清水観音堂のモッコウバラ2024

博多華丸大吉師匠の漫才について何度か書いているはずですが、その中に昼はちゃんぽんやったけど夕食として食べたものがなんだったかを思い出せず、なので人間の記憶力は不確かであるという趣旨のネタがあります。抱腹必至のネタですがひとのこと云えるかというと怪しいです。1582年いちごパンツ本能寺の変とかくだらないことをいまでも覚えていますが、風呂に入る前にメガネを置いたはずなのだけど置いたはずの場所にメガネが無くどこに置いたか覚えてない…ということも先日の富山旅行の際にあったりしました…って相変わらず余計なことを書いている気が。

上野へ出た際に上野公園の清水観音堂のすぐそばにモッコウバラがあった記憶を思い出しそろそろ咲いているのではあるまいか?と予想して遠回りになるものの寄ると

ちょうど真っ盛りで見事で

めずらしくおのれの記憶力を褒めたくなっています。

もっとも年一回しか役に立ちませんが。

弁当における蒲鉾の存在意義について

いつものように匿名を奇貨としてくだらないことを書きます。

死んだ両親は蒲鉾を食すほうではなく、なので蒲鉾をどうやって食べるのかほぼ知らないまま大人になっています。神田の蕎麦屋では蒲鉾を薄く切ってわさびと醤油を添えて出す、というのは目撃していたのでそれが唯一の知識でした。崎陽軒シウマイ弁当には小さいころからシウマイのほかに蒲鉾も1枚入っていたはずで、その蒲鉾には神田の蕎麦屋での知識があったので一緒に入っていた醤油を蒲鉾に垂らして食べていました。

ところが弁当に常に醤油が付いてくるとは限りません。

社会人になりたての頃に大阪に放り込まれ、その時期の新大阪の駅で売っていた弁当には蒲鉾が入っていても醤油がついておらず戸惑った記憶があります。名古屋駅はすべてを確認したわけでは無いので云い切れないものの幕の内系には醤油が入ってないものがそこそこあり、同じ愛知の豊橋駅の幕の内は横浜同様醤油入りです。静岡駅や富士駅は幕の内の中に醤油のほかにわさび漬けが添えてあることが多く、私は蒲鉾にわさび漬けを載せて食べています。もちろんそれが正解かどうかは謎ですが。

話はいつものように横に素っ飛びます。

蒸留所見学で去春に仙台へ行ったときにかの地の笹かまぼこがおやつ代わりになりうるものだと知りました。私は長いこと蒲鉾というのはおかずというか副菜というかそれでごはんを食べるものだと考えていたのですが、それは思い込みに過ぎなかったのでは?と思い知り、そしてそれ単体で味わう前提なら醤油が無くても腑に落ちたというか。実際仙台駅の弁当に笹かまが入っていても醤油は入っていませんでした。

もっとも弁当における蒲鉾はデザートなのか?というとちょっと違う気がしてなりません。ここではてな今週のお題「お弁当」をひっぱるとさも当たり前のようにそこに居る蒲鉾の弁当における存在意義はいったいなんなのか、去春以降、よくわからなくなっています。もっとも旅先で買った弁当に醤油やわさび漬けが蒲鉾とともにあったら今までと同じくそれらをつけて食べてしまうと思うのですが。

ここしばらく食べていたジャムについて

ケチ臭い話をすると最寄りの駅のそばにヨーカドーがあって、ヨーカドーは8のつく日はnanacoを使えば5%値引きになります。日持ちするドレッシングだとか醤油だとかはたいてい8のつく日に買うことが多いです。節約ばかりしてると息苦しくなるので贅沢をすることがあります。

そのひとつがジャムで、食パンに載せるジャムはケチりません。『きのう何たべた?』ではバターをたっぷり塗ったトーストの上に自作いちごジャムをたっぷり載せていた記憶があって「ああわかる!」となったのですが、私は自作ではないしバターも載せないもののオレンジマーマレードをそこそこ載せます。オレンジマーマレードの酸味と香りを鼻と舌で楽しめば憂鬱をいったんはシャットダウンできます。

