須佐之男は大陸流の方法で母の喪に服していたのではあるまいか?

 本稿では『古事記』に登場する「須佐之男」の分析を行う。『日本書紀』に登場する、存命中の両親の合意により追放された「素戔嗚」の事は、一旦忘れて欲しい。
 『古事記』によれば、伊邪那岐から海原の統治を命じられた須佐之男は、統治を行わず、長い髭を垂らして、泣き続けていた。そのせいで山は枯れ、河や海は干上がり、更にはこれに付随して様々な禍が起きた。伊邪那岐がその理由を聞くと、「母(『古事記』では故人)のいる国に行きたいから泣いている。」と須佐之男は答えた。伊邪那岐は怒って須佐之男を放逐し、浪人となった須佐之男は姉の統治する高天原に行って大暴れをするのである。
 神が慟哭して山・河・海が荒れるというのは、制御されない自然の暴力を表現していると一般に解される。
 しかし私は、須佐之男がやろうとしていたのは儒教ではないか?」と考えた。
 労働や統治をせずにひたすら泣き続けるというのは、儒教が重んずる、そしておそらくは儒教以前にも源流があった、大陸における服喪に酷似している。
 須佐之男のこの行動は、大昔の日本における大陸かぶれの王族の振る舞いが投影されているのではあるまいか?
 そう考えると、山や河や海が荒れた原因も、単に行政の怠慢であったと解せる。
 異文化を取り入れた須佐之男のこの「孝」は、周囲には理解されず、単なる怠け者と見做されてしまった。
 伊邪那岐クラスになると、須佐之男の理論は理解していたかもしれない。しかしその場合も、「息子よ、それは人材にも生産力にも余剰がある西蕃だからこそ出来る道徳なのだ。そして実際には西蕃でも難しい事なのだ。今の大八島には早過ぎる。汝の布教活動を見逃していては、我々は衰亡してしまう。そこで可哀想だが全領地を没収し、追放する。」とか考えたのであろう。
 ここで面白いのは、一介の浪人になった後には姉の領土内で姉を蔑ろにする須佐之男が、父に追放される時は大人しく従っている事である。
 『古事記』では、伊邪那岐須佐之男を放逐した話題の直後に、「故、その伊邪那岐大神は、淡海の多賀に座すなり。」(岩波文庫版『古事記』32ページより引用)という記述がある。この事から、須佐之男に与えられた「海原」にはそこに浮ぶ日本列島も含まれていた事や、隠居時代の伊邪那岐須佐之男から日本列島とその近海を取り戻さなければ滋賀県に居座る事すら出来ない状況であった事が判る。
 よって須佐之男は領土を没収される前に伊邪那岐に抗っていれば、既に隠居の身となっていた伊邪那岐を「リア王」の様な状況に追い込めた可能性もあったであろう。だが大人しく従ったのである。
 これはおそらく、須佐之男が「孝」の倫理から逃れられなかったからであろう。
 伊邪那岐もそれを見越して、「そんなに西蕃を真似て親が絶対の存在であるというのであれば、もう一人の親である私の命令に機械的に従って貰うぞ。逆らいたければ逆らうが良い。それはそれで、誰も汝の服喪を真似しなくなるから、やはり私の目的は達成された事になる。」と考え、強気の態度を示したのであろう。
宰我問 三年之喪 期已久矣 君子三年不為禮 禮必壞 三年不為樂 樂必崩 舊穀既沒 新穀既升 鑽燧改火 期可已矣」(『論語』陽貨篇より)

古事記 (岩波文庫)

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日本書紀〈1〉 (岩波文庫)

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リア王 (岩波文庫)

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