阿衡事件の遠因か? 元慶八年六月五日の詔「藤原基経の功績は既にこの四人を越えた!」 余談として霍禹の話題

 『日本三大実録』の第四十六巻によると、光孝天皇は即位した直後の元慶八年(西暦884年)六月五日に詔を下し、「藤原基経の功績は既にこの四人を越えた!」と認定している。
 その四人とは、「伊」・「霍」・「祖淡海公」・「叔父美濃公」である。
 「伊」とは、殷王の太甲を追放して反省を促した伊尹である。「阿衡」の元ネタとなった人物である。
 「霍」とは、前漢の昭帝に仕え、その後継者の劉賀を追放し、宣帝を立てた霍光である。「関白」の元ネタとなった人物である。
 「祖淡海公」とは、藤原基経の先祖である藤原不比等である。
 「叔父美濃公」とは、藤原基経の叔父である藤原良房である。
 これら四人は全員キングメーカーであるが、とりあえず陽成天皇を廃して光孝天皇を即位させる事は、光孝ルールではこの四人衆を越える功績らしいのである。
 その約三年後、仁和三年八月二十六日、光孝天皇が崩じる直前(公式記録上)、藤原基経はまたもやキングメーカーとして次の天皇にとっての功績を挙げる。
 人臣となっていた源定省を皇族に復帰させて皇太子とし、さらには次の天皇とする作業の首班となったのである。
 その直後に起きたのが、有名な阿衡事件である。
 宇多天皇が、初めに藤原基経を「関白」とすると形式上断られ、次に「阿衡」とすると本気でサボタージュされ、結局関白になったという、あの有名な事件である。
 昔私は、「基経は「自分は霍光であって伊尹ではない。」と言いたかったのかもしれないと考えている」という内容の記事(http://d.hatena.ne.jp/gureneko/20100204/1265215696)を書いた。
 だが今思うに、藤原基経は伊尹・霍光・藤原不比等藤原良房を越えたという公式認定がなされていた人物なのであるから、その三年後に更に一介の人臣を一日にして天皇にするという離れ業をやってのけたというのに、その相手に霍光風情に譬えられたら、もうこの時点で相当厭な気分になったのではなかろうか?
 ついでに余談だが、父親が正式に「関白」になった藤原時平は戦々恐々としたであろう。「親が霍光なら、俺は霍禹かよ!」と。
 そして霍禹の様な目に遭わないよう、必死で昌泰の変を起こしたのかもしれない。