「マイノリティによるマジョリティ差別も批判すべき」どころか「自己の属する集団への差別も批判すべき」と考え始めた。

 「マイノリティによるマジョリティ差別も批判すべきか?」という議論がある。それに近い議論として「批判すべきか?」の部分が「禁止すべきか?」等になっている亜種も様々あるが、今日の記事ではそうした近接の議論もこの論題を使って事実上論じる事にする。
 私は二つの理由から「批判すべき」派である。
 第一の理由は、多くの同志がしばしば主張しているものとほぼ同じである。一言で纏めると「人の属性は一元的ではない」というものである。
 世の中には、「男で、金持ちだが、不健康で、所属している宗教団体が超弱小勢力である」とか、「女で、貧乏だが、美人で、公用語のネイティブスピーカーである」とか、ある面では強者であってある面では弱者である者の方が多い。誰をもってマイノリティとするかは難しい。
 それでも一部の人に「差別御免」の特許を与える制度が始まった場合、結局は比較的強い連中が弱者ぶってその特許を得る事になりそうである。極端な例を考えると、現実に日本社会で有利なのは日系日本人であるというのに「第二次世界大戦で敗北の痛手を被った国の民やその子孫は、それ以外の連中を罵倒しても許してあげる事にしよう」という主張等が飛び出しそうである。
 そして第二の理由は、一般にはほとんど主張されていないものであり、これこそが本日の記事の眼目である。一言で言うなら「仮に話を一元化しても、多数派は更なる少数派を金で雇う」というものである。
 例えば、「国籍に関する差別については、その国の人口を使って機械的に誰がマイノリティか決める」とするならば、第一の理由で論じたような複雑な思考は確かに必要がなくなる。「インド人がパキスタン人を差別するのはよくないが、逆はいくらでもよい」という世界が一瞬だけ成立するだろう。
 しかしそうなった世界では、インド人はパキスタンよりも更に人口の少ない国の人間を金で雇って反撃を開始してしまうだろう。そして最後にはバチカン等がその立場を利用して強大な富と権力を得る事になりそうである。
 以上二つの理由から、私は話を単純化しようとも複雑化しようとも、「マイノリティによるマジョリティ差別は許す」という考え方はやがて破綻すると考えているのである。
 それはおそらく、大方の賛同を得られるのではないかと自負している。
 
 さて、ここからが本当に重要な話。
 世の中には、「自己の属性をこき下ろす事は、他者の属性をこき下ろす事より、マシな行為である」と思っている人が多い。先月迄の私もその一人であった。
 外人から「日本人は馬鹿。そして永久に治らない。やあいやあい!」と言われると怒る愛国者が、一方では「日本人は残念ながら馬鹿なんですよ。そしてこれはおそらく永久に変わらないでしょうね。」と主張する日本人に対しては余り怒らなかったり、或いは全く怒らなかったり、時には自分自身でそう主張したりするのである。
 だがこれも、先程の論題における「第二の理由」にも登場した「金で雇う」危険を考えるならば、同様に批判していった方が良い。
 例えば、丙午の翌年や前年に生まれた女性の一部が、自分の婚活の効率を高めるために、丙午生まれの女性が婚姻の際に差別される風潮を作りたいと思ったとする。だが「あいつらは丙午生まれだから危険だ!」と叫ぶと流石に逆効果な程度に差別反対論が強い世の中であるとする。しかし自己の属する集団を卑下する事は問題視されない社会であるとする。
 こういう場合、丙午生まれの女性が婚姻の際に差別される風潮を作りたい人々は、皆で金を出し合って丙午生まれの女性の中からそもそも大して結婚したくないという女性を選んで雇い、「私は丙午生まれのせいか、おそらく結婚したら夫を虐待死させそうな性格であり、自覚症状すらある」と大声で言わせれば計画は上手く行く事になる。
 だから、A国を過剰に誹謗するA国人も、同じ言動をした非A国人と同様に、批判していくべきだと考えるようになった。