2012-03-30
マデ・アルタナの巣立ち
この3月半ばにアメリカへ旅立った初代丁稚のマデから今朝メールが届いた。
Dear Bapak で始まる短い便りだが、念願だった客船クルーの仕事につくまでの長い道のりを思えば、とにもかくにも彼はいま、あたらしい人生のスタート地点に立ったのだという実感がわいてきた。
「ごめんなさい、ようやく連絡する時間がとれました。すでに2度の航海を経験しました。
仕事はびっしりと詰まっていて、たまたま、いま、30分だけ外出できる時間がとれたのです。
いままでずっとサポートしていただいたことに心から感謝しています。ぼくがこの仕事に耐えぬき、成果が得られるよう、どうぞお祈りください。
敬具
マデ 」
*
彼が初めてやってきた11年前の7月の、その日のことはよく覚えている。
在住日本人の知り合いのH君の奥さんがカラガッサム出身で、その彼女の従兄弟にあたるマデをぼくのスタッフにと推薦され、その日、H君と一緒にやって来たのだった。
痩せて上背のあるからだつき、一見してやや険のある面(おもて)にはまだ19歳だった彼の緊張や恥ずかしさや、そして屈折した自尊心(これはあとになって知ることになるのだが)やらがこもごもに交差していた。
さっそく仕事場に案内し、おおまかに説明しながら、一方でH君と雑談しているわずかな暇にふとマデの姿を追うと、彼は大きなタライの前にしゃがみこみ煮込んだあとのバナナの繊維を洗っているのだった。
とりあえず、じぶんにいまできるのはこれだとばかりに、命じられもしないのにさっさと仕事を始めていたのだ。
H君からも事前にマデの話はすこし聞いていた。
奥さんの親戚筋の若い連中がよく彼らの家に泊まりがけで遊びにくるのだが、朝、誰よりも早く起き、言われもしないのに箒をもって庭を掃くのはマデだけだという話などを、そのときに思い出した。
この最初の日に感じた利発な青年という印象は、その後、スタッフとして出入りのあった多くの若ものたちに対してはほとんどもたなかった。
*
よく泣く子だった。
その涙のみなもとは悲しさというよりも悔しさにあったのだと思う。
ある日、高校三年生の彼の弟から電話があった。
話が終わり、受話器をおくなり彼は天井にむかって顔をあげ、そのままボロボロと大粒の涙を流しむせびだした。
家になにか不幸があったのかとこちらも不安になり「どうした?」と尋ねた。
「卒業旅行のお金がないから、弟が旅行に参加できない」
目から涙をこぼしながらそう言う。じぶんも卒業旅行には行けなかった。それは、もういい、でも弟には同じ思いをさせたくない。
彼はしゃくりあげながらそう言った。
H君からは、マデの実家が極貧のなかにあるとは聞いていた。たぶん、村でいちばん貧しいのではないだろうか、と。家と呼ぶにはあまりにも粗末な、道ばたの掘っ立て小屋に家族5人で暮らしている、と。
その話を聞いたときに、ぼくはじぶんの育った東京・下町の、小学校のクラスメートKさんを思い出した。貧乏人の子だくさんを地でいくような一家で、長女Kさんをあたまに、ゾロゾロと弟妹が並びさらに母親の乳をいちばん幼い子どもが貪っている。いつ見ても、長女のKさんの周りには弟妹たちがかたまっていた。
彼らはドブ川の上に住んでいた。
土の上ではない。ドブ川に板を渡しそこに柱を立てトタンやいろいろなサイズの板きれで周囲を囲い、戸口には布がぶら下がっていた。
当時の子どもたちが他人の貧しさをネタにからかうようなシーンはなかったように記憶しているが、貧しさは、べつに他人にあげつらわれなくともおのずとわが身に突き刺さる棘のようなものだ。
気丈だったKさんがときどき見せるなにか諦めたような表情は、子どもごころにも理解できた。
*
じぶんの家の貧しさを、マデはいちども語ったことはない。
ただ、子どもの頃から弟とよく貧富の差の不公平については話していたとか、彼が高校生の頃に好きだった女の子がいたけれど「身分が違うから初めから諦めていた」といった話はしていた。
ある朝、アグン山の背後の朝焼けを眺めていたとき、庭の掃除をしていたマデが話しかけてきた。
「アグン山のむこうの空があの色になると、家を出て学校に行ったんですよ」
出身地カラガッサムにあるマデの村はアグン山の膝元にある。そこから、カラガッサム市まで乗り合いバスを乗り継いで高校にかよっていた、その当時のことを彼は言っているのだ。
