投稿SS8・おくりもの

おくりもの(1) リングに煌めく百合の花


リズミカルにサンドバッグを打ち据える衝撃音、風に舞うシューズのスポーティな摩擦音・・・
遠く離れても、バッチリ拾えているはずだ。この日のために、マイク内蔵の最新機種を用意したのだから。
滑らかな円筒形フォルムで、望遠も接写も自由自在・・・画質もさすがデジタル、今主流の8mmとは雲泥の差だ。


僕はいったいなぜ、こんな事をしているのだろう・・・
格闘技経験皆無どころか、高校生にもなるのに、さか上がりもできやしない。
この美しき被写体に僕は触れる事も出来ないどころか、一撃も防げずリングへ這わされるに違いないのに・・・


快晴の放課後。今日も視線の先はただ一人。僕の席から桂馬飛びに前前左の、雨宮(あめみや)さん・・・
下の名前は百合瑛(ゆりえ)。まさに雨に濡れた白百合の如く清冽な美を纏う彼女に相応しい響きだ。
僕のような者が評価するのもおこがましいが、残りの部員全員を足しても・・・彼女の存在感には遠く及ばない。
罪悪感がのしかかる。ずっとここから、見ていた・・・だが、カメラを構えるのは、今日が初めてだったのだ。


雨宮さんがグローブを手に取るたび、部室から音が消える。全部員が聴衆と化し、拳闘芸術の調べに陶酔する。
黒のセミロングを靡かせる、ワルツの如く華麗なステップ・・・白く透き通る肌に、紅く肉厚なグローブ・・・
対比も眩しい黒のタンクトップからしなやかに伸びるパンチの切先は、疾すぎて肉眼で捉える事も出来ない。
驚異の連射速度で全方位から襲い掛かる、硬く鋭利な弾丸・左ジャブを軸とした、超攻撃的アウトボクシング
この持久力と精度・・・雨宮百合瑛のリズムが拳に宿る時、リングはステージへ、標的は打楽器へと化すだろう。
100撃に1のミスもない。不安定な上下支持式のパンチングボールすら、魅入られたように拳を求め弾け悶える。
紅の両拳が下ろされ汗に湿った黒髪をかき上げると、首筋の白い曲線が儚くも艶めかしく剥き出された。


体操で言えば、11点・・・測り得る尺度すら無いその実力は、訪れる男子選手をも次々と打ちのめし虜にした。
全国のジム関係者は、彼女に活躍の場すら与えられぬ20世紀現在の拳闘業界を嘆き、争って勧誘に押し掛けた。
国内団体が「女子」という革命前夜を迎えているのだとすれば、その旗手は雨宮さんをおいて他にいるまい。


類稀な可憐さと卓越した強さが並び立っているという、真の奇跡・・・それを少しも鼻にかけるそぶりも見せず
誰にでも礼儀正しく、心は優しく、慎み深くあり続ける・・・誰もが、人間として彼女を尊敬してやまない。
人気は男子だけにとどまらない。去年まで、わが校にはボクシング部自体がなかったのだ。
雨宮さんの為に新設された女子ボクシング部は、今や彼女に心狂わされた少女達による決闘の場と化していた。


その純粋無垢な微笑みに吸い寄せられるように、ついに芸能スカウトマンすら毎週欠かさず来るようになった。
普段は物静かな図書委員だが、その澄み切った美声を耳にした人間は、誰ひとりとして忘れないだろう。
奥ゆかしい美貌と格闘センスのギャップ、リングを支配するスター性・・・芸能界も放っておくはずがない。
拳の道か歌の道か・・・いずれにせよ、今は遠い世界へ彼女がいつか旅立ってしまう事が・・・寂しかった。
「その日」が明日かもしれない・・・つのる焦りが、ついに僕をこんな手段へ駆り立ててしまったのだろうか。


「あらあら、ずいぶん熱心ね・・・」
保健の吉原先生・・・なぜ、こんな所に。相変わらず、小さな白衣から今にもバストがはち切れそうで
ピンクのミニから、黒いガーターベルトが覗いている。方向性は雨宮さんと真逆だが、紛れもない美女だ。
「キミ、結構いい顔してるじゃん・・・ケチなカメラマンなんかやめてさ、俳優とか目指さない?」
あごをくいッと持ち上げられ、至近距離から美女の吐息が吹きかけられる。ううう、酒臭い・・・
なんて残念な人なんだろう。昼間から飲んで・・・僕が言う資格もないが、この人は本当に先生なのだろうか?


だが、これはまずい・・・面倒な事になるに違いない。僕は取り乱し、思わず逃げようとして、ずっこけた。
カバンの中身をぶちまけながら、もうだめだと思って・・・ハイヒールにすがりつくしかなかった。
「こ、これはそのっ・・・すっ、スポーツに打ち込む、おっ女の子の爽やかな姿をっ・・・」
案の定、カメラは真っ先に没収された。だけど先生は怒りもせず、散乱したものを拾うのを手伝ってくれて
僕に整理したカバンを突き出すと・・・何か本のようなものを手に取ったまま、しばらく後ろを向いていた。
「へえ、なるほどね・・・そんなに恐れなくてもいいわ。キミの望みを叶えてあげる・・・ついてきなさい」



おくりもの(1) リングに煌めく百合の花


僕はリングの上へあげられてしまった。こんな重いグローブを、あんなに軽々と・・・信じられない。
いつも遠くから見ていた、憧れの人のボクサー姿。まさか、同じリングで向かい合う日が来るなんて。
思わずトランクスに突き上げる興奮を隠そうと、柔らかくも引き締まった肢体から目を背けようとする。
真新しい血に汚れたリングの周りは、8名の女子部員が包囲していた。焼け付くような、憎悪と嫉妬の視線。
先週は10人以上居たはず・・・今も、雨宮さんを巡っての死闘が続いているのだろう。


「スパーリング用14oz・・・どう?これが本物よ。百合瑛ちゃん、軽く相手をしてあげて」
黒のウェアに青いヘッドギアを纏った美少女。丸く赤い肉厚のグローブに刻まれた、純白のラインが眩しい。
タンクトップから伸びる腕は白くしなやかで、スパッツに包まれた太ももは瑞々しく艶めかしかった。
滴る玉の汗、むせ返る程の芳香。既にボクサーとしての身体が、仕上がっている・・・僕を、叩きのめす為に。