ここしばらくは明治屋の大人のジャムのオレンジマーマレードというのをヨーカドーで買っていました。リキュールがいくらか入ってて特に香りが好みで、おそらく1年以上欠かさず継続して購入していたのですが、退勤後に8のつく日なのでヨーカドーへ行ったら見当たらず、動揺して店員さんに尋ねたら取り扱い終了になっちまったようで。思わずマジっすか…と口から出たんすけど、いい大人が「マジっすか」はなかったかな、と。帰宅して明治屋のHPを眺めるとまだ生産はしてるようなので、そのうち勤務先のそばの大丸は明治屋製品を扱ってるのでそこを探すつもりです。

ジャムに関してはカネに糸目はつけません。よくいうじゃないっすか、人はパンのみにて生くるものにあらずって。多少高くても良いジャムも生きてくための必要なものだと思うのです(異論は認める)。

『中世の罪と罰』を読んで(博奕について)

競艇などの公営賭博をしたことはいちどもありません。が、酔ってあるチームの勝敗を賭けて負けたらなんでもしてやると彼氏に云ったことがあり、結果裸エプロンを所望され、そのテの小さな博奕はしたことがあります。条文上は一時の娯楽に供するものは除外するとあるので裸エプロンはおそらく問題にならないはずで…って裸エプロンはどうでもよくて。

これを書いてるのは元法学部生で、大学生の頃、刑法の授業で冒頭に「総論で60、各論で60くらい語りたいところがあるけどすべてに触れることは出来ない」という説明があって、恥ずかしながら授業でとりあげたところはそれなりに詳細を記憶していますが飛ばされたところはあんまり…です。賭博罪も飛ばされてて、なぜ偶然の勝負を楽しむ博奕がダメなのか?というと、勤労によって生活を維持するという勤労生活の風習を堕落させ、同時に、博奕に付随して生じかねない窃盗などを防止するため、という判例の通り一遍の知識しかありません。くわえて「いつから博奕が罰せられるようになったのか?」なんてのは知りませんし知識の欠如は自覚していて、ので『中世の罪と罰』(網野善彦石井進笠松宏至・勝俣鎮夫・講談社学術文庫・2019)という本を目にして博奕の項目もあったので知識の欠損を補充したいというのもあって即買いしています。

さて、史料に現れる最古の博奕は日本書紀天武天皇がさせたものですが(P124)、本書ではじめて知ったのですが博奕について規制をはじめて設けたのは(ここらへん事実は小説より奇なりで)持統天皇で、雙六の禁制をだします(P133)。養老雑律では財物を賭けたら杖一百、賭けたものの額が大きいときは盗みと同等としていたのですが(P133)、もちろん罰則が出来たからといって博奕が無くなったかといったらそんなことはなく、梁塵秘抄には博奕の職人としての博党が歌われていて(P127)、江戸末期には甲州では博徒でありながら赤報隊に加わった黒駒勝蔵のような人物が出てきます。もちろん令和に至るいままで博奕は無くなっていません。

博奕に対して時の権力者はなにもしていなかったわけではなくときとして厳しく規制をします。たとえば明月記を引用しながら「博打狂者」の「雙六の芸」に対して六波羅の武士が搦めとった上で鼻を削ぎ指を2本切った事例などを紹介しつつ(P134)、本書では鎌倉幕府の追加法等を紹介していて興味深いのは四一半というサイコロ賭博の一種を「偏に是盗犯の基」とし、弘長三年の公家新制では「諸悪の源、博奕より起こる」とまで云い切っています(P134)。ここで

お題「この前読んだ本」

をひっぱると読んだ直後に野球選手の通訳のギャンブルの報道を知り、なぜ博奕がダメなのかについて、ああなるほど…などといったんは腑に落ちていました…って私のことはどうでもよくて。戦国期には六角氏式目などでは博奕は死罪や流罪(P135)となり江戸幕府も初期は斬首としています。

でもなんですが。

執筆した網野さんは、鎌倉幕府には訴訟にあたり自己の主張を正当化するために自らの所領を賭け物として扱い万一敗訴した場合には相手方もしくは第三者に渡すという「懸物押書」というシステムがありくわえてそれらは従前から慣習としてあったのではあるまいかと述べ、くわえて鎌倉後期以降は法令に出て来なくなるものの懸物押書の制度は賭けを前提にしている点で当時は博奕そのものをどこか容認していたのではあるまいか?と投げかけます(P137)。また塵塚物語を引用する形で鎌倉室町期には他人の土蔵を賭けの対象にして負けたら掠奪を行うことを約すことも行われ徳政の起こりは博奕である、とする説を紹介しています(P125)。どう考えても博奕の存在が前提で、かつ、博奕の肯定があったことを否定できないわけで。