ほかの同級生のように、バイクで通学するなら30分ですむ距離だろう。
朝焼けの見える時間には、彼はすでに学校に出発していたというわけだ。
「空が時計だったんだね」
そうこたえると彼は笑っていた。
他愛ない話だが、アグン山の朝焼けを見るたびに思い出す。
*
働きだして1年も過ぎた頃から、彼はすこしずつ打ち解けていったように思う。それまでは、やや扱いにくい口の重い青年だった。
どんな話の流れだったかすっかり忘れたが、あるとき、彼はじぶんの母親が盲目であると明かした。
小学生の頃、家でラジオを聴いていると県立病院で無料の網膜回復手術があるという公報があった。彼はすぐに母親にそれを伝え、母親の手をひいてベモに乗って病院まで連れていった。
母親の順番がきて医者が検眼したのちに、こう言ったのだ。
「眼球がないからもう手術はできないよ...」
母親の幼い頃に、バリで疱瘡が猛威をふるったらしい。それに罹患したのだが当時はまともな病院もなく、ドゥクンと呼ばれる伝統医の薬草治療をうけたのだ。その治療がどうも怪しく、薬草が目に浸入し爛れた結果、失明にいたった。
小学校の低学年だった彼女は、失明後、学校には行けず、早い時期から独立した生計を立てなければならなかったらしい。
*
一般的に、というのはおもにツーリストの目をとおして眺めるバリ人は、温かいまなざしのもちぬし達だろうが、ぼくの知る彼らは決してそんなものではない。
と、誤解されそうな言いかたをするのは、たんにひとつの社会とそこに暮らす人びとを美化してとらえてはいないというだけの話なのだが、ハンディを背負った人びとにはなお生きるのが困難な場所ではないかと感じている。
医療や社会保障といったバックアップが充実しているなどとは、とても思えない。
だから、彼の母親が経てきた時間に思いをめぐらせると、とうてい想像力の追いつかない困難さが横たわっていただろうと、それだけは確実にいえる。
*
マデが、ぼくのもとでの仕事を辞めて客船クルーの仕事に就きたいと告白したとき、もちろんぼくにとっては痛手ではあるけれど、彼が望むような方向に彼の人生を切り替えるのは、当然、彼の選択肢であってそれを阻害する気はなかった。
じっくりと彼の話を聞きながら、かえって彼の判断力の適切さに感心したくらいだ。だから、最後に、できるだけの応援はするから頑張るようにと言ってからつけくわえたのは、きみへの応援ではあるけれど、じつは気持ちのうえでは、きみを育てた盲目のお母さんへのエールでもあるんだよというひとことだった。
彼がその意味を理解したかどうかは分からないが、ぼくからのサポートというのはそういうことなのであった。
*
メールの返事はまだ書いていない。
近況を伝えると同時に、こんな一節をインドネシア語に訳して贈ることばにしようかと思っている。
「この世界がきみのために存在すると思ってはいけない。世界はきみを入れる容器ではない。
世界ときみは、二本の木が並んで立つように、どちらも寄りかかることなく、それぞれにまっすぐ立っている。
きみは自分のそばに世界という立派な木があることを知っている。それを喜んでいる。世界の方はあまりきみのことを考えていないかもしれない。」(池澤夏樹『スティル・ライフ』)
いま理解できなくとも、彼ならきっと、いつかこのことばの意味を探れると思うのだ。
2012-03-28
こういうことをしてもいいのかどうか分からないけど
去年の5月以来3度目になる、スカイプをつかったテレビ生出演があった。
日本時間5時20分の本番よりも2時間以上前からスタンバイして、リハーサルや音声チェックなどの調整があったのだが、今回は話す内容が多く、しかも本番30分前に最終台本が決まるという素人にはきわどい展開だったので、パソコン周辺には「カンニングペーパー」をペタペタと貼りつけておいた。
放送内容は先日のニュピの話──ニュピ当日だけではなく、その前日のオゴオゴパレードやそれ以前に始まるオゴオゴの制作、また浄化儀礼ムラスティについてなど多岐にわたっていた。
その番組内容をここにそっくりトレースしてしまおうというのだから、著作権なんかに触れるかもしれないなと思い「こういうことをしてもいいのかどうか分からないけど」というタイトルになったわけ。
ま、気にせずいこう!
