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えぞしろくまのつぶやき

2017-04-10

家庭指導を受けたので感想を書いてみた。

先日、創価学会の中堅幹部の方(60歳代、男性)が我が家を訪問(家庭指導?)されたので話をしてみた。その人との対話のなかで、いくつか思い付いたことがあるので書いておこうと思う。

宗教は不要では?〕
人は、生まれていつかは死ぬ。生きてる間は、毎日、朝起きて食事を取り、一日動いて、夜眠りにつく。その繰り返しだ。単純に考えても、そこに創価学会のような宗教要素(勤行・唱題・会合)を入れる必然性があるだろうか?選択肢の一つとしてはあるかもしれないが、基本的に必然性はないと思う。神とか仏とかは、後付けの「物語」のような気がする。

日蓮の当時の考えとしては、道場において本尊を拝し唱題することがあっても、それ以外の場所では、普段の生活のなかで題目を唱えることを勧め、余裕があれば経文を読むという程度だったと思われる。当時は、一般家庭に仏壇はなかったため、日常の立ち振舞いのなかで題目を唱える、あるいは心の中で唱える、という風景が予想される。(家庭内に仏壇が普及したのは江戸時代以降と思われる。)(参照「唱法華題目抄」創価御書検索p12)*1

池田大作さんに対する顕彰?〕
池田大作さんに数多くの名誉博士、名誉教授等の称号が贈られていることを評して「すごいでしょう」という話題になったが、これは全く同意できない。私も最初は外国の大学での授賞式の様子を見て「凄いなー」と思ったこともあるが、今は全く同意できない。誉められようが貶されようが、周りに影響されるな❗ というのが日蓮さんの教えではなかったのか。二代戸田さんのいう相対的幸福・絶対的幸福という視点から見ても、顕彰というのは相対的なものであって、それを誇るというのは全く同意できない。数が多いというのも「過ぎたるは及ばざるが如し」で、逆効果ではなかろうか。
日蓮も「 賢人は八風と申して八のかぜにをかされぬを賢人と申すなり、利・衰・毀・誉・称・譏・苦・楽なり 」(四条金吾殿御返事p1151)とおっしゃっているではありませんか。

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*1:問うて云く法華経を信ぜん人は本尊並に行儀並に常の所行は何にてか候べき、答えて云く第一本尊法華経八巻一巻一品或は題目を書いて本尊と定む可しと法師品並に神力品に見えたり、又たへたらん人は釈迦如来・多宝仏を書いても造つても法華経の左右に之を立て奉るべし、又たへたらんは十方の諸仏・普賢菩薩等をもつくりかきたてまつるべし、行儀は本尊の御前にして必ず坐立行なるべし道場を出でては行住坐臥をえらぶべからず、常の所行は題目を南無妙法蓮華経と唱うべし、たへたらん人は一偈・一句をも読み奉る可し

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