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2011-12-30 チャンドラとミミ

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 煩く電話が鳴っている。

 チャンドラはベッドサイドの起床スイッチを押した。部屋のなかに薄ぼんやりと明かりが点り、壁のスクリーンが開いて、ちいさな手鏡ほどの大きさの丸い窓があらわれた。チャンドラは寝ぼけ眼を擦りながら、二百五十二階の窓の外の光景を眺めやった。

 夜明けの日の光を受けて、無数の耐風ガラスがきらめいている。いつもながら、増殖したミニチュアの月のようだ、とチャンドラは思う。……そうであるならば、おれたちひとりひとりは、それぞれの月面にただひとり降りたった孤独な宇宙飛行士だ。あまりにちいさく、プライヴェイトで、ささやかな月ではあるけれど。

 それらの窓の向こう側には、この部屋とおなじ、たったひとつの部屋からなる、一軒の住居がある。なるほど、大仰な景観ではある。左右の親指と中指で囲めるほどの丸窓からみえる、ごく狭く切り取られた視界のなかにすら、いったいどれだけの数の住民の暮らしがあるのか、チャンドラには見当もつかない。しかも、すべての部屋は、ひとつながりの巨大な建物のなかにあった。

 三百階もの階層、その最上層と最下層のそれぞれ三十階層を占めるロスト・レベルスのことは、ただ恐ろしい階層だという噂しか知らない。チャンドラが知っているのは、二百一階から二百七十階までのアウター・レベルスだけだ。チャンドラが行き来できるのは、その七十階だけである。“生きわかれの双子”階層と呼ばれている三十一階から百階までは、高速エレベータ内の階数表示ランプの瞬きから、おなじ階層として結ばれていることがわかるだけだ。そこでは、高速エレベータは決して停まらない。

 他の階層とは、そもそも高速エレベータすら結ばれていない。だから、階数を示すランプすらない。アウター・レベルスの内側、百六十一階から二百階、百一階から百四十階までのミッド・レベルスのことは、チャンドラはおなじ建物のなかにあることを知っているだけだ。さらに、百四十一階から百六十階までの中央階層、ピークからはすべての階層に隠された高速エレベータがつながっている、という噂がかつてあった。だから、ピークの住民たちは、屋上の眺めも地上の風景も知っている、と。

 だが、それはやはり噂に過ぎず、反対にピークは他の階層と最も厳重に遮断されている、というのが、このところのアウター・レベルスの居住者たちの共通理解だ。

 そもそもチャンドラは地上を知らない。地上の存在は、……そして地上での暮らしは、もはや神話のなかにしかない。地上は、この三百階の建物を支えている場所をあらわす抽象的な概念として、それがなければ世界が成立しないひとつのものとして、たとえば〈酸素〉や〈心臓〉のように、頭のなかで理解できるだけだ。二百五十二階の窓から地上ははっきりとみえない。下界をみおろしてみても、薄く靄がかかった遥かな彼方としてみえるだけで、空の果てをみあげることとかわりがない。


 電話が鳴りつづけている。

 チャンドラは窓の外を眺めながら、かつての仕事仲間で、二百六十七階に住んでいた秋輝(しゅうき)の顔を憶いだしていた。こんなふうに朝早く、やつはよく電話をよこしてきた。あいつは寂しがり屋だった。誰もがたったひとつの巣穴のような部屋で、孤独をかみ砕きながら過ごしているというのに、秋輝は朝から寂しさを隠そうともしなかった。だから、チャンドラは秋輝の態度にある種の危うさを感じていた。

 七十八番目の颱風がやってきた朝、やはり電話をかけてきた秋輝の声は、それまでに聞いたことがないほど弾んでいた。

〈チャンドラ。今日は暇かい?〉

「ああ」

〈午過ぎに……〉

 一瞬、嫌な沈黙があった。

〈地上で待ち合わせよう〉

「なんだと?」

〈地上だよ〉

 チャンドラの背筋が冷たくなった。

「おい……」

〈懐かしいんだ。地上に帰りたくなった。おまえはどうせ高速エレベータだろ? 階段で先に降りて待ってるよ〉

「階段だと! ……秋輝!」

〈たった七階くらい階段で降りるさ。じゃあな〉

 忘れもしない。秋輝が自分の居場所をみうしなった日の、悲しい記憶だ。自分の居住階層を客観的に認識できなくなる幻覚は、かつてはロスト・レベルスの風土病と噂されていた。だが、このところ、アウター・レベルスでも患者が次々と発生している。

 あの朝、秋輝は自分の住居が七階にあるという幻覚にとり憑かれた。彼は高速エレベータへの乗降を拒絶し、階段しか使おうとしなくなった。しばらくして、秋輝は療養所への強制転居を余儀なくされた、とチャンドラは聞いた。療養所がどこにあるのか、チャンドラは知らない。アウター・レベルスにはない。そして、療養所に送られた後、もとの部屋に帰ってきた居住者の話も聞いたことがない。

 ふいにアウター・レベルスから姿を消した、まだ若かった秋輝のやるせない面影を思い浮かべながら、チャンドラは思った。地上を眺めながらひとが暮らせた時代は、もはや遠い追憶のなかに、……神話のなかにしかない。地上七階の部屋に焦がれる気持ちはチャンドラにもわからなくもない。だが、地上に階段で降りられる部屋など、夢のまた夢だ。やつは間違ったやり方で、追憶をしてしまったのだ、と。

 確かに、こうして無数の窓を眺めていると、自分の居場所がわからなくなるときが、チャンドラにもある。窓の光が重なりあい、反射しあっているように、近い記憶と遠い記憶が、甘い追憶と苦い追憶が混じりあう。居住者の数知れぬ追憶は、耐風ガラスの輝きと一体化し、夜毎、きらめいてみえる。だが、追憶にも領分がある、とチャンドラは思う。ピークを中心にして、ミッド・レベルス、アウター・レベルス、ロスト・レベルスと、四つにわかれた階層が、それぞれ隔てられた追憶のかたまりであるかのように感じられる瞬間があった。