「ふふ・・・それ、百合瑛ちゃんにはいらないわね。彼に貸してあげたら?」
「えっ!? いま着けてるの、ですか・・・?」
ふぁさ・・・
シャンプーのCMの如く封印を解かれた長髪は、汗に濡れたような光沢を湛えてうなじへ妖しく絡みつき
残り香を湛えたギアが、憧れの想い人の髪の香りが、クラクラする程に僕の鼻腔を包み込み打ち据えた。
脳裏をよぎった鼻腔という単語が、ますます僕自身を刺激する。このヘッドギアは、鼻まで棒で保護している。
恐らくこれから、僕は雨宮さんと闘う。このギアは僕の鼻骨を、あの鋭利な左ジャブから守る為に・・・
安全ヘッドギアの視界は狭い。異空間に迷い込んだ気分だ。もう、こんな体験は、一生ないだろう・・・


「ルールは簡単。キミは3分以内に雨宮さんに触ったら勝ち。もちろん、ふふ・・・顔面以外でね」
カーン!!
ゴングが鳴るや否や、当惑していた薄桃色の唇がクッと結ばれ、舞うステップの激しさに黒髪が乱れなびく。
僕はまともに正対する事も出来ず、窓からの陽射しを浴びて輝くファイティング・ポーズに、心を奪われた。
丸みを帯びた肩のラインへとろける、ストレートのセミロング・・・斜め後ろの席は、僕だけの特等席だった。
その静かなる美を湛えた少女が今リングの上に躍動し、艶めく拳を構え襲い来る・・・
妄想で、幾度ノックアウトされたかわからない。夢の中で、何十回、鼻をへし折られた事だろうか。
夢・・・夢だ。今まさに、僕の人生の夢が、かなった。あの時、保健の吉原先生がいてくれなかったら・・・


ばしぃんッ!!
「ぶっ!!」
視界が真っ白に染まり、革と革が弾ける爆裂は、想像以上に凄まじく脳髄を揺さぶった。
まだ鼓膜に破裂音が、ばしぃんッ・・・ばしぃんッ・・・と反響している。
今まさに、僕は憧れの雨宮さんのパンチを・・・最速最硬のジャブを、顔面に決められたのだ・・・!


「ほら、何をぼうっとしてるのっ! 雨宮さんは殴らないとは言ってないわよ! 百合瑛ちゃん、続けて」
「でも、この子は・・・」
「『普通の』素人、じゃないわ・・・! 安心してリングに沈めなさい」
「は、はいっ! じゃあ・・・行きます!」
ヘッドギアが無ければ、どうなっただろうか・・・「ソリッド」ボクサーとして恐れられる、雨宮さん・・・
柔軟な関節が「硬い」ジャブを築き上げ、加速する激痛のリズムに恐怖を植え付けられた相手は
白いナックルを鮮血の紅に染め、最期は見えない右の餌食に・・・一撃だけで、僕は馬の如く息を荒げていた。
僕は、為す術もなく・・・! 己の末路を思う程に身体は硬直し、心臓は早鐘を打った。


「シィッ!・・・シュッ!」
「ぶっ!ぶうっ!くはぁっ・・・ぶぅっふっ!!」
僕は左ジャブが顔面へ弾けるたび苦悶の呻きを上げ、畳み掛ける14ozに喉が引きつり、あえぎ続けた。
本当に何も、着弾以前に反応を起こせなかった。視界が紅白の明滅に眩み、鋭利な破裂音が魂にまで沁み渡る。
頭が四方八方に弾き飛ばされ、追尾して吹き荒れるステップとジャブの暴風に、まっすぐ立っていられない。
その切先が全く視認できないという冷厳な事実が、14ozの爆裂音をより深く脳髄へ染み込ませる。
屈辱の奔流に呑まれ、意識がどろりと眩んでくる。それは想像していたより穏やかで、眠気に近かった・・・


「だっ、だいじょうぶ!? 先生、カウントは・・・」
リング外から失笑が漏れ出す。両手両膝をついた僕の姿は、土下座の姿勢にしか見えなかっただろう。
「そうね、百合瑛ちゃんが数えてみたら? その方が・・・ふふ、彼には『効く』でしょうしね」
「そ、そういうものですか・・・じゃあ、ごめんね・・・わーん、つー、すりー・・・」



おくりもの(1) リングに煌めく百合の花


心臓が、今にも破裂しそうだ。見上げる視界に、張り詰めたグローブがワンツーの如く迫っては遠ざかる。
「ふぁーいぶ、しーっくす・・・」
一瞬も休まずステップを刻んでも微塵の疲労の色さえ感じられない透き通った声色に屈辱が刺激され
美少女自らに拳を突き付けられ敗北へのカウントを進められる事実に、ますます劣情が過熱してしまう。
眼がもう、グラついて定まらない・・・こんな美少女の左ジャブだけで、しかも14ozのグローブと
鼻を守る厳重なヘッドギア越しに・・・リンスの香りに包まれながら、仮にも男子であるこの僕が・・・!


「えーいと、ないーん・・・」
「ぐうぅうッ、はぁッ・・・! ま、負けない・・・もっと、だッ・・・!」
カウント9.5で、噴火するように起き上がった。しかし立った勢いで足がもつれ、そのまま前へ倒れ込んだ。
そのとき僕は気がついていなかった。周囲の女子達の異様なざわめき、憎悪に満ちた軽蔑の視線に・・・


キュッ・・・ずばぁんッ!!
息苦しくなる程の白い爆風に両つま先が浮くと、追って全身が真後ろへ吹き飛ばされた。
肉厚なグローブがヘッドギア内の空気を圧縮し、見開いた眼球すら圧し潰されそうだった。
右ストレートの直撃。まるで、拳銃の至近射撃を受けたようだ。もし今の一瞬を自ら撮影できたならば
グローブが潰れながらめり込む神秘の光景をコマ送りで見たかった・・・標的の脳を麻痺させると同時に
芸術への狂った憧憬すら植え付ける、熾烈なジャブの嵐が一撃で吹き飛ぶ程に、それは重く鋭い爆撃だった。


背骨をも軋ませる一撃に、眩しい天井が通り過ぎ、ロープが逆さまに視界へ迫り来る。
もう、下半身の感覚がない。必死にセカンドロープへ両腕を巻き付け、ダウンだけは免れた。
しかしそのあがきも、すぐに未体験の恐怖に塗り潰される事になる・・・


「この、変態っ・・・!」
殺意に満ちた視線。未だ打撃音がギア内に反響しながらも、その狂暴なる言葉は、しっかりと聞こえた。
まさかと思い、反射的に下半身を見やる。一瞬だけ映った、トランクスを突き破らんばかりの僕自身。
その狂態は瞬く間に14ozの純白で塗り潰され、僕は急速に薄れゆく意識の中、海老反りに天井を見上げた。


