Hatena::ブログ(Diary)

えぞしろくまのつぶやき

2018-04-06

しばらくの間お休みさせていただきます。ありがとうございました。

いつも訪問していただきありがとうございます。

2015年の4月からこのブログは始まりました。最初は、「先輩」に関する記事を書き、その後は、自分の思いついたことなどを気ままに書いてきました。今振り返って見ると、「先輩」に関する記事以外は、あまり意味のないことを書いていたなあ、と
苦笑してしまいます。

最近は、新しい人たちが書くブログも増えてきた気がします。それらのブログを読むと自分の思っていたことがより分かりやすくより深く書かれていて感心してしまいますし、当然のことながら豊富な知識や情報、優れた思考に満ちていて、自分の書いてきた記事がいかに思いつきレベルだったかを痛感させられます。

よって、修行(?)のため、しばらくの間、「えぞしろくまのつぶやき」をお休みさせていただきます。今まで本当にありがとうございました。心より感謝申し上げます。

m(__)m m(__)m m(__)m

(^_^)v (^_^)v (^_^)v

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2018-03-10

自然信仰

先日、図書館から『ポスト資本主義』(広井良典 岩波新書 2015年)という本を借りてきた。

大変スケールの大きいテーマを扱っており、著者は博識な人だなあ、と感じ入った次第です。本書の最初の方で、「心のビッグバン(意識のビッグバン・文化のビッグバン)」という言葉が紹介されていた。初めて聞いた言葉だった。

人間の歴史における拡大・成長から定常への移行期において、それまでには存在しなかったような何らかの新たな観念ないし思想、あるいは価値が生まれたという点だ。
議論を駆け足で進めることになるが、しばらく前から人類学考古学の分野で、「心のビッグバン(意識のビッグバン)」あるいは「文化のビッグバン」などと呼ばれている興味深い現象がある。たとえば加工された装飾品、絵画や彫刻などの芸術作品のようなものが今から約5万年前の時期に一気に現れることを指したものである。(p8〜9)


その他にも、大変興味深い意見があった。その中で、本書の最後の方で述べられていた「自然信仰」ということについて、私も大変共鳴した部分なので再び一部引用させていただく。

一方、地球倫理が要請されるもう一つのポイントは、地球上の各地域に存在する、「アニミズム」とも呼びうるような、もっとも原初的な自然信仰との関わりに関してである。
それは自然の具体的な事象の中に、単なる物質的なものを超えた何かを見出だすような自然観あるいは世界観であり、「自然のスピリチュアリティ」と呼ぶことも可能で、(第一の定常期における)「心のビッグバン」と深い関わりのあるものと言えるだろう。
これは上記のように地球上の各地でのもっとも原初的な自然観ないし信仰のかたちであり、ある意味ですべての゛「価値」の源泉゛とも呼びうる次元だが、枢軸時代ないし精神革命において生成した諸思想においては、概してこうした自然信仰は不合理で゛原始的゛なものとして否定的にとらえられた。

(中略)

こうした文脈において、第8章で述べた「鎮守の森」の話題ともつながるが、地球倫理においては、原初にある自然信仰―――それは本来的に「ローカル」な性格なものである―――の価値を再発見し、それに対して積極的な評価を与える。なぜなら地球倫理の視点からは、「自然信仰/自然のスピリチュアリティ」は、むしろあらゆる宗教信仰の根源にあるものであり―――アインシュタインが「宇宙的宗教感情」と呼んだものと通底するかもしれない―――、普遍宗教を含む様々な宗教における異なる「神(神々)」や信仰の姿は、そうした根源にあるものを異なる形で表現したものと考えるからである。

(中略)

ちなみに、かつてフランスの精神医学者ミンコフスキーは、その著書『生きられる時間』において、現代社会の病は人々が「生命との直接的な接触」から離れてしまっていることに由来すると論じ、何らかのかたちで生命の次元のつながりを回復することの必要性を説いた。地球倫理において積極的な意味をもつ「自然信仰/自然のスピリチュアリティ」は、そうした次元とも重なっていると思われる。
いずれにしても、以上のように、地球倫理は一方で個々の普遍宗教と関係するとともに、もっとも根底にある「自然信仰/自然のスピリチュアリティ」と直接につながることになる(図は省略) (p240〜242)


