2004-01-29 儀礼的関心
■[memo] 儀礼的関心??
とある雑誌から「論文作法について何か書け」とご注文頂いていたのだが、なにぶん単純肉体労働に時間をとられ、なかなか書き出せないでいた。そんななかパラパラとめくっていた立岩真也『自由の平等』(岩波書店)に苦笑の止まらない(?)衝撃の文章を見つけ、何か書けそうな気がしてくる。
幾人かの人の名があげられ、何冊かの本が引かれてはいるが、分かる人ならすぐわかるように、これは本を読み勉強して書いた本ではない。まず時間をどう配分するかということがある。人が考えたことを知るにも時間のかかることがある。まず書いてしまって、こんなことはとっくに誰かが言っているといったことは知っている人に教えてもらえばよい思った。(p.348)
ガクシャ稼業なんぞをやっている者なら誰もが知る真理(笑)をこれほど直截に書けてしまえるっていうのは、立岩氏ならではですね。他の人じゃまず許されない(論文指導の場とかでは公然と語られている真理であるにもかかわらず)。いわばガクシャ先生が過剰に内面化している「儀礼的関心」「儀式的関心」ですな。世の中にはこの儀式的関心(あるいは顕示的無関心)の巧拙に独特の美学を見出したり、まてまた儀式的関心の欠如を書き手の無能力の証と考えたりする人も多いわけで(まぁ、僕もその一人ではある)、実際文献表見るだけで論文の出来は8割方分かるという経験則も馬鹿にできたもんじゃないから、かの真理は公然のまま隠匿され続けてきたわけだ。
この儀礼的・儀式的な関心が「論文」が成立するための必須手続きとされ、かくして著者・作品(論文)の「オリジナリティ」の神話がどの業界にもまして再生産されつづけているのが、ガクシャ共同体なのかもしれない。しかも形式的には「リンクフリー」の体裁をとっているから、儀礼的な関心とマジなリファーを表面的に識別することは不可能で、被引用数ランクによる論文評価などという妄想的な制度が信憑されてしまったりする。「オリジナリティ」はかくも皮相な言説回路のなかで創造されつづけているわけです。だから、「リスペクト」なんて言葉があるオンガク・ブンガクの方がある意味、「オリジナリティ」とやらからは解放されているのかもしれませんね。
立岩さんはこの「隠微なオリジナリティ再生産共同体」の暗黙ルールを明示的に語ってしまっている。いやはや。やっぱり凄いですわ、立岩さん。掛け値なしにリスペクトします。
で、こんな事情と、少し前に一部で話題になった(ネット上の)儀礼的無関心の話を掛け合わせると何かかけないかなぁ、などと考えている次第であります。強迫的な儀礼的関心と、微妙なニュアンスを持つ儀礼的無関心。どっちも建前は「リンクフリー」と「自己表出」。なのにその違いはどこから出てくるのか? 北海道に逝ってちと考えてみます。
あ、内容面に関する立岩本の感想はまたそのうちに。
※ ちょっと一週間ばかり遊びいれておきます。ご勘弁。