 ただでさえ、毎朝毎夜、無数のミニチュアの月を眺めて、ひとはなかなか正気でいられるものではない。だが、幻覚の発症のトリガーとなるものは、必ずしも居住フロアの地上からの距離だけではなかった。

 もうひとつの要因は颱風である。これも地上の存在とともに永く語り継がれてきた、ひとつの神話だ。……地上は颱風が吹き荒れる海沿いにある。その海辺には裸螺(らら)と呼ばれる巻き貝が満ちていた。裸螺はひゅうひゅうと鳴きながら、波打ち際を這い回り、浜辺は巻き貝捕りの孤児たちで溢れていた。三百階の階層からなる建物は、なかでも颱風の被害が最も酷かった浜辺に、永い歳月をかけて築かれていった。

 そのための耐風ガラスでもある。

 颱風の日には、窓からの風景が一変する。地上も空も白く濁り、掻き回され、窓に張りついたようになる。地獄とはこのことだ、とチャンドラですら感じたことがある。どんよりとした白い空のただなかにあって、増殖した月は妖しい輝きを帯びはじめる。もとより窓は開閉できない。耐風ガラスは一定の防音効果を備えてはいる。だが、それでも強い颱風の不気味な風のうなりを完全に遮断することはできない。

 颱風が通り過ぎてゆくのをじっとみつめるなど、狂気の沙汰だ。そのことを知っている模範的な居住者は颱風がやってきても決して向き合わず、話題にすらしない。一日中、スクリーンを引いて、窓の外で吹き荒れている颱風に気づかぬふりをする。気楽な階層放送を大音量で流しつづけて、風のうなりもできる限り消してしまう。そうすれば、気がついたときには、輝かしい晴天が窓の外にひろがっている。

 だが、悪魔に魅入られたように、恐ろしい颱風にすり寄ってゆく居住者がたまにいる。彼らはひとときも窓際から離れず、颱風がもたらす凄まじい空模様の変化と、激しい風のうなりを一身で感じつづける。

 そうした経験を繰りかえすと、颱風はたちの悪い薬物とおなじ効果をもたらす。彼らはちょうど薬物依存症の患者のように、颱風の到来を待ち望むようになる。やがて、幻覚が引き起こされる。彼らの耳は聞こえないはずのものを聞き、目はみえないはずのものをみはじめる。

 耐風ガラスにぴたりと張りついて人間のように笑っている黄色い山羊をみた……、窓の外を舟歌とともに飛ぶ巨大な船をみた……、と真顔で話していたアウター・レベルスの居住者を、チャンドラは知っている。

 彼らの多くは颱風が去ったと気がついたとき、自分の居場所をみうしなっている。その部屋が何階にあるのか、正しく答えられなくなっている。そして、心のうちでは、もう次の颱風の到来を待ち望んでいる。


 電話が鳴りつづけている。

 チャンドラはようやくベッドサイドの通話スイッチをオンにした。

〈おはよう〉

 壁面に埋め込まれたスピーカーから、若い女の声が響いてきた。ミミだった。チャンドラは映像メディアには完全に背を向けた暮らしを送っている。それが、もし“絵”といえるのならば、部屋のなかで“絵”の映るものは、ちいさな窓だけだった。

「ああ。おはよう」

 ミミは姿をみたことのないチャンドラの恋人だ。

「まだべッドのなかだよ。今、起きたところだ」

〈あたしもよ。いい天気になりそうね〉

 チャンドラは、ミミの部屋の窓からみえる風景を想像した。ふたりは、天気や颱風の到来については、よく話題にした。だが、互いの窓からの風景については、口にはしない。ただ遠く想いを巡らせるだけだ。それは、もちろん階層を越えた違法な通話と悟られないための、ふたりの配慮でもある。だが、窓辺の風景を語りあったところで、ふたりの距離が近づくわけではない、という思いもある。

「花は咲いたかい?」

〈ええ。今にも咲きそうなんだけど……〉

「そうか。楽しみだよ」

 花は、ふたりが知りあった日に、ミミが買ったものだ。

「早いものだな」

〈そうね。もう一年と四か月よ。私たちが知り合って〉

 きっかけは混信だった。チャンドラが部屋のなかに映像メディアをまったく取り込んでいなかったために、受信プログラムに何らかの不具合が発生し、本来、結ばれるはずのない回線が結ばれたのだった。


 聞きなれぬ若い女の声を耳にして、チャンドラはただの間違い電話かと思った。回線が結ばれた五秒後に、女はいった。

〈顔がみえないわ〉

「誰だ?」

 チャンドラは誰何(すいか)した。

「おれは映像が嫌いでね。切ってある」

〈パパじゃないの?〉

「パパ?」

 チャンドラは笑って、回線を切ろうとした。

〈待って。切らないで〉

 女が驚いた声で叫んだ。

〈嘘! この電話、壊れたのかしら〉

「おれは、くだらないかけ間違いに……」

〈そこ、二百五十二階なの?〉

 チャンドラはため息をつきながら、電話回線の相手先フロアの表示をみた。光パネルに《173》という数字が点滅している。……百七十三階?

