愚樵空論

2006-10-03

庶民vs市民(前)

市民も庶民も共に「一般の人々」という意味の語だが、少しニュアンスが違うように思う。例えば「プロ市民」なるわけのわからない言葉があって、私なども、とある掲示板のやり取りでそういった称号を頂いたことがあり、なんとなく意味を把握できるが、では「プロ庶民」という言葉が成立しうるかというと、それには違和感を感じる。市民イコール庶民ではない。

この二つの言葉を辞書で引いてみると

〔庶民〕 世間一般の人々。特別な地位・財産などのない普通の人々。《people》

市民〕 1 市の住民。また、都市の住民。2 近代社会を構成する自立的個人で、政治参加の主体となる者。公民。《citizen》

とあって、市民の方が庶民よりも限定的な意味であることがわかる。つまり市民は庶民の中に含まれる。

だが、ここでは庶民は市民を含まず、相容れないものと仮定して考えを進めてみる。市民を「自立的な個人」、庶民を「自立的でない集団」と定義してみようか。

このようなことを考えてみたのは、靖国参拝国旗国歌を巡る右と左の論争をみるにつけ、いつも、どうにもしっくりしない感じを抱いているからだ。私自身は思想としては左よりのつもりなのだけど、かといって右の論理に全くシンパシーを感じないかというと、そうでもない。ただシンパシーを感じるといっても、違和感も拭いがたい。この違和感が何なのかについは、また別の機会に考えてみることにして、今回は左右の論理の違いについて考えてみたい。そのためのキーワードが「庶民vs市民」。

少し前から「庶民vs市民」という考えは私の中でなんとなく醸成されてきていたのだけど、これに明確に形作るきっかけを頂いたのは、われらがアイドルぷらさんエントリー『日常会話で君が代、日の丸』だ。いつもながらのしなやかな感性に導かれた思いがする。


卒業式に君が代を歌わないだけで処分されるのは、おかしいよね〜。」

当然、「うん、やりすぎだよね。」的な言葉が返って来るものと思って発した一言だったが、そのママ友達は、

「でも、卒業式の規律を乱すほうが迷惑なんだから、処分されて当たり前なんじゃない?だいたい、歌うか歌わないかでそんなにゴネてもしょうがないよ。」と当然のように仰るではないか!

「本来子供たちに規律正しさを指導しなければならない立場の教師が、自ら規律を乱すのは好ましくない。」

一見もっともらしい意見だけど、違和感を感じた私は、「でも、君が代の歌詞の意味を知れば、歌いたくない人がいるのもわかる気がするけどなあ・・・。」と、マイルドに突っ込んでみた。

するとそのお母さん、「え?歌詞の意味?何それ?」とケロリ

問題の本質を一切知ろうともせずに、一方的な情報だけで善悪を判断する姿勢に「頭クラクラ」の瞬間だった。


おふたりの感性に全く接点がない様子がホントによくわかる。今、この記事を書くのに再び読み返してみたけど、また可笑しくて笑ってしまった。ぷらさん宅のコメントには書かなかったけど、最初に読んだときも可笑しくて笑ってしまいました。スイマセン。

それはさておき、上の定義に従うとぷらさんは市民ママ友達は庶民。市民と庶民では全く感性が違う。

昔、♪山口さんちの、つとむ君〜この頃少し変よ〜♪どうしたの〜か〜な〜♪ という歌があった。こんな歌を持ち出すと年代が知れてしまうが、それはそれとして、この歌は庶民的な歌とすることができる。もちろん、上の定義に従って。

山口つとむくんは、庶民的に表現すると、「山口さんちのつとむ君」。これを市民的に表現すると、歌にはならないだろうけど、「つとむ君は山口さんちの一員」となる。ここまで書くと「山口つとむ」という東洋式の記名方式が庶民的、「つとむ山口」という西洋式の方式が市民的という具合になってしまうが、これは当然のことで、国旗国歌を巡る問題において争点となった「思想と良心の自由」もまた「市民」という概念も、これらは共に西洋起源概念だからだ。

 

ここで著名人言葉を借りる。心理療法家の河合隼雄氏(最近脳梗塞で入院されているとのこと。どうか快癒されますように)の日本人アイデンティティから

自我のあり方―「個」をめぐって

筆者(河合氏)はアメリカ、およびスイスにおいて心理療法家となるための訓練を受け、その後、日本において仕事を続けてきたので、欧米人と日本人の心のあり方について考えさせられることが多かった。〜 とくに問題と感じたことは、自我のあり方が日本人と欧米人では異なっている、ということであった。

