ネオナチの「分裂」と南京大虐殺否定論者の「矛盾」


アウシュヴィッツと<アウシュヴィッツの嘘>」を読んだ。


アウシュヴィッツと(アウシュヴィッツの嘘) (白水Uブックス)

アウシュヴィッツと(アウシュヴィッツの嘘) (白水Uブックス)


以前Apemanさんがホロコースト否定論と南京事件否定論との類似点というエントリーを書いておられたけれど、実際この本で取り上げられている欧米の「修正派」によるホロコースト否定論と、日本の歴史修正主義的言説には似通った部分が多い。また「修正派」の主張が支持される遠因としての「相殺メンタリティー」についての考察も、日本の歴史修正主義について考える上で興味深い。


その中で、次の記述が気になった。


今日、右翼急進主義者たちの振る舞いは、奇妙なかたちで二つに分裂している。彼らは一方では、なんとアウシュヴィッツ絶滅収容所が戦後ポーランド政府によって宣伝目的で作られたと主張しており、その愚かさ加減においては『ロイヒター・レポート』をはるかに凌ぐ。だが他方、一九九一年十一月十一日「ツィッタウのネオ・ナチ裁判」で法廷が八名の被告に有罪判決を下した際の罪状は、彼らがチェルノブイリから避難してきた子どもたちの住むアパートを襲撃し、その際「アウシュヴィッツに行け!」と叫んだというものであった。また、それから四カ月後の九二年三月九日、北ドイツ放送局が『パノラマ』という番組でアウシュヴィッツ収容所跡の保存のために寄付を呼びかけたところ、局には山のように手紙が届いた。その中には例えば、「アウシュヴィッツが再び強制収容所として機能するなら、もっと多くの金額を喜んで寄付しましょう」、あるいは「我が国へやって来た難民たちの宿の問題も簡単に解決するでしょう。喜んで五十キロの毒ガス(ツィクロンB)をお送りしましょう」などと書かれたものまであったのである。*1


つまり、一方では「アウシュヴィッツは嘘だ」という「冤罪論」があり、もう一方では「アウシュヴィッツの何が悪い」という「開き直り」が見られる。この二つは明らかに分裂(矛盾)しているのだけれど、それを主張する側からすればどちらも「自己正当化の論理」として両立可能なのだろう。





これと似たような例を少し前に見たことがある。以前取り上げたこともあるミクシィの「南京大虐殺論」というコミュでの、とある人物による書き込み(太字による強調は引用者)。


946 2008.9.30 01:44


(…)ちなみに私は「虐殺してません」とは言ってませんからね。


「虐殺」はあったけれども、数は多くはない、不可抗力だったと言っている。(…)


978 2008.10.17 13:03


そもそも当時の中国は、ハーグ陸戦法規に抵触する可能性の高い行いをしてるのだから、旧軍の行為を「大虐殺」とか「虐殺」と言うのには無理がある

(中略)

それから「大虐殺」が事実だっていうのなら、中国側が証拠の偽造などする必要もないだろ?
だが、大虐殺を肯定する勢力は、ほとんど例外無く証拠の偽造をやっている

なぜだろうな?

虚構だったと考えるべきなんだよw


946の発言では「虐殺」の存在を認めていながら、978では「虐殺」「大虐殺」を否定している。好意的に解釈するなら「(少なくとも)中国には『虐殺』『大虐殺』と言う資格はない」ということになるが、これは筋の通らない相殺化の論理である上に「日本国内や中国以外の国における肯定派*2」を無視(あるいは後述するように「肯定派」=「中国の手先」と見なすことで正当化)している。


また、「大虐殺を肯定する勢力は、ほとんど例外無く証拠の偽造をやって」いて、大虐殺が「虚構だった」というならば、その偽造や虚構を暴く、つまり「南京の真実」を明らかにすればよいはずだ。しかし彼は、


984 2008.10.21 18:32


事の真相はどうであれ
「疑わし*3は罰せず」
「公訴時効が成立している事案」
と判断すべきですよ。

この件でギャーギャー
「旧軍の責任」
を叫んでいる連中は
シナのひも付きエージェント
と断ぜられても仕方ないと思う。


と、「事の真相」を明らかにしたくないという自らの欲望を露呈させている*4


一方で「捏造」「虚構」と言い、一方で「時効だ」と事実を明らかにすることを避けようとする「分裂」は、先に挙げたネオナチの「分裂」に非常に似ている。どちらも(おそらくは)その「分裂」に対して無自覚である、という点においても。

*1:ハードカバー版p103

*2:もっとも、日本以外の国に南京事件否定論者など存在するのだろうか?・・・ああ、「隼速報」の伊勢平次郎氏はアメリカ在住でしたっけ。

*3:原文ママ

*4:余談だが、この一連の議論の中で「旧軍の責任」について言及した肯定派はいても、法的な「罰」や「公訴」を訴えた論者は、自分の覚えている限りいなかったと思う。

事実であっても、一回言っただけでは(事実として)伝わらない。


↑これはもちろん有名な「嘘も百回言えば真実になる」の裏返しなのだけれど。


いわゆるネット右翼とか嫌韓の主張を見ていると「よくもまあ、どこかで見たようなことを飽きもせず繰り返し繰り返し言えるものだ」とある意味感心してしまう。


どちらかというと、自分の場合、ある種の「遠慮」があった。


つまり、「自分が考えることなんて大して独創的でもなんでもないし、どこかで誰かが言ってるだろう」というのもあって、どこかで誰かが言ってるなら別に自分が繰り返さなくたっていいじゃん、という気持ちを抱いていた。


しかし、そうそう「慎み深く」しててはいかんのだろうなあ、と少し前から思うようになってきている。


例えば「20万しかいないのに30万人殺せるはずがない」という主張を見たとき。


あるいは「在日は無条件で生活保護が受給できる」というデマコピペを目にしたとき。


「強制連行された朝鮮人は245人しかいなかった」と訳知り顔で書いている人を見たとき。


田母神「論文」を支持する人が何百人もいるのを知ったとき。


「事実」が「事実」であることに甘えちゃいかんのだよなあ、と思う。





↑の「アウシュヴィッツと<アウシュヴィッツの嘘>」を読んだきっかけは、ネットのとあるところで、次のような引用文を目にしたからだった。


しかし問題なのは、自分に知識が不足しているがために、寛容な態度や公平な見方をしているつもりで、彼らの言うことにも一理あるかもしれない、と動揺する人々のほうである。そうした者たちには、―ドイツの劇作家ベルナルト・ブレヒトの有名な言葉を借りれば―、もう一回言っておけばよかったと後で後悔しないように、何千回も言われ尽くしたようなことでももう一度言わねばならない。*1


この言葉自体もきっと、何度も繰り返された言葉なのだろうけれど、ここでもやはり繰り返しておく意義はあるだろう。

*1:アウシュヴィッツと<アウシュヴィッツの嘘>」ハードカバー版p89〜90