 チャンドラはじっとその数字をみつめ、女とおなじことを思った。この電話は壊れちまったのか、と。

〈ねえ、アウター・レベルスなの?〉

 女の声は明晰だった。チャンドラは相手が正気だと悟った。

「ああ。そっちは……?」

〈ミッド・レベルスよ。百七十三階〉

 電話は壊れてはいなかった。階層を越えた混信だった。

 奇跡が起きた、とふたりは感じた。そして、すぐに混信状態を固定化し、混信データを保存するためのプログラム上の措置を取った。その日のうちに、チャンドラはそれが階層を越えていないと偽装するためのプログラムをつくりあげた。

 そうやって、ふたりは恋人となった。

 確率の得難さからすれば、神に選ばれたも同然のふたりだった。ミミの甘い声を耳にして、しかも彼女がミッド・レベルスの住民だということを知って、チャンドラは激しい恋心を抱いた。ミミにとっても、チャンドラの乾いた声を聞き、しかも彼がアウター・レベルスに暮らす男だということを知って、囁くような甘い声は切なくなってゆくばかりだった。混信の固定化と偽装は、映像メディアの取り込み可能性を完全に放棄することで成立した。会えないことはわかっている。お互いの顔をみることすらも、あらかじめ諦めて、はじめて手に入れた恋であった。

〈もうすぐよ〉

 ミミが囁くようにいった。

〈このちいさな十センチの花が、私たちの出合いを祝福してくれるわ〉

 チャンドラはみることができない、ちいさな蕾を想った。

〈花が咲いたら会いたいわ〉

「そうだな。ミミ」

 おなじ階層間での会話と偽装するため、ふたりは敢えて次のデートを待ち焦がれる恋人同士のように喋ってみる。階層を越えた行き来が認められるのは、居住区での生活を維持できない病気に罹ったか、さもなければ死んだときだけだ。おなじ階層のなかに居住者の霊園を備えているのはピークだけだった。他の階層に暮らす居住者の遺体はロスト・レベルスに葬られた。だから、ふたりが会えるとしても、それは死んだときだった。


……「百七十三階のラフレシアが咲いた」より

2011-10-04 小松左京が鳴らす“鐘”の響き

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 この夏、発刊したばかりの「アレ!( allez ! )」というデジタル文芸誌が、七月二十六日に逝去した小松左京の追悼特集を組み、短編小説熱帯雨林が熟すとき」を寄稿した。この数百年もの間、紙を糸で綴じた頁を、ただひとつの住処としてきた文芸作品と、デジタルとの結びつきは、読者にとっても、作家にとっても、編集者にとっても、まだ紆余曲折も愛憎半ばするところもあるだろう。だが、その噛み合わせの理非はともかく、我々がもう後には引きかえせない曲がり角を過ぎてしまったことは明らかだ。

 特集には、堀晃瀬名秀明津原泰水北野勇作小林泰三佐藤哲也田中哲弥……らの、書き下ろし短編小説が掲載され、いずれも小松左京追悼の主旨に照らして読みごたえがある。また特集とは別枠だが、曽野綾子書き下ろし掌編小説が二編、掲載されていて、こちらも三月十一日の地震後に書かれた小説として、ジャーナリズム偽善と萎縮を覆す、野心的なものだ。事ここに至ってというべきか、デジタルの世界では遥かに先行するケータイ、メール発祥の「文芸」を迎え撃つことができる、但し書きなしの文芸作品を載せた文芸誌らしいデジタル文芸誌がようやく出てきた。



 小松左京については、書き下ろした短編が、ぼくの彼への思いそのものだ。小松左京はあまりにも多彩なジャンルで仕事を成したため、かえってみえにくくなっていると思うことを、二つだけ挙げて、作家を追悼したい。一つは、一九六一(昭和三十六)年、はじめて「小松左京」のペンネームで書いた「地には平和を」から、その文体、そして、虚構としての小説づくりの手法が、もうすでに我々がよく知っている小松左京そのものであり、作家としてはじめから完成していた、という事実だ。「地には平和を」の、どこでも半頁読めば、それが小松左京の文章であり、小説であるということが、彼の本を多く読んできた読者にはわかる。後につづく彼の作品を脇に置いて、どちらが先に書かれたのか、と、かりに想像してみると、ものの見事に判断がつかない。どれもこれも、まったくおなじように“新しい”からだ。

 日本が激動した昭和三十年代(「地には平和を」「復活の日」「日本アパッチ族」)、昭和四十年代(「エスパイ」「果しなき流れの果に」「継ぐのは誰か?」「日本沈没」)、昭和五十年代(「ゴルディアスの結び目」「さよならジュピター」)、昭和六十年代(「首都喪失」「虚無回廊」)……と、それぞれの本の刊行時には、その時代を代表する文芸作品として、またベストセラーとして世に出ながら、二十一世紀の今、読み返してみれば、どの作品も時代の拘束から逃れて、たった今、作家が書き終えたように“新しい”ことに驚かされる。これは作家としての根本的な才能である。

 たとえば太宰治は、この才能に恵まれていた。だから、夏休みごとに「人間失格」を手にする高校一年生がいる。作家の盟友として、ひとつの時代をともに築いてきた星新一筒井康隆も、この才能をもっている。だから、百年後、「復活の日」や「ゴルディアスの結び目」の頁を捲る、まだみぬ新しい読者が、この先、きっと、この世に生まれてくるはずだ。

 もう一つ、時間と空間の果てしないひろがり、そのなかで居場所が制約された存在としての人類について、作家は本気で向き合っていた。誰だって、自分自身の限りある人生とは、本気で向き合う。だが、おなじ真剣さでもって、限りある人類の存在と向き合う者など、まずいない。

 けれども、作家はそうだった。そのパースペクティヴの尋常ではない奥行きが、あるいは彼の作品が常に“新しい”ことの、彼ならではの、ひとつの源泉であったのかもしれない。我々は作家の本が愉しいから読むのであって、何も限りある存在としての人類のひとりとして、読むわけでは、もちろんない。だが、読んでいるうちに、かつてどこでも聴いたことのない、にもかかわらず、どこか懐かしく、奥深い響きをもった“鐘”がふいに鳴り渡り、作家から“そのこと”を知らされるのだ。

2011-08-09 18日前の夜

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 大地震が起きる十八日前の夜――パラダイムが転換してしまい、もう何年も前のことのように感じられるが――二月二十一日のこと、読売文学賞の贈賞式と祝賀パーティが帝国ホテルであった。そのさらに一年前(二〇一〇年)の、小雪が舞う春の夕べ、トークイベント(対談)を表参道青山ブックセンターで開催した管啓次郎氏の「斜線の旅」が随筆・紀行部門で受賞したため、ぼくも招かれて、銀座へ出かけた。

