プトゥ

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わたしの部屋にむかって歩いていく

3月以来、父方の実家とマスの住まいを行ったり来たりしているうちに4歳になったわがプトゥ。
お子さんを育てたかたは皆さん経験的にご存じなのだろうけど、こちらは初めて身近に見るものだから、3歳から4歳になったとたんの「奇跡的変貌」には、ほんとうに感動した。
まるでちがう生きものじゃないか!

魔の2歳とか3歳とかいわれていた、このあいだまでの傍若無人のふるまいが嘘のように消えて人間化(笑)している。

予定では、そろそろプレイグループへ入るはずだったけど、どうやら当分おあずけになりそうだ。

健やかであれ。

 

 

Art Bali / Beyond Myths


会期終了まぎわの7日に、病みあがり途上で脱力したままのからだを背負うようにしてヌサドゥアまで出かけた。
多少の無理をしてでも来たかいがあったのは、なんといってもこれだけのボリュームとレベルの高いコンテンポラリーアートをバリで一堂に見るのは初めてであり、つぎにいつ見られるか期待するのはむずかしいからだ。




Heri Dono氏の Dinosaurs Spirit。カタログには"Water"というタイトルになっているが「水」ではなんのことやらわけがわからない。
両腕を横にもちあげた恐竜の尾をもつ男が三体並んでいる。頭部は牙をむきだした4つの口と一対の眼を4組それぞれそなえている。ヒトと恐竜のアマルガムのような存在。仏像に親しんだ眼からするとこの頭部から「阿修羅」を彷彿させられるが、阿修羅は三面だ。阿修羅とディノサウルスに共通するものはその魔性というかまつろわざる野性。ともに、いまだ進化途上のヒト科の生きもののこころやからだにその属性として宿りつづける、そのひとつの象徴がイガイガペニスではないか。原始的な武器を想像させるなんともまがまがしき風貌の男根。このイガイガペニスとは対照的なイメージを思い出した! ヨアン・カポーティの "RATIONAL"だ。こちらは睾丸が脳みそそのものの男性下半身像。男性性器には合理性のレッテルがふさわしいのか古代の弾投器のような武器にたとえるのがふさわしいのか、いずれにしても笑いを誘う造形感覚だ。


9月のはじめに知人の建築家がふたりのアーティストとつれだって訪ねてきた。そのうちのひとりがこのヘリ・ドノ氏だった。
初対面だったがこのときずいぶん話がはずんで、話題はいろいろと飛んだ。知日家の印象をつよくもったのだが、どういういきさつだったか仁王像の話になって阿形と吽形のちがいや呼吸の話などもした。
芥川の「河童」を読んでみたいというヘリ・ドノ氏の希望もどんな話の流れからだったか覚えていないが、かれらが帰ってからネットで検索すると意外にもインドネシア語に翻訳されている「Kappa」が見つかった。さっそく、そのURLを知人経由で送ったが、すでに読まれたかどうか?











8月25日からシンガポールのAsian Civilization Museum で開催されているArus Berlabuh Kita/ぼくらの辿るながれ の出展者 Budi Agung Kuswara君とかれの奥さんのシンガポール人Samanthaが、3月ごろから工房に通ってきて作品準備にとりかかりはじめた。写真家のサマンサの撮影した写真プリントとバナナペーパーをくみあわせ、それが船の帆のかたちをつくりアジアの海を航海する。その旅をするのはすべてがべつべつの国籍をもつ両親から生まれた子どもたちで、十数基にのぼるバナナペーパーの帆に漉きこまれた写真には豊かにアレンジされた民俗衣装に身をつつんだその子どもらの姿が写っている。
数か月におよんだその制作期間中、ブディ・アグンことカブルの助手役として足しげく工房に通ってきていたのがWayan Upadana君だ。最初に、ジョグジャの美大時代からの友人と紹介された。
中盤からカブルが頻繁にそして長くシンガポールにでむいている間、ウパダナがひとりで工房にやってきてウチのスタッフとともに黙々と作業をしている姿をよく見かけた。作業結果を写真に撮って、シンガポールにいるカブルに送り指示をあおぐ、というやりとりをしているのを横から見ていた。
手伝うとかサポートする行為にはんぱではない意気込みが、しかしそのやや飄々とした彼の面持ちからは決して重い空気はつたわってこないのだが、着実にひとつひとつのプロセスをこなしていく安定したその成果に、カブルすごくいい友人を持ってるなと感心しながら観察していた。


