司馬遼太郎著『翔ぶが如く』を読了

翔ぶが如く (10) (文春文庫)

翔ぶが如く (10) (文春文庫)

 大昔に購入した『翔ぶが如く』を読んだ。
 大河ドラマにもなった作品であり、分量は文庫で全十巻と、著者の作品の中でもかなり長い部類に属するのだが、その割には著者の代表作や自己の愛読書として本作品を挙げる人はかなり少ない。今回の読書は、その謎を解くためのものでもあった。
 まず直ぐに気付いた事は、登場人物や地域に関する同じ逸話が余りに頻繁に何度も繰り返し登場する事である。これは類例を見ない程劣悪であり、清水義範が書いた司馬遼太郎のパロディ小説の内の一作であるかの様な錯覚に何度も陥ってしまった。これが知名度が低くなった第一の理由であろう。
 第二の理由として気付いた事は、一般に「司馬史観」と呼ばれる「明るい明治・暗い昭和」の例外的側面を描いているという事である。司馬が概論として語った明治・昭和の比較を固陋な教義として単純化した上で、自分の脳内の司馬を崇拝もしくは批判している人にとっては、本作品は目を逸らしておきたい夾雑物なのであろう。
 本作は、二流三流の人物の浅知恵が巻き起こす悲喜劇が主軸であり、歴史小説の華になり易い英雄・天才の魔術的活躍は精々その後始末の際に少し登場するだけなのである。
 まず前半では、兵站や人心等の様々な要素に気を配って奇跡的な倒幕に成功した維新志士が、外交・補給を無視した観念的な征韓論に熱狂してしまうという話が続く。それを様々な策謀を凝らして辛うじて中止に追い込んだ筈の「現実派」は、下野した征韓論者の機嫌を取る事を主目的に、外交・補給を無視した観念的な征台の役を起こすのである。蓋を開いてみると、外交に関しては大久保利通が稀に見る大活躍しても出征費用の数分の一を得ただけであり、補給に関しては現地で大量の病死者を出すという顛末であった。
 後半では、西郷隆盛の一党が自滅していく過程が執拗に描かれている。現実論者を粛清し続ける桐野利秋が、西郷を名目上の総大将として持ち上げつつ監禁し、補給等の戦略を完全に無視した単純な北上を開始する。各地の戦場での戦術面での勝利は数多く語られるのだが、結局は物量を重視した山県有朋によって予定調和的に滅ぼされるのである。
 西南戦争の薩摩軍は、自然に第二次世界大戦における日本軍に擬えられている。名目上の総大将の圧倒的な権威を背景にした暴走の前に、その総大将自身も逆らえず、自滅的な戦いが続く。これは天皇と陸軍の関係に似ている。太政官より薩軍がマシだとして薩軍に参加した九州各地の士族集団は、東南アジア各地の独立運動家の立場に類似する描かれ方をしている。当初の精神だけは高邁であった薩軍がやがて軍票の乱発に頼るのも、未来の日本軍と同じである。
 作中では薩摩の気風が暴走を食い止められなかった原因として過度に強調されていたが、西南戦争における薩軍の失点の多くは、前述した通りその薩軍を倒した大日本帝国でもやがて起きた現象であり、そしてまたその大日本帝国を倒したアメリカでもしばしば見られる現象である。これは人類の宿痾である。
 平川祐弘による最終巻の解説では『風と共に去りぬ』が軽く登場していたが、おそらくは上記の事を踏まえた上で、本作の類似の作品として名を挙げたのではなかろうか?
 南北戦争における南部も、「自分達なりの正義感からの暴発→敵軍の圧倒的物量により予想外の膠着→紙幣の価値の低下」というコースを辿って滅んでいったのである。『風と共に去りぬ』では、その過程が詳細に描写されていた。
 余談だが、戦後に敵の総大将(大久保・リンカーン)が暗殺されるという点まで、西南戦争南北戦争は共通している。彼等の死は、元通り一つの国として再出発するために必要な儀式だったのかもしれないと、ふと思った。
風と共に去りぬ (1) (新潮文庫)

風と共に去りぬ (1) (新潮文庫)