Hatena::ブログ(Diary)

gurenekoのメモ このページをアンテナに追加 RSSフィード

2018-04-17

「私たちは『1984年』の世界に住んでいる!」と主張する者は、その主張の是非に関わらず、ほぼ全員が信用に値しない。なお、一応例外もいる。

| 11:49 |

 村上春樹氏が『1Q84』という小説を書いたせいで、私が長年親しんできた『1984年』の知名度が上がった。

 それは良いのだが、困った事に『1984年』をめぐる言論の質の平均は劣化を免れなかった。

 特に酷いのが、政府批判に絡めて「今この社会こそが『1984年』の世界そのものなのだ!」と主張する者である。

 実際に『1984年』を読めば解る事なのだが、完全な全体主義が達成された『1984年』の世界ではそういう反政府的な言論は原則として存在し得ない。たまに存在しても、それは不満分子を誘き寄せるための罠なのである。

 『1984年』のメッセージは、「ここまで堕ちない様にしましょう。」であって、「この状態から脱出しましょう。」ではない。その状態になったら脱出は不可能であるし、そういう世界では『1984年』の出版も不可能だからである。

 そういう訳で、「私たちは『1984年』の世界に住んでいる!」と主張する者は、原則として以下のどれかに当て嵌まるであろう。どれも信用のならない連中である。

※実際に読んだ事のない有名な本を自己の言論の権威付けに使おうとして失敗した者。

※自己の言論の権威付けに使おうとして有名な本を取り敢えず斜め読みしてみたものの、中身が全く理解出来なかった者。

※現実の日本社会を捉え損ねている上、自分だけは秘密警察の追跡を見事に回避出来る天才だと自惚れている者。

※実は本人は日本社会と『1984年』をかなり正確に理解しているものの、発言はいつも「嘘・大袈裟・紛らわしい」ものばかりである者。

※その主張自体は全く正しいが、同意者を誘導して投獄しようと企んでいる独裁政権の手先である者。

 取り敢えずこの全員に、「せめてIQを84程度まで高めて出直してこい。」と言いたい。

 但し、例外的に信用出来る場合もある。

※「私たちは『1984年』の世界に住んでいる!」と叫んでいたが、数日後行方不明になり、その人がかつて存在したという痕跡ごと消えてしまった者。

 本人による偽装工作の可能性が零とは言えないが、これはかなり信用に値する。

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

nesskonessko 2018/04/19 21:56 村上春樹の『1Q84』は、携帯電話やインターネットがなかった時代を舞台にした物語にするための1984年設定だったのかなあと思いました。
オーウェルの『1984年』はインパクトがあるせいか(わりとこの先もずっとこうなったらこわいよねと語り継がれそうで)、デヴィッド・ボウイも「1984」という歌を歌ってましたね。歌詞内容は知らないのですが。
高校生の頃、有名な小説だからと読んでみて、主人公に対する拷問が非常に気持ちが悪かった記憶があって、二度と読みたいとは思わないです。中国やロシアや中東の人が読んだらどういう感想を持つのかは気になりますね。

gurenekogureneko 2018/04/20 03:03  実は中国語訳の『1984年』も所持しております。解説者はやはり文革を作中世界の類似例として挙げていました。
 「ビッグブラザー」が「老大哥」と表記されると、もうそれだけで雰囲気がガラリと変わり、そういう点でも中々楽しめました。

2018-04-16

『牙狼<GARO>-VANISHING LINE-』(第22〜24話)

| 01:40 |

第22話「YU LIGHT」

 マーティンがホラー「キング」となりソードとソフィーはピンチになるが、復活したザルバが駆けつけて救われる。

 ザルバとはかなり感動的な離別があったのに、すぐに復活して少々興醒めである。無印の最終話の時と違って、記憶も連続しているようである。

 ソフィーがマーティンに現実を突きつけて陰我を生じさせ、ホラーにするところまですべて敵の計画の内だったようであり、ソフィーはそれを知って一度は落ち込む。

 しかしキングが世界中をエルドネットで浸食しようとしているという事と、アクセス権限のある自分はそれを防げるという事を知り、再びソードに助力を申し出る。

 しかしそこへ、キングの命を受けたクイーンとナイトが現れた。

第23話「MY SISTER」

 クイーンの対処はジーナが、ナイトの対処はルークが担当する事になる。エルドネット内では、ソフィー対ビショップの戦いと、ソード対キングの戦いとなる。

 この中でクイーンとキングは完敗し、死ぬ。ビショップとナイトはほぼ無傷であったが、キングが死んだ瞬間にリングによる指揮系統から自由になったようで、いずこかへ去る。

 ソフィーがエルドネットからまだ生きている被害者達の魂を解放し、のどかなエンディングに相応しい音楽が流れ始めるのだが、ソードが現実世界へと脱出しようとした瞬間にナイトが立ち塞がる。

 『紅蓮ノ月』は後日談としての残党との戦いが数秒しかなかったが、今度は逆に後日談だけで丸々一話使う気の様である。

第24話「FUTURE」

 丸々一話、後日談である。最初の数分でナイトが敗死し、後は各人が各様の未来に向かって歩み始めた様子が描かれて終わる。

 やはり『紅蓮ノ月』とは逆の形で後日談の長さが不適切だったのではないかという感想を持った。

2018-04-02

阿衡事件の遠因か? 元慶八年六月五日の詔「藤原基経の功績は既にこの四人を越えた!」 余談として霍禹の話題

| 19:32 |

 『日本三大実録』の第四十六巻によると、光孝天皇は即位した直後の元慶八年(西暦884年)六月五日に詔を下し、「藤原基経の功績は既にこの四人を越えた!」と認定している。

 その四人とは、「伊」・「霍」・「祖淡海公」・「叔父美濃公」である。

 「伊」とは、殷王の太甲を追放して反省を促した伊尹である。「阿衡」の元ネタとなった人物である。

 「霍」とは、前漢の昭帝に仕え、その後継者の劉賀を追放し、宣帝を立てた霍光である。「関白」の元ネタとなった人物である。

 「祖淡海公」とは、藤原基経の先祖である藤原不比等である。

 「叔父美濃公」とは、藤原基経の叔父である藤原良房である。

 これら四人は全員キングメーカーであるが、とりあえず陽成天皇を廃して光孝天皇を即位させる事は、光孝ルールではこの四人衆を越える功績らしいのである。

 その約三年後、仁和三年八月二十六日、光孝天皇が崩じる直前(公式記録上)、藤原基経はまたもやキングメーカーとして次の天皇にとっての功績を挙げる。

 人臣となっていた源定省を皇族に復帰させて皇太子とし、さらには次の天皇とする作業の首班となったのである。

 その直後に起きたのが、有名な阿衡事件である。

 宇多天皇が、初めに藤原基経を「関白」とすると形式上断られ、次に「阿衡」とすると本気でサボタージュされ、結局関白になったという、あの有名な事件である。

 昔私は、「基経は「自分は霍光であって伊尹ではない。」と言いたかったのかもしれないと考えている」という内容の記事(http://d.hatena.ne.jp/gureneko/20100204/1265215696)を書いた。

 だが今思うに、藤原基経は伊尹・霍光・藤原不比等・藤原良房を越えたという公式認定がなされていた人物なのであるから、その三年後に更に一介の人臣を一日にして天皇にするという離れ業をやってのけたというのに、その相手に霍光風情に譬えられたら、もうこの時点で相当厭な気分になったのではなかろうか?

 ついでに余談だが、父親が正式に「関白」になった藤原時平は戦々恐々としたであろう。「親が霍光なら、俺は霍禹かよ!」と。

 そして霍禹の様な目に遭わないよう、必死で昌泰の変を起こしたのかもしれない。

2018-03-24

やや日刊カルト新聞社で廃止されたポスト、「創始者兼総裁」についての疑問

| 22:20 |

 やや日刊カルト新聞社で、藤倉善郎氏が務めていた「創始者兼総裁」というポストが、藤倉氏の解任と同時に廃止され、新たに「容疑者兼総裁」というポストを設けるという発表(https://drive.google.com/file/d/1K1d7dTlUVzD6RhRoGvMP3K4P7OvoNr26/view)がなされた。