詳細は本書を読んでいただくとして、本書は博奕は罪とする発想は戦国期にあるのではないか?としつつも(P139)、博奕の禁制が結果的に博奕を隠微な世界に追いやっただけと喝破し(P149)。また博奕を楽しみ博奕に熱中する庶民の常識が中世以前から続く博奕の肯定に源流があるのではないか?(P139)と述べています。話がすっ飛んで恐縮なのですが歌舞伎と狂言に個人的には腹を抱えて笑ってしまうサイコロ賭博を扱った『博奕十王』というのがあっていつ成立したかは謎なのであるものの、罪とする発想だけでは偶然の勝負を楽しむその狂言はでてこないはずで、網野説に腑に落ちています。

読んでるうちに「ああ、博奕は無くならないかもな…」という感慨を改めて持ったのですが、裸エプロンを賭けるような些細なものは別として、窃盗などの犯罪とも近接するのは確かで、千年以上かけて解決できなかったそれらの問題を克服するのは難しいかも、という毒にも薬にもならない感想も持っています。

さて本書は博奕に限らず「悪口を言うとなぜ罰せられるのか」といったような根源的な疑問を含め10個の項目を日本史のもしくは法制史の点からかなり深堀した本です。「読んでなんの役に立つのか?」と問われると正直答えに窮してしまうのですが、でもかなり刺激的な本でした。

桜散りかけの井の頭池

井の頭池は花見の名所みたいな扱いにいまはなってはいますが、吉祥寺の隣の三鷹に住んでいた太宰治の『ヴィヨンの妻』だとかつて井の頭の池のほとりには以前は杉があったことになっていて、上記の作品ではそれが伐られて「寒々した感じ」と描かれていて、いまある桜はおそらくそのあとに植えられたものと推測します。つまり古くからの桜の名所ってわけではないようで。杉の代わりになぜ桜を植えたのか経緯は知らぬものの、そのおこぼれを都民は享受していることになります…ってそんなことを書きたかったわけでは無くて。

今年は桜の開花が東京では遅かったのですが

さすがにかなり経ったのでずいぶん散ってしまっています。それでも花見客はけっこう居て、書かなくても良いバカにされそうなことを書くと、他の人がお酒をうまそうに呑んでいると「いいなあ…」とおもっちまうところがあります。池のほとりには茶店があって黒ラベルを筆頭に麦酒も売られていて、それを横目で眺めていると欲してるのが顔に出ていたのか「花粉症の薬飲んでただろ?」と確認の上、止められています。もちろんキツくなるのは自明の理なので、諦めています。こうなってくると花粉症になってしまったおのれを恨むしかありません。ここではてな今週のお題「外でしたいこと」を引っ張ると、花粉症が落ち着いたら桜でなくても良いので太陽が沈まぬ時間から外でお酒を呑みたいな、と。呑めないと判ると余計に欲しくなるというか。くわえて陽の出てる時間帯に呑むお酒ってどこか背徳感があって惹かれるものがあります。

書いてて気が付いたのですが匿名を奇貨として書くと「お酒をお酒が人をダメにするのではなく、お酒は人のダメなところに露にするだけだ」という仮説を持ってるのですが、背徳感に惹かれて…などと書いてる時点で吞まずしてその証明とビールクズの証明をしてしまっている気が。

マジメなことを書くと井の頭池はかなり緑が濃くなってきました。

最近の試行錯誤

どうでもよいことを書きます。

高校は地学と技術家庭がなく大学は家政ではなく法学で、大人になってからどこかちゃんとした料理教室のようなところへ通えばよかったのかもしれませんが通わずに来ちまいまってて、なので料理関係の引き出しはそれほど多くはありません。「作れるか?」と訊かれて「うーん…」と唸ってしまうことがあります。

それが越中でメジャーな食べ物であるかどうかは不勉強なので知らないものの、富山で「とろろ昆布とおそらく生姜を酢で漬けてあるもの」を食べています。東京に戻ってから似たようなものを試しに作ろうとしたのですが食べたものは酢の効かせ具合が絶妙だったせいもあって、やはり同じものは出来ていません。

都心部に富山のアンテナショップが複数あるようなので似たようなものがあったら買ってみて研究するつもりです。なんだかほのかに悔しいのでもう少し試行錯誤してみます。

富山薬種商の館金岡邸見学

富山市内の東新庄に金岡邸という明治期の薬種商の建物が現存していて先日見学していました。薬でも小田原の外郎家は透頂香を小売りをしているので小田原城のすぐそばですが、金岡家は薬そのものではなく薬の材料を商う薬種商で、富山市内でも城のそばではなくどちらかというと郊外の住宅地にあります。

外観を眺めてると屋根の上になにかが載っていて、あれはなんだろう?灯台代わり?などと不思議に思えたのですが、それはいまは横に置いておくとして。

道路に面したところに店があり、多種類の薬の原材料≒薬種を入れる引き出しの多い百味箪笥が目を惹きます。人に見えるのは人形です。

センブリなどの薬草を入れていた引出そのものはたいして大きくありません。センブリは日本で採れますが、漢方の原材料は大陸や東南アジアなどからの輸入です。富山市の東岩瀬は江戸期は北前船の寄港地で、北前船に載せた蝦夷地の昆布は薩摩藩領に流れて琉球経由で中国へ行き、代わりに漢方の原材料は琉球経由で薩摩藩領から入手してそれが北前船で富山に来て金岡家などの薬種商が引き取り、薬種商は薬売りに原材料を売る仕組みです。

店の壁には個人が調合した薬の看板(左)が張ってありました(恥ずかしながらなんて読むのかはわからないです)。右の実母散は生理痛の薬で、上の健通丸はお通じの薬でつまるところ下剤です。おそらくそれらも取り次いでいたと思われます。

店のすぐ後ろには囲炉裏があり、かまどが見当たらなかったのでおそらくここが調理場兼食事スペースであった可能性が高いです。

この囲炉裏のあるスペースは非常に天井が高く、南面に窓があり陽が差し込み、くわえて白漆喰なので明るい印象を受けます。

囲炉裏の次の間は灰緑色の漆喰で天井に採光があり

外から眺めたときの灯台もどきは採光窓だったのか、と氷解しました。さきほどの囲炉裏の間の南面の窓と白漆喰を含め、雪の降る地域の太陽光に対する扱い方にちょっと唸らされています。ただ、この部屋がなにに使われていたのか尋ねたのですが不明で、つまるところ明治の富山の人たちの設計意図を現代人は理解できていないわけで。

灰緑色の漆喰の部屋の隣は赤い漆喰で、部屋ごとに漆喰の色を使い分けてることが理解できてきました。隣の加賀金沢だと赤い漆喰の部屋はもてなしの場などにつかうのですが、この赤い漆喰の部屋は天井が低くほぼ光が差し込まずでそのようには思えず、やはりどのように使われていたのかは謎です。

床の間のある部屋は手がかかる黒漆喰で、つい吹き出してしまってます。こうなってくると施主の金岡さんの遊び心なのではあるまいか?と思えてきたのですが、ほんとのところはわかりません。ここらへん工業製品ではない建築の素敵で不思議でバカバカしくて愛おしいところなのですが。

さて、金岡邸は明治天皇の訪問を受けていてその際に大広間などを増築してあります。

その増築部分で印象に残ったのがおそらくガラスが嵌め込まれた板戸です。ガラスを埋め込む必要があるのだろうか?と思わなくもないのですが

場所によってはガラス戸の先にガラスの嵌め込まれた板戸があって、先ほどの採光窓を思い出し、なにがなんでも陽の光を家の中に持ち込む執念を感じ、息をのんでいます。気候が違うといえばそれまでですがちょっと興味深く、設計者や施主の意図を汲むためには鈍色の空が続く冬に来るべきだったかな…と、春に来たことをほんのちょっと後悔しました。

なお大事なことを書いておくと金岡邸は越中の薬業の関しての展示がほとんどでその展示も時間泥棒で

名前をかろうじて知ってる熊胆であるとか富山の薬売りが扱っていた薬の展示もあってついまじまじと見入ってしまっていて、その中に強精剤があって、症状を治すだけが薬ではないんだよな、と思い知らされてます。くだらないことを書くと、いまのところ必要を感じていませんがそこに有ったらちょっと試してみようかな…と思わせる薬を忍ばせてる点で商売が巧いなあ…と思っちまったり。