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旋律的 林巧公式ブログ このページをアンテナに追加

2015-12-13 引っ越します このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

「旋律的」は、ここに移行しました。

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2015-02-19 続 おばけのいない人生

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 世界と人生をあれこれ考える時に“〜である(のある)人生”と“〜でない(のない)人生”という対義的二分法で考えてみる。たとえば“おばけのいる人生”と“おばけのいない人生”。ほんとうに恐ろしいのは“おばけのいない人生”だ。おばけのいない人生(世界)が恐ろしいのは、そこにいずれ必ず顔を出してくる“おばけじみたもの”が人生(世界)を壊しはじめるから。世界の初めからいるおばけは、世界の一部であって、みずからの手で、世界を壊したりはしない。逆に、後からやって来て、世界を壊そうとする、畏れを知らぬ、ならず者を懲らしめる。

 “おばけじみたもの”とは何か? それは新しい顔の“神”である。伝統的な神が消え、聖なる領域が制御できないところで発生する、お金や、権力や、他のありとあらゆる俗なものへの信仰、すなわち俗の聖への転化である。そうやって、むっくりと頭をもたげた新しい聖が、ときに世界と人生を壊し始める。

 新しい聖は、昔から絶えることなく発生していた。聖と俗、ハレ(晴れ)とケ(穢れ)は、敵対するようでいて、脈を通じ合い、お互いを補完しながら、世界の日常をバランスよく宙吊りにしてきた。どちらかの力が強ければ、もう一方も補完的に強くなる。そうでなければバランスが失われ、日常が崩れてしまう。


 仏教も、キリスト教も、新しい聖として日本にやってきた。すると村や、湖や、山や、川の聖的存在であった、ちいさな神々は、新しい聖にその聖的な地位を追われ、零落の身のうえとなった。そうやって落ち延びる過程で、聖が俗に転化して、神ではなく、おばけとして村人に感知されるようになったものが妖怪だ。妖怪は昔の、ちいさな神が零落したものだ、ということは、柳田國男を嚆矢として、多くの人たちが気づいていることだ。もともと聖であったものが、俗に転じたものは、世界や人生になじみやすく、さほどの脅威ではない。恐ろしいのは、もともと俗のまっただ中にあるべきものが、聖に転じたものだろう。


 たとえば政治、あるいはジャーナリズム古代ギリシアアリストテレスの時代から語られているように、これらは“妥協の芸術”であるべきで、殊更に“中庸”が求められるものだ。こうしたものが俗から聖にむっくりと頭をもたげて、“正義”や“真実”を語り始めると、やがて世界(人生)を壊し始める。いかがわしい、という現実が増えているのに、そして、いかがわしいからこそ、日常のバランスが求められるのに、人はいかがわしさに不寛容になっている。信じることだけで、生きていければ美しい。だが、信じることは、信じられない(信じたくない)ことを壊してゆく。政治や、ジャーナリズムは元来、いかがわしいものだ。小説がそうであるように。そうやって俗に置くことで、通じにくい言葉が、通じることもある。


 と、ここまで前置きなしに言及した聖と俗の対立を、ぼくが深く知ったのはルーマニアミルチャ・エリアーデ宗教論集と小説からだった。そして、マックス・ウェーバーが明らかにしたように、俗のなかから立ち上がった最強のボスキャラは、プロテスタンティズムの暮らしぶりに潜んでいた近代合理主義だろう。わずかな間に地球上に“おばけがいない人生”を顕現させたものの正体がこれだ。人は近代合理主義のもとで、その計算可能性に照らし出された土地で、史上かつてない豊かさを手に入れた。だが、いつしか歯止めが利かなくなった、このボスキャラに、エネルギー供給にしろ、そこからくる気候問題にしろ、あるいは科学技術そのものの進歩と、その質的変容にしろ、ひょっとしたら人類丸ごと滅ぼされかねない地点に来ている。少し昔なら、おばけが歯止めを入れられた。だが“おばけのいない人生(世界)”では、それも不可能になった。


……panino的より

2014-11-02 川越のピアノ演奏会

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 川越に出かけて、尚美学園大学の教員によるピアノの教育研究発表会(2014/10/21)を聴いた。8人の演奏家による、4人の作曲家ピアノ作品の演奏会。ドメニコ・スカルラッティソナタから5曲(演奏、青木いづみ)、ショパン練習曲集 Op.10より、第1、2、4、5、6、7、8、10、12番(鵜木日土実)、後半は2台ピアノで、モーツァルトソナタ K.448(中沢玲子、横井玲子)、ラフマニノフ組曲第1番「幻想的絵画」Op.5より「バルカローレ」「夜と愛と」(下平晶子、余村聡二郎)、そして「涙」「復活祭」(多紗於里、大嶺未来)。ドメニコ・スカルラッティソナタだけが円熟期に入った40歳代半ば以降の作だが、あとの作品はショパンが19歳から22歳にかけて、モーツァルトは25歳、ラフマニノフも20歳のときで、その若さで書きとめながら、ピアノ音楽史に燦然と輝いている作品ばかりだ。