鼻への、右アッパーカット。それはギア越しに皮膚が擦り切れ両踵が浮く程の・・・激情の発露だった。
指一本すらも、言う事を聞かない。KOされるボクサーはその瞬間、天国にいるような快感を覚えるという・・・
だが冒涜されたリングは僕を地獄へと送り返し、左拳が無造作に顎をトップロープへ圧し付けた。
紅いグローブの甲が怒りに震え、激震する憤怒が僕の理性を崩壊させてゆく。


「死ねばいい・・・! 望み通り、リングで殴り殺してあげる・・・!」
誰も見た事のない、怒りに狂い咲く妖花。激昂に吐息は乱れ、己の感情の強烈さに驚き戸惑っているのか
火照った唇は淫らに歪み、危うい笑みすら浮かべている。僕はその狂気の微笑を独占している現実に、酔った。


ばすぅんっ!!
打ち付けた拳の反動に、美しい黒髪が逆立つ。恐怖の涙に歪む視界の片隅に、駆け上がる先生の影が見え・・・
無慈悲に吹き荒ぶワンツーが、ロープにリバウンドする僕をあのパンチングボールの如く撃ちのめし続けた。
ストレートに時折アッパーカットが混ざる。ダウンさえ、許されない・・・死ぬまで、逃げられない・・・!
天才美少女ボクサー雨宮百合瑛・・・どの公式戦でも見せた事のない、相手の死さえ厭わぬコンビネーション。
爆裂する鼓動と鼓動が繋がり、絶対不可逆の限界点へと僕の魂を誘い・・・


「ヒッ・・・! やめなさい!百合瑛ちゃん、ストップ、ストップ!! もうっ、いいでしょ・・・!」
「うるさい・・・! はな、せっ・・・! 殺す・・・!!」
しがみつく先生の顔は蒼白で、普段の余裕を失っていた。少女の右腕は、行き場のない憎悪に震えていた。
両膝をついた僕は、箍の外れた握力に呻き異形に歪んだ右の14ozを、意識と無意識の狭間で見つめ続けた。
そして・・・せめぎ合いに極限を超えて増幅した激情は、ついに暴発の時を迎えた。


「殺して・・・やるッッ!!!」
ぼぐしゃぁッッ!!!
フックともストレートともつかぬ白昼の凶弾は、垂直に近いフルスイングの軌跡へ見上げる僕を呑み込むと
サードロープへ後頭部をめり込ませ、バウンドした勢いで直立した僕は、緩慢に顔面からリングへと沈んだ。
コーナーまで振り飛ばされた先生は、視線も虚ろに座り込んでいた。
閉じゆく意識の中で、甘酸っぱい汗のミストが降り掛かる。雨宮さんは己の狂気に怯え、立ちすくんでいた。
僕はトランクスをうつ伏せに隠したまま痙攣し、極彩色の激情に呑まれ、やがて何もわからなくなった・・・


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おくりもの(2) 朱に染まる保健室


「気がついた? 擦れてるだけで、骨には異常ないから・・・しばらくこのまま寝てなさい」
かすかに揺らぐ天井・・・もう、夕方になっている。僕は吉原先生に介抱してもらっていたらしい。
鼻梁に大きな絆創膏が貼られる。もしヘッドギアが無かったなら・・・この下の骨まで、砕かれていただろう。


「キミの歳なら、好きな子がいて普通よ。先生は12の時に、初恋の女の子がいたんだから・・・
 人には十人十色の恋の形がある・・・誰も、マイノリティだからって非難されてはいけないの。
 先生はキミみたいな変態クンの恋を応援してる・・・何があっても、ずーっと味方よ」
恐らく、先生の初恋は時代に翻弄され、実らなかったのだろう。その言葉は、僕の鼻中隔につぅんと響いた。
僕は顔面パンチに憧れる変態・・・だが、それこそが僕の「恋の形」なのだ・・・


「先生も、よく女子ボクシング部を覗きに行くの。『あれ』で、同じ子がお目当てなのは、すぐわかったわ」
先生も雨宮さんを・・・それに「あれ」って、何の事だ・・・?
「でも本当に最後は、言葉も無かった・・・膝の震えが止まらなくって・・・先生はスポーツは素人だけど
 この子には『勝てない』って、心底感じた・・・こんな、愛おしくなる程の精神的敗北は、初めてよ・・・」
この人「も」、明らかに尋常ではない・・・雨宮百合瑛という規格外の魔性の前に、僕らは等しく敗者だった。


「待たせたわね・・・もう入っていいわ」
「し、失礼します。あ、あのっ・・・さっきは、あんなに殴っちゃって・・・ごっ、ごめんなさいっ!」
血が逆流し、パンチ酔いが吹き飛んだ。朱い夕陽に佇む美少女は、僕を叩き伏せた雨宮さんその人だったのだ。
「ああっ・・・! ぼ、ぼっ、僕の方こそっ・・・! あんな、うううっ・・・!!」
言葉がもう、何も出てこない。ただただ、申し訳なくて、どうしようもなく涙が溢れて止まらなかった。
雨宮さんは、清純なブレザー姿の図書委員に戻っていた。カップ酒の臭いを、シトラスの香りが中和していく。


「いいの・・・わたしも『あれ』、見せてもらったから・・・あ、あの、好きなんだね・・・こういうの・・・」
さっきから一体、「あれ」って、何の事なんだ・・・そんな僕の疑問を、温かくきめ細かい刺激が弾き飛ばす。
雨宮さんは白魚のような指を小さな拳に固めると、左拳で僕の鼻頭をツンと突き、当てた右拳を、深く押した。
硬い拳に鼻中隔がコキリと歪み、絞り出された涙を温かい左手で拭ってくれる。女の子の、柔らかい手だ・・・
「先生、見ちゃったんだ・・・この手帳、キミのでしょう。カメラを没収する時、落ちてたから・・・
 だから、おあいこよ。むしろ無断撮影より、先生は酷い事をしてしまったのかも・・・ごめんね」


もう驚きはなかった。リングの上で迫る拳に踊り狂い、妖しい激情の渦に溺れ、トランクスを汚した・・・
その一部始終を目の当たりにして、僕がどういう種類の変態か、先生も雨宮さんも理解していただろう。
徒手帳のメモ欄は、授業中に雨宮さんを想って書いた僕の拙い妄想文で、真っ黒に埋められているのだ。
「わたしのパンチであんなに興奮してくれた人なんて、いなかった・・・もう、あの時は気が動転してて・・・
 本当にひどい事を言っちゃったし・・・人を殺す気で殴ったのなんて、初めてで・・・
 まだ、わたしの気持ち・・・わからないんだ。だからね、確かめさせてほしいの・・・」
「先生も、今のうちに後悔なくやっておいたほうがいいと思うわ。
 取られちゃうみたいで寂しいけど・・・可愛い百合瑛ちゃんと変態クンの前途のために、協力させてね」


・・・こんな事って・・・!!
僕は、今までの変態人生が報われたような気がして・・・「はい!!」と、気を付けの姿勢で叫んでいた。
甘い香りの密室に、美女と美少女の温かい拍手が響き渡り・・・・・・そして、不穏な静寂が訪れた。


「じゃあ百合瑛ちゃん、用意してくれる? ほら、キミもよ。病人じゃないんだから、さっさと起きなさい」
雨宮さんは制服姿のまま真紅にギラつくグローブを拳にまとい、魅せつけるように紐を口でくわえた。
「うふふっ・・・今度は、顔面直撃だよ。とっておきのパンチで、ノックアウトしてあげるんだから・・・!」
直撃・・・! 鼻先10cmに吹き荒ぶシャドウの紅い疾風の奥で、鮮やかに艶めく前髪が濡れ羽色に揺れている。
カップ酒片手にカメラを構える先生。雨宮さんは立ち上る香気のオーラに包まれ、ボクサーに戻っていた・・・
「先生、最初は7ページでしたね。うまくできるかな・・・わたし、頑張って痛くするから、楽しんでね・・・!」
すぐに視界が真っ赤に染まって・・・そこから先は、覚えていない・・・



おくりもの(2) 朱に染まる保健室


「今日、先生と会った場所は?・・・じゃあ、昨日の天気は?・・・ここにいる雨宮さんの下の名前は?」 
もう、夜になっている。間仕切り用カーテンレールの奥、先生のペン先が休まず問診票を走っている。
しかし何という汚い字なんだ・・・失礼だがこの人は、自分が書いた字を後で読めるのだろうか。
最新ゲーム機の「サガ・セターン」や、高級ビデオデッキまである。ここは本当に保健室なのか?
僕はベッドの上・・・右目が、全く開かない。これは一体・・・


「ふう、心配ないわ。軽い逆行性健忘ってやつ・・・雨宮さんのパンチで、キミは記憶も砕かれたわけ」
・・・記憶「も」? 先生を探して右へ寝返りを打つと、包帯を巻かれた顔面の内部へショックが走った。
「あっ、まだ安静にしてないと・・・本当に、ごめんなさい。わたしがあんな、ひどい事を・・・」
「いいのよ。謝る事じゃないわ・・・鼻の骨の一本や二本、ボクシングじゃ当然だもの」


ベッド正面のテレビへ、迫る拳圧に腰を抜かした男子生徒が映し出された。眼は見開かれ、既に過呼吸気味だ。
「ふぅん、結構よく撮れてるじゃない・・・坊やのくせに、生意気なカメラね」
映像が上にパンしていく。アオリで現れた美少女は右拳を寸止めしたまま、夕陽に輝く肢体を魅せつける。
「綺麗・・・この画なんか、そのままジャケットにできそう。さすがは国民的アイドルの卵ね」
「もう、先生ったら。芸能界なんて、そんな・・・・・・カメラさんと、その・・・脚本がいいからですよ」
僅かに触覚の残っている左顔面を、甘く謡う吐息が撫で、まだ揺れている脳を電撃が貫いた。脚本・・・!?
「やっとわかった? そう、脚本家はキミ。脚本は・・・この妄想手帳よ」


「リングであなたが眠っている間に、先生と色々話し合ったの。恋には十人十色の形があるんだって・・・
 普通の女の子だったら、これを見て怖がったり軽蔑するかもしれない・・・でも、わたしは違った。
 こんなにも真っすぐな人がいたんだって・・・ふふっ、おかしいよね、わたしって・・・」
「あは・・・やけちゃうな。じゃ、次のシーン。脚本は記念すべき1ページ目よ。どう?内容、覚えてる?」
覚えている・・・これが、全ての始まりだった。


要約すればこうだ。華麗なフットワークで幻惑し、流れるようなステップからジャブを決めてくる雨宮さん。
ソリッドな衝撃に僕の顔面は瞬く間に赤く腫れ上がり、ロープへ両腕を絡めて必死にダウンを堪える。
軽いジャブが顔面を起こす・・・それは僕の鼻を真正面から叩き潰す右ストレートの序曲に過ぎなかった・・・


「じゃあ、VTRいくわね・・・」
保健室としては相当広い室内。よく磨かれた床を、リングシューズを鳴らしながら制服の妖精が駆け抜ける。
一瞬だけ左に誘導された僕の視線を掻い潜って、雨宮さんは流麗なセミロングを水平になびかせ逆を突く。
瞼上頬瞼テンプル瞼下頬瞼・・・左ジャブの散弾が右顔面を容赦無く波打たせ、眉間へ軽いワンツーが弾ける。
天井を仰いだ顎へストレートが深くめり込み、額へのジャブに再び顔を起こされると・・・映像が、止められた。


「み、見えない・・・それに、改めて聞くと凄い音・・・まるで銃弾みたいだわ・・・グローブは?」
「試合用10oz、新品です・・・もっと痛いのが、好きなんだと思って・・・」
ヘッドギアなど着けてはいない。画面の中の僕の顔は、右半分は鋭く硬いジャブの直撃で赤紫に腫れ上がり
集中砲火を浴びた右瞼は血肉の塊と化していた。左半分は恐怖に青ざめながらも、桁違いの激痛とダウンを拒む
男の意地がせめぎ合ったのか、両手は必死にロープ代わりのカーテン生地を掴み、顔面を曝け出していた。


パンッッ!!!
まさにそれは、拳による銃撃だった。乾いた破裂音を残して、僕はカーテンの下を滑稽な程の勢いで滑って行き
額から壁へ激突して止まった。カメラが慌てて後を追い、無惨に潰れた鼻から間欠泉の如く鮮血が噴き出す。
「いい? 覚悟して、よく見てね・・・これが、キミ達の望んだ・・・現実よ」


VTRが巻き戻され、張り詰めたグローブが鼻の頭へ着弾する直前から、1フレームずつコマ送りされてゆく。
こうでもせねば眼で追う事もできない、右ストレート。凄惨を極めたその一部始終は・・・神秘的ですらあった。
画面左から真紅の10ozが一直線に迫り、僕の鼻を自ら変形しながら圧し潰し、骨をも呑み砕き完全に包み込む。
グローブと顔面は一撃の邂逅の中で互いを執拗なまでに歪め潰し続け、淫靡なまでに禍々しく求め合った。
やがて狂奔する鮮血は行き場を失い、僅かな隙間から・・・
破裂の瞬間はもう、直視できなかった。己の血飛沫に汚れた天井が涙で滲む。僕の求める物は、何なんだ・・・!