大いなる自然を目の前にしたとき、人々は素朴に感動するのではないだろうか。自然と人の間に余計なものは必要ないと思う。普遍宗教と関係しながら自然信仰につながるというのは、そう容易なものではないだろうが、いつかそうなってほしいと願う。一定数の人々は、普遍宗教を保ち続けるだろうが、個人的には、自然信仰だけでいいと思う。

2018-03-04

法然と法華経。

法然は、法華経をどう評価していたのだろう。

法然は、

「ことに法華経は三世の諸仏もこの経によりて仏になり、十方の如来もこの経によりて正覚をなり給ふ。しかるに法華経などをよみたてまつらんに、なにの不足かあらん。かように申す日は、まことにさるべきことなれども、われらが器量はこの教におよばざるなり。(略)
われら凡夫はかのうべからずと思うべきなり」
開祖物語百瀬明治

と述べている。

法華経は、たしかに素晴らしいが、普通の人々には高度過ぎる、ということであろうか。

因みに、この文章の出典を探してみたが、グーグル先生ではなかなか見つからず、やむなく大蔵経データベースにて、「法華経 不足 器量」で検索したら、『黒谷上人語燈録 巻第十二』(T2611_.830185a10)がヒットした。ようやく見つけた。黒谷上人というのは、法然の別称である。

この文章だけで考えると、法華経を否定している訳でもないなあ。難しいから、ちょっと横においておこう、位の感覚ですなあ。

2018-02-14

宗教と哲学〜『バウッダ』

『バウッダ(佛教)』(中村元三枝充悳 講談社学術文庫)の第四部には、「「宗教」と「哲学」の意義」(中村元)という文章が載っている。

個人的には、「宗教」は不要で「哲学」だけでいいのではないか、初期仏教は、「宗教」というより「哲学」だ、と思っていたので、中村先生がどのようなことを書かれているのか興味津々だった。しかし、最初の方を読んでみたら、「宗教」、「哲学」には、決まった定義がないという話から始まっていて、肩透かしを食らったような気がした。

宗教」、「哲学」ともに、西洋思想を受け入れるときに、新たに、あるいは古い言葉に新たな意味を持たせて作られた用語のようだ。

ともかく西洋では「哲学」と「宗教」とは異なった概念なのである。
西洋では「宗教」と「哲学」という二つの術語はかなり鋭く、互いに区別されていたが、東洋の諸伝統では、その区別をする境界線が見分けがたいことがしばしばである。(p435)


他の諸伝統における哲学または宗教に相当するものを、古代の中国人および日本人は、単に「道」と呼んだ。それは「生きる道」である。西洋思想の導入される以前には、仏教は「仏教」と呼ばれることは少なく、むしろ「仏道」と呼ばれていた。仏による生き方なのである。(中略)

以上、西洋における「哲学」および「宗教」という術語および他の諸伝統におけるそれらの対応語に共通な分母は、「生き方」ということであるらしい、という結論に到達した。(中略)

もしも、われわれが、哲学または宗教という二つのうちのいずれか一つを重視し、強調することを、あまりにも厳格に行なって、一方を考究の範囲から除いてしまうならば、われわれは幾多の重要な問題を逸してしまうことになる。(p457〜458)


あれっ? いつの間にか中村先生の雰囲気に呑まれてしまったかな?あぶないあぶない。

たしかに「宗教」と「哲学」を切り離すことは難しいのかもしれない、という思いはある。氏は、「生き方」という大変やさしい表現をされている。これはいいなあ。現実の様々な出来事を前にして、「宗教」とは、「哲学」とは、と言ってみても、「なにそれ?」と無視されてしまうような気がする。そういうときに、「生き方」という言葉のほうがまだまだ馴染みやすいだろう。それも伝統の影響かもしれない。

2018-02-10

『密教』雑感

密教』(松長有慶 岩波新書 1991年)という本を読んでいる。半分ぐらい読み終えた。
いくつか興味深い文章があったのでメモしておこうと思う。


1、即身成仏

密教では、われわれが父母から受けたこの現実の身体をもって、目覚めた者になることを目標としている。このことを即身成仏という。インド密教では現世での成仏、中国密教では速疾成仏という言葉でそれを示している。だが即身成仏という言葉をもって、人間存在の中に絶対を見つける原理を説いたのは、日本における空海が最初である。
空海は初期の著作である『弁顕密二教論』において、一般仏教すなわち顕教(けんぎょう)に対して、密教のもつ特色の一つとして、即身成仏をあげているが、一方、『即身成仏義』を著して、その理論的な根拠を明らかにした。(p59)