欧米人が「個」として確立された自我をもつのに対して、日本人自我――それは西洋流に言えば「自我」とも呼べないだろう――は、常に自他との相互関連のなかに存在し、「個」として確立されたものではない、ということであった。

断る必要もないことだろうが、河合氏はだから欧米人の方が日本人より優れているなどと結論付けたりはしない。日本人自我のあり方が必ずしも悪いことではない。

また日本人が皆、「個」として確立された自我をもっていないと氏は考えているわけでもなくて、日本人の中にもどんどんと「個の倫理」が広がるようになってきていて、それが従来から日本人の中にある「場の倫理」と対立するようになり、社会の中の様々な場面で人間関係を難しくしている、と述べている。

「個の倫理」と「場の倫理」が対立する例として、次のような例が挙げられている。ある職場全員でで旅行をしようということになったとき、今は若い人たちを中心に一部の人が参加したがらないことが多い。「場の倫理」に従えば全員で旅行に行くのだから出来る限り参加するべきだとの考えになるが、「個の倫理」に従えば個人の望みもしないことを無理にする必要はないと考える...。

一度ここで整理しておく。つまり、市民とは西洋的で確立された自我をもち「個の倫理」に従って思考する人たちのことであり、一方、庶民とは日本的に確立された自我を持たず「場の倫理」に拠って思考する人たちとすることができるだろう。上に引用したぷらさんの記事は「個の倫理」と「場の倫理」の違いを如実に表している。

市民であるぷらさんにとって「思想・良心の自由」は当然の理なのだが、庶民であるお友達にとってはそうではなく、重要なのは規律、即ち「場」。しかも歌詞の内容や歴史的な経緯といった問題の本質(この捉え方も「個の倫理」によるのだが)も関係ない。誰が決めたかも関係ない。ただ何となく「決まっている」ことが大切。これではふたりの間に実のある対話は成立できっこない。だが一番の問題は、「個の倫理」「場の倫理」にもそれぞれ一理あって、どちらが正しいか容易に決定できないということである。

 

再び河合氏の言葉を借りると

〜〜日本人が西洋化することをよしとするのもなく、さりとて、最近の日本礼賛論のように、手放しで日本の倫理観をよしとするものではない。はっきりしていることは、このような対立する倫理観の間にあって、われわれは何らかの解決を見出してゆかねばならぬ、ということである。

 

以下、続く

2006-10-01

理由なき殺人

私はつい最近まで、死刑制度を容認すべきかどうか、判断をつけられずにいた。しかしブログのおかげで、この迷いに決着がついた。今は死刑制度は廃止すべきだと明確に考えられるようになった。

だが、ヒネクレタことを言うけれども、私の中では「死刑」と「死刑制度」は少し違う。「死刑制度」については明確に反対だけれど、「死刑」となるとまだ迷う。というよりも、「死刑」については明確に反対する理由は見つけられないだろうという気がしている。

死刑制度」に明確に反対できるようになったのは、実は「死刑」と「死刑制度」を分けて考えられるようになったということでもある。

 

死刑容認とは、言い換えれば殺人容認でもある。これはとっても誤解を招く表現なのだけど、何も私は殺人お墨付きを与えてよいと思っているわけではない。そんなことは誰にもできない。もちろん友人にだって上司にだって、国家にだってできない。もしできるものがいるとすれば、それは自分だけだ。自分が自分にのみ、殺人を許可することができる。自分以外の何者も、殺人の許可を与えることはできない。

 

とても不幸なことだと思うが、人は誰かを殺す理由をもってしまうことがある。一部の狂ってしまった人を除けば、誰もがそんな理由を自らの中に持ちたいとは望まないだろう。けれど、望む望まないにかかわらず、持ってしまうこともありえる。

例えば、自分にとってかけがえのない人を無残に殺された人の悲嘆。この悲嘆が復讐怨念に転化してしまうことを、私は認めずにはいられない。

ただ、この「認める」は無条件に承認するということではない。存在は認めても正当性までは認められない。だから、このような怨念を正当なものと考え、それを根拠に死刑制度の正当化を主張する意見には、賛成できない。この怨念がいかに避けがたい、人間として致し方がないものであっても、それを正当とは認めてはならない。「致し方がないもの=正当」ではない。人間の中にはどうしようもない闇の部分・負の部分存在する。私自身の中にも間違いなく、ある。その存在を否定しようとは思わないし、また、しようにも出来ないわけど、だからそれがやむを得ず存在してしまうことは認めるしかないのだけれど、この「負・闇」を制度の根拠にすべきではない。また、「負」を「正」に転化しようとする議論にも正当性を認めることはできない。