 他の受賞者は小説部門が、桐野夏生「ナニカアル」、評論・伝記が、黒岩比佐子「パンとペン 社会主義者・堺利彦と『売文社』の闘い」、詩歌・俳句が、大木あまり「句集 星涼」、研究・翻訳が、野崎歓「異邦の香り ――ネルヴァル『東方紀行』論」、随筆・紀行ではもうひとり、梨木香歩「渡りの足跡」が受賞した。昨冬、まだ若くして逝去された黒岩氏以外の受賞者はそろって列席していた。


 こうした文学賞のパーティは、通常、まず主催者の挨拶があり、次いで選考委員を代表して誰かが選評を述べ、最後に受賞者がひとりずつ挨拶する、という式次第で行われる。来場者は、主催者側の関係者に、受賞者の家族、友人たちと、仕事をともにしてきた――あるいは、これからともに仕事をしてゆく――編集者や、新聞記者たちだ。たとえば桐野夏生氏なら、直接の担当編集者だけでも、文芸誌、単行本、文庫本と、各社にずらりといるから、それだけでも小集団となる。また他の文学賞に比べ、読売文学賞は部門が多いから、関係者の数も多く、数百名を収容できる宴会場でも、かなりの賑わいぶりである。

 壇上に呼ばれた受賞者は、晴れやかな表情ではあるが、和気藹々という感じではない。受賞者同士の歓談の場というものも、このパーティがあるくらいで、他にはないという話だった。せっかくの同期受賞であり、それぞれの分野で評価された同時代の書き手が、つながりを強くすることは、文学の流れによい影響を与えると思うのだが、ことはそう簡単ではない。

 今は、ごく狭いジャンルごとに、作家たちのつきあいはあるものの、かつてそうよばれていた文壇というような広い場はない。その昔、作家たちは、みな顔みしりであり、今、顔みしりでなくとも、いつでも知りあいになれる時代があった。そんな時代は、交際があることによって、よいこともあったろうが、よくないことも多々あったろう。

 お互いをどこか“遠い親戚”のように認めた作家たちは、共鳴や、反論や、議論や、喧嘩を、あたかも“結婚式”や“法事”の席での、高らかな乾杯や、罵りあいのように、飽くことなく、繰りかえしてきた。今は交際が薄れたことによって、馴れあいも減ったが、喧嘩もなくなった。みんな目の前の仕事だけに、ひとり黙々と集中し、ごく内輪の気の合う仲間とだけ、そっと杯を傾ける。他のあらゆる専門分野で起こっていることと、文学の世界で起こっていることは、まったくおなじである。どこか寂しい、と感じるのは、ぼくだけだろうか。


 はじめに読売新聞社の社長の挨拶があり、選考委員を代表して、全体の選評をしたのは津島佑子氏だった。彼女はつかつかと壇上中央に歩み出ると、どこか怒ったような態度で、受賞作についての話をはじめた。その彼女の話しぶりに、ぼくは非常な好感を抱いた。オーケストラの演奏会で、なぜか怒ったような、不機嫌な表情で、つかつかと舞台に入ってくる指揮者がいる。そうした音楽家は、これからはじまる音楽の流れに、すでに身を浸していて、目の前の聴衆に世俗的な対応を取ることができないのだ。

 文学について話をする津島氏には、そうした指揮者に通じる、世俗的な無愛想さがあった。作家はそうあるべきだろう。だが、会場でじっとみあげている、何百人ものひとたちを眼下にして、世俗的な表情を差し挟まず、文学に身を浸した言葉だけを発するのは、誰にでもできることではない。その後の、受賞者ひとりひとりの挨拶は、選考委員とは違って、それぞれ今回、はじめてのことだから、短い挨拶のなかにも、世俗的な実感がこめられた、会場を和ませる言葉がつづいた。


 挨拶が終わると、中央テーブルに山と盛られた御馳走とともに、それぞれの場で歓談のひとときとなる。ぼくは、多摩川の上流へ、何度か一緒にバーベキューへ出かけたことがある、管氏のご家族と再会し、お祝いの言葉を伝えた。また管氏の旧い友人で、ぼくも顔みしりであるラテンアメリカ文学の旦敬介氏や、文化精神医学宮地尚子氏、管氏の受賞作を刊行した出版社インスクリプトの代表、丸山哲郎氏らとも管氏の受賞をお祝いし、またひさしぶりであれこれと話をしながら、気になる料理をちらちらと眺める。


 卓上には色とりどりのオードヴルにはじまって、数多くの御馳走が並んでいる。だが、こうした立食パーティの席で、あれもこれもと目移りしはじめると、すべてが中途半端になり、結局、何を食べたのだか、後からわからなくなる。だから、いっそ食べない、という考えもあり、事実、そうしていた頃もあった。だが、食いしん坊としては、やはり惜しいし、それでは戦わずして、負けだ。なので、あるときから、ぼくは心のなかで一番の御馳走を最初に決め、他にあれこれと手を出さないことにした。そうすると、何を食べたのか、はっきりとし、料理の味わいも鮮明に残る。

 ぼくの目当ては、何よりも、うまい肉だ。そのまなざしで、会場を一巡すると、どれが一番の肉料理かは、一目瞭然だった。それは、はなやかな中央テーブルではなく、会場後方の壁際にそっと引き出されたワゴンに載せられた、焼きたてのローストビーフの塊であった。ぼくはワゴンに付き添うシェフからビーフを美しく切りわけてもらい、グレービーに浸し、ホースラディッシュを多めに盛って、ひとが集う丸テーブルに戻った。そして、ワインを飲み、話をしながら、ローストを味わった。

 このワゴンにまだ気がついていない若者たちがいる。大人はともかく、若者にとって、それは明白な不幸である、という強い信仰心、というか、義侠心が湧き、知りあいの家族である、顔みしりの高校生、中学生たちに、ほら、あの後ろのワゴンに行って、肉を切って、装ってもらってきてごらん、このパーティで一番うまい肉だから、と耳打ちする。そう聞くと、むろん彼らは目を輝かして、ワゴンに向かってゆく。