おくりもの(2) 朱に染まる保健室


「だいじょうぶだよ・・・」
優しい声が、聞こえた。今まさに画面でその魔性を魅せつけている右拳が、僕の左手へ重ねられる。
その可憐な手はしっとりと汗で湿り、かすかに震えていた。雨宮さんも、必死に自分と闘っているんだ・・・
「だいじょうぶ・・・わたしがついてるから」
真上から前髪が額をくすぐり、腫れた右頬へ白い左手が添えられた。融け合う決意が、視線を画面へ戻す。


離れゆく拳と標的。夥しい返り血に煌めくグローブと、爆心地の如く陥没した顔面。全てを網膜へ焼き付けた。
一撃に凝縮された、出会いと別れがあった。命を燃やす、魂と魂の濃厚な口づけが・・・
白目を剥いて痙攣し、鼻どころか胸まで鮮血の朱に染める無惨な有様を、僕は誇らしいとさえ思った。


「ふふ、もうその辺にしてくれないかな?・・・ラストシーン、最終28ページ、いくわよ」
気がつけば、もうずっと手を握ったままだ・・・僕たちは慌てて離れた。本当に、先生は優しい人だ。
次の場面・・・僕はカーテンレールの下へ手錠で囚えられていた。既に足下には血溜まりが拡がっている。
なぜ、保健室に手錠が? ・・・だが、グローブの上からで両手首は擦れないし、両足は床に着いている。
つまり、僕が自らの意志で膝を曲げない限り、真のサンドバッグには成り得ないわけだ・・・
「これは先生がキミ達を試した、賭けだった・・・人を導く、教育者としてのね・・・」


メモ欄最後の28ページ目は、まさに今日の午後に書いたものだ。鮮明に記憶している・・・
サンドバッグと化した僕が、冷徹なる美少女ボクサー死刑執行人である雨宮さんの拳に弄ばれるのだ。
不規則にねじれ飛ぶ動きを予測し正確に顔面を弾き返し続け、夥しい返り血と轟く断末魔に嗤う雨宮さん。
振り子に揺れる重力加速度が全てのジャブをカウンターと化し、確実にその威力を増し、甘い死へと誘う。
最期の一撃は、拳の影も見せず顔面を撃ち砕く、必殺の右ストレート・・・!


現実は過酷だった。折れた鼻を貫く、湿った破裂音。激痛の生き地獄に悶え狂い、血の池を掻き回す両足・・・
「先生は、キミ達が大好き・・・だから、若い希望の花を、散らせたくなかった・・・
 限界を見せる事で、引き返させたかったのよ・・・そう、ここまではね・・・」
画面の僕は、凍り付いていた・・・襟元の白いラインすら真紅に染めた雨宮さんの、嗜虐に歪んだ唇に。
脳髄まで響く、硬い左ジャブ。これが快感・・・ここが僕の求めていた被虐の楽園なのだと心に刻もうとするが
鮮血に妖しく煌めく10ozは、腕で庇う事も叶わぬ顔面を鋭利に抉り続け、死への恐怖が理性を引き千切る・・・
ついに命乞いの視線を先生に送ろうとした、その時だった。


バシィッ!!
左フックが、一閃した。脳を揺らす為でも、血を絞り取る為でもない。僕の視線を、再び正面へ戻す為だけに。
脚本を超えた雨宮百合瑛のアドリブに、夥しく飛び散る朱の唾液。着弾点の逆頬までも波打たせる熱い衝撃に
魂を再び燃え上がらせた僕は、決意に膝を曲げると、完全なる人間サンドバッグとして現実へ翔び立った。
端正な眉へ僕の熱い血潮を浴びながら、雨宮さんは硬い10ozの凶器へと赤い舌を這わせ・・・微笑みを返した。


「先生の・・・完敗よ」
振り子の最下点に爆裂する鮮血円の外周が天井に達し紅の雨と降り注いでも、果てる事のない撲殺の逢瀬。
そこから先の映像、その業の深さに、僕たちは言葉もなかった。余りにもそれは、脚本に忠実すぎたからだ。
血の濃霧を斬り裂く右の10ozが鼻を真正面から砕き潰す。抱き止めた雨宮さんの眼は、穏やかに潤んでいた。
手錠が外される。僕は最期の力で小ぶりな肩を抱き返すと、鮮血色の黄昏の中、安らかに目を閉じたのだった。


「カメラと手帳、返すね。病院は手配したから、今日はこのまま眠りなさい・・・雨宮さんを、大事にね」
返り血の朱に染まったカメラと手帳が、傍らの机に置かれた。思えばこの手帳が、全ての始まりだった・・・
「「吉原先生、お世話になりました・・・!」」
僕と雨宮さんは、精いっぱいの礼をして、去りゆく後ろ姿を見送った。


「・・・もう、落ち着いた? じゃあわたしも・・・行かなくちゃ。待たせてる人がね、いるの・・・」
待たせてる人・・・その正体は、おぼろげに見当がついた。ついにこの日が、来たのか・・・
「くすっ、泣き虫さんなんだね・・・リングでも、ベッドでも・・・」
包帯が外される。潰れ果てた鼻へ、そよ風のようなキスが齎された。腫れた頬に、落ちる涙の雫が熱かった。
「このビデオ、絶対に最後まで観てね。わたし達、離れてもずっと一緒だよ・・・!」
熱い拳の余韻をへし折られた鼻に抱き締めながら、僕の意識は夜闇へ呑まれていった・・・


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


おくりもの(3) 誓いの右ストレート


ついに、解放の時は来た。今まさに僕は自室のテレビの前で、3週間溜め込んだ鼻の疼きを抑え切れずにいる。
外科病棟での日々は、本当に精神的拷問そのものだった。カバンの中にあの映像が眠っているというのに・・・
さあ、いくぞ・・・震える手でテープを取り出そうとする。しかし、開かない。改めて調べると、レンズは砕け
外装はひび割れ、前後方向へ圧縮された歪みがテープを封じ込めていた。僕は激情に任せ、愛機を破壊した。
テープは、無事だった。白昼の練習風景、夕刻の凄まじい撲殺劇の後、舞台は夜の部室へと移り変わる。


「今まで隠していて、ごめんなさい。別れるのがつらくって・・・あなたにだけは、言えなかった」
リングを背にスポットライトを浴びて立つ少女は、物憂げな静謐美を湛えていた。
清潔な図書委員の制服、純白のバンテージから伸びる指先・・・その余りの繊細さが、僕の胸を締め付ける。