*
さあ、続いて「ハローアジア」です。きょうはこちら!インドネシア、バリ島からです。
成瀬潔さんに伝えていただきます。
駒村)こんにちは!よろしくお願いします。
成瀬)よろしくお願いします。
駒村)さあ、きょうはバリ島の祭礼について伝えていだけるんですよね。
成瀬)はい、先週23日に行われた「ニュピ」についてお伝えします。
「ニュピ」はヒンドゥー教のサカ暦という暦の、新年最初の日にあたります。
ニュアンスはかなり違いますが、日本で言う元旦ですね。
この日は、「火をおこしてはならない」「労働をしてはならない」「外出しない」などの規則を守らなければなりません。
駒村)仕事も外出もできないということは、みなさんどうされているんですか?
成瀬)まず、外には一切人影がありません。今ご覧になっている写真が、普段の町の様子です。
結構、車の往来がありますよね。
ところが、ニュピの日にはこうなります。
駒村)あ、ホントだ誰もいませんね!
みなさん、家の中で過ごされているんですか?
成瀬)そうです。
私の友人の中には、瞑想したり、あるいは断食したりして、静かに一日を過ごすという人もいます。
駒村)静かに自分と向き合う日ということなんですね。
観光客はどうしているんですか?
成瀬)観光客も外出禁止は同じなので、ホテルの中で一日過ごすことになります。
駒村)は〜。成瀬さんも、お家で過ごされているんですよね。
成瀬)はい。ニュピでは、この日ならではの体験ができます。
まず、朝、目が覚めると一切音がしないんです。鳥の声や風の音が身近に感じられ、普段、いかに人工的な機械音の中にさらされているかがよく分かります。
不思議と、体も軽く感じられますしね。
また、夜は電気を使わないので、晴れていれば満天の星空を楽しめますよ。
駒村)なるほど…体験してみたくなりますね。
成瀬)いいものですよ。また、ニュピの前日には、こんなパレードも行われます。
(ここで、You Tube にアップした映像が流れたはず)
駒村)一転して賑やかですね。何か人形を担いでますね?
成瀬)「オゴオゴ」と呼ばれる大きなハリボテを担いで、町をパレードしているんです。
駒村)この「オゴオゴ」は、ちょっと怖い感じですが、どういったものなんですか?
成瀬)オゴオゴは、おもにヒンドゥー世界の魔物をかたどったものです。
日本で言うところの、妖怪ですね。
パレードでは、これらの魔物をまつりあげて、お祓いしているんです。言わば、魔物をおだてて、荒ぶるエネルギーを鎮めているわけですね。
こうして町を浄化して、新年の静かなニュピを迎えるのです。
駒村)は〜。それにしてもこのオゴオゴ、手が込んだアート作品ですよね。誰が作るんですか?
