心の所得

こちらに移り住んで間もない頃、よく研修会なんかで聞かされた言葉が「心の所得」。
和歌山県情報館 http://www.pref.wakayama.lg.jp/chiji/essey/index.html
に知事のエッセイ集があるのだが、そこに随想として掲載されている。
 
初めてこの言葉を聞かされたとき、
緑の雇用なんぞで和歌山に来たことを後悔し、落胆し、怒りを覚えたのを今でも記憶している。
一部を引用してみると

緑の雇用事業」を提唱以来、私はよく「心の所得」ということを申し上げている。確かに山の仕事は厳しく、収入も都市に比べると少ない。しかし、森林の整備に携わっていることで、地球環境に貢献しているという誇り、また、自然に囲まれて生活することで得られる精神的なやすらぎ、そして、人間関係が希薄な都市での生活に比べ、地域にとけ込み周囲から頼りにされる存在。こういった充実感を「心の所得」と呼べないだろうか。二十一世紀の成熟した社会では、金銭の多寡よりも、この様な価値観が求められている。

もっともらしいことをおっしゃるのだが、大いに問題があると思う。
何が問題であるか。
この「心の所得」の内容自体が間違っているというのではない。
個人がこのように考え、個人の考えでこのように行動するのには何の問題もない。
また行政でこのような人を募るというのも、私としては全面的に賛成しかねるが、まあ良しとしよう。
 
このような個人の内面にかかる価値観と、現実の所得つまり普遍的な価値観とを、
為政者が同列に置いてしまったところが問題なのである。
 
そのようなことがまかり通るなら、為政者は精神論を唱えてさえいれば何もしなくて良いというところに行き着く。
さすがに何もしていないわけではないが、
「心の所得」があれば収入は少しでよいだろう、だから事業支出は少なくて済む、
という魂胆が透けて見えるではないか。
 
だいたいこのようなことを考えるのは田舎のことを何も知らない都会人である。
都会からは田舎は良いところのように見えるのかもしれない。
いや、確かに良いところであるのは間違いない。
しかし、その良いところで生活するための物心両面でのコスト、これが大変なのだ。
都会からたまにやってくるだけなら、そのようなコストは支払わなくて済むから、
田舎の良いところだけを「非日常」として享受できる。
しかし、そこでの生活が「日常」になれば違う。
「心の所得」があるならば「心の支出」もあるのだ。
 
こんな当たり前のことは、田舎は過疎化が進行している、という事実によって示されている。
 
「心の所得」で満足が得られるというのなら、知事をはじめ公務員がそれでやってくれればよい。
そうすれば、財政赤字なんか一挙解決なのに。