オープンソース開発者はロックスター?

「プロジェクトに名前を付けるのはバンド名を考えるのに似ている」というのは本当にそのとおりだと思う。名前のよしあしがプロジェクトの内容と同じくらいにプロジェクトの行く末を左右するとカネゴン信じている。MJQにModern Jazz QuartetとManhattan Jazz Quintetの2とおりがあって混乱するように、頭文字を並べたプロジェクト名は検索性が落ちることが多いような気がする。CSVCVSはカテゴリすら違っているにもかかわらず、視覚的に非常に紛らわしい。FireFoxが当たったのは名前のおかげも大きいとカネゴン根拠もなく考えている。名前空間に詰まったら劇団のネーミングを参考にするという手も。ネーミングを支援するWebアプリケーションのようなものがあってもいいかと思ったけど、結局Google様にお伺いをたてるのが一番かもしれない。

こういう考え方はもしかすると呪術的なのかもしれないけど、呪術のエッセンスが言葉であり、人間が言葉一つでいとも簡単に動いてしまう以上、この呪術は有効だと思う【髪振り乱すおれカネゴン】。

たぶんとっくに誰かが研究しているだろうし応用もされているだろうと思うのだけど、プログラミング言語によって視覚的または美的な認識のしやすさがいろいろと異なっていることを痛感する。プロはどんなものであっても慣れなければいけないので最終的には関係ないのだろうけど、初心者や素人にとってこの違いはかなり大きいと思う【あんよは上手のおれカネゴン】。もちろん読みやすさに影響する要素は他にもあるけれど、カネゴンはそこまで言及する資格がないので。

たとえば、$や#、&という記号は、ソースにごくわずかにしか登場しない場合には視覚上のアクセントとして効果的だけど、素人目には頻繁に使用されるとかなり汚らしく見えてしまう。ピリオド(.)やかっこ、|などは比較的汚染度は低いような気はするけど、それも程度による。もっと一般化すると、ソースで記号が頻繁に使用されればされるほど読みやすさは落ちるような気がする。コンパイラインタプリタを作る立場からすれば記号の方がユニークになりやすいので都合がいいのはわかるのだけど。
困ってしまうのは、言語を設計するプロは既にそうしたものに慣れてしまっているために、慣れていない人の立場に戻って考えることがたいていの場合非常に困難なこと。いしいひさいちの漫画にあった、王監督が「どうしてあんな球が打てないんだ!」とつぶやくシーンをカネゴンつい連想してしまう。その中でpythonruby、HyperTalkみたいな比較的新しい言語はその辺りを多少配慮してくれているような気がする。pythonのインデントを使うやり方は視覚上とても見やすい。
それ以外に、あんまり簡単そうに見えてしまうとお金になりにくいと思われることも原因だったりしたらどうしよう。生物の進化でも同じようなことが起きているのだけど、複雑なシステムを「がんばって洗練させて簡素なものに落とし込む」のと「複雑なままさらに複雑な方向へ突っ走る」のとでは、たいていの場合後者に進むことになる。複雑なまま突っ走ることで、それについていけない人をふるい落とす役目も果たしているのだろうし【早々落馬のおれカネゴン】。

それと、洗練された簡素なシステムは周りの環境についてかなりの部分を慎重に決め打ちしておかねばならず、設計の段階で手間がかかる上に、将来の思わぬ環境の変化に意外に弱いかもしれない。場当たりの拡張を繰り返した複雑なシステムには結節点が多数あるため、何かことが起こったときにいじる余地がたくさんある。しかも複雑なシステムの方はそれまでがたぴしながら動いていた実績があるため、簡素なシステムの方がいいとわかっていても乗り換えには至らないのだと思う【話の逸れたおれカネゴン】。それにたぶん、洗練された簡素なシステムに乗り換える方がはるかに多くの犠牲を伴う。

というわけで、未来になればなるほど事態は複雑になるしかなくなる。「○○人が悪い」とか「○○主義ひとすじ」みたいに一刀両断して済ませられるすっきりとわかりやすい未来はありえないということに【駄法螺止まらぬおれカネゴン】。うう。

大衆文学の快感の一つに、義理と人情が複雑怪奇にしがらみまくってどうにもならなくなったところに、主人公が(苦し紛れに)刀一つで周りを全部なぎ倒してすっきりするというのがある【知らずに書くとはおれカネゴン】。お話ならそこで終わるのだけど、現実には続きがある。誰もが一刻も早くすっきりしたくて仕方がないと思っているにもかかわらず、誰もそれを手に入れられないことを痛感。

かなり昔にあった「バグニュース」という雑誌(その前身の「遊撃手」という雑誌は読んだことなし)に載っていた精神科医のインタビューに、一つ興味深いことが書いてあった。結構有名な話だと思う。

それによると、妄想は常に最新のテクノロジの流行に敏感であり、しかもテクノロジを最初に予言することがしばしばあるという。明治時代に松沢病院の患者さんが、早くもテレビのようなものを妄想で考案していたのだそうだ。まず患者さんが妄想し、それを作家が小説にし、それからエンジニアが実装するという順序があるとのこと。最近は妄想した本人がいきなり実装するということもあるかもしれないけど。

NHKスペシャル「明治」を半分ほど見る。明治初頭の建白書募集は、誰が応募してもよかったというのを初めて知る。この企画を今実施したら物凄く盛り上がることは間違いないような気がする【おぬしは没のおれカネゴン】。今やるとしたら、ずっとその制度があるのではありがたみがないので、10年に一度(できれば50年に一度)ぐらいにし、その年は10年の垢を落とすためのお祭り騒ぎの年とすることにしたら、いつまでも若くつやつやとしていられるだろうか。後、建白書にはメリットとともに必ずデメリットも書いてもらうようにすること。こういうことをするためのRSSかと思ってました。

教育TVