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Season of Hammerhead Shark

2006-09-07 「女と男のいる舗道」について

[]リバースA 〜 演技したい女と演技させない男

ゴダール「女と男のいる舗道」では、アンナ・カリーナブラジャー姿になっている。このシーンに何か意味があるかというと、何の意味もないと思う。(一応、娼婦が客の前で脱ぐ、という設定ではあるが)

これはただの「ブラジャー姿のアンナ・カリーナ」だ。


ゴダールはこの映画で、演技していない彼女のカットをいくつも使い、相当彼女を怒らせたらしい。


一番演技らしい演技といえば、彼女が映画館で泣くシーンだろう。

(『裁かるゝジャンヌ』の、審問官「救済は?」 ジャンヌ「死」 

というシーンを見ているアンナカリーナが泣いている。これはアワーミュージックで再び引用される。)


多分、この演技らしい演技を撮った後は、やりたい放題だったのではないだろうか。つまり涙のシーンは「言質取ったで」というヤクザまがいの確約で、他は演技してない女優の姿を撮りまくっては編集しまくる。


そのやり取りは、まるでAVのような関係性も感じるし、上記のブラジャー姿はパンチラ写真程度の志のようなも気もするのだが、仕上がった映像は相当に美しい。どんな野蛮なことであれ、美しく撮れてしまうのがやっぱりこの監督の魅力。


それに、物語上「必要とされる」もったいぶったブラジャー姿より、ただのブラジャー姿のほうがカッコいい。

[][]リバースB 〜 スケートボーディングとゴダール

「女と男のいる舗道」を久しぶりに見ようと思ったのは、最近「アワーミュージック」とスケートボード・フッテージ「The Strongest of the Strange」を見たからだ。


アワーミュージック」ではゴダール自身が学生達を前に「リバースショット(切り返しショット)」について語っている。

(それについては↓の方のとても丁寧な説明をどうぞ。あぁインターネットて楽だわ!)

http://www.godard.jp/ourmusic/bakuretsutalkshow14.htm

二つのものを交互に映し出すリバースショット。ゴダールのリバースショットには、二つのものの化学反応が生み出すイメージの「飛躍」が常にある。

アワーミュージックでは、パレスチナイスラエル、男と女、といった二つのものについて「違うけど似ているもの。だから難しいのだ。」と語っていた(と思う。ごめんうろ覚え!)。

あぁ、60年代のゴダールの作品には素晴らしい「男と女」のリバースショットがあったなぁ、タイトルも「男性・女性」「女と男のいる舗道」 とか・・・とか思って久しぶりにそれらの作品を見ようと思っていた。

(特に「女と男のいる舗道」では、死を救済と考え殉職する女性が 『裁かるゝジャンヌ』の引用で提示され、それが更に「アワーミュージック」で引用されていることが気になっていた。「女と男のいる舗道」のナナ、「アワーミュージック」のオルガ、二人が涙するシーンはやはり同じくらいドキドキする!)


さらに同時期に、スケートボード・フッテージ「The Strongest of the Strange」を見て、こんなシーンが気になっていた。

坂道に、車道から1メートルぐらい高さのある歩道があり、車道から歩道には階段が設計されている。階段のスペースの分、歩道は部分的に空間ができ、その周りは柵がある。

そこを先ず、女が車を降りて階段を登り、歩道側に渡ってビルの中に姿を消す。女の格好はけばけばしく娼婦風でもある。

そしてその後すぐに、階段の周りの柵には板が立てかけてあり、坂道の歩道をスケートボードで猛スピードで降りてくる男が現れる。男は立てかけた板を利用し信じられない高さと距離を飛んで、一瞬で走り去っていく。


このシーンは、16ミリか32ミリのフィルムで収められており昔の映画のような質感を持っているのだが、そこに出てくる娼婦風の女を見て僕はアンナ・カリーナを思い出してしまった。舗道で女が娼婦の役として現れる映画・・・「女と男のいる舗道」?と、単純に。

そして続いて驚きの「リバース」である。女が歩いたその場所を、男はスケートボードで物凄いジャンプで飛び越え走り去る。

僕はこれを見て「ゴダールを超えたのではないか!?」と思った。


だいたい女のシーンが何故あるんだろう?スコット・ボーンのジャンプだけでも通常のフッテージとしては十分すぎるぐらいカッコいいカットなのに。ここでこのようなリバース手法をあえて使用したのは、それ以上の効果を製作者が欲しがったと思われる。

やはりこれはゴダールの引用であって、見ている側に「女と男のいる舗道」的なイメージを想起させたかったのではないか?そしてその上でスコット・ボーンの強烈なジャンプであるから、確信的に「ゴダール超え」、スケートボーディングからゴダールに対する鮮やかな「切り返し」を狙ったものと僕は思ってしまうのだが。


頭の良い映像作家達はゴダールの提示する「リバースショット」に意識的に取り組み、しかしゴダール以上の新鮮なイメージの飛躍を得られずに「やっぱゴダールは凄いよね」と映画論を映画の上でも繰り広げてはお茶を濁すしかなかったのではないだろうか。

「The Strongest of the Strange」のリバースショットには、今までの映画史には無かったイメージの飛躍がある。しかも文字通りの「飛躍」で超えてみせるという思いっきり粗野だが、今まで誰も考えつかなかった発想で。しかもスコット・ボーンの芸術的な身体運動でもって。


ゴダールを超える、というと何だか大げさな言い回しのような感じもするが、ゴダールの作品自体が「超える」ことを望んでいるように思えることもある。

彼は見る側の思考が停止するのではなく、思考を喚起するような作品を作っていると思う。

映画は常にファシズムと危うい関係にあることに彼はもちろん意図的で、その上で見る側がファシズム的な思考停止に陥らないよう常に注意して作っているのではないだろうか。


だから彼の映画の解釈は自由にできるのだろうし、彼の映画を権威のように捉えて妄信する必要もない。超えてみせるのも自由なのだ、と思う。

それにファシズム的な映画は超えようとも思わない。無視するだけだ。超えて楽しいのはゴダールのような作品のほうだろう。


しかし「女と男のいる舗道」、哲学者ブリス・パランとアンナ・カリーナのリバース・ショットで、アンナ・カリーナが演技のしていない顔でカメラを覗き込むシーンはいいなぁ!このかわいさは、スコットのリバースも危うし!と久しぶりに見て思いました。


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まだ書きたいことあるんですが今日は時間がないので、ここで切り上げます。後日追記&変更します・・・