 

では、死刑廃止論に賛成なのかというと、そう簡単にはいかなあった。賛成できなかったのも人間の「負・闇」が理由だ。つまり死刑を廃したからといって、「負・闇」がなくなるわけではないからだ。

国家の制度として死刑を認めないということになると、この「負・闇」の存在が認められなくなってしまう。廃止論者は、いろいろな理念・理論を持ち出して死刑廃止は「負・闇」を認めないということではない、と主張するだろう。そしてその理念はおそらく正しいだろう。けれど残念ながら、それ容易には理解しがたい理念であるだろう。つまり死刑廃止は「負・闇」は否定されたのだと誤解される可能性が高い。

この誤解は大変危ないと思う。「負・闇」は否定しようにも出来ないから「負・闇」なのである。表向きの否定は、裏でかえって事態を深刻化させてしまう危険がある。

だから、私は死刑制度は残っていても、実際にその制度が運用されることがないような社会なるのが一番の理想形だと考えていた。もちろんそんな理想を実現することは難しいだろうけど、死刑制度を廃止するのがその理想形に近づいていく一歩になるとは考えていなかった。

 

しかし、これは私の想像力不足だった。現実の制度である以上、それは運用され、死刑囚が処刑されていくという現実を生み出している。その現実・現場がどういったものか、その点について思いを致すことがなかった。そこに目を開いてくれたのがluxemburg卿の記事『死刑の現場とは』だ。

人を殺す理由を持ってしまうことは、どうしようもなく不幸なことだ。それと同様に、いや、ひょっとしたらそれ以上に、殺す理由なくして人を殺すことも不幸なことである。そのことを死刑執行人の苦悩大塚公子:創出版)ISBN:4041878012は伝えている。

 

人の作る制度に完璧なものはありえない。どこかに歪みが生じる。これも致し方がないことだが、あまりに酷い歪み方をしている制度は、そのあり方を再考すべきである。現在死刑制度は、まさしくそのあり方を再考すべき制度だ。

国家が理由なき殺人を強要する。いくら大きな権威から死を宣告された死刑囚であっても、死刑執行人その人には死刑囚を殺すべき理由はない。けれど、制度がそんな事情を斟酌することはない。命令書が届き、職務として、その命令に従わなければならない。

どのような建前があろうとも、死刑はあくまで殺人だ。機械を壊すのとはわけが違う。死刑執行人の苦悩はそのことを証明している。殺人が忌み嫌われるのは、命を奪われるのが同じ人間だからという外形的な理由ではなく、その行為を為した人の心に深い傷を与えるという内面的な理由もあるからだ。死刑執行人たちが心に負った傷の深さは、想像を絶する。

 

中にはそんなに嫌ならそんな仕事は辞めればよいではないか、という人もいるだろう。私が同じ立場なら間違いなくそうするだろうが、自分がそうだからといって他人も同じだとは限らない。人は皆それぞれ違う。これは人間の中の「負・闇」のあり方が違うからと言い換えてもよいかもしれない。命令を拒否できない弱い人(こう表現するのに少し躊躇があるが、敢えてこの表現を使う)もいるのだ。そういった負の部分に思いがおよばない人間に、「負・闇」を正当化する資格はない。

 

正直なところ、私はいまだ「死刑」そのものの是非についての結論は出せない。だが「死刑制度」については、それが人間性を破壊する歪んだ制度であるという理由で、明確に廃止すべきだと考える。代わりに終身刑を採用すべきだ。

また「仇討ち」などの復讐形の復活も良かろう。ただ、こちらは近代国家としての根幹の部分に抵触する。私は近代国家もあり方を再考すべき制度だと考えているから、国家のあり方ともども考え直してみるのも悪くはないかもしれない。だが、現在の国家のあり方に大きな修正を加えないのなら、終身刑しかない。

 

もうひとつ。死刑制度を廃止するのであれば、同時に拡充すべき制度がある。遺族の感情を慰撫する制度だ。

死刑判決を下されるほど凶悪な犯罪に遭った被害者の遺族が人間としての「負・闇」の部分が掻きたてられるのは、どうにも致し方ないところだ。死刑制度が支持される背景には、犯人死刑がこうした遺族感情の慰撫に繋がる考えれているのも大きい。