作業最終日には、ウパダナもカブルもそれぞれ伴侶と子どもをつれてやってきた。カブルはひとり娘、ウパダナには双子の女の子が付き添って。終了記念に2家族そろってどこかに遊びにいくのかなと想像した。



そのWayan Upadana の作品「Manusia Imaji Air dan Cahaya/水と光のイメージのなかの人間」が展示されていた。
ウルワツの荒い波のおしよせる水際をバードアイの視点から撮影した動画が作品のベース部でエンドレスにながされ、その波をいくたびも繰り返し浴びている多くの老若男女が裸の上半身を水からだしている。ある者は祈りを捧げ、ある者は両手をあるいは片腕を前方にさしだし、胸に手をおき、ただぼんやりと首まで水に浸かっている者もあれば放心したように立ちつくしている者もいて、そのような群像がおなじひとつの方角にむかって並んでいる。ひとびとはいっせいに波に洗われ、その頭上にふりそそいではやがて闇となる光のシャワーが、朝を迎えて夜に沈みこむそのような日々のリズムをなぞるように繰り返しながら、群像はひたすらこちらに顔をむけ並んでいる、
池澤夏樹が「水のアジア」と名づけ、水に浮かぶように存在する湿潤アジアを描写したのは『花を運ぶ妹』だったと思う。その舞台となったのがこのバリ島で、バリ島に生をうけた人びともまた水とは深く結ばれて一生を過ごす。
農業生産の文字通り命脈として島じゅうをむすぶネットワークとなってめぐる人工水路システムは、世界遺産の対象ともなっている。島の宗教バリヒンズーイズムも「水の宗教」と言い換えてもおかしくないくらいに、水の「演出」に満たされた宗教ないし儀礼で、寺院祭礼から日々の人びとの祈りの場面まで「聖水」は人びとの身体に親しいのだ。
ワヤン・ウパダナの作品は、そうしたバリの人びとの暮らしあるいは宗教的民俗的習慣のなかで「ムルカット」、沐浴といわれる修行にひとしい姿を描いている。生まれてから死ぬるまでの長い時間、ほんとうに数えきれないほど身体にふりそそがれた水のちからは彼らの魂の浄化をも約束する。









会場内を一巡し、とりあえず外の空気を吸いに出口をでたところで、Ketumu Project/出会いのプロジェクトメンバーの若い女性Dにばったり会った。
ブディ・アグン・クスワラことカブルは、バリでもっとも注目されるソシアルアートの若き旗手でもあり、彼が推進する2つのプロジェクトのひとつがこのKetumu Projectで、シンガポールでの展示もこのプロジェクトの活動の一環である。
Dは会場整理係の一員としてプロジェクトから派遣されているらしい。
その彼女にこの展覧会のレベルの高さや粒ぞろいの作家たちの作品のおもしろさを感想として話していたら、それでもやはり場所的にヌサドゥアはあらゆる地域から遠く、ひと集めがたいへんだという返事が返ってきた。


入場料のひとり15万ルピアも高いしね。
6月にジャカルタにあるMacan Museumで開催された草間彌生展を見にいったが、やはり入場料はそのくらいだった。首都ジャカルタの経済条件や展覧会の希少性からすれば15万ルピアは決して高いとは思わないが、バリではいわゆるツーリスト価格に類する設定かもしれない。


「でも、会期中の毎週火曜日には身分証さえ提示すれば、地元のひとは無料なの」
と彼女が言った。そういえば、どこかでそんな情報を目にしたような記憶があった。当然だよとその時に思ったのをおぼえている。

「それで、きのうは最終火曜日だったので1000人もおしよせて、行列つくったのよ」
へぇ、それはすごい! と驚いていると、

「Bapak、きょう来てラッキーだったわ!」
とわらいながら彼女が言った。










 

Deep Connection



1 

われら疑似家族として共に暮らしはじめてまる2年が過ぎた。

右に座っているのが「息子」のプトゥで左が「孫」のプトゥ。仕事を終えたあとふたりで庭で遊んでいたが、しばし休息、そこへ南の方角からングラ・ライ空港を飛び立った飛行機がゆっくりと空をすべっていく。偶然、ふたり同時にその方向に視線をむけおなじものを見つめていた。