これは知らなかった。「即身成仏」という原理を説いたのは、空海が最初だったのか。

即身成仏義」については、こちらの記事が参考になりました。→403 Forbidden

(即身成仏日蓮創価学会の関係については、こちらのブログが参考になりました。→
即身成仏について。 - 気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆)

日蓮の場合、仏教用語を読み替えることがある。例えば「一念三千」。天台のそれを「理の一念三千」といい、自分は「事の一念三千」というが如し。「即身成仏」にしても、法華経の立場から「即身成仏」を説くというが如し。さらに専修念仏を題目に変えてみたり。それなりに根拠はあるのだろうが・・・。


2、仏教

仏教というのは、仏陀が説いた教えであるとともに、仏陀になる教えでもある。しいて分ければ前者が上座部系の仏教の立場であり、後者は大乗仏教の説くところである。(p60)

なるほどですねえ。
私は、「仏陀が説いた教え」というのは、「宗教」ではなくどちらかというと「哲学」のような気がしている。(哲学宗教の定義にもよるのだが。)「仏陀になる教え」というのは、「宗教」かなあ。「宗教」だなあ。特に「密教」は。


3、密教

大乗仏教の中で、顕になった教えと、秘密の教えという言葉が生まれたのであるが、もともとこれは、日本密教でいうような顕教密教という価値判断を含んだ用語ではなかった。そこでつぎに、密教という言葉のもとになる「秘密」の意味をたずねてみることから始めよう。一般に秘密といえば、他人に知られては困ること、一人占めにしておくべきものといった非公開の意味だけに受け取られやすい。しかしまた一方では、仏典にあらわれるような隠されたものという意味にも注目したい。
空海はこのような秘密の意味を、『弁顕密二教論』の中で、「秘密という言葉には、二つの意味がある。それは衆生の秘密と如来の秘密であって、衆生の秘密は衆生の自秘ともいう」と述べている。
ここで如来の秘密とは、われわれ衆生に知られるのが惜しいから隠しているわけではない。むしろ衆生のためを思って、秘密にしておくという場合だってある。われわれの方がそれを正しく受け取り、咀嚼する能力に欠けているとき、教えないほうがより親切だともいえるからである。
ことに密教では、実践を重視するから、ある程度の肉体的な訓練を経ていない者に、高度に洗練された修業法を授けても、かえって身体を損なってしまう危険もある。体操の演技でも、いろいろな運動競技でも、コーチがいて、選手のトレーニングの進み具合に応じて、高度な技術を順次与えていくことと、それは似ている。
要するに如来の秘密とは、衆生の側に不利を与えないよう、衆生の進捗の程度に応じて、如来の側が隠したり、公開したりする秘密といってよいであろう。

一方、あらゆるところで、隠されているものはまったくない。すべてが広くだれにでも公開されている、それにもかかわらず、衆生の方の目が開かれていないために、見ることができず、秘密になっていることを、「衆生の秘密」という。だれも隠そうとしているわけではない。自己の責任で秘密になっているだけである。したがってそれを「衆生の自秘」ともいう。
(p66〜68)

密教」の「密」とは、「秘密」ということか。「密教」といえば、人が動いている、動的なイメージがあるなあ。

4、師弟

「師弟」ということについて。古代インドウパニシャッドの時代に遡るようだ。インド中国、そして日本に伝わっている。創価学会で「師弟不二」が強調されるのも、ある意味、その流れの延長線上にあるとも言える。

ヨーガの観法は、みずからが修することが必要であるが、そのためには、宗教体験を積んだ師匠から、その方法が伝授されねばならない。このような意味から、神秘主義的な傾向をもつ宗教は、宗教的生活だけではなく、日常生活においても、師に対して絶対的な服従を求めるのである。(p96)


ウパニシャッドというサンスクリット語は、もともと「師匠の近くに坐す」という意味をもち、秘儀の伝授のありかたを示す言葉でもある。(p96)



密教 (岩波新書)

密教 (岩波新書)