犯人死刑執行が本当の意味での「癒し」になるかどうか、大いに疑問符だけれど、それが遺族をケアしなくてよいという理由にはならない。「負・闇」に堕ち込んで行く人たちは何とか救い上げなければならない。怨念を「水に流す」方法を探る必要がある。

これはかならず死刑廃止とセットにして、いや、セットでなくても早急に考え直すべき問題だ。ここを強く主張したい。

      

2006-09-26

「造り變える力」

芥川龍之介に『神神の微笑み』という短編がある。一部を引用


「南無大慈大悲の泥烏須(デウス)如来! 私はリスポアを船出した時から、一命はあなたに奉つて居ります。ですから、どんな難儀に遇つても、十字架の御威光を輝かせる爲には、一歩も怯まずに進んで參りました。これは勿論私一人の、能くする所ではございません。皆天地の御主、あなたの御惠でございます。が、この日本に住んでゐる内に、私はおひおひ私の使命が、どのくらい難いかを知り始めました。この國には山にも森にも、あるいは家々の並んだ町にも、何か不思議な力が潜んで居ります。さうしてそれが冥々の中に、私の使命を妨げて居ります。さもなければ私はこの頃のやうに、何の理由もない憂鬱の底へ、沈んでしまう筈はございますまい。ではその力とは何であるか、それは私にはわかりません。が、とにかくその力は、丁度地下の泉のやうに、この國全体へ行き渡つて居ります。」

 

そのように嘆くオルガンティノの前に、この国の霊(神)が現われる。

 

「誰だ、お前は?」

 不意を打たれたオルガンティノは、思わず其處へ立ち止まった。

「私(わたし)は、――誰でもかまいません。この國の靈の一人です。」

 老人は微笑を浮べながら、親切さうに返事をした。

「まあ、御一緒に歩きませう。私はあなたと少時の間、御話しする爲に出て夾たのです。」

 

「あなたは天主教(キリスト教)を弘めに夾てゐますね、――」

 老人は静かに話し出した。

「それも惡い事ではないかも知れません。しかし泥烏須もこの國へ夾ては、きっと最後には負けてしまいますよ。」

 

「泥烏須に勝つものはない筈です。」

「ところが実際はあるのです。まあ、御聞きなさい。」

 

そういって老人は、老荘思想や仏教も結局この国では変質してしまったと述べ、泥烏須もこの国では勝てないと断言する。

これ対して、オルガンティノは、今日も侍が2,3人入信したと反論するが、

 

「それは何人でも歸依するでせう。唯歸依したと云ふ事だけならば、この國の土人は大部分悉達多(シッダールタ)の教えに歸依しています。しかし我我の力と云ふのは、破壊する力ではありません。造り變える力なのです。」

 

造り変える。これは破壊した後、新たに創造するのではない。他の国ではそうかもしれないが、日本は違う。インドではシバという神様破壊と創造を司ると信じられているように、破壊と創造はセットなのだが、日本は破壊せずに、受け入れておいて変質させる。これが日本の「造り變える力」だ。

「造り變える力」は「融合させる力」と言い換えてもよかろう。土着のものと外来のものを融合させる。そういった力がこの国には満ちている。神父オルガンティノの苦悩は、そのことに気がつくことから始まる。。

日本の融合する力の特徴がもっともよく示しているのが、日本語という言語だ。文字表記をするのに、中国伝来の漢字と日本独自で生み出した仮名(かな)を融合させて使用する。そして現在も横文字言葉が次々と取り入れられ、日本語外国語の融合が進んでいく。

「造り變える力」、つまり「融合力」こそ日本文化の最大の特徴である。最大の「伝統」といってもよいだろう。

 

しかし、この「伝統」はもはや失われつつあるのかもしれない。

現在、右を向いても左を向いても、目に留まるのは「破壊する力」ばかりだ。

先の「国旗国歌」についての東京地裁の判決を巡る左右の対立。どちらにもまったく取り付く島がない。かつての江戸っ子なら、きっと「無粋の極み」と言ったろう。

左はこの判決を当然だといい、右は伝統破壊だという。私には、どちらも「破壊する力」を振り回しているだけにしかみえない。

 

「遺恨を残す」という言葉がある。日本人伝統的に遺恨を残すことを避けようとする。だから白黒を付けることを嫌う。ことはなるべく穏便に済ませようとする。「融合力」はそんな場面でも力を発揮する。