 そうやって話をしているうち、誰かに横あいから、名前を呼ばれた。ふり向くと、角川書店の津々見潤子氏だ。あっと驚いて、ふたりで再会を喜ぶ。彼女はぼくが書き下ろした長編小説「ピアノ・レッスン」を担当した文芸編集者である。文壇という広い場はもうない、と書いたが、そうはいっても出版界は、とてもちいさな狭い世界であり、特に示しあわしていなくとも、こうしたパーティの席上で、仕事をともにしてきた仲間と出会うことは、ままある。お互いの近況を話し、彼女の元気そうな顔をみて、ひと安心し、嬉しくなる。


 パーティも半ばに差しかかったころ、人があまりいないところで、帽子を目深にかぶり、ひとりぽつりと佇んでいるひとが目に入った。どこかでみた顔だ。やがて、あっと思った。面識はなかったが、ずっと昔、やりとりがあったひとだった。

 ぼくは彼のもとにゆっくり歩み寄ると、唐さんですね、と訊いた。彼は、ちいさくうなずいた。唐十郎氏であった。唐氏は、この読売文学賞戯曲・シナリオ部門を、かつて「泥人魚」で受賞している。それで招かれ、やってきたのだろうと察するが、今回は戯曲・シナリオの受賞は、残念なことに、該当作なし、であった。

 ぼくは、自分の名を語り、もうずっと昔、台湾のことで、ご連絡をいただきました、と説明した。九〇年代のはじめ、JICC出版局(現、宝島社)という出版社から“別冊宝島”というムックのシリーズ(現在も出ているが、スタイルが変わってきている)が刊行されていて、ぼくは何人かの書き手とともに「謎の島・台湾」という本をつくった。その本にぼくが寄せた、台北についての原稿を唐氏が面白がっていて、台湾をテーマにした新作戯曲のパンフレットに文章を寄せてほしい、との電話が、唐氏の事務所から、その昔あったのだ。パンフレットへの原稿は締め切り等が合わず、実現しなかったのだが、その後、唐氏は戯曲「ビンローの封印」をもって、台湾公演を果たした。

 台湾と聞いて、唐氏はすっと表情を和らげ、懐かしそうになった。あの頃から台湾も大きく変貌した。ぼくは唐氏と、九〇年代の懐かしい台湾について、少し話をした。そうした“遠縁の”懐かしいひとと、思いもかけず、こうやって会って話ができるのも、パーティの愉しさだ。


 やがて、帝国ホテルのパーティがお開きになると、管啓次郎氏を囲む面々は、受賞した本のデザイナーの御用達だという神楽坂山形料理のうまい店へと繰り出した。そこで、夜が更けるまで、杯を交わし、あれこれと語りあった。――その十八日後の午後二時四十六分、大地震が起きた。


 そのことで、事態は誰も想像しなかった展開を示すことになった。この夜の、フランス語に縁が深い、受賞者ふたり、管氏と野崎歓氏が編者となり、東北の大震災を目の当たりにして、一冊の本が編まれることになったのだ。「ろうそくの炎がささやく言葉」という名の、詩人と作家が、それぞれの胸の内の言葉を捧げる、朗読のためのアンソロジーだ。ぼくも掌編小説を寄稿し、勁草書房から八月八日に刊行された。書き手は三十一名にのぼり、そのうち、何人かの寄稿者とともに、ぼくも参加して――こうして、ときは永遠回帰ミルチャ・エリアーデ)するのか――表参道青山ブックセンター本店で、八月二十一日の夕べ、朗読会を行います。

2011-04-20 3月11日

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 衝撃は時間の手触りをかえてしまう。二〇一一年の三月十一日、午後二時四十六分が、半年も、一年も、もっとずっと前の、あるいは先の、次元を異にする遠いところであるかのように、今となっては感じられる。

 胸のなかに、手がかりとしてあるのは、もう十六年の昔となる、一九九五年一月十七日の午前五時四十六分だ。東京荻窪に暮らしていたぼくは、あの阪神淡路大震災のあと、まだ日にちが浅いとき、現地の被災地に入った。銃弾や砲弾が落ちていないだけで、あたかも激しい市街戦の後の、戦場のようだった。鉄筋コンクリートの大きなビルも、木造のちいさな家も、高速道路の走行面も、道路を支える柱も、神社の鳥居も常夜灯も、街のすべてが傾き、ゆがみ、つぶれていた。あまりに多くの建造物が傾き、地面との垂直関係を喪失していたため、ただ歩いているだけで平衡感覚が失われる気がした。

 西へ向かって歩いて行くと、芦屋も、三宮も、がれきと混沌に包まれていた。だが、街そのものが消えたわけではなかった。変わり果てた姿ではあったが、その場所がかつて親しんだ芦屋であり、神戸である、ということは、ぼくの目には明らかだった。崩れる建物がないために、結果的に空間が残った、あちこちの公園では、炊き出しが行なわれ、砂漠のオアシスのようになっていた。その湯気や煙は、希望を伝える狼煙(のろし)だった。そんな公園の、かわらぬベンチで笑顔で話している、赤ちゃんを抱いた若夫婦や、温かい食べ物を目の前にして、はしゃぐ子供たちは、彼らの姿そのものが未来であり、そこに強く輝かしい光が射しているようにみえた。

 その神戸から平時であれば電車で三十分の、大阪の繁華街は、憎らしいほど、かわりない日常に包まれていた。梅田のコンコースのシャンデリアの輝きも、地下にひろがる三番街のレストランのざわめきも、大阪駅前の横断歩道の雑踏も、わずか三十五キロほど西寄りの街ががれきに埋もれているとは思えぬ安泰ぶりだった。その安泰ぶりは、被災地からやってきた者には、ふてぶてしく感じられもしたが、その大阪のかわらぬ日常が、震災のショックを和らげたところもあった。線路伝いに東へ向かい、とにかく大阪へ出れば、そこには一月十七日より前と、何もかわらぬ日常がひろがっている。かわらぬ大阪ネオンサインが輝いている。そのことは、神戸にとって、ひとつの励みであった。

