2004-02-15 おお、思ったより早く仕事が終わったぞ
■[day]『バレンタイン・キッス』を聴きながら…
本日は増田聡氏の新居に畏友Uさんとお呼ばれ。おいしいおいしいお好み焼きを頂きました。高度な文化資本の香り漂うお住まいぶりに、『巨人の星』の舞台とされる下町の風土に心地よく染められながら日々をすごしている僕は、ひたすら感動。増田ご夫妻、本当にお世話になりました。どうもありがとうございました!!
にしても、「国生さゆり」の名を二日続けて声に出したのは、たぶん18年ぶりぐらい(笑)。『バレンタイン・キッス』を聴きながら、臨床思想家の唯物論的展開可能性について語る増田氏の言葉をかみ締めていたのでした。
■[memo]儀礼的無関心
前にも書いた儀礼的関心の話と絡めつつ、「論文作法」みたいな内容の論文?を某誌に書いていたのですが、何とか校正終わりました。はてな界隈で話題になった儀礼的無関心の話を「ひき」に持ってきましたので、「火付け役」松谷創一郎さんには何らかの形でペイ・バックしたいと思ってます。
にしても、ゴフマン自身の儀礼的無関心という概念、僕は本来的には「電車の中」「街路」のような物理的公共空間をモデルにして理解しないほうがいいように思ってます。近代社会が成熟するなかで、近代家族の理念が浸透し、男性的な公的領域(第一空間;職場とか)と女性的な私的領域(第二空間;家庭)が境界づけされるようになる。それは日本だとだいたい1920-30年代のことで、その境界の誕生と同時に、どちらにも属さない盛り場のような「第三空間」が生成してくる。
そこは、目的合理的な公的領域における行為接続も、親密性に依存した行為接続も通用しない、不気味な空間、「どう見られているか/どう接続されてしまうのか」がきわめて不明瞭になってしまうような「いかがわしい」空間。要するにコミュニケーション接続への不安が、幽霊のようにしつこくつきまとってくる「場」である、ということ。で、そうしたいわゆる「郵便的不安」が上昇してくるコンテクストのなかで、その不安を軽減するための戦略が、「儀礼的無関心」だったわけです。儀礼的無関心とは接続不安が急激に上昇する近代社会における「(ルーマン的な意味での)意味論」的装置であった、と。
とすれば、それは東浩紀氏自身が言うように「(郵便)空間」というメタファーを使わないで理解したほうがいい。それは都市のような物理的空間のみならず、ネットのような非物理的なコミュニケーションの場においても(おいてこそ)、現れてくる。とすれば、儀礼的無関心云々という話は、たとえシステムの利便性やユーザのリテラシーが高まったとしても、何度でも繰り返し現れてくるのではないでしょうか。僕達はたぶんものすごく純化された第三空間のなかに、何となく生息しつづけているわけですから。










