謝罪を求められなかった失敗こそ、意識的に自ら反省しなければならない。例えば汪兆銘に対する合意違反について。

 「謝罪」と「反省」はしばしば混同されるが、元来は別の概念である。
 「謝罪」は相手への癒しであり、「反省」は過去を参考にして未来の糧とする思考である。
 謝罪を求められた案件については、誰でも自然に何らかの反省をする。その案件が謝罪すべき悪事だったと本人も感じた場合には「次はこんな事をしないようにしよう。」と考えるものであり、道徳的には間違っていないと感じた場合には「どうせ謝罪を求められるならば、次はせめて利益の方を増やす工夫をしよう。」と考えるものであり、道徳的には問題があったが要求が過大だと感じた場合にはその中間的な事を考えるものである。
 だがそういう自然発生的な反省だけをしていたのでは、経験を十分には活用出来ない。他者から文句が来ない案件についてこそ、「あれは過ちではなかったか?」と自発的に検証をするべきである。
 例えば、大日本帝国の旧悪の中には、汪兆銘との間で成立した「二年以内の撤兵」という合意への違反が存在しているが、これについて反省をしている人は少ない。
 現在、中間人民共和国も中華民国も、汪兆銘政権を悪とみなしている。この日本の合意違反については、おそらく悪党同士の仲間割れ程度にみなされているのであろう。
 そして汪兆銘政権の「法統」を継ぐ政権も存在しない。
 よってどこからも、「汪兆銘先生との合意を破棄した日本は謝罪をしろ!」という要求は浴びせられない。
 だがこの合意に反したことこそが、戦いの泥沼化を招き、ひいては第二次世界大戦で敗北を喫する遠因となったのである。未来の日本国をより効率的に運営するには、こういったものから先に反省していかなければならない。