 三月十一日よりこちら、東京の日常性喪失と、右往左往ぶりには唖然とし、情けないばかりだ。その夜、電車が動かず、多くのひとたちが家に帰れなかった。輪番の停電が幾日もつづいた。だが、津波で街や村そのものが壊滅し、一瞬にして集落ごと、学校ごとに、多くの命が喪われた被災地からすれば、そんなことは混乱のうちにも入らない。どうでもいい、煩い出来事だ。そして、この東京からですら逃げ出すひとや、やってくることを避けるひとがいる。驚くべきほどの脆さで、東京の日常は崩れかけている。だが、東京はふてぶてしく、かわらないことで、被災のショックを和らげねばならない。南にいけば、かわらぬ東京があることを、脅かされぬ日常があることを、今こそ被災者に示さねばならない。

2010-12-30 宇治、貴船

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 けれども、それから十数年……。東京で暮らすようになった、ぼくの足は貴船神社からすっかりと遠のいていた。だから、もういい加減、挨拶にやって来い、と貴船の神様に呼ばれてしまった、と感じたのである。


 貴船川はあのころと何もかわっていない。ぽつり、ぽつりと川沿いに佇む、冬はぼたん鍋、夏には川床で涼しい宴席をつくる、料亭旅館の建物が、新しくなっているくらいである。

 神社へと向かう道の途中に、蛍石とよばれる巨岩がある。清流の貴船川は、夏になれば蛍が飛び交う。かつて、夫から疎んじられた和泉式部は、貴船神社に詣でて、沢に飛ぶ蛍をみた。そして「もの思えば沢のほたるもわが身よりあくがれ出づるたまかとぞ見る(あのひとのことを思い悩んでいると、貴船川を飛ぶ蛍も、このからだから抜け出した私の魂にみえてしまう)」と歌を詠んだ。

 ところが、その直後、和泉式部は貴船の神様の声を、はっきりと耳にする。それは男の声で、「奥山にたぎりておつる滝つ瀬のたまちる許(ばかり)ものな思ひそ(奥山に激しく落ちる滝の水玉のように、魂が飛んで彷徨うほど、思い悩むなよ)」と歌をかえしてきた。

 だいたい魂が“わが身よりあくがれ出づる”などという事態は、どんな土地でも起こることではない。貴船の神様は、そのころからひとには優しかったのだ。かつてのぼくを恢復させてくれた神様も、やはりそのおなじ神様であったのだろうか。


 山のなかの道を、ひとり歩きながら、ぼくは懐かしい道を歩いているというよりも、世俗のときを越えた聖域を歩いている気がしていた。貴船神社へと向かう、この道沿いの風景は、とても懐かしいものだった。だが、その道の途中でやはり神社へと向かう、あるいは神社から帰って来る、十数年前の自分自身とすれ違いそうな気がした。そういえば今の自分自身と、十数年前にこの山道で出遭っていたかもしれない、そんな記憶が残っていそうだ、とも感じた。

 やがてなだらかにつつぐ長い参道がみえてきて、その先が本社である。境内では樹齢四百年の巨大な桂の木が、天を突いている。ちょうどキジムナーが隠れ棲む、沖縄ガジュマルの木のように、奇妙な霊気に満ちた老樹だ。

 ぼくは本社境内でほんのひと休みして、貴船川のせせらぎを眺めた。程なく、かつてそうしていたように、さらに八百五十メートルほど奥にある、奥宮を目指して、歩きはじめた。多くの神社でそうした移築がなされたように、貴船の現在の本社もより安全で、お参りしやすい手前に後から築かれたもので、現在の奥宮が元来の社であった。

 貴船の奥宮は、水の神の社であるとともに、木の神の社であり、また呪いの神の社でもある。貴船という言葉は、明治四年の太政官達で裁(き)められたもので、かつては貴布禰と書かれ、また黄船、木船、木生根、木生嶺、気生嶺とも書かれた。船の字がつくものは、水に関連し、根や嶺の字がつくものは、木に関連している。黄船は“きせん”と読めば、黄泉とおなじである。つまり“ヨミ”である。漢字本来の中国音でも、黄船(ホアンチュアン)と黄泉(ホアンチュエン)は、通じあう響きを持っている。

 貴船の神様のいわれについては、かつて玉依姫(たまよりひめ)が黄船に乗って、淀川鴨川を遡り、このせせらぎまでやってきて、水神の祠を営んだことが、はじまりだとされている。あるいは太古の昔、丑の年、丑の月、丑の刻に、この山中に神が天降(あまくだ)ったともいう。祭神はタカオカミノカミである。オカミは龍神で、タカは山の嶺を指す。タカに対して、山の谷を指す、闇(クラ)の字を入れた、クラオカミノカミと対になった信仰があり、クラオカミノカミを貴船の祭神とした史料もある。

 奥宮にはひとの姿はなかった。あのころもそうであった。季節によって、本社のあたりまでは、山歩きのひとたちの姿がちらほらとみえたりもするが、奥宮までくるひとは少ない。貴船の聖域は今も昔とかわらず、守られている。ぼくはほっと息をついて、懐かしい黄船をみつめた。


 奥宮には玉依姫が乗って、貴船川のせせらぎをここまで上がってきた黄船が残されている。ただし、船そのものはみえない。それが船だとわからないように、石を積み上げて覆っている。長さは四メートル、高さは二メートルほどで、ひとつひとつ積み上げられたのはどれほどの昔のことだろうか。石はたっぷりと苔生(こけむ)している。この石をひとつ持っていけば、航海安全のお守りになるというが、一方でせっかく隠された黄船を露わにしてしまえば恐ろしい祟りが起きるとも、いわれている。

 ぼくは奥宮でひとり、隠された黄船を眺めながら、この貴船の神様にまつわる呪いの物語に想いを馳せた。ここは、かつて日本各地で大流行した、いわゆる“丑の刻参り”の呪いの“聖地”でもあったのだ。