 この大学でピアノを専攻している学生のために開かれ、公開で催された演奏会だが、ぼくはピアニストのひとりである下平晶子氏に、この7年間、ピアノを師事しているという関係から、川越に出かけてみようと思い立った。


 とあるSFのアンソロジーについて、さまざまなメソッドパースペクティヴ(定められた視点から展開された透視図法)を、選者が戦略的に張り巡らせることで、つまらない批評の文章よりも、よほど本質的に作家をやる気にさせる効果がある、と書いたことがある。この夜のピアノ演奏会も、文芸ではなく、音楽だが、おなじようなことを感じた。

 音楽の、なかでもピアノだけの、バロックが終りを告げようとする18世紀半ばから、古典派、ロマン派を経て、すっかり熟したロマン派の向こうに近現代が透けてみえてくる19世紀末にかけての、ピアノ作品の錚々たる“アンソロジー”である。

 21世紀を迎えた日本、そのなかの川越からみえる、作曲家ピアノ作品への距離感、そして、それぞれの作品がもつパースペクティヴが伝わって、とても愉しい。ピアニストの演奏の持ち味もそれぞれに違い、2014年川越までやってきた道筋も、バックボーンも少しずつ異なるピアニストたちが、真摯に作品に取り組み、ひとつの場に集い、それぞれに豊かなピアニズムを披露した。


 作曲家には、それぞれ歴史上の位置と、そこからくる固有のイメージがあり、音楽をよく聴くひとほど、それをもとに、いろいろと感じがちだ。だが、それは歴史の後ろからの知識と感性の“ふりかざし”であり、ほんとうの音楽の感触だろうか、と思うときがある。 

 ひとりの作曲家が音楽史に残るような作品を書くとき、作曲家はまだ誰もみていない遥かな地平をみつけて、地平線と水平線が交わり、この世の風景が尽きてゆく消尽点(ヴァニシング・ポイント)をみつめていたはずだ、と思う。ドメニコ・スカルラッティも、ショパンも、もちろんモーツァルトも、そしてラフマニノフも、その遥かな地平をみいだしていた。


 歴史には前後があったとしても、その“発見”に序列はつけられない。いい演奏というのは、その地平を聴くものに感じさせてくれるもの、その音楽がこの世で初めて書きとめられたときの、作曲家の興奮を追体験させてくれものだ、と思う。

 これは演奏家にとって難しいことで、ある作品を100回弾いて、その作品がこの世に誕生したときの奇跡を、聴衆の目の前で100回とも起こせるピアニストは、おそらく世にひとりもいない(いや、それは技術の物理的な力で、原理的には可能だ、とピアニストはいうだろうか?)。何回かに一度ならある。そのような演奏は巷間、ひとつの奇跡として伝えられる。作品のなかの、ある部分で、それを起こせる、というのなら、さらに率は高くなるだろう。


 たとえばピリオド奏法で名を高めたニコラウス・アーノンクールが、古楽演奏家だけでなく、世界の名だたるモダンオーケストラ指揮者として迎えられ、ドヴォルジャークまで振るようになるのは、どうしたことだろうか、と、ぼくはあるとき、奇妙に思った。思ったけれども、アーノンクールドヴォルジャークを聴いてみたい、という気持ちは、ぼくのうちにも理窟抜きにある。

 そのとき、ぼくは彼のテレマンの演奏をとても愛していた。それは、歴史の後ろからみるテレマンではなく、その音楽がこの世に生まれたとき、テレマンがその音楽を書きとめたときの、とても新鮮な奇跡のきらめきだ、と信じたくなるものを、アーノンクールは演奏のなかで感じさせてくれたからだ。そのおなじ魔法を、もう一度、別な場所で期待してもおかしくはない。彼は古楽専門家であったけれども、その魔法を古楽ではない場所でも期待する、一群のひとたちが現れた、とばくは思うことにした。


 そうした演奏の奇跡によって、音楽を聴いているもののうちに鮮明に、あるいは微かなきらめきとして、作曲家がみた遥かな地平を再現し、聴くものの初めての体験として音楽を提示することが、そうやって感じたことのない感興を与え、考えたこともないイメージを想わせることが、そのような体験を与えられるものが、ほんものの演奏だろう、と思う。


 その夜の尚美学園大学でのピアノ演奏会では、4人の作曲家と、その作品の交錯する地平によって、とても新鮮な感興を味わうことができ、そんなことを思った。それぞれの作品がこうあるべき、という、すでに歴史のなかにある知識と感性の帰着としてではなく、ピアニストがそれぞれの道筋から辿り着いた、それぞれの演奏を通して、真摯に追おうとした作曲家の地平が、そしてピアニストが現在、まだその地平を追いつづけていることが、そうした感覚を引き起こしたのだと思う。神妙に座っていた、この大学のピアノ専攻の学生たちはどう聴いたろうか。


 

2014-09-30 panino的

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panino的」始めました。

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2014-02-25 丘の聖母教会

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 丘をゆっくり登ってゆくと、巨大な葉を美しく開いた、“扇芭蕉(おうぎばしょう)”の木がみえた。英語名では“旅人の木”(traveller's tree)、または“旅人椰子”(traveller's palm)と呼ばれる。ぼくがマレーシアで大好きな椰子の木のひとつだ。“旅人”というネーミングの由来は、背が高く、ユニークな葉の開き方から、遠方より旅人の道しるべとなるから、あるいは太く長い葉の根本に蓄えられた水分で旅人が喉の乾きを潤せるから、ともいわれる。

 樹高は10メートルほどにも達し、わずか二、三十本の葉が大きく、まさしく扇のように開いているだけだから、ひとつの葉の巨きさもただごとではない。たった一枚の葉に人間の姿が丸ごと隠れてしまい、一本の木が広げる葉で建物の屋根を覆い尽くしてしまう。ぼくは幼いころから、巨きな葉っぱを持つ、芭蕉や、椰子の木が好きで、そうした木への憧れがこうじて熱帯を旅するようになった気がする。だから、巨大な“扇芭蕉”に包み込まれるように、その葉の戦ぎを身に感じながら、丘を登るということは、南の旅の最も幸せなひとときだ。

 その“扇芭蕉”の向こうには、オランダ東インド会社時代の建物の赤い瓦が連なり、さらに一軒向こうには、クライスト・チャーチの屋根のうえの鐘と風見鶏がみえている。ぼくは丘の上へとつづく道沿いで立ち止まり、幼いころ、そうしていたように、ひととき椰子の木を身近に眺める幸せに浴し、マラッカに初めて建てられたプロテスタントのクライスト・チャーチの鐘と風見鶏を、丘の途上から望む巡り合わせを喜んだ。


 丘のうえには、ポルトガル人が建てた“丘の聖母教会”(Igleja de Nossa Senhora de Monte)の、天井が崩れ落ちた廃墟が残されている。カトリック教徒が丘のうえに教会を建てるということは世界中で行われたから、ポルトガル語でおなじ名をもつ教会は世界各地に遍くあり、マラッカの教会もそのひとつに過ぎない。

 一方で、マラッカの丘はここにしかない。この丘が西洋と東洋を隔てるマラッカ海峡に臨んでいるということからも、この丘のうえの教会を通り抜けることで、聖フランシスコザビエルが日本へやってきた、ということからしても、日本人にとっては、特別な“丘の聖母教会”だ。

 ぼくは丘の聖母教会の、今はファサードの壁だけが残り、かつては聖なる図像が描かれたステンドグラスがはめ込まれていたであろう、頭上の空間から、遥かな青い空をみあげた。そして、かつては荘重なドアがはめ込まれていたであろう、正面玄関のぽっかりと空いた空間に佇んで、マラッカ海峡をみおろした。どこから眺めるよりも、この丘の聖母教会の玄関からがマラッカの海を心地よく眺められる。鉛色の暖かな海は、日の光を静かに照り返している。


 すでにリスボンからインド西岸に位置するゴアまでの航路を開拓していたポルトガルが、マラッカ王国を攻略して、この地を占領したのは、1511年のことだ。そして、1521年、ここに丘の聖母教会が建設された。そうやって、ポルトガル国王とカトリックの息がかかることになったものの、ここより東のアジア諸国キリスト教にとって未踏の地であった。イエズス会聖フランシスコザビエルは、ゴアを経由して、この丘の聖母教会にやってきた。そして、マラッカとゴアを行き来しながら、さらなる東方への布教をうかがう。

 ザビエルはゴアでも旺盛に布教をしている。だが、キリスト十二使徒のひとり、聖トマスがインドにやってきて布教したという伝説がインドにはあり、実際にポルトガルがやって来る以前の、古い時代のキリスト教徒インドにはいる。だから、聖トマスはとりわけインドで特別な存在となっている。当時のキリスト教世界で、最高の教養をもっていたザビエルがそうしたことに無自覚なはずはなく、だからこそ、ザビエルキリスト教がまだいかなる意味でも全く届いていない、日本と中国を当初から強く意識していた節がある。

 そうした意味で、マラッカの丘の聖母教会はザビエルにとって、重要な布教上の拠点であり、1545年に初めてこの丘のうえへやってきてから1552年までの7年間、ザビエルは多くの時間を、この教会で過ごしている。


 マラッカ海峡に臨む玄関の跡地からふりかえって、壁だけが残る教会の内部を眺めると、壁が崩れ落ちないよう、赤い鉄製のアーチで補強されている。その向こう、かつては神父が立つ祭壇があったと思われる場所が、銀色の鉄柵で覆われている。その鉄柵に歩み寄って眺めてみると、頭文字のIHSのうえに十字架をあしらった、イエズス会の徴(しるし)が柵にくっきりと刻印されている。

 この銀色の柵の下に、かつてヨーロッパからここにやってきて、この地で帰天した、まだ若き宣教師たちの墓碑が残されている。ザビエルも、そのひとりであった。1549年、この丘のうえから日本に渡り、鹿児島平戸、山口、堺、京都と2年余りを布教に過ごし、旅した後、中国への布教を目指したザビエルは、中国大陸への入り口、広東省の上川島で病に斃れる。ときに46歳だった。

 その遺体は上川島でひとたび埋葬された。だが、3か月半後に掘り起こされ、ちいさな船でマラッカに運び込まれた。そして、この丘の聖母教会の、この祭壇のもとに安置された。ここでザビエルは9か月間、眠っていたが、熱帯にもかかわらず、遺体は腐敗しなかった。やがて、遺体はインドのゴアに移され、現在もゴアのボン・ジェズ教会にある。


 ザビエルは35歳でリスボンから旅立った後、一度もヨーロッパへ戻ることはなかった。ともに若く、しがない、パリ大学の学生の身分でありながら、モンマルトルの丘のうえで、イエズス会の結成を誓い、会の最初の総長となったイグナシオ・デ・ロヨラが、ザビエルヨーロッパへ呼び戻そう、と手紙を書こうとしていた、まさにそのときの帰天であった。

 ザビエルの死後、すぐに多くの証言がザビエルと接したひとたちから集められた。遺体が腐敗しなかったことを含め、数多くの奇蹟や、預言が確認されたとして、後にザビエル列聖されている。カトリックでは、聖フランシスコザビエルアフリカ喜望峰から、インド中国、日本に至る、広大な領域の守護聖人である。


 ザビエルの帰天の後、マラッカにオランダ東インド会社がやってきた。1641年、オランダポルトガル軍を攻略し、マラッカを支配下に置いた。この教会は“聖ポール教会”(St. Paul's church)と、その名を変え、この丘は“聖ポールの丘”(St. Paul's Hill) と呼ばれるようになった。ザビエルが親しんだカトリックの教会は、ひとときプロテスタントの教会となった。

 やがて、オランダ人は、この丘のふもとに東インド会社の役所とともに、新しくクライスト・チャーチを建てた。信仰の場としての教会は、丘のうえから、ふもとへと移された。


 それから、この丘のうえは、軍事と船舶航行上の戦略拠点としてのみ使われるようになった。大砲を備えた砦や、灯りを備えた燈台が築かれ、オランダの後にやってきたイギリス時代には、カトリックの遺構である教会は荒れるに任せ、あろうことか、武器の弾薬庫として使われている。

 ぼくが90年代にマラッカにきたときは、その荒れ果てた丘のうえの空気の名残りが、廃墟のなかから、まだ微かに伝わってくる気がした。だが、時代のパラダイムは再び変わり、この地は“マラッカ海峡の歴史的都市群”として、世界遺産に登録された。この丘の周辺は国際観光地として、マレーシア政府によって美しく整備され、今や多くの旅人が世界中からやってきている。


 ぼくはもう一度、丘の聖母教会の入り口から、マラッカ海峡を眺めた。そして丘のふもとにみえる、“旅人椰子”の巨きな葉の戦ぎに耳を澄ました。巨大な椰子の葉は、今にも羽ばたきそうな翼竜プテラノドンなど、翼のある恐竜)の翼のようにもみえた。何も変わらずにあるのは、ザビエルも目にしたであろう、マラッカの海と、耳にしたであろう、椰子の木の戦ぎくらいかもしれない。


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