「女子ボクシング部ができてから、毎日見守っててくれたよね。素直に言うと、最初はこわかった・・・
 だけど、同じクラスで斜め後ろの子だってわかって、何だかホッとして・・・温かい気持ちになったの」
僕も薄々は気付いていた・・・もう、今も罪悪感に胸が張り裂けそうで・・・優しすぎるよ、雨宮さん・・・
黒のソックスとスカートの隙間から控えめに覗く、眩しい脚線美。紺地に白いラインのブレザーに秘められた
円やかなボディライン。透き通るうなじへしっとりと絡みつく、流麗な黒髪・・・その全てが、愛おしかった。


「遠くのジムや芸能事務所の人達、ボクシング部の子達・・・わたしを巡って、多くの人が傷つけ合った。
 ずっと憎しみの渦の中で、孤独だった。でも、あなたはいつも、純粋にわたしを見守ってくれていた。
 いつか、もっと近くでパンチを見せてあげたいなって・・・そう、ずっと思っていたの」
潤んだ大きな瞳から、今にも宝石の涙がこぼれ落ちそうで・・・すぐにでも、抱き締めてあげたかった。
オペラ座の怪人」のような保護マスクを投げ捨て、痛む鼻を啜ると、僕は独白の続きを待った。


「実はね・・・歌手の養成所に入る事は、ずっと前に決まっていたの。東京のスクールにね・・・
 プロダクションの人はスカウトじゃなくって、上京の日程を決めるために校門まで来ていたんだ。
 芸能の道を勧めたのは、お父さんだった。物心つかない頃から、ボクシングと歌の楽しさを教えてくれて・・・
 わたしも、15年半の生涯をかけて磨いた雨宮百合瑛のリズムを、いつか広い世界で試してみたかった。
 歌もボクシングも、大切なのはハートとリズム・・・両立できると思っていた。昨日までは・・・」
改めて驚く程に小さく儚いその両手が、僕たちを甘苦い狂気の世界へと誘った、硬い拳へと握り締められる。


「だけど、わたしの拳は・・・あなたとの『ファイト』を楽しんだ今、鮮血に染まってしまった・・・」
天才美少女ボクサー雨宮百合瑛が初めて見せる、自嘲の笑み・・・その艶めかしさに、鼻がズキンと痛んだ。
「最後の力で抱き返してくれて、嬉しかったよ。でも、もう二度と普通のリングには戻れない・・・そう感じた。
 吸血鬼が日光を浴びる事を許されないように、わたしの拳はもう、決して人へ向ける事を許されない・・・
 今日からこの拳は、あなたの血だけを求めて磨かれ続ける・・・だから、ボクシング界に後悔なんてないんだ」
僕たちは、本当に何という事を・・・もはや、画面の向こうの彼女へ掛ける言葉も、見つからなかった。


「結局、病院送りにしちゃったね。本当に、ごめんなさい・・・でも、カーテンにしがみ付くあなたの鼻の骨が
 グローブ越しに砕け散る感触に、わたしの中の何かが弾けて・・・今も、拳の疼きが止まらないの・・・」
いつしか雨宮さんは両拳を持ち上げ、軽やかなステップすら踏んでいた。もう、抑え切れないのだろう・・・
ブレザーの紺地に浮かび上がる純白の襟縁のラインが、小さく固められた両拳の奥で優美に揺れている。


「このビデオを撮っている今、あなたは保健室のベッドの上で安らかに眠っています。
 あなたが眠った後、手帳とカメラを借りて、先生にお願いしたの・・・その時に、転校する事も話して・・・
 先生は処置の疲れも見せず、惚れた弱みよとか冗談を言ってくれて、再びカメラを構えてくれました」
キュッ・・・!
軽やかな擦過音が響くと、画面へ白いバンテージが迫り・・・止めた右拳の奥から、切ない百合の笑顔が咲いた。


「これからこのカメラをあなたの顔だと思って、精一杯叩きのめします。絶対、最高の映像にしてみせる。
 わたしの気持ちをこの拳に込めて、あなたに贈ります。きっといつかまた逢える・・・大好きな人へ・・・」



おくりもの(3) 誓いの右ストレート


四方から次々と瞬くライトに、深い夜闇へ沈んでいたリングが浮かび上がる。
壇上中央の雨宮さんは、あの試合用10ozを小ぶりな肩に抱き締めたまま、立ちすくんでいた。


――囚われの美少女。卑劣な男は、この百合の如く可憐な花を腕力で屈服させ・・・心までも汚す気なのだ。
先生の声でナレーションが入る。これは21ページから24ページまで続いた、僕の妄想文そのものだ・・・!
――「もし俺が万が一にも敗けるような事があれば、何でも願いを叶えてやる・・・できるものならな」
ハスキーな声質を活かし、敵役をも演じ分ける先生。のそりとカメラがリングインし、怯える少女と対峙する。


――恐怖に後ずさり、その肢体を拳で庇おうとすると・・・自然にファイティングポーズが形成された。
――照明にギラつく赤のグローブが、眩しい。意外にも隙のない少女のスタンスに、男は・・・見とれた。
――「くそっ、生意気な格好しやがって・・・!」


カーン!!
真新しく清楚な制服姿が近づくと・・・紅いフラッシュに爆裂音が迸り、見つめる僕の顔面を吹き飛ばした。
――ゴングと同時に突進した男は、その金属音の反響が終わらぬ内に、美少女の足許へ跪いていた。
巻き戻し、コマ送りまでして、やっと視認が叶った。一瞬に4撃ものジャブが、画面中央、僕の眉間へ・・・!
見上げる雨宮さんは両の10ozを下げ、照明の逆光が、その表情を隠していた・・・


――リングに吹き荒れるジャブとステップの芳しい烈風が、狩り狩られる二人の立場を着実に逆転させてゆく。
――皮膚と共に腫れ上がる屈辱が更に隙を呼び、紅の10ozが男の顔面を打楽器の如くリズミカルに打ち鳴らす。
容赦無くレンズを直撃する顔面パンチは、どこまでも「脚本」に忠実だった。これが、僕の望んだ絶望・・・


ばばしぃッ! ぱぁんッ! ずぱぱぁんッ! ・・・ばすんッ!!
真紅の閃光が画面を弾き飛ばすたび、照明に眼が眩む。やがて疾風に舞う黒髪すら画面へ捉え切れない程に
そのフットワークは加速し、擦過音と破裂音のハーモニーが魂を翻弄し続けた。


――少女は左へ右へと顎を打ち据え、巧みに男の視界から逃れると、振り返った左頬を右ストレートに捉えた。
ばくぅんッ!!
深く鋭く捻り込む一撃に周囲180度が光の帯と歪み、思わず視聴者の僕の首がねじれ、脳を激しく揺らされた。
あのヘッドギアの視界部分に埋め込んだカメラが、革と革の弾ける衝撃音を拾っているのだろう。
追撃に打ち鳴らされる画面が、小刻みに震えている。怯えているのだ。先生も、僕も・・・


