Hatena::ブログ(Diary)

名付けられぬ領域のほとりにて このページをアンテナに追加

2018-04-12

[]歳をとるということもしくは「春よ、来い」と「林檎の花」のこと

淡き光たつにわか雨いとし面影の沈丁花

溢るる涙の蕾からひとつひとつ香りはじめる

松任谷由実「春よ、来い」

っていう出だしの「春よ、来い」という歌があります。はてな今週のお題が「わたしの春うた」なんすが松任谷由実さんのこの歌のっていうかおっかないところは全然関係ない描写からじわじわとはじめるところです。私のような風雅を解さぬ荒ましき東男でも・たとえ沈丁花の花がどんなものかとっさに思い浮かばなくても「淡き光たつ雨」は想像できますから雨にうたれる花の画像がなんとなく浮かびます。それを想像してるうちに歌をきいていると

春よ遠き春よまぶたとじればそこに

愛をくれし君の声がするなつかしき声がする

松任谷由実「春よ、来い」

とか「君に預けしわが心は」とかうっすら恋の歌であることが、さらに「ずっとずっと待っています」という語句があるので、「愛をくれし君」である先方は過去はともかくとしていまのところこっちを向いていないんだけどいまだ恋心を抱いていることがなんとなく理解できます。聴いてるうちに虫歯ができるほど甘い恋をしている真っ最中ではないことを悟ります。そして

春よまだ見ぬ春迷い立ち止まるとき

夢をくれし君のまなざしが肩を抱く

松任谷由実「春よ、来い」

ってのが出てきます。もしかしたらこの歌の主人公のそばに「君」がいてわりと親身にあれこれ相談に乗ってるのかもしれません(しかしそれもけっこう残酷かも)。しかし「まなざしが肩を抱く」というのをどう解釈するかです。まなざしが肩を抱くということは目線がつねにこっちにある、振り向いてこっちを見てるということなんだと思います。でもそれまでの記述から実際は振り向いてくれてはいないことがわかるので、たぶん過去の記憶なんだろうなあ、と。卑近な例で恐縮ですが付き合った相手に影響を受けちまった場合、変なところでも面影を思い出しちまうところがあります。気色悪くて恐縮ですが、仕事でしんどい時にもらった懐中時計を手にして、寄越した相手を思い出したことがあります。追憶に浸ることが良いことかどうかは別として、追憶に浸ることでしんどさはいくらか減ると思われるので、おそらくその情景をうたってるのかなあ、と。

夢よ浅き夢よ私はここにいます

君を想いながらひとり歩いています

流るる雨のごとく流るる花のごとく

松任谷由実「春よ、来い」

ってのもあります。「歩いています」ってのはそれが瞼を閉じてない実際の状況で、でもって流るる雨がにわか雨であるか・流るる花が沈丁花なのかどうかは明示されていません。しかしおそらく冒頭の沈丁花やにわか雨との対比かなあ、と思われます。夢よ、という呼びかけがとても不思議なのですが、これは「まぶたとじれば」と関連があって「愛をくれし君」のことなのかな、と。もう一度振り向いてというようにも聞こえますし、もしくは「愛をくれし君」に(眠ってる方の)夢でも良いから逢いたい・抱きしめられたいということなのかもしれません。もちろんこれらの解釈があたってるかどうかはわかりません。この歌が発売されていや当時は春をハブに置き換えて「ハブよー遠きハブよーまぶたーとじればーそこにー」とか歌って笑いをとってたクチで真剣には聴いていませんでした。さらにこれを書いている奴は非文学部卒で繰り返しますが荒ましき東男です。ひさかたの光のどけき春の日にしずこころなく花の散るらむっていう百人一首をテストで覚えなくちゃだったとき「ひかり」の「どけき」ってなんだよー、としばらく悩んでたくらい風雅を解さないところがあるので誤った解釈をしている可能性があります。ただ別れがあってシングルだったときに、もちろん発売から十年以上経った段階でこの歌を(たしかラジオか有線で)聞いて、手に取るようにわかった・身に沁みたというか刺さりました。歌詞が変わったわけではないので私が変わったのだと思います。でもって実体験を通して誇大妄想的にこねくり回して「この歌は夢や追憶に浸ることの是認である」と考えてるのですが、松任谷さんの熱心なファンではありませんしご本人にに訊いたこともありません。でもそれなりの経験をしちまった後だとあんまり間違ってるように思えないのです。

なんだかおっさんが語ると気色悪いんすけど。

槇原敬之さんの「林檎の花」というのはおそらく春になると思うのですが、関東では東北新幹線新青森開業時のCMに流れていました。そのなかで吉幾三さん演じる先輩駅員が三浦春馬さん演じる東京から来た駅員を「おい東京」と出身地で呼びます。はじめて社会人になって知らない大阪に放り込まれて名前を覚えてもらうまでは「おい東京」と呼ばれていて、容姿は別として「あ、昔の俺があそこにいる」と思え、がむしゃらに突き進んできたことを想起して目頭が熱くなりました。実は恥ずかしながらいまでも「林檎の花」のメロディを聴くと目頭が熱くなります。

音楽ってたまに、不意に心に突き刺さってきたり実体験に基づく解釈と鑑賞をしたくなったり、理屈なく泣けてくることって、ないっすかね。もしかしたら歳をとるってこういうことかもしれない、と思ってるのですが。

2018-01-14

[]恋の歌の世に多きはいかに

今年のセンター試験の国語の古文に本居宣長が出ていました。和歌について質疑応答形式で見解を述べる石上私淑言というのがあるらしく、勉強不足で恐縮なんすがはじめて知ったのですけど、その中で冒頭にけっこう興味深い問いがありました。「恋の歌の世に多きはいかに」。

テスト対策で百人一首を必死に覚えていたころ「明けぬれば暮れるものとは知りながらなほ恨めしきあさぼらけかな」というのを「明けたら暮れるって…なにあたりまえのこといってんのこのオッサン」という侮蔑とともに記憶してて、なにを云ってるのか(童貞でうしろの処女を失っても居なかった無垢な十代だった)その頃はよくわからない恋の和歌がけっこうあって、なんで(意味のわからない)恋の歌がこんなにあるのかというのは私も持っていた疑問でした。云われてみればいまでも理由の正確なところはわからない疑問でもあります。人の抱くいろいろな感慨の中で特に恋は切実なものなので上代から多く詠まれてる、っていうのがいちおうの答えで、わからないでもないけどはぐらかしてる印象がないわけでもない微妙なところではあるのですが、つまるところ上代といい平安期といい(もしかしたら現在も)、日本人というのは恋に悩まされ続けてるからこうなった、ってなことなのかもしれません。ヒマがあればよその国の詩歌における恋の割合を調べてみたい気がしないでもないです。人類共通の悩みなのか、果たして大和民族だけの特徴なのか。

君待つと吾が恋をれば我が宿のすだれ動かし秋の風吹くっていうのが万葉集額田王の歌にあって、「いつくるのかなあ」とひとりで待っていたときに風で簾が動いてびっくりした、という意味にとってるのですが、私がこれを理解したのは先にシャワーをつかわせてもらってシーツにくるまって待っていたとき、ちょっとした物音にびっくりしたからです。肌で理解した経験を何度かしてから、短歌がよくわかってないくせに短歌に興味を持っているのですが、あまり人には云えません。そして知らなくてもいい世界なのですが、云えなくて知らなくてもいい世界ほど、なんだか興味は尽きません。

2017-07-06

[]塩屋

井の頭池というのが神田川の上流というか東京の多摩地区にあります。そこに弁財天があるのですが井の頭に男女がデートで行くと弁財天が嫉妬して別れさすという噂がありました。神様は嫉妬するということを都民の何割かは弁財天で知るのですが、噂を知りつつも男女ではないデートで何回も行ってます。夏のある夜に井の頭で涼んでいて「ひざを貸せ」と言われて(ほぼ筋肉ですから)「やっぱ堅い」といわれ「だったら(ひざを揺らして)落とすぞ」と脅したもののそこまではせず、そのときはしばらくひざを貸してました。ベンチは池に向かって設置されてますから、たぶんばれてません(そもそも人がそんなにいない)。野郎にひざ枕した最初の記憶です。

その夏に大江千里さんの「塩屋」というのを聴きました。その中に

この場所だけは彼氏とくるなよと大人げないこと云う僕がいやだよ

大江千里「塩屋」

ってあるのですが、そのとき咄嗟に思い出したのがひざを貸した夏の夜の井の頭です。「そこでなにをしたか」という二人しか知らないことがデートの醍醐味のはずなのでその記憶の共有をほかのだれかと上書きしてくれるな、ほかの誰かと来てくれるな、という子供っぽくなおかつ独占欲的なところが、とても腑に落ちました。ひどくよくわかるのです。もっとも「別のひととは来ないでね」とかそんなことは強要すべきことではないし、おのれの子供っぽさの証明になっちまうので内心はともかく云ったことはありません。この先も云うつもりはありません。ついでに書いておくと大江さんは曲中で彼氏とか彼女という言葉をつかってるので男女間のことを歌ってると思われます。ですから野郎2人で行ったデートを引き合いにその胸中がわかると感じるのは明らかに誤読です。はてな今週のお題が「私の『夏うた』」なのですが、「塩屋」は神戸の海辺の町を歌っていてしかし夏の歌かといわれると厳しいかもしれません。でも私の中では「塩屋」と井の頭がリンクしてるせいで夏のうたであったり。

大江さんついでに夏っぽいうたについて書いておくと大学生の頃にポンキッキーズで「夏休みはやっぱり、短い」と歌っていました。歌詞の詳細はともかく夏も週5でバイトしてましたからあまり長い夏休みも取れず「夏休みはやっぱり、短い」結論については「まったくだ」と思いました。社会人になってもあんまり長い休みってとれてないので20年以上経っても「夏休みはやっぱり、短い」という歌詞を聴くといまでも「まったくだ」と思ってしまうところが悲しかったり。

2016-11-07

[]世界に一つだけの花

よく他人と比べてもしょうがない、ってなことをいうのがあって、たぶんそれはそうなんだと思うのです。でもなんで比較するかっていったら簡単で、比較することで自己のポジションが判るからです。凡人は、他人が居てはじめて自分を自覚できることがあります。ああ、俺勝ってるじゃん、ってことが自信につながるわけで。そういうことをやっちまうし、やらないとしんどいわけっす。極端な話、風呂場で比較する(どこを?というのは良いこのみんなはかんがえなくていいです)。

「ナンバーワンにならなくていい」って槙原さんは歌うわけですが、社会に出たいま、もちろん「ナンバーワンにならなくてもいい」だってのは、わからんでもないのです。だけどそれで完全に納得するのは難しいんじゃないかなあ、と思わないでもないのです。だからこそひとりひとりが違うからこそ孤独に耐えられなくて、好きな相手に告白されることのように、内心どこか「てめえがいちばん」っていわれたいことってあるんじゃないかなあ、とおもうので「特別なオンリーワン」ってのもわかるのです。と、同時にそれを云えるのは槙原さんという余人をもって代えがたい「特別なオンリーワン」の存在で「ナンバーワンにならなくていい」人だから説得力を持つ、と思っていました。でもって、その「世界に一つだけの花」を「ナンバーワン」であり続ける・ひた走るSMAPが歌うとどこか嘘くさい、と思ってしまったことがあって、以降ほとんどの新曲を知りません。

こんなことを語りたいくらいにSMAPというのは不思議と身近な存在でした。ほぼ同年代で、アイドルのはずなのにアイドル臭がなかったせいかもしれません。

SMAPのアルバムが年内に発売されて、リクエストの上位50ってのをチラ見したのですが、上位は知らない曲がほとんどでした。前に書いたことがあるかもしれませんが、わたしは変な癖があって、脳内でメロディを再生してそれまでの思考を断ち切り、気分転換を図ることがあります。名古屋にいた頃に一時期多用していたのが「SHEAK」とか「Dynamite」とかのあたりで、レジャックのそばの高架下で誰もいなかった時などは歌ってました。「SHEAK」はフリもうっすら覚えてるかも。ただ上位ではなくて、ちょっとがっかり。

おっさんの追憶のためのアルバムではないのですから当たり前といえば当たり前なんすが。

2014-06-21

[]恋するフォーチュンクッキー

はてなのお題がアイドルです。

どういう経緯でそうなったのかは知らないけど、あちこちの組織やグループでで恋するフォーチュンクッキーのメロディにあわせておどる動画というのが去年から公開されています。AKBに興味がないものの、西鉄が公開しているのを西鉄の人からメールで教えてもらいました。春日原の工務関係者と筑紫の鉄道関係者が一糸乱れぬ動きを見せてて唸っちまうのですけど、アイドルが特別な踊りをしているというわけではなく、鉄道事業者でも踊れます。でもって半分社命でやってるのかもしれないけどアイドルと同じ踊りをしてちょっと楽しんでるようにみえたのがちょっと新鮮でした。西鉄以外でも鳥取県ほかあちこちでやってるのですけど、おそらく自曲を日本のあちこちで踊らせるというかそんなことをさせてたアイドルなんていなかったでしょうからAKBって人をのせるのが巧いよなあ、といまさらながら納得しました。特別な存在というように感じさせないというかおそらく敷居が低いのかなあ、と。