バリ人の習俗である出生順名からすると、大きいほうのプトゥは本来戸籍上は「ニョマン」で3番目ないしは7番目に、まれには11番目に生まれてくるこどもにつけられる共通の名前だ。ところが、かれの家では、このニョマンの名をさずかる順番に生まれてくる子が不幸にも夭逝してしまう。その不幸をかれの家族は避けるために、あらたに生まれてきたかれの通称名を「プトゥ」とした。「ワヤン」とともに、最初の、あるいは5番目、まれには9番目に生まれてくる子どもにつけられる出生順名だ。だから、かれは本来のニョマンと呼ばれることなくつねにプトゥと呼ばれつづけてきた。家族のその工夫の甲斐があってなのか、こうしてかれ自身が最愛の長男・プトゥを授かるまでにつつがなく30年を経てきた。

7年前に、かれは実の父の葬儀を家族とともにやり終えた。数か月にわたる準備期間のうち、最後のひと月はぶっ通しで仕事を休んだ。家族の所有していた土地を売却して葬儀資金を用意し親族総出で葬儀当日までのノルマをこなしていた。
バリ人っていうのはほんとうに大変...とかれ自身がその時つぶやいていた。完全に手づくりの葬儀であり、しかし年とともにその費用は大きくなる。葬儀までに用意しなければならない膨大なお供え物と数々の儀式、その経済的負担も一般の年収の何倍にもあたる。それを義務として、慣習として、宗教的営みとして順従にこなしていかなければならない。一歩踏みだしたら、弱音をはいてもやめるわけにはいかない。
バリ人として宿命のように義務づけられたその大変さを、かれは父の葬儀の準備を通じてはじめて知った。

葬式当日に手伝ってくれる村人全員にお仕着せのTシャツを配る。その絵柄は、胸の部分にかれの父親の「遺影」をプリントしたものだった。
かれには父の記憶はない。ものごころのつく時期にはすでに父は存在していなかった。写真でしか見たことのない父親のその姿をPCにとりこみ、プリント用のデータをじぶんでつくっていた。


息子のプトゥが生まれて2週間ほど後に、かれはバリの民俗習慣にしたがい、息子がだれの生まれかわりなのかをオラン・ピンタールのもとに伺いをたてに家族とともに出かけていった。
かれの予測どおり、実父の生まれかわりとご託宣はでた。
記憶にない父と、いっしょに暮らすことがはじまった。
父の背を見て育つ経験はなかったが、父のたましいを継いだ息子に父親として接する日々がその日からはじまった。


3

1986年に出版された大竹昭子さんの『バリ島不思議の王国を行く』に忘れられない一枚の写真が載っている。
まだ青年といってもよいくらいに若い父親が腰布のサロンを巻き、スリムで贅肉のない裸の上半身にしっかりと押しつけるようにして3、4歳ぐらいの全裸ではだしの男の子を抱えている。若い父親は横顔をこちらにむけ周囲に広がる田圃にまっすぐな視線をはなっている。男児はついさっきまでぐずっていたのかもしれない、顎をわずかにひき潤んだ目は上目づかいに手前左の方角を見つめている。
裸足の父親は畦道に立ち、すぐ後ろにひろがる田圃の左側は稲がすでに刈り穫られ、右側は明日にでも稲刈りがおこなわれるのかもしれないくらいたわわに実った黄金色の稲穂が画面はるか彼方にまで延びている。
暮れはじめた午後の光線が、親子の褐色の肌を輝かせている。
撮影は内藤忠行氏。

炎天下、一日の農作業を終えた父親は幼い息子と川で水浴びをすませたところなのだろうか、それともこれから疲れを癒すために水浴びに向かうところなのか。肌をぴったりとくっつけ合わせた父と子は夕暮れの迫る時間すくっと田のきわに立ち、父は遠いかなたに視線をむけている。
背後に見える田は、豊穣と恵みをシンボリックに示しながら画面を単純に二分している。それは時の経過をも同時に表してこのふたりの親子の将来に、なにか祝福さえ与えているように映る。
農村アジアであるならばたぶんどこでも見かけそうなしかし王道的な一瞬の光景を焼きつけた写真に思えた。


