驚きと反省

このエントリーは5月6日のエントリーに「さらに追記(5/8早朝)」として書いたものとまったく同一の内容です。 

さらに追記(5/8早朝)

このエントリーの反響には、少なからず驚いています。皆さん「世を倦む日日」さんとは浅からぬ「歴史」があるようです。新参者の私が「つながる」なんて言いながら、横から出てきて「世を倦む日日」さんを切って捨ててしまったみたいで、なんだか罪悪感があります。

お玉おばさんの「世を倦む日日さんへ」の記事は、「世を倦む日日」さんへの非難と訴えでありましたけれども重きが置かれているのは、「訴え」の方ではなかったかと、今更ながら思っています。まだまだ「つながろうよ」と訴えておられる。訴えることを諦めておられないのです。

世を倦む日日さんを「切る」記事を書いた私が云うのもなんですが、私たちが重きを置くべきは「切る」ことよりも「つながる」ことです。平和のために憲法九条を守ろうと運動する私たちは、「つながろう」とする動きの中に例外を作ってはいけません。つながる例外を作って「捨てて」しまえば、そこがまた平和をかき乱すもとになってしまいます。

私たちが求めているのは「絶対平和」のはずです。この世の誰もが例外なく平穏に暮らしていける、そんな世の中です。青臭い理想だと揶揄され、実現は不可能なように思えても、その理想への希望だけは捨てたくありません。「つながろう」と希求することとは、希望を捨てないことです。例外を作ってしまって、「仕方がない」と諦めてしまうのならば、それは例えばアメリカのブッシュ大統領と大して違いはありません。彼とて「例外なく」平和を破壊しようとしているわけではありません。おそらくは、彼は彼なりに平和を作ろうとしているのでしょう。ただしその平和は「相対平和」です。最初から例外を設け、限定された世界の中でだけでの平和を望んでいるのでしょう。

このことはブログにおいても、同じことだと思います。とくらさんが「安全装置としての愛が必要なんだね。」で引用されている、世を倦む日日さんの引用を、ここで私も引用させてもらいます。

TBはWINWINのコラボレーションであり、同時に人と人の出会いである。そこからスパイラルが広がる。これほどスリリングでロマンティックなものはない。ブログとはTBだ。


ブログにはTBという「つながろう」と働きかける機能が備わっています。だからこの言葉の如く、ブログはブログなのです。

私は「言葉はつながるのが苦手」と書きました。華氏さんはこの見解に同意してくださいながらも、それでも言葉で伝えたいとコメントをくれました。アルバイシンの丘さんは、この見解に違和感を示しつつブログを捨てないとTBをくれました。大切だと思うのは、一つの見解に同意するとかしないとか、そんなことではなくて、捨てない、つながることをあきらめない、ということです。この姿勢があるからこそ言葉を用いて議論をしたりする。議論をして、なかなかつながらなくて、やっとのことでつながったと感じられたときの達成感というか安堵感というか、その満たされた思いこそが絆となるのでしょう。この思いは、もし言葉が容易につながるものならば、その分浅いものになるのではないでしょうか。

世を倦む日日さんは、とても知的な方で「切る」のに長けています。これは本文でも書きました。人間の創造活動というのは「切る」ことから始まります。「つなげよう」と思っても切り口ががたがただと上手くつながらない。だから切ることはとても重要なことです。家を建てるにしたって、柱や板の切り口が真直ぐでなければ、上手く建てられません。

もし誰かが切って捨ててしまっているのなら、それを拾えばいい。拾って、自分の家を建てる材料に使えばいい。それだけのことです。そうしていれば、いつか「つながる」のではないか。そう期待しつつ。

 

ここで私は、一つ反省をしなければなりません。この文章を書いている立った今の時点で、私はまだ世を倦む日日さんにこの記事のTBを送っていません。どうせ削除されるだろうと、皆さんのお話から勝手に推測して、諦めていたのです。けれど、諦めてはいけませんね。お玉オバサンに倣って、「つながる」ためのTBを送ります。