歌詞がなんだか興味深くて

性格いいコがいいなんて男の子は言うけど

ルックスがアドヴァンテージ

いつだって可愛いコが人気投票1位になる

プリーズ プリーズ プリーズ オーベイビ私も見て

AKB48 「恋するフォーチュンクッキー」

と歌うところがあります。人気投票をするシステムにひっかけてるのですが(はじめて聞いたときAKBに属してるわけではないから投票されるわけでもないけど正直怖いシステムだなあと思ったのですがそれはともかく)、単純に歌詞としてみてもわからないでもない話で「ルックスがアドヴァンテージ」ってのは似たようなことを(美少年・美少女じゃなかったら)一回は考えちまうのではないかと思います。つか、ここらへん世代を越えた永遠の悩みなのかもしれませんが。そんなことないかな。

2013-09-15

[]やわはだの

「やは肌のあつき血潮に触れも見でさびしからずや道を説く君」

という与謝野晶子さんの短歌があります。検索履歴ってあまり見ないのですがカウンタがやけに回転してる日は検索が多くなってて、ここんところこの歌の検索が多かったりします。

私はこの短歌の内容を、好きな相手に身に触れてほしいのだけど触れてくれないもどかしさ・情より理や道徳を優先しちまう相手が好きになったことのちょっとした悲嘆、もしくはおそらく片方が熱してて、もう片方がそうではないときの、一緒じゃないぷち悲劇をうたってるものだとおもってるのですが、あってるかどうかはわかりません。この悲嘆というのはなんとなく昔の自分のものでもあって・想像できてて、たとえば好きといっても、言葉が通じたとしても相手に理や道徳をもとに拒絶されたら・いっしょに「あつき血潮」を持ってくれないのなら、孤独です。それが寂しいって言葉につながってるのですが、道を説く言葉に限らず言葉ってのは他人に通じることもあると同時に孤独への道も舗装します。

最近この短歌をつかってるCMをみて「口説けってこと」いう解釈が間違ってるとは思わないけど、あってるとは思えませんでした。

でもってそれほど長くはないこの短歌を検索するということはおそらく多くはその意味がとれない、ということなのかもしれません。けっこう皮肉なことで、短歌というのは世の中からかい離し、もしかしたら多くの人に理解できないようになっちまってるのかもしれません。むしろそっちのほうが気になったりします。

2012-12-31

[]ヨイトマケの歌

帰宅後、Eテレで抜粋でサイトウキネンの火刑台のジャンヌダルクをやってて風呂上りについひきこまれてしまい(松本の合唱団はむちゃくちゃ巧いと思う)、それをみてたら紅白の美輪さんの出番の前半分くらい聴き損ねちまったのですが、なんだろ、後ろ半分だけでもすごく説得力あるというか、唸らされました。


でもって甘えたいという誘惑がある人にとって(たぶんそれは母性に対してとは限らない)もしくはがんばったことをどこか誰かに褒めてほしい誘惑のある人にとって、ヨイトマケのうたは、甘えたいけど・誉めてほしいけど、それがかなわないことの嘆きに触れちまうと、揺さぶられるのかなあ、という気がするのですが、そんな生易しいものではないかもしれません。

「お父ちゃんのためなら、えーんやこら」というのも、家族への愛の吐露みたいなところがあるとおもってて、なおかつ歌詞の中にも、子からみた母への追慕というか親への愛(この語句があんまり適当とは思えないのですが、ほかに言葉が思いつかないのです)の吐露みたいなところがあって(美輪さんがうたうとちょっと迫力があるのでそっちに目がいっちまうのですが)すごくストレートで、オブラートに包んだものの言い方や、行動になれちまうと、ストレートな言い方や歌い方に、惹かれるものがあるのかもしれないです。ほんとのことや感情をストレートに出してもよくないかもしれないということをムダに学習している、屈折してるみずからの姿の鏡になってるのかもしれません。


正直に書くと、10年くらい前にはじめて聴きましたが、しかしヨイトマケというの見たことが無ければ時代背景も正直よくわかっていません。伝え聞く程度のことで、だからおそらく歌のすべてを理解してるとは思ってません。過去の日本の一部を切り取った歌で、でもしかしいまでも人を動かすのはなぜなんでしょう。正直、人の情に訴えるのは悲しみが基調にあって悲しみがあってからこそそれを原動力に人は行動をしたり道を切り開いたりがあるのかなとか、いくつも仮説が浮かんでは消えるのですが、いまいち説得力ありません。でもって、ちょっと動けなくなってしまったのですがここらへんの解釈はもしかしたらゲスの極みかもしれなくて、おそらくそれが歌もしくは音楽の力のようなものなのかもしれません。