夏のはじめに読書感想文の検索でここにたどり着いてしまった皆様へ2016

毎年書いていることなのですが夏になると読書感想文とかシェイクスピアの検索が増えます。学生の皆さんが検索なさってるのだと思います。検索してるほうからするとおそらくこんなところ見てらんないでしょうから書いても無駄かなあ、とは思うのですが、念のため書いておきます。まず最初に残念なことを報告しなければなりません。このブログを書いてるやつは英国文学専攻でもないし日本文学専攻でもない、一介の(勤務先は5階の)サラリーマンです。ですからほとんど参考になりません。参考にしてもいいことはひとつもないと思われます。
参考になるかどうかわからないけどあえて書いておきたいのですがシェイクスピアの[ヴェニスの商人]の中に

Tell me where is fancy bred,Or in the heart, or in the head?

ってのがあります。辞書をひけば「できごころ、浮気心はどこにできるの?心なの?頭なの?」って云ってるのがわかると思います。シェイクスピアの恐ろしいところというのはbredとかheadとか、韻を踏んでる上にさらにTell↑ me↓ where↑ is↓ って、リズムがあるところです。舞台でやることを前提にしてますからそこらへん計算されています。そうなってくると口語といったら変ですが口にできるような訳でないと変です。マクベスの「Fair is foul, and foul is fair」というのも検索でよく来ますが、これをそのまんま「きれいはきたない、きたないはきれい」と訳したとしてそれは間違ってはいないけど、指の隙間から砂が零れ落ちるような訳のはずです。日本語訳でもいいから全文いっぺん通読してみて、よく考えてみてください。とても重要なことです。
でもってひとというのは読んで感じた以上のことは書けません。感じたこと、そこから外れると感想文じゃなくなります。しかも文学には正解があるかというと怪しいところがあります。正解とおぼしきものを言いふらす人もいます。「この小説家のおもしろさがわかんないなんてわかんない」ってな無粋なことをいうひとをはてなでみかけたことがありますが、どこの世の中にもいるかもしれません。でも、そもそも「面白さ」ってなにをどう面白いか、ってのは人によって違います。想像しなかった展開で面白かったってのもありですし、どこかで読んだような文章だから先が読めて面白くなかった、っていうのもアリのはずです。「太陽の季節」のなかでの性器で障子紙を破る場面などはふつう考えつきませんし、わかりやすくて・印象に残りやすくて、そういう場面があったというのが他人に口外しやすいので、口外しやすいことが万人受けする「面白い」ということにつながってくることもあるんじゃないかなと思います。いままでにみたこともきいたこともないこと・思いもつかないことがおそらく「面白い」とかになるんだろうな、と。ただそれがほんとに万人に「いい」と思われるかどうかはわかりません。「面白い」ことが「いい」という人もいるし、「面白い」ことが「いい」というのに直結しない人もいるからです。ですから「面白さがわかんないなんてわかんない」なんてのはそれは同調圧力だから気にする必要はありません。
文学全般はおそらく文章を読んでひとつの正解をあてなくちゃいけないゲームではないはずなので、こたえがひとつとは限らないし、正解と思えるものがあるかどうかはわかりません。検索をしてヒントを探そうというのを止めましょう。ヒントはここにはありません。インターネットにもありません。課題図書やシェイクスピアの原文の中にあります。
例えば主人公の心理ってのが出てくる場合があります。

この年頃の彼等にあっては人間の持つすべてを感情はすべて物質化してしまうものだ。もっとも大切な恋ですらがそうでなかったか。だいたい彼らの内での恋などという言葉は常に戯画的な意味合いでしか使われたことはない。この言葉は多少くすぐったく、馬鹿々々しい余韻しか持ちえなかった。それは仲間の内で、驚くべし、まだ女を知らぬ友人に対する揶揄の文句に屡々はさまれるのだ。あるものは言った。
「あ奴は恋なんかしているから女は知らねえよ」
石原慎太郎太陽の季節

女性と多く寝ても主人公を最初、こう表現しています。(ワンナイトラバーを体験したらなんとなく理解できるはずの)恋などなくても寝ることはできる、ということなんすが根っこでは恋とか情いうもの、精神的なものを疑っています。それが話が進むにつれてちょっとずつ揺らぎます。関係を持った女性が妊娠するとそれを産むことをいったんは承諾するのですけど、揺らいだことからの反発からか、拳闘のチャンピオンが子供を抱いてる写真を見て堕胎を要求し(「赤ん坊は、スポーツマンの妙な気どりのために殺された」という表現なんすが)、さらに関係した女性も死亡し、白眼視されると考え「貴方達にはなにもわかりゃしないんだ」叫んでその遺影に香炉を投げつけます。この物語というのは表面上を追うとなんかこう、とても誤解を受けやすいような気がするのですけど、主人公を眺めてると、情とか恋とか感情的なもの・精神的なものを最初は拒絶し馬鹿々々しいと思っていたにもかかわらず、それが揺らぎ、人を信じることへの不安を覚え、精神的なものを受容してゆきます。それを月並みな言葉ですが未熟な青春の物語といってしまえば片付きますが、それで済ますのはもったいないわけで。主人公のような他者のわからない若者でも「恋とか情」対「障子紙を突き破るような肉体と思考の直結」の葛藤の末に情などの精神的なものにとらえられ勝てない、性的なものと精神性は別離できるかもしれないけど身体は情や精神的なものに勝てないかもしれない、ことを物語で証明した、ってことなのかもしれません。もちろん、その営みが文学かどうかなんてわたしにはわかりませんし、ほんとはどういう意図で書かれたのか、石原さんに訊かないとわかりませんけども。でも何か一点に焦点を当てて、それを通して物語を眺めたほうがより、文章は書きやすくなるはずです。
最後にお願いです。ぜひ、こんなところを読んでないでパソコンを閉じてもう一度本を読んで、ひっかかったところを整理して、ぜひ文章にまとめてください。おのれのことに触れてもかまわないはずです。それはもしかして指導添削するセンセイとかからすれば評価するに値しない可能性があります。でも作家と作品を通じて相対して導き出した貴重な体験のはずで、きっとあなたの糧になるでしょう
(注:このブログを書いてる人は文学部ではないあほうがくぶの出身ですから信用しないように)