ところが「国旗国歌」については、右も左も遺恨などお構いなしだ。どちらもわが方の主張が勝つか負けるか、関心はそれのみだ。接点を探る動き、融合を図る動きは極めて少ない。

国旗国歌」を巡る対立の原因は、左右の遺恨でしかないのではあるまいか。左は戦前戦中の遺恨を晴らそうと、国旗国歌の掲揚・斉唱をまかりならんとした。それを今度は右が遺恨とし、「人間として当然」とばかりに強制。強制された方にまた遺恨が残り...、堂々巡りはいつまで経っても終わらない。

 

日本の国旗と定められている日の丸は、幕末・戊辰戦争の折に幕府軍が掲げたものである。勝利した官軍が掲げたのは菊花旗だ。つまり菊花旗が錦の御旗だった。にもかかわらず、なぜ負けた方の日の丸を日本を象徴する国旗として採用されたか。答えは「負けた方に遺恨を残さないため」。これが日本の伝統的なやり方である。日の丸国旗として定めた明治維新の人たちは、現在の我々の騒動をどう見るだろうか?

 

この國の、山にも森にも、あるいは家々の並んだ町にも潜み、日本文化を支えてきた何か不思議な力、「造り變える力」「融合力」は、もはやその力を失いつつあるのかもしれない。それが日本の「伝統」を巡る論争の中で終焉を迎えるとしたら、なんと皮肉なことであろうか。

2006-09-23

人間として当然のこと

一昨日、東京地裁で「国旗国家の強制は違憲」という判決が出た。当然の判決なのだけど、それに対して、例のごとくというか、小泉元首相が疑問を呈したという。

法律以前の問題じゃないでしょうかね。人間として、国旗や国歌に敬意を表すというのは」

法律以前の問題」というのは、そうだと思う。これは思想と良心の問題だからだ。

日本国憲法第19条  思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。

憲法の規定は、単純明快。「公共の福祉云々」なんて制限も何もない。無条件で侵してはならないのだ。こんな当然至極のことが明記してあるということは、裏にはそれが侵されていたという歴史があるわけで、第19条の規定は、「思想及び良心の自由」は勝ち取られてきたものだということを示してもいる。この短い一文の中に人類の歴史が込められているわけだ。

気になって、自民党が昨年秋に発表した憲法草案を見てみた。

自由民主党新憲法草案 第19条  思想及び良心の自由は、侵してはならない。

さすがの自民党も、この条文には手をつけていない。それはそうであろう。建前でも民主主義を取り繕うなら、この条文を変えるわけにはいかない

だが、元首相は、そこに「国旗や国歌に敬意を表す」と制限をつける。「国旗や国家に敬意を表す」のをよしとするのは、「思想」である。この思想を持つことが人間として当然という発言を権力者がなし、その「思想」を元に国民の行動に規制を加えるのなら、その行動は「思想及び良心の自由」に立ち入っていることなる。

 

少し譲って、国旗国歌に敬意を表するのは「国民として当然のこと」だとしてみようか。

「自らの生まれた国を愛することは自然なこと」という主張を、私は理解できなくはない。それが国であれ郷土であれ家族であれ、また会社であれ学校であれ、自ら望んでその一員になったのであれ、望んだわけではなくそこに生まれてきたのだということであれ、自らが所属する共同体を素直に愛することができるということは、幸せなことである。

だが残念ながら、この世の中は幸せな人ばかりではない。何らかの事情で素直に自然に愛することができない人も、多数いる。そういった人は、愛せない自らの感情を「正当化」するために「愛国心は必要でない」「国旗国歌に敬意を表する必要はない」という思想を、不幸にも持つに至るかもしれない。

こういった不幸な人々を、指弾することが「国を愛すること」なのか? 「自然なこと」と「当然のこと」は違う。「当然のこと」は思想である。「愛国」の思想を基準にして、違う思想の者を排除しようとするのが「国を愛すること」なのか?