成瀬)地域の共同体ごとに、小学生からだいたい二十歳前後の青年が制作します。バリの人の手の器用さ、創造力には、本当に感心します。そんなわけで、毎年写真を撮っているんですよ。
また、このオゴオゴのパレードの3、4日前には「ムラスティ」という儀式も行われます。こちらは、村のお寺にある御神体を海で浄化する儀式です。
駒村)バリの人々は、宗教的な伝統行事をとても大事にされているんですね。
成瀬)そうですね。こうして伝統を継承していくのは素晴らしいことだと思いますし、日本人としても見習いたいですね。
*
と、こんなぐあいに5分ちょっとの生中継が終わったのであった。
2011-10-22
ジャコウネコの贈りもの
噂に聞いていた「コピ・ルワック/ Luwak Coffee」をタンパクシリンまで飲みにいった。
道沿いにはぽつりぽつりと、数は少ないがこのコーヒーを飲ませる店が間隔をおいて並んでいたから、すでに知る人ぞ知る観光スポットになっているのかもしれない。
農園とも庭とも区別のつかない敷地に植わっている木立のあいだの小道をたどり、崖ぎわに建っているオープンエアーのワルン風カフェでコピ・ルワックを飲ませるのだが、そこまで行く途中に繁っている果樹にまず目がいった。
コーヒーの木、バニラ、パッションフルーツ、カカオ、白胡椒・黒胡椒の木が、枝を互いにからませながら緑の天蓋をつくっている。
よそのお宅の庭先を歩くようだ。 カカオの実があちこちになっている。
タマリロかな? コーヒーの実はまだ青々としていた。熟したものは赤い。
コピ・ルワックはジャコウネコ(麝香猫)が食べて排泄したコーヒーの実を焙煎したものだ。ジャコウネコは実の果肉だけを消化し種の部分、すなわちコーヒーの原料となる部分は用もないから排泄してしまう。それをかき集めて洗浄し、焙煎する。
これがジャコウネコ。檻のなかでぐっすりと眠りこけていた。頭(左側)を、おりまげたからだに突っ込み手で顔を隠している。物音にも反応せず、身動きもしなかった。もう1匹、若いジャコウネコがべつの檻に飼われていたが、そちらはキツネのような目をしばたたかせてこちらの様子をうかがっていたが、カメラをむけるとくるりとからだを丸めて寝てしまった。
こちらが排泄物。コーヒーはしっかりとかたちを留めている。
洗ってから、カマドの火で焙煎
ジャコウネコの贈りものコピ・ルワック
味はどうかと聞かれると、もともと嗜好品だから好みによって旨いともそうでもないと人それぞれだろうが、ふつうのバリ・コピよりはコクがありやや酸味も加わっている。
ここで出されたのは、バリ・コピと同様コーヒーの粉を熱湯でといてどっぷりとカップに沈ませてある。ひと口飲むと舌にざらざらと粉が残るくらい、ずいぶんふんだんにコーヒー粉末をつかっている。
ドリップにしたら、もうすこし飲みやすいのではないかなと思った。
それで、パックをひと包み買って帰ってきた。
2011-10-21
ジンバラン
海岸にあるシーフードバーベキューのレストランを久しぶりに訪れた。
10年以上も前には、親しいひとたちといっしょにウブッドでは味わえない新鮮な魚介類を食べるため、ときどきここへ来ていた。その頃は、レストランというよりは洒落た屋台と呼ぶにふさわしいような雰囲気で、夕暮れから夜へゆるやかに流れる海辺の景色を眺めながら手頃な値段で食事を楽しめたから、はるばるウブッドから足をのばしてやってくる価値をじゅうぶんに堪能できる場所だった。
島の低地に沿って這うように伸びる光の帯、ウルワツの小高い岬をおおう光の網、海と空との境も不明な彼方から発光体となってングラ・ライ空港にむかって低空飛行してくる着陸便。
都市の密度の高い光量とは違い、ひかえめで静かなここの夜景はバリの風景のなかで好きなもののひとつだ。