 ここで私は疑問に思った。そもそも、藤倉氏はいつ、「創始者兼総裁」なるポストに就任したのかと。

 「創始者兼総裁」を解任したという同社の記事(http://dailycult.blogspot.jp/2018/03/blog-post_23.html)には、「2015年に同紙・鈴木エイト副代表に年間の記事出稿数で破れたことから主筆の座を追われ(現在の主筆は鈴木エイト氏)、創始者兼総裁に就任していた。」と書かれており、これを普通に読む限りでは主筆を辞任したのとほぼ同時に創始者兼総裁に就任した様に感じられる。

 しかしながら、2015年の藤倉氏が主筆を辞任した事を伝える記事(http://dailycult.blogspot.jp/2015/01/blog-post_12.html)では、「やや日刊カルト新聞社では、今後の藤倉総裁の正式な肩書を「創設者兼総裁」とすることを決定。」と書かれている。

 よって藤倉氏の肩書は、「主筆」→「創設者兼総裁」→(他にも何度か肩書の変化があった可能性のある時代)→「創始者兼総裁」→「容疑者兼総裁」と変遷した事になる。

 だが、創設者兼総裁というポストがその後どうなったのか、いくら検索をしても判明しなかった。

 以前にも私は、藤倉氏がやや日刊カルト新聞社の主筆を辞任した後も個人のブログで同社の主筆を名乗り続けた事を批判した(http://d.hatena.ne.jp/gureneko/20150302/1425256071)。

 今後も愛読者だからこその厳しい視線で関連問題を追っていく事にする、

2018-03-22

昔は左翼風の映画に思えた『ゲゲゲの鬼太郎 激突!!異次元妖怪の大反乱』だが、今視聴すると別の解釈も成り立った。

| 08:53 |

 『ゲゲゲの鬼太郎 激突!!異次元妖怪の大反乱』という映画がある。西暦1986年12月20日に公開されたものである。

 この映画には三つの勢力が登場する。

 第一は、「ゲゲゲの鬼太郎」とその友人たちである。妖怪・人間・半妖怪の混成であり、当然ながら人間と妖怪の共存を目指している。

 第二は、妖怪皇帝を頂点とする異次元妖怪たちである。「怪気象」を利用して東京を占領し、妖怪帝国を建てる。

 第三は、中曽根風の容貌の総理大臣を頂点とする日本国政府である。都民の犠牲をいとわず、ミサイルで怪気象を消し飛ばそうとする。

 

 自分はもっと若いころにこれを視聴した時、かなり左翼風の映画だなと思った。

 妖怪帝国は、占領した国会議事堂を本拠地としており、軍装をした妖怪皇帝が威張っている。

 この妖怪皇帝の正体は「ぬらりひょん」である。本来の設定では、他人の家にあがりこんでお茶を勝手に飲んだりするが気付かれないという妖怪である。『ゲゲゲの鬼太郎』におけるぬらりひょんの設定では、「妖怪の総大将」でもある。「労働者の作った価値を巧妙に搾取する資本家の総大将」という左翼的な天皇観を投影するのに最も相応しい妖怪である。

 ねずみ男に寝返った娘が「朧車」に粛清された総理大臣の「ぐわごぜ」が、その悲しみを皇帝に訴えると、「国の為だ。娘の一人位我慢しろ。」と言われる。

 以上により、この妖怪帝国は大日本帝国のイメージが投影されているように感じられた。

 日本国政府は、「愛国」の鉢巻をして「君が代」をBGMにして自衛隊の出動を喜ぶ防衛庁長官ですら、後半では寧ろ穏健派に見えてしまう程の好戦的な政府である。

 末端の警官までもが、「町を騒がせた罪」とかいう曖昧な理由で鬼太郎たちを逮捕しようとし、そのついでに平気で発砲をして一反木綿に風穴を空けたりするという、ろくでもない政権である。

 よって、憲法や刑事訴訟法の軽視という、現代日本の保守勢力の悪い側面を戯画化しているように感じられた。

 そして鬼太郎たちはミサイルの手を借りずに妖怪帝国を滅ぼすことで、両者のやり口を否定してみせたのである。

 こう紹介すると、未見の方は過去の私と同じく完全に左翼映画だと思ってしまうだろう。

 この映画がさっぽろ雪まつりにて自衛隊の真駒内駐屯地でも上映されたという話(未確認情報)を聞いた時には、驚かされたものである。

 