迫り来る10ozの光沢は初々しく張り詰めながらも、僕の血を吸ったせいか、しっとりと艶めかしく輝いている。
コマ送りにして一撃一撃を噛み締める。意図して、鼻への直撃を避けているのか・・・?
まず丹念に脳を揺さぶり脚を奪う・・・そして絶望に打ちひしがれた僕の顔面を、真正面から叩き潰す・・・
その瞬間をなす術も無く待つ拷問に鼓動は暴れ狂い、やがてリモコンを持つ手すら痺れ始めた。
カメラが揺れている。雨宮さんは息一つ乱さず冷酷な微笑を湛え、視界の定まらない僕を見下ろしていた。


――リング上は、試合と呼ぶには男にとって余りにも過酷すぎ、少女には退屈すぎる展開となっていた。
――少女の奥底に眠っていた悪戯な残虐性が、研ぎ澄まされた左ジャブの形を借りて開花する。
――骨を直接蝕む破滅音。男は少女がまだ実力を隠していたという現実に恐れ慄き、凍り付いた。


ずぱぱぱぱんッ!! ずぱぱぱぱんッずぱぱぱぱんッ!! ・・・・・・・・・???
耳が、聞こえない・・・!? ヘッドホンから直撃する衝撃音に、鼓膜が破られてしまったのか?
違う・・・これは、寸止め・・・!? 雨宮さんの、アドリブだ・・・!
左眼、右頬、左頬、右眼、そして顎・・・! 逆五芒星に散りばめられた、峻烈にして絢爛たる連打の封印・・・
コマ送りでも捉え切れない無数の流星雨の奥から、雨宮百合瑛は見た事もない笑みを、嘲笑っていた・・・
静寂の画面から、真っ赤な拳風が吹き荒れている。見開いた眼は乾き、魂の蝋燭は今にも吹き消されそうだ。
僕を遥かに凌ぐ、内に秘めた異常性・・・脳髄まで浸透した敗北感へ、再び狂気の衝撃波が直撃し畳み掛ける。


ずぱぱぱぱんッ!ずぱぱぱぱんッ!ずぱぱぱぱずぱぱぱぱずぱぱぱぱんッ! ぱんぱんぱんぱんぱぁんッ!!!
停止ボタンに掛けた指さえ、麻痺させてしまう・・・それはもはや映像の形を借りた、精神潰滅兵器だった。
――五感全てを星に封じ込め砕き尽くす、禁断のコンビネーションジャブ「シューティングスター」
――哀れな標的は、絶望に立ち尽くしたまま失神し・・・美少女の10ozが下ろされると、大の字に沈黙した。



おくりもの(3) 誓いの右ストレート


「やっと気が付きましたね。ご機嫌はいかがですか?・・・惨めな敗者さん」
僕は既に、この主観映像の視聴者を超え・・・当事者として、少女に魅了されていた。
「わたしのような少女に触れる事も出来ず敗れ、さぞや無念でしょうね。ふふ・・・今にも死を願う程に」
傷一つない微笑みが迫り、優越感に火照った吐息の熱さに、魂が凍り付く。
「敗者は勝者の願いを叶える・・・それが、約束でした」


これは、保健室での・・・返り血に染まった制服の襟から、凄惨な幻臭すら立ち上るようだった。
「では、あなたの願いを叶えさせて下さい・・・それが、わたしの願いです」
今までは完全に「役」に入り込んだその演技力に、感嘆していた。だが、違う・・・
「脚本」には、優越感に満ちた言葉・・・としか、記述がない筈だ。この残忍な台詞は全て、あの可憐で優しい
雨宮さんのアドリブなのだ・・・これが雨宮百合瑛という魔性の、剥き出しの姿・・・!


「もう、眼も頬も顎も、狙いません・・・というより、ザクロみたいに裂けて・・・ふふ、殴る所がないんです」
互いを歪め合う10ozの爆裂音に、現実が遠くなる。いけない、引き返せ・・・この映像に、喰われる前に・・・!
「『ここ』以外には、ね・・・!」
画面下75%を蹂躙する、紅い10ozの光沢。その先から魂を焦がす、嗜虐の悦びにとろけた恍惚の眼差し・・・
僕はこの瞬間、「停止」ボタンを押す最期の機会を、奪われた。


「安心して・・・もうどこにも逃がしはしないし、一撃も寸止めにはしないから・・・
 これがあなたへ捧ぐ・・・拳の『おくりもの』・・・たっぷりと楽しんで、ねっ!!」


ガゴォンッ!!
最後の箍を焼き切った可憐なる狂気が真っ赤な10ozを纏い視界へ膨張し、正確に鼻を捉えすり潰す。
頭蓋に轟く、おぞましき破壊音。コーナーにカメラを固定し、グローブを直撃させている・・・
全身全霊の右ストレートが、真正面から顔面へ激突する。それも、衝撃の逃げないコーナーと挟み潰され
身動き一つできない鼻面へ、何十撃、何百撃でも・・・僕の魂が、燃え尽きるまで・・・!


ガァンッ! ゴグンッ! バゴォッ! ・・・ガギュゥッ!!
パンチが直撃する度に爆裂する衝撃はカメラすら圧し潰して浸透し、コーナー自体をも歪ませてしまう。
頭蓋内のあらゆる骨が軋む有様を想起させずにおかぬ生々しい金属音が、僕の精神を紅い極限へと誘っていく。
それはボクシングと呼ぶには余りにも荒々しく残虐で・・・殺戮と呼ぶには余りにも洗練され、美しかった。


僕だけが知っている・・・部室のリングで味わった、最後の一撃に秘めた狂気を・・・雨宮さんの、真の姿を。
すがり付く先生を片腕で振り飛ばし、バウンドするほどに僕を叩き付けた、暴れ狂う激情のうねりを。
端正な顔立ち、お淑やかな所作・・・絹糸のように繊細で、滝の流れ落ちるが如く白い首筋へ絡みつく黒髪・・・
誰もが、この少女が「ボクサー」である事実を信じられぬまま、美しき拳闘革命を「ソリッド」と賞賛した。
鋭利なジャブの硬さと激痛で戦意を奪う・・・それは破壊を拒む少女の優しさが生んだ、偽りの姿だったのだ。


幾十層にも重ねられる狂気の爆撃に、コーナーポストを支える鉄柱までもが呻き声を上げてしなり
カメラは脊髄を貫く激痛に悶え狂うかの如く、生々しく前後に震えていた。
――ぶうぉッ!!おぶふッ!!ごふぇッ!!ひぃっ・・・ぶうっふぅッッ!!!
真紅の10ozの奥から迸る、愉悦の冷笑。ヘッドホンを震わせ、頭蓋に反響し脳を犯す、金属性の破滅音。
極限を超え怒張した熱狂はいつしか僕の神経へ硬く鋭い痛覚を蘇らせ、断末魔すら上げさせるに至った。
顔面の痺れは指先にまで達し、リモコンを床に落とした直後・・・時間の流れが、歪み始めた。