昨夜は東京から来た友人とその姉妹や姪御さんたちと遅めの夕飯をいっしょにした。
明日の朝が早い彼らは、食事がすむとさっそくホテルに帰る準備をはじめた。友人とともにレジで精算してもらい請求額を見て、少なくともぼくはなにかの間違いではないかと驚いた。
友人が、日本で食べたと思えばいいよと、鷹揚なことを言う。
そばにいた彼の妹さんは、日本よりも高いわとリアルに反応した。
それに、ここは日本じゃないからね、とぼくも言わずもがなの憤懣をつけくわえたが、そのとき頭をよぎったのはわれわれがジンバランに到着したとき、ドライバーがためらいなくこのレストランのエントランスに車を乗り入れたことだった。ジンバランの海岸沿いに数多く並ぶバーベキューの店のどれを選ぶか問うまでもなく、あらかじめここと決めていたかのように、われわれは運ばれたのだった。
一日かれらを観光案内して、最後の最後にこんな「落とし穴」があったかとがっかりしてしまった。
かれらをヌサ・ドゥアのホテルに送り届け、ドライバーとふたりきりでウブッドに帰る夜道、気まずい沈黙がしばらくつづいた。
ジンバランの夜景を見にくるには、また別の方法を考えなければならない。
Sumio
あそこがああなる前、何年まえかなあ、Warung ikan bakarはあそこには一軒だけだったよ。その隣では船大工がチュンパカのうぐいす色の木でサンパンを作ってた。画家のHさんと何回か食べに行ったなあ。あれはあそこのバンジャールのアイデアらしいね、たしか。残念。
三谷眞紀
いろいろな国で、こういう目に遭ってしまったことがあります。
やっぱり、後味が悪いですよね。
しかし日本より高いとは、ずいぶん過激に上乗せしているなあ……たくさんの日本人の皆さんを乗せたから、裕福だと判断されたのでしょうか。
greenmanbali
そう、シンプルだったよね昔は。92年に地元 “魚市場”
を取材したころは、市場というより漁師がその朝獲ってきた魚を水
揚げする浜というだけのもので、オンボロの中型木造船が50メー
トルほど沖にいて、小舟に魚を下ろしたり、籠をあたまに載せて泳
いで海に入っていくひとたちで賑わっていたものです。この頃はワ
ルンもなかったと思いますよ。
greenmanbali
あれはメニューが二種類あるのだと思います。ガイドやドライバー
が連れて来た客用には、彼らへのコミッション料込みの高め価格で
すね。ウチの隣りのレストランがその方式とってますから。長年バ
リにいてこのシステムはイヤというほど見てきてるけど、長年つき
あいのあるドライバーにもこういうことされちまうんだなと、後味
悪いったらないですよね。友人らにはなにも言わないですけどね。
ささやん
友達価格が一番高かったりしますから、難しいですね。最近イカンバカールの店では、魚を自分で選び、一つ一つグラムの値段を聞いています。
後からびっくりする事が無いように…。
まーでも最近本当に高くなりましたよね。
greenmanbali
確かに。ジンバランのイカン・バカールにかぎらず物価がかなり高
くなってますからね。テーブルにずらりと並んだディッシュを見
て、買い物クイズじゃないけど、合計いくらぐらいか予想がむずか
しくなってきました。ものによっては日本より高く感じる時もある
し、電化製品はあいかわらず日本の方が安いのかな?
ささやん
9月にジャカルタへ行った時はコーヒーの値段にびっくりしました。3万rpが、5万になったのは知ってましたが、今回は何と7万5千でした…。
電化製品はやっぱり日本です‼でもその日本より、タイの方が安いです。さすが世界の工場だと思いました。現在水没中ですが…。
greenmanbali
それは一大事! タイの洪水もそうだけど、ジャカルタのコーヒー
の値段。来月ジャカルタに行くんですが、コーヒー代700円も
するんですか!?