 だが、今の知識で視聴をすると、別の解釈も成り立った。

 まず、「妖怪」とされた者には、「虐げられたマイノリティー」が多い事を後から知った。

 その最大の例が、妖怪帝国の貴重な戦力でもあった「土蜘蛛」である。この妖怪は、日本中で大和朝廷に刃向かった土豪たちの成れの果てである。

 妖怪帝国のメンバーには、「あやかし」や「がしゃどくろ」などの強大な妖怪もいるが、大半は鬼太郎のゲタ攻撃や「ぬりかべ」の突然の登場や「ねずみ男」の肉弾戦だけで二十匹ぐらいまとめてやられてしまうような連中である。それどころか、小学生の天童夢子に背後からゴルフクラブで一発殴られただけで気絶してしまった「山童」なんてのも混じっていた。

 妖怪皇帝は、こういった弱者や少数派を集めて「東京コミューン」を作ろうとしていた革命家であるとみなすことができる。彼は「妖怪の妖怪による妖怪のための国」をスローガンにしていた。

 皇帝こそ革命家だと主張すると意外に思われるかもしれないが、そもそもヨーロッパにおける皇帝とは、閥族派と戦った平民派にその勢力の起源を持つものである。

 またぬらりひょんが服装や本拠地において手本としたであろう明治天皇とは、将軍府の末端の役人にすら土下座をすることを強要してくる江戸の軍事政権を打倒するため、「将軍より偉いのに平民でも土下座をする必要のない相手」という設定で登場した、下層民の希望の星であった。

 シリーズにおける文脈でも、西暦1985年12月21日公開の『ゲゲゲの鬼太郎 妖怪軍団』ではぬらりひょんは、鬼太郎のせいで人間と比べて弱い立場に置かれている日本の妖怪全体の地位の向上を目指していた。

 また同作中ではそうした考え方が「進歩的」と言われており、万国の妖怪の連帯も示唆されていた。

 マルクスの『共産党宣言』に準えるならば、「東京に一人の妖怪がいる。ぬらりひょんという妖怪である」といった所である。

 だからこそ、映画の題名においても異次元妖怪の「侵略」ではなく「大反乱」と表記されているのであろう。

 この題名から判る通り、観方を少し変えれば妖怪帝国こそが「左翼」であるというのは、決して単なる私の観念の遊戯ではなく、公式設定であると言える。

 

 ではこの東京コミューンを武力で叩き潰した鬼太郎とは何者かというと、『妖怪軍団』では南方妖怪を叩き潰し、1986年3月15日公開の『ゲゲゲの鬼太郎 妖怪大戦争』では西洋妖怪を叩き潰し、1986年7月12日公開の『ゲゲゲの鬼太郎 最強妖怪軍団!日本上陸!!』では中国妖怪を叩き潰した者である。

 僅か半年でABCD包囲陣を滅ぼしたようなものであり、日本国にとっては理想的な軍神という印象がある。

 この武力が、外患ではなく内憂である「大反乱」に向けられたのが、この『激突!!異次元妖怪の大反乱』だったのである。

 この映画がさっぽろ雪まつりにて自衛隊の真駒内駐屯地でも上映されたという話(繰り返しになるが未確認情報)も、頷けるというものである。

 

 各勢力が象徴する立場が昔と違って見えただけではなく、登場人物個々人への評価も変わった。

 中でも一番評価が下がったのは「ぐわごぜ」である。

 当初の彼は、自分の娘を囮にするという、妖怪皇帝でも驚く様な悪辣な行為をしていた。

 所が自分の娘が、半ば自業自得で「朧車」に殺されると、突然妖怪皇帝を恨んで歯向かう。

 この場面は一見感動的であったが、良く考えれば単にエゴを剥き出しにした逆恨みの反逆である。それに本当に腹癒せをするならば、朧車にこそ復讐をすべきだろう。

 しかも、「あやかし」が討たれた時は「鬼太郎め、やりおる」で済ませ、「白溶裔」が討たれた時は「お、己」で済ませていたので、益々身勝手に思えた。