意識と書いてしまうと個々の無意識が抽象的な部分で繋がっているといった、感じることのできないテレパシーみたいな現象を想起してしまい、神秘主義に転倒してしまいかねません。そういうのが存在するなら、やはり証明する必要があるでしょう。

 もし集団的無意識が具体的に存在するならば、それは集団として一定したもので個人を一方的に縛るだけのものではなく、個々の意識プラス無意識によって常に動的に書き換えられるものでなければならないと思います。

 ただ、それが自分の意図したとおりに書き換えられるかどうかは分かりません。あくまで書き換えるのは意識プラス無意識なので、自己のコントロールが及ばない書き換えもあるかと思います。とにかく、一定して一方的に制約するものではなく、その「空気」自体が自己否定的にかつ動的に書き換えられる必要があり、それが歴史的「空気」になるのではないかと思います。




 以上、まとめますと、もし集団的無意識が具体的に存在するなら、個の中に全体があることになり、いわばフラクタル構造のようなものが出来上がらなければならない。そして、それは全体という概念によって一方的に静的一定として制約されるものではなく、個々の意識・無意識が常に動的に書き換える自己否定的歴史的なるものにならなければならないということです。

 最後少し難しく書きましたが、簡潔に書けばこうなります。今回も長くなりましたが、結構割愛した部分が多いこと、ご理解くださいm(__)m


・わたしのコメント

コメントありがとうございます。実は本文章を書いた後、集団的意識の構造とその現象なりたちについて集中しすぎて、複雑性による秩序→カオス→秩序がダイナミックに行われていて、「空気」もこのダイナミクスの中で変化している層もあることを書き忘れているなーと思っていたら見事に指摘を受けましたw。
また集団的意識・無意識という言葉よりも、集団的傾向、または集団的バイアスによる「空気」形成のほうが大体の場合合っているとわたしも思います。しかしではその集団的傾向はどのように現れたのかと考えると、遺伝的、歴史的、社会的、経験的、経済的、思考的など様々な影響が考えられ、その中で集団的意識・無意識が機能している<場>はあるのではないかという問題提起はできます。

これはどうも「視点」が問題ではないか、という気がしてきました。個人と集団という二項対立においてminato様は常に個人からの発想をされていますが、わたしは集団からの見方もできるのではないかと言いたいのです。
かつてゲシュタルト心理学が「形・形式・図」などから間の知覚は「個別的な感覚刺激の総合からなるのではなく、個々の感覚を超えた全体的な枠組のもとに成立している」と考え、それが現在の認知心理学認知科学の基礎となっているのをみると「形式」からのものを見ることは十分できるでしょう。

ゲシュタルト
http://artscape.jp/artword/index.php/%E3%82%B2%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%BF%E3%83%AB%E3%83%88

認知心理学
http://en.wikipedia.org/wiki/Cognitive_psychology (英語のほうがちゃんとしています)

また個人と集団と対置しましたが、この個人という意味でも集団という意味でも階層(レベル)があると思います。個人の認知にも実際にはかなり複雑な手続きをえて成立しているように、集団にもまず集団規模によりのそれぞれの集団的傾向があり、そこからまたそれぞれの「空気」形成があり、またまたそれらが文章で書いたようにサイバネティックスなフィードバックでつながったり、破綻したりする相互連関が起こっているのではないでしょうか?だからこそminato様のように個人からの「空気」という考え方をもつ集団が成立しつつも、その集団とは違う考え方を持つわたしのような意見に賛成するグループも成立し、それを複雑性規模の大きさでみると、minato様のおっしゃるフラクタルな形で見えると思います。ただそれが歴史的(あるいは遺伝的)という制約の中で「空気」の変化と「社会」変化がほぼ同時に起き、形が変わることも当然あります。そうでなければ女性の社会進出率が変わることなどなかったでしょう。(これが「個人」が変わったからとか、世代という「集団」が変わったからだなどの議論は不毛だと思いますので割愛します)

つまり何が言いたかったのかというと、一定の形式(フラクタル)が歴史的・遺伝的としてすでにありながらもダイナミクスに動く階層は存在し、それによって「空気」は自己否定的に変化する。その「空気」は「個人」から始まる「空気」からでも「集団(様々な規模がある)」から始まる「空気」からでもお互いに影響しながらも、ないまぜに形を変えていく。個人が集団に抽象化されると個人はその特徴を失うことがままあり、個人の「空気」が集団的な「空気」に捨象されながらも適応させられることがある。個人から始まった空気も集団になれば「同質・異質」などに分けられて、少数派・多数派というよくある立場になり、それら集団の規模も「空気」に還元される要素がある。そして変わる「空気」、変わらない「空気」は、1.表層・・・法律(論理)2.古層・・・長期的関係(慣習)3.最古層・・・集団淘汰(遺伝)という歴史的関係性も関与してくる。

最後に、わたしは長々と文章を書いてきましたが、実は個人から始まる「空気」を否定したことがなく、あくまでも集団・集団的意識・無意識(集団的傾向)によって「空気」が成立する可能性があることを説明しようと試みてきたことをご理解ください。(本記事の一番最初に書いてあります)

あとやはりminato様は図書館で借りて「「空気」の構造」を読んでいただければ幸いです。本書は「集団」の「空気」がどのような悲惨さを日本の歴史に与えてきたかについて述べているので、おそらく怒りを持って読めると思われます。

また大変消耗しましたので、この件についてはしばらくこれ以上コメントできません。重ね重ねご理解いただきますようお願いいたします。

p.s.minato様、またこのコメントをはてなに転載したいのですがよろしいでしょうか?


・minato様


 どうぞどうぞ。長々と書いてしまって申し訳ありませんでした。

 できる限り自分の言葉でこの問題に取り組んでみようとしたのですが、やはり自分の無知をさらしてしまった感が否めません……。この問題は想像以上に深いものですね。集団的無意識についてもっと考えてみようと思います。

 ありがとうございました!


・わたしのコメント

minato様

許可をいただきありがとうございます。
実は「集団」の「空気」になった場合の詳察が不完全で、「集団」の「空気」に埋もれてしまったはずの個人が、均一化した「集団」から立ち上がり、目立つ個人またはノイジー・マイノリティーとして集団内に新しく「空気」をつくる可能性(これはminato様の個的「空気」が近いと思われます)があるのですが、気力が尽きたのでしばらくはこの問題にたちいりません。

これまでお付き合いいただきまことにありがとうございました。