4

しばらくぶりにサン・マデから電話をもらった。
Ubudにあるスーパーマーケットで偶然会ったときから数えても1年以上たつ。

買い物籠にたくさんの樟脳玉を入れているのを見てびっくりしたら、
「ヴィラに出るネズミを追い払うためなんです」
かれは、いま、オーストラリ人の所有するヴィラでゼネラルマネージャーをしている。棟数は多くはないが責任をもたされ忙しくしているようだ。ほかにも、新規で営業の始まるヴィラで雇われるスタッフ指導の要請があれば、フリーランスの立場で引き受けたりしているらしい。
「ああ、ネズミね。うちでもそれやったことあるけどまったく効果なかったよ。粘着シートが確実だと思うけど」
しかし、生きているネズミがかかっている仕掛けは客には見せられないと、言われてみればそのとおりだナと納得する返事がかえってきた。
それではまたという挨拶を残して、かれはレジに急いだ。

2か月前に相談があると言って訪ねてきたのは夜も8時を過ぎていた。仕事の帰りに立ち寄ったわけだが、その前に「ビールでも買っていきましょうか」と携帯にメッセージがはいっていた。

いまの仕事を辞めて事業を起こしたいのだという。
問題は収入なのかなとたずねると「もっと家族の相手ができる時間がほしい」というのが理由だった。マネージャーの任務は毎晩遅くまで拘束され、休みもままならないらしい。中学生になったばかりの長男を筆頭に、下にふたりの男児をかかえている。
そういえばかれは結婚以来、9年ほど家を空けがちにしていた。カパルプシアール(豪華客船)のクルーとして米国をベースに働いていたのだ。何か月かの定期周遊航海ののち2か月ほど帰国し、つぎの契約をかわすとふたたび米国に旅立つ、というよりも出稼ぎに海外へ渡ると言うべきか。
その間に、3人の子息をもうけている。遠くはなれた家族を思い酒で気をまぎらわせているという内容の愚痴をその頃メールで聞かされたことがある。
クルーの仕事を最終的に終え、ヴィラマネージャーの仕事についてすでに⒋、5年経つのではないだろうか。
年収は、円に換算すれば100万近いのだがかれにいわせれば「かつかつ」なのだそうだ。というのは、実家の経済までかれの負担になるからだ。

かれの両親にはもうずいぶん前だが2度か3度お目にかかっている。トラック運転手をしているという父親は、小柄で痩せていてこういっては申し訳ないが「風采のあがらない」印象をもった。その、風采のあがらない父親が「浮気をして家に金をいれない」という深刻な話を聞いたのは、サン・マデがまだ結婚する前だった。
当時のわずかな給料をさびしい思いをして母に分けていた時期もあった。
そもそも成績優秀だったかれが大学進学の希望を断ちきられたのも、やはりこの父の「気まぐれ」だった。
学年トップのかれが進学するだろうという予想は誰もがいだいていた。父親だってその気でいたはずだが、いざその季節がやってくると突然かれは用意していた金をすべて「家寺」の改修工事の費用につかってしまった。
じぶんよりもはるかに成績の劣る同窓生たちが、経済的な余裕のおかげでみなこぞって大学にすすんでいく姿をかれはただ絶望とかなしみの思いをもってながめていた。

「それでも、父を恨む気にはなれない」とかれは言ったことがある。

仕事を終えて帰宅した父につれられよく田園を散歩したそうだ。手をひかれ、いろいろな話をしながら父と共にいた時間の記憶、父のぬくもりそのものがかれには至福の経験だった。
そんなふうに「幸せ」をあたえてくれた父への感謝が、どんな感情よりもさきだってかれのこころの中にある。
だからかれは父を恨む気はないと、静かに語った。

ソレが帰ってきた!