9月末に東京で「インドネシア建築家会議」という催しがあり招待
されていたので、一時帰国をかねて出席したのですが、その集まり
にはインドネシアから約300人の建築関係者が日本にやってき
たのです。ごく親しくしている建築家グループと数日間東京で行動
をともにしたのでしたが、もともと高所得の連中だから出費につい
ては気にしないのでしょうね、ブランドものショッピング惜しげも
なくやってましたよ。
看護士試験がどうたらこうたらやっているあいだに、日本からの出
稼ぎがインドネシアにやってくる時代がくるかもしれないですね。
それにしても、コーヒーが7万5000ルピア...。
2011-09-19
ワルン 非観光的スポット案内
むか〜し、政府関係の偉い役人さんに「おまえはここで1日どのくらいの金をつかっているんか」と訊かれたことがある。
そんな計算したことないので、とっさには答えられなかったがとりあえず適当な金額を口にした。
「フン、おまえなんかしょっちゅうワルンで安メシ食ってるくせに!」
なにかいけないことでもしているような荒っぽい言われかたをしてしまった。
その頃は、ちょうど周期的にこちらの食べものが合わなくなった時期で、レストランか自炊ですませていたからワルンで食事をする機会はほとんどなかった。
「安メシ」とは縁遠い食生活をしていたのだった。
ようするに、外国人ならば観光客のように湯水のように金をつかいなさい、ワルンなんかでお茶を濁すなよナというのが、彼の言い草だったのだ。
先月のラマダンの時期のパダン料理の店内。断食明けが近くなり、すでに帰省するひとびとが出はじめ、チュルックにあるこのワルンも閑散としていた。手前の青年が店員に「帰省しないのか?」と尋ねていた。テレビでは、イスラムの教えを説く番組がながれていた。
ここ2年ほどは、ふたたびワルンの食事でも受け入れられるようになっているので、けっこう利用している。
中途半端な時間に外出したときなど、とりあえずかんたんに食事をすませるにはワルン以外には考えられない。ひとと待ち合わせて食事の約束をしたときでもないかぎり、レストランにひとりで入る気にはなれない。
サヌールで評判のワルンの厨房。調理台という洒落たものがあるわけではなく、床に座りながら香辛料をミックスしたサンバルをつくっていた。手前のバワン・メラ、ロンボク、ニンニクなどが山と刻まれているのは、バリ独特の薬味サンバル・マタの下ごしらえだろうか。
辛いものはかなり苦手なのだ。
ところが、この香辛料の組み合わせの妙というのか、なにやらいろいろとミックスされた結果うまれる味覚は旨いと思うし、好みともいえる。
このサヌールのワルンでも、日本の味噌の味をわずかに思い出させるサンバルがある。旨味がしっかりと染みていて酒の肴にもなりそう。同行したバリ人に言わせると「どこにでもあるふつうのサンバル」というシロものなのだそうだが、ほかでは味わったことがない。
火はコンロではなく竈をつかっている。この一角だけが時代をさかのぼったような懐かしさを感じさせた。竈から立つ煙や湯気はやわらかく光を浴びていた。
ワルンは、かつての日本の町の風景のなかに置き換えれば一膳飯屋といったところだろうか。そこに、ぽつりと外国人の姿があったとして、それは地元の人間にとってどんな光景に映るのだろうかと、ふと思ってみる。
安メシ食いのしみったれなどというところにおさまるのか?
まさか。

































でも日本で飲むかといったら、飲まないなあ。
1杯でもとんでもないお値段になりますから!
コピ・ルワックをベースにつくったのです。このあいだ買ってきた
もの(写真)の封を初めて開けてみたら、色合いがそこらで売って
る大豆粉末まじりの安コピと瓜ふたつで、ああ! また騙された〜
とガッカリ。それでも気をとりなおして制作続行したのですが、色
は混ぜものコピそっくりでしたが味は違ってました
(ホッ..)。ゼラチンが多すぎて、コンニャクみたいに弾力
のあるものになってしまいましたが、味はまあまあでしたよ。