ツイッターもどき 1〜15

1 まるでローソクを灯して走っているようなバイクに乗り、2日前の晩、近くの寺まで出かけた。
 情けないが、後ろからつぎつぎとやってくる車やバイクの明かりを頼りに、目的地までなんとかたどりついた。


2 さっそく、今日、修理屋にきてもらった。
 ライトの修理だけのつもりでいたが、いつのまにか解体されてオーバーホールが始まっている。
「目がかすんでよく見えないんです」と眼科に行ったら、全身手術が始まってしまった感じだ。
 朝から夕方6時までかかっていた。


3 マス村の寺院で30年に一度の大きな祭礼がつづいているが、2日前の外出目的は、その見学であった。
 ワンティラン(集会堂)では、奉納のガムラン演奏がおこなわれていた。ふたつのグループが競演し、それぞれ熱のこもった演奏を聴かせてくれた。


4 演目のひとつとして、日本人女性が奉納舞踊を披露した。もちろん、バリ舞踊である。
 たぶん、もう何年も習っているのだろう。しかし、「日本人であること」が彼女のからだの隅々から滲みだしている。下手だといっているのではない。
 からだもまた民族文化を、文字通り体現しているという意味だ。


5 昨日、友人からおもしろい本を借りて読みはじめた。
 内田樹(たつる)の『日本辺境論』。おもしろすぎて止まらず、うっかり徹夜してしまいそうになるのをかろうじてとどめた。


 ツイッターごときで書ける内容ではないが、ひとことでいえば「日本は“月”であって“太陽”ではない」(という言い回しを著者はしていないが)、“太陽”は古代中国であり、いまは誰もが知るようにアメリカである。

 
6 月はみずから光を発しない。
 しかし「月光」と名づけられる微妙にうつくしい光をときに見せる。
 外部に光源を求めつづける国民性、そのようなありかたからどういう所作やメンタリティが生まれてくるか...。
 しかし、この著者の日本人論の「落とし所」は、さらに先にある。


7 北側に広がる田んぼに、今日、ようやく手が入りはじめた。
 二期作、三期作があたりまえのバリで、すでに10か月近くも放っておかれていた。
 耕耘機ではなく、昔ながらの鍬をつかって土を掘り起こす作業をしているのはたったふたりの老人だった。


8 前回の稲刈りのあと、農夫はしばらく牛を放牧していた。
 あるとき、その牛がこちらを覗いているのに気づき、近づいてシャカッとシャッターを押した。牛は、しばらくぼくを見つめていたが、「つまんないの〜」といった素振りでそっぽを向いてしまった。
「すみません」とつい謝りたくなってしまうような、いかにも素っ気ないしぐさだった。


9 覗き見するのは牛だけではない。
 ある日、昼食をとっているとひとりの農夫がじっとこちらを見ていた。
 ナンダよ〜! と思いながら食べていたが、牛とは違っていっこうに飽きる様子もなくぼくを見つづけている。
 ちょっといたずらしてみよう、と思いついた。


10 箸をとめ、首をガクリと落とす。そのままゆっくりとテーブルに倒れこんだ。
 死んだフリ、をしたのである。
 テーブルに顔をつけ、しばらくその姿勢でじっとしていた。薄目をあけて農夫を見ると、ボーッと立ったまま、まだこちらを見ている。
 大声をあげてひとでも呼ぶのだろうか、とひそかに期待しながらひきつづき死んだフリをしていた。


11 ふたたび薄目をあけると、なんと農夫は何事も見なかったように仕事にもどっている!
 急に食欲も失せたので、さっさと食卓を片づけた。


12 じぶんに対する“アートセラピー”のつもりで、だいぶ前から依頼されていたスタンドライトの修繕を、昨日きょうとつづけていた。
 ベース部も笠も、柿渋を塗ったバナナペーパーで張りつくした。手をつかうことに専念していた。

 子どものころ、近所にあった経師屋さんの仕事を飽かず眺めていたのを思い出す。


13 このスタンドライトの写真を撮った直後に停電になった。
 1月初旬に「計画停電」の施行はすでに終了したはずだが、相変わらず週にいちどは前触れもなく停電が起きる。
 PLN というのが、この国では「公共電気事業体」の略称だ。L は、いちおうListrik(電気)の頭文字なのだが、むかしからLilin(ローソク)と差し替えて呼ばれ、からかわれている。


14 公共ローソク事業体… インドネシアである。


15 五時間余、今夜もローソクの世話になった。