12月6日午後、思いもよらない事故でパギといっしょに遊んでいたソレが死んだ。
わずか14か月の生命の果てだった。
パギとともにわが家の庭に捨てられていた時からかぞえれば、ちょうど1年を過ぎたばかりだった。


ほんとうに仲のよいパギとソレだった。
去年の11月半ば、2匹の子犬が捨てられているのに気づいた時には、白い子犬をまず北側の垣根のそばで見た。やられた(捨てていきやがった)! と思ったのは後の祭り。やがて、その白い子犬と新たにブチ茶の子犬が庭の茂みでじゃれあうように遊んでいるのを目撃。
「捨てられた」というじぶんたちの身に降りかかった無慈悲で過酷な現実もなんのその、押しあい噛みあい転げて遊んでいる。
キャッキャと笑い声さえ聞こえてきそうだ。






この1年間の2匹の子犬の成長を眺めながら、「遊びをせんとや生まれけん」の有名なことばはじつは犬のこんな姿から生まれたのではないだろうかと感じたほど、かれらの日々はひたすら遊びが中心だった。
しかし、その遊びの果ての事故死という事実は皮肉でもあり、また考えようによっては幸いであったのかもしれない。



ソレがいなくなって4日後の12月10日朝、えさを食べ終わったパギが甘えるように鼻をならしながら部屋の中をうろついていた。
ついこのあいだまで、この時間帯にはころげまわるようにしていっしょに遊んでいたソレを思い出しているのかナ、と、その時にはそういう気がした。
そして、その翌日。
この日も朝からなんべんか鼻をならしながらソレを探すそぶりを見せていたパギ、やがて夕方、部屋をぐるりと見渡してからおもむろに庭に出ると、ソレを埋葬した墓の前に立ち前足をゆっくり動かしながら土をひと掻きふた掻きしていたが、とつぜん片隅に置いてあった線香立てをパクリとくわえるとサッと走り去っていった。
まるで、ソレに、ホラ追いかけてこいといわんばかりに、いつも通りのしぐさで走った。
部屋のなかでその様子を眺めていたぼくは、そばにいた丁稚のダルに、見てごらんと声をかけたのはちょうどパギがまだ土を掻いているときだった。
「ソレのにおいがするんだ」
とダルは言ったが、果たしてそうだろうか? 死後5日もたって土中で生前のにおいが残るものだろうかと疑わしく思った。
パギがくわえていった線香立てをダルが取りにいき、ぼくはパギの様子を見に庭まで出ていった。



ぼくの姿を目にしたパギは、さっと頭を低くし、からだを前にかがめ腰を高くもちあげて左右にふっている。遊びを「挑発」するときの姿勢であり、「ここまでおいで!」と追いかっけっこを誘う犬特有のしぐさだ。
ようし、とこちらもその体勢に合わせて走り出すとパギは耳を寝かせダッシュして逃げる。急に方角を変え低い姿勢でこちらにむかって走ってくるとぼくの脇を猛スピードで駆けぬけていく。手で捕まえるよゆうもなく、走りぬける後ろ姿を追いかける。
あっちへ走り、こっちへ戻ってきてとくりかえし開けた口からは長い舌がのぞき、いかにも楽しくてしょうがないという表情をしている。



しかし、実はパギはこんなことをいまだかつてしたことがない。ソレが、ぼくと遊ぶときの姿そのものだ。
こうやって追いかけっこをしているぼくとソレの姿をパギは目で追い、やがてソレに向かって走っていく。そこで、いつもぼくは遊びつづけるソレとパギを残し家の中にひきあげていた。


ソレだけがしていたあのしぐさを、いまパギがしている。あたかもソレがパギに乗り移ったかのように。






翌12日朝、エサを食べ終わったパギはしばらくしてから庭を駆けはじめた。ふっと立ち止まりキョロキョロ周囲をうかがっている、あとを追いかけてくるはずのソレの姿を探しているのか、それとも追いかけていたはずのソレの姿を見失ったのか。
すっと顔をあげると、ふたたび身を低くして全力で走っていく、ソレがよく身を横たえて休んでいた場所をのぞくがなんの気配もない。

もういちど見つけた! パギは走る、ソレを追いかけて走る。

永遠に追いつくことのない最後の遊びの記憶をパギは追いかけつづけていた。

生きることについて ナーズム・ヒクメックの詩から


この1週間はなにかの符号がぴたりぴたりと合わさるように、ただ一点にむけて考えつづけていた。それは死についてであり、ひとしくいま死にむかってすすんでいるぼくらの生についてだった。



はじまりは、古くから付き合いのあるアメリカ人の友人Dが新たに契約をむすんだ借家に招かれたときだった。ニュークニンの渓谷前の傾斜地にたたずむだいぶ築年数を経たその借家は、贅沢ではないが、しかし優雅で趣味のよい彼の暮らしぶりにぴったりだった。
いま71歳になる彼は、今年3月を起点に16年の契約をすませたという話を聞いた瞬間に、聞こえはよくないかもしれないが「欲望」の深さというものを思った。いいかえれば生命力の旺盛さのことだ。それが自然とちからになって生きるという営みをいとわない積極性だ。
そうか、面倒くさがらずに欲望は充たしていくべきなのかとやはりそのとき瞬間的に思った。



その直後に、札幌にお住まいのTさんがトルコ出身の詩人ナーズム・ヒクメットの「生きることは笑いごとではない」の一行ではじまる有名な詩「生きることについて」をFBのTLに投稿されていた。



「生きることは笑いごとではない
あなたは大真面目に生きなくてはならない
たとえば
生きること以外に何も求めないリスのように
生きることを自分の職業にしなくてはいけない」



冒頭からハッとさせられるまとまりのよいことばの連結が一連の最後までつづく。
そしてきわめつけはつぎの一節だ。



「真面目に生きるということはこういうことだ

たとえば人は七十歳になってもオリーブの苗を植える
しかもそれは子供たちのためでもない

つまりは死を恐れようが信じまいが
生きることの方が重大だからだ」



友人Dのことばやその暮らしのディテールをのぞき見て直観的に感じたのはこういうことだったのかと、あらためてなんども詩を読み返してみた。
「七十歳になってもオリーブの苗を植える」──それは、当然この先にある死をおそれてあるいはたじろいであるいは立ちすくんでいるのではなく、いま生きることの営みの具体性にこそ生存の根拠を与える、そういうことではないだろうか。いまなにかをなすことは、誰のためでもなく現在生きている(明日死ぬかもしれない)みずからのためなのだという真実。
それが真面目に生きるという意味なのだ。



そして数日前。Twitterにリプライの形式でメッセージが入っているのに気づいた。

「U市在住のKです。私の知っている潔君ですよね?
ただいま癌に侵され闘病中です。
連絡ください」



衝撃的な内容もさることながら、なんと37年ぶりに彼の「声」を聞くおどろきと嬉しさ!


20代の頃に影響をふかく受けたふたりの友人のうちのひとりで、当時、新婚だった彼の奥さんが「嫉妬」するほどしょっちゅうつるんで遊んでいた年上の友人Kだ。
肺ガンが骨にまで転移し、医者にいわせれば末期ガンの症状をかかえているが、Kはぜんぜんめげていない。術後の腰が痛くてしかたなく歩くのにも難儀しているが、からだがもどったらぼくのいるバリ島にやって来ると、さらに便りがきた。



「今日は、朝からカラッと気持ちの良い秋晴れの日。
病人にはお天気が何よりのごちそうで、良薬です。

昨日は、バリ島の観光ガイドを買ってきまして、熟読しました。
ハワイやグアムのように簡単な島かと思ったら、意外に広くびっくりしてます。
ホノルルやタモンの街並みなら、どこになにがあるかわかるし、ホイホイ歩けるのですがバリはてこずりそうです」



ぼくらは会わなければならない。

手こずる島に20年も住んでいるぼくがきみを島のすみずみまで案内しよう。



ぼくらは会わなければならない、あの世ではなくこの世でかならず再会しようと、ぼくは返事した。

                              

九月の海べりの午後の日差し 非観光的スポット案内


構図について考えていた。


目の前にひろがるビーチ、その手前に幅4、5メートル、全長50メートルほどもあるやけに細長いプールがビーチに平行して横たわっている。プールサイドにはカンバス地の日除けに護られたふたりがけのソファベンチが置いてある。泳ぎおわった白人男女のカップルがこの幌つきベンチの前でタオルを使ってからだを拭き、おしゃべりしているのが見えていた。
彼らの動きはその会話と同じように弾んでいる。その姿を撮ろうとは思わなかった。

女性がタオルを幌の上においてベンチに移動し姿を消した。男性はその女性にむかってまだ話しかけている。


そこへ左手から白いキャップを被ったプールスタッフがやってきた。
これでシャッターを押す気分になった。
ただ、どのタイミングで? と、あたまの中にいくつかのパターンが湧いた。
離れすぎもせず、重ならず、ちょうどすれ違った一瞬をねらった。


この先、決してふたたび交差することもない無関心がまぶしい光のなかで微笑んでいる。



September 16, 2014 Jimbaran Beach