ガゴォォォッン・・・!! ドズゥゥゥッン・・・!! ゴグシャァァッ・・・!!
止まりゆく鼓動に切り取られた全ての瞬間が、美しかった。迫る終焉の時まで一撃たりとも姿勢を崩さず
華奢な全身を爪先から捻り、輝く汗の粒に黒髪を舞わせ、無上の拳を贈り続ける雨宮さんが、愛おしかった。
鼻骨は粉々にすり潰され、逃れ得ぬ恐怖に狂奔する鮮血は行き場を失いついに溢れ出す。眼から、耳から・・・!
僕は魂ごとスロー映像に閉じ込められ、完膚無きまでに破壊された理性の極北で・・・安らぎを、感じた。


――雨宮さんの「おくりもの」・・・しっかり受け取ったよ。
少女は画面の向こうから、穏やかな笑みを返してくれたように・・・思えた。
最高最期の一撃が、ゆっくりと僕の顔面へ吸い込まれていく。轟く異音にひび割れ、完全に破壊される画面。
――ありがとう・・・
全てが終わり・・・僕の意識は、砂嵐の向こうへと失われていった。



おくりもの(3) 誓いの右ストレート


入院の間に、雨宮さんは学校を去っていた。お別れ会に出席できなかった後悔はあったが
僕につらい別れを再び味わわせたくなかったのだろう、温かな思いやりが心に沁みた。


思い出の保健室を訪ねる。新しい先生によると、吉原先生はもう辞めてしまったのだという。
開設の意義を失った女子ボクシング部は解散し、部室には誰一人として立ち入る者もなかった。
一切の繋がりが、消えてしまっていた。この喪失感を慰めるものは・・・あの映像しかなかった。


最初は動物的な衝動に駆られるまま・・・今は人間として、観るたびに愛おしい気持ちが溢れてやまない。
もう一度、あのパンチの硬さを確かめたい。この治った鼻で・・・それは今や、叶わぬ願いなのだった。


・・・


それから半年後、一通の手紙が届いた。
差出人は手書きで・・・凄い、何語なのかもわからない。だがこの乱暴な字、間違いない・・・!


封筒の中身は、発売前のシングルCD・・・そして、番号"1"のファンクラブ会員証。
「雨宮ゆりえ」の丁寧なサインは、よく見ると「え」の字の終わりが、慎ましやかなハートに巻いている。
震える手で「再生」ボタンを押し、息を呑んだ。トラック1に、僕へのメッセージが入っている・・・!


「久しぶりだね・・・雨宮ゆりえです。先生は今、個人プロデューサーとしてわたしを支えてくれています」
あの大手事務所から雨宮さんを奪い取ったという事か・・・本当にこの人は、底が知れない。
「先生のおかげで、デビューが決まったの。今はあなたにだけ、聴いて欲しくて・・・」


次は、舞台にも挑戦するのだという。このデビューシングル「誓いの右ストレート」発売の暁には
全国から申込ハガキが殺到する事だろう。僕は最初のファンとして選ばれた無上の光栄を噛み締めると共に
禁断の拳の契りを交わした想い人が、ついに遠い世界へ旅立ってしまった寂しさに揺れていた。


「♪ もう届かない 誓いの右ストレート 遠すぎて・・・」
清らかに沁み渡る歌声は、どこか切なくて、涙が頬を伝った。トラック3のカラオケが終わり
「取出」ボタンに指を掛けたその時・・・10秒にも満たない隠しトラックが、魂を熱く打ちのめした。
「次の土曜日、22時・・・あの部室で待ってるから」


・・・


僕は懐かしいリングの上で、最愛の人と再会を果たした。見知らぬセーラー服が、何だか舞台衣装みたいで
真紅の試合用10ozに似合って・・・言葉もなく鼻を押さえ涙をこぼすと、痛い程に柔らかく抱き締められた。
甘酸っぱい芳香が熱く鼻を撃つ。その肢体は、紛れもなく拳闘士として磨き抜かれていた。僕だけの為に・・・


「ちょっと・・・もうその辺にしなさいよ。いくら今日はキミ達が主役だからってさぁ・・・
 いい? これからは歌って殴って踊れるアクション女優の時代よ! 全国公演は近いわ!
 美少女ボクサーと人間サンドバッグの恋を描いた直撃ノースタント撲殺巨編・・・ほらっ、これがホンよ!」
台本を投げてよこされる。ははは、全然読めない・・・だけど内容はもう、わかっていた。


こんなツアーじゃ、死んでしまうよ・・・今日来てくれた事自体が、僕を思いやった、優しいお芝居なのだ。
思わず、声を上げて笑ってしまう。先生もカップ酒片手に笑いを堪えられない。
雨宮さんも上品に右のグローブで口許を隠す。笑いすぎてこぼれた涙を、今度は僕が拭ってあげた。
僕も今から立派な役者だ。やり抜いてみせる。この魂、燃え尽きるまで・・・!


「ああ、私の目に狂いはなかったわ。さあ役者さん・・・死ぬ覚悟でかかりなさい。
 この舞台をやり切れるのは、キミと雨宮さんしかいない・・・だから私たちは、ここに来たのよ!」
渾身のキューが出される。煌めく10ozが高らかに三度打ち鳴らされ、朱い左拳が僕の鼻先へ突き付けられた。
「ふふっ、わかってくれた? 行くよ・・・鼻の骨の一本や二本、覚悟して。痛いの、好きだもんね・・・?」
残酷ながらも、どこか憂いを帯びた囁き・・・
「違う・・・痛いのが好きな訳じゃない。僕は雨宮さんのパンチが・・・雨宮さんが、好きなんだ!!!」


硬い10ozが鼻を圧しつけ、あのカメラに抉られ剥き出された鉄柱へと、僕の頭蓋を直接擦り付ける。
永かった・・・そして、還ってきた。この歪んだコーナーこそが、僕の魂の収まるべき、安らぎの座だった・・・
憧れは妄想を呼び、妄想は映像を生んだ。その映像は今、10ozの紅い現実と化して、僕の顔面へ炸裂する。


「♪ もう逃がさない 誓いの右ストレート 受け取って・・・!」
清冽な歌声が響き、百合の笑顔が咲き乱れ・・・魂が燃え滾り昇華する程に、深く濃厚なキスが齎された。
それは拳と顔面による・・・この世で最も、痛いキス。