 貴船の神様に頼って、呪いをかけようとした史上有名な女がふたりいる。ひとりは宇治の橋姫である。いまひとりは謡曲に残り、能舞台で伝えられる“鉄輪(かなわ)”の女である。いずれも、呪いのもとは、愛する男の心がわりだ。

 東京に出てきてから、宇治の橋姫のことをひとに話しても、どうもぴんとこないことが幾度もあった。宇治の橋姫は、『古今集』の歌や『伊勢物語』、また『源氏物語』の宇治十帖に、ちらりちらりと名が挙げられて、その影を落としているが、いわゆる散逸物語の主人公であって、原典は失われている。……今はどうなのだろうか。少なくとも、ぼくが大阪で育ったころ、伝承としての宇治の橋姫の物語は近畿では生きていた。ぼくの心のなかでの宇治の橋姫は、かなしくも、恐ろしい女である。そういっても、どうも東京では通じなかった。

 散逸物語の常として、宇治の橋姫はさまざまなヴァリエーションを持った物語として伝えられている。古いスタイルのものには、呪いは出てこない。それはおおよそこんな物語である。


 宇治の橋姫がいて、悪阻(つわり)に苦しんでいた。何もものが食べられないため、夫に“七尋(ひろ)の和布(わかめ)を海辺で採ってきてください”と頼んだ。夫が海辺に出かけて笛を吹くと、美しい龍神があらわれた。そして橋姫の夫を、自分の婿に奪ってしまった。橋姫は帰って来ない夫を心配して海辺へと出た。そこには一軒の家があって、ひとりの老女がいた。橋姫が夫の消息を訊くと、“そのひとは龍神の婿になったが、龍宮の火が嫌なので、ここにやってきて御飯を食べる”という。そこで橋姫が隠れて待っていると、はたして夫が龍宮の玉の輿に乗って、老女の家にやってきた。だが、すでに橋姫と夫は違う世に暮らす身である。ふたりは再会したものの、すぐ涙とともにわかれなければならなかった。

 そのかなしい再会の折、夫が詠んだ歌が、『古今集』の「さむしろに衣かたしき今宵もや我を待つらむ宇治の橋姫(ひとり寝の衣を敷いて、今夜も私を待っているのか、宇治の橋姫よ)」とも、いわれる。


 やがて橋姫は恐ろしい呪殺物語の主人公となる。夫に捨てられた橋姫は、恨みを忘れることができず、夫の相手となった憎い女を、呪い殺すことを願うようになる。橋姫は貴船へ詣でて、“願わくば、私を鬼に変身させてください。そして、夫を奪った、あの妬ましい女を、取り殺させてください”と七日間、祈りつづけた。すると、貴船の神様があらわれて、橋姫にこういった。“これから教えるように、あなたの姿を変えて、宇治川に三十七日間、浸りなさい。そうすれば、願いはかなう”。橋姫は、貴船の神様に囁かれたとおり、顔に朱、からだには丹を塗り、髪を松脂で固めて五つの角をつくり、その角の先に火を点し、頭には鉄輪を被って、両手と口で三本の松明を持ち、宇治川の水に浸った。やがて、宇治の橋姫は、望みどおりの鬼となった。そして、行き逢うひとたちをたちまち取り殺しつづけて、京都中で恐れられた。

 これは『屋台本平家物語』剣巻などにみられる、恐ろしい橋姫である。宇治川に浸った日数は、二十一日間という伝承もある。いずれにしても、江戸時代になって、庶民の間で大流行をする“丑の刻参り”の原風景である。ぼくが幼いころから、あちこちで聞かされてきた物語も、この恐ろしい橋姫だ。だから、宇治という言葉は、はじめから恐ろしい橋姫と、切っても切れない関係にあった。宇治茶や、宇治金時という言葉が、耳に馴染んで穏やかなイメージを持てるようになったのは、幼心に橋姫の恐ろしさに顫(ふる)えてから、ずっと後のことだ。


 実際にでかけてみると、宇治はとても穏やかな京都の鄙(ひな)である。宇治橋は大化二年(六四六)にはじめて架けられたと伝えられ、日本でも最も古い大橋のひとつだ。だから、橋姫はただ宇治の姫であるだけではなく、奈良の佐保姫(さおひめ)が春そのものをまもるように、橋そのものをまもっている姫でもある。

 現在の宇治橋は平成八年に架けられたもので新しい。だが、他の橋とは違う、宇治橋ならではの造りがある。それは橋の中程で、川の上にテラスのように張り出した、“三の間”と呼ばれる場所だ。これは宇治橋の伝統で、昔はこの“三の間”に、橋姫を祭る祠が置かれていた。また豊臣秀吉は、この“三の間”から茶の湯の水を汲み上げさせたという。昭和十一年に架けられた先代の宇治橋の“三の間”も、橋の東詰めで八百年以上つづいている茶屋の隣で、宇治川を見渡す、文字通りのテラスとして使われている。

 橋姫を祭る祠は、現在は橋の西詰めから少し歩いたところにある橋姫神社のなかで、水の神である住吉社と隣りあって、静かに祭られている。江戸時代には、その物語から縁切りの神様として信仰を集め、多くのひとたちが遠方からも橋姫の祠を訪ねたという。橋姫を鎮魂しようというひとは今も絶えない。恐ろしい鬼になってしまった橋姫の魂を少しでも鎮めるため、美しい千羽鶴がたくさん飾られている。そんな橋姫神社の風景をみて、ぼくはバンコク郊外に残る、メナック・パカノの祠を憶いだした。メナックも、橋姫とおなじく、しあわせを逃したたために、ピー・タイフーという恐ろしい“鬼”に化身してしまった女である。その鎮魂の祠の風景は、驚くほど似ていた。タイの祠には、千羽鶴ではなかったが、おなじように色とりどりの美しい鎮魂の飾りつけがなされ、祈りつづけるひとの姿があった。

 ひとは鬼を恐れる。やがて鬼を鎮魂する。鎮魂せずには、おれないのだ。それはもはや恐ろしいからではない。ひとの世のかなしみを鬼とわかちあうことで、ともにしあわせを願わずには、いられないからだろう。