「国」という共同体の中にはいろいろな思想人間が暮らしている。幸せな人も不幸な人も、素直な人もそうでない人も、この共同体の中にいて、思想はさまざまでも同じ国土、同じ言語を共有して暮らしている。こういった人の集まりが「国」であろう。ならば「国を愛する」ということは、偶然か必然かは知らないが、同じ「国」で生まれ育った同胞を愛するということであるはずだ。

国旗国歌に敬意を表するのを「当然のこと」とし、それができない人たちを非難する者たちは「愛国者」ではない。単に自らの「思想」を愛しているだけだ。そしてその思想を「人間として当然のこと」に格上げしてしまっている。

 

愛国心は「涵養する」ものだという。「涵養する」とはどういうことか? 「自然に無理をしないで養い育てる」ということではないのか。ならば方法は他にあろう。

不幸な者に強制しても不幸をさらに掻き立てるだけだ。「強制には反発する」のもまた「人間として当然のこと」だからだ。

2006-09-18

The Dark Side

昨晩、NHK・BS1で放送していた『BS世界のドキュメンタリー「それは9.11から始まった −ブッシュ政権“対テロ戦争”の内幕−」』を見た。午後10時過ぎという、私の就寝時刻をとうに過ぎた時間帯の放送だったので、ビデオ録画をしていたの見た。ビデオ録画をするとたいてい見ないのだが、今回は珍しく、すぐに見た。

 

見ての感想は一言、「何とくだらない!」。

番組の放送内容がくだらないというのではない。このドキュメンタリーのなかで抉り出されているものが真実かどうかは知らないが、こういったものを製作することができるアメリカという国の懐の深さは、くだらないなんてことはない。もし、このドキュメンタリーブッシュ政権「真実」に迫っているとするなら、その「真実」こそがくだらない! とそう思ったのである。

 

そんな「真実」であのイラク戦争が引き起こされ、なおもイラクが内戦状態にあるとするなら、これほどくだらないことはない。

 

ドキュメンタリーは、イラク戦争が起こった原因をブッシュ政権内の権力闘争にあったとして描き出している。チェイニー副大統領・ラムズフェルド国防長官vsテネットCIA長官パウエル国務長官の主導権争い。9.11直後からチェイニーはアルカイダとイラクが協力関係にあるとしてイラクへの攻撃を画策、イラクとアルカイダが結びついている証拠がないとするCIAと対立し、その対立を政権内の“闘争”で決着させ、その結果がイラク戦争へとなっていく。

 

繰り返すが、くだらない話だ。こんなくだらないことが政治というものの実態なのかどうか、私のような庶民にはその真実を直接確かめる術はないけれど、でも、「ありそうな話」だと思ってしまうところが怖い。ただ、直接確かめる術はなくても、世の中で起こっている現象を見渡してみると、この「ありそうな話」の傍証はいくらも転がっている。それらを組み立てると、この「ありそうな話」がもっともつじつまが合うように思えてしまう。恐ろしいことだ。

 

このドキュメンタリーでは「ありそうな話」が展開され、それを裏付ける証言もいろいろ登場するのだけれど、一部、「ありそうでない話」もあった。それはチェイニーたちがCIAと対立して情報操作を行っていく動機についてだ。ドキュメンタリーではチェイニーのCIAに対する不信だと説明されていたし、その説明を支える事実も紹介されていたけれど、それだけ、というのは「ありそうもない話」だ。それよりもむしろ、チェイニーがいわゆる軍産複合体の親玉だから、という方が「ありそうな話」だ。こんなことは周知の事実だろうと私なんかは素直に信じているけど、このドキュメンタリーでそれが指摘されなかったのは事実と異なるからだろうか? それとも、いかにアメリカのジャーナリズムといえど、そこまで踏み込めなかったのか?

 

NHK・BS1で放送された当番組、一番興味深かったのは当のNHKだ。このドキュメンタリーを放映したという事実だけでも十分興味深いが、ドキュメンタリー放映前後に付けられたNHKの「見解」がさらに興味深い。

NHK解説委員が最後に述べたコメント引用してみる。

「イラク戦争開戦前夜、アメリカのメディアがこぞって、アメリカにとって一世一代の大バクチになると論評していたことを思い出します。チェイニー副大統領は番組冒頭で“The Dark Side”という言葉を使っています。“The Dark Side”というのは映画『STAR WARS』で闇の力を象徴する言葉として使われています。その“The Dark Side”、闇の力に頼ってきた結果、今、アメリカが、そして世界が混乱の中にあります。

・・・

世界ではテロの危険がますます高まり、イスラム世界からヨーロッパに至るまで反米感情が渦巻いています。誤った計算に基づいたブッシュ政権の大バクチは失敗しました。

・・・」

 

おお、断言してしまった! 小泉がもう退陣するとはいえ...

これが一番組の中だけの断言でないことを願うばかりです。