 謡曲“鉄輪”は、一名“貴船”ともよばれる。『屋台本平家物語』剣巻が、その典拠のひとつであるという見方もあり、また後ジテに使われる恐ろしい生霊の能面は“橋姫”とよばれる。橋姫の伝承が、謡曲“鉄輪”に影響を与えたことは、ほぼ間違いない。そうであるならば宇治の橋姫と、“鉄輪”の女は、おなじと考えるべきだという見方もある。けれども、それぞれの物語が完全に一致するわけではなく、それぞれに自律した物語を構成している以上、その主役もまたそれぞれ別の命をもっている、とぼくは考える。貴船の神様に頼って、呪いをかけている以上、どこからか橋姫の影響を受けていることは、当然である。その謡曲“鉄輪”は、こんな物語である。


 ある夜、貴船の社人が、都から丑の刻参りの女がやってくるという霊夢をみる。はたして夢告どおり、侘しげな女がひとり、真夜中の貴船の社にやってきた。社人は、その女が“自分を裏切った夫を呪うため、鬼になりたい”という丑の刻参りの願いを察すると、夢でみたとおり、その作法を女に伝授する。“すぐに家へ帰って、赤い布を裁ち切ったものを着て、顔には丹を塗り、髪には鉄輪を戴いて、その三つの足に火を点し、怒る心を持ちつづければ、すぐに鬼となるだろう”と。その話を聞いて、帰り道を急ぐ女は、もはや鬼に化身しはじめる。さて、場面はかわって、下京の辺りに暮らしている、ひとりの男(女のかつての夫であり、女を離別して新しい妻を迎えたばかり)が悪夢に悩まされ、陰陽博士安倍清明(あべのせいめい)のもとを訪ねる。清明は男をひとめみて、“あなたは女の深い恨みを蒙っている。今夜のうちにも命を奪われる。これは私にも、どうすることもできない”という。男は驚いて、清明になんとか鬼を調伏してもらえないか、と泣きつく。仕方なく、清明形代(かたしろ)をつくって、祈りはじめる。やがて、そこへ頭に鉄輪を戴いた女の鬼があらわれる。鬼は夫に恨みごとをいい、取り殺そうとする。だが、清明の調法が勝り、やがては“目にみえぬ鬼”となっての、退散を余儀なくされる。


 その“鉄輪”の女が暮らしていたと伝えられる場所が、実際に下京区に残っている。鴨川寄りの五条通りの一筋北、万寿寺通りとよばれる細い道から北へと入る、鍛冶屋町というところだ。かつてはその名も鉄輪町とよばれていた。この辺り、ちいさな仏具屋や紙器工場、扇屋、薬局、古本屋などが並び、いかにも京都らしい生活の匂いがする町並みである。そのちいさなひと筋、黒サッシの入り口、個人宅の表札と隣り合って“鉄輪ノ井戸 入り口”という白いプレートが掲げられ、地面には“謡曲伝次 鉄輪跡”という石碑が立っている。

 他人の家にお邪魔する気分で入ってゆくと、路地の右手奥に、ほんとうに鉄輪の井戸があり、その隣にお稲荷さんの祠が建てられている。

 この井戸が“鉄輪”の女の家のもので、女が呪いのために被った鉄輪を埋めた“鉄輪塚”も昔はあったと伝えられている。橋姫とおなじく、縁切りの信仰を集め、井戸の水をわかれたい相手に飲ませれば、わかれられると信じられた。そのため、遠方からも井戸の水を求めてやってくるひとがいた。一方では、鬼の妬みを恐れて、婚礼の行列などは、井戸の前を通ることを、徹底して避けた。

 今は井戸にはしめ縄が張られ、その口は格子で塞がれている。しばし井戸の前にたたずんでいると、ひとの気配にすぐ奥の家で犬がわんわんと吠えはじめて、“どうしたのかしら”と飼い主のお婆ちゃんが、がらがらと格子を開ける。そんなのどかな路地である。

 かつて“鉄輪”の女が暮らしたころ、“下京の辺り”はどんな町だったのか。いずれにしても、鬼は何も特別な地位にあるひとだけが、なるわけではない。ごく普通の町に暮らす、ごく普通の心のよいひとが、あるとき恐ろしい鬼に化身してしまう、ということを、謡曲“鉄輪”は伝えている。



 ぼくは誰もいない境内のなか、黄船の傍らで、ぼうっとしていた。すでに日は暮れかけていた。奥宮の冷気は心地好かった。

 ひとを呪うとは、とても恐ろしいことである。その呪いのやり方を教えてしまう神様というものは、やはり恐ろしい神様だ、と考えるひともいるだろう。宇治の橋姫や、“鉄輪”の女に、恐ろしい鬼となる方法を伝授した、この奥宮にいるはずの貴船の神様は、やはり恐ろしい顔をもった神様なのだろうか。

 だが、ぼくには、まったく逆に思えてならなかった。ひとに呪いの方法をそっと教えるとは、やはり貴船の神様は、ひとに優しいのだ。ひとはしあわせを祈るようにして、ふしあわせを呪うものである。呪いもまたひとつの愛情表現であって、どちらもしあわせに近付こうという行為に他ならない。そんな深い切なさを胸に刻んだ人間たちを、貴船の神様はどうしても放ってはおけなかったのだろう。


 薄暗がりのなかで、すぐ下を流れる貴船川のせせらぎの音だけが、奥宮にいるぼくの耳に響いてくる。ひとに優しい貴船の神様は、いったいどこから、このせせらぎへと、やってきたのか。石に覆われた黄船は微動だにしない。やがて、ぼくは十数年ぶりに訪ねた貴船神社の奥宮を後にして、また叡電貴船口へと、きた道を歩きはじめた。この山のなかの道のどこかを、今の自分ではない、自分らしき男が音もなく歩きつづけている気配が少しした。


……「京の呪詛、丑の刻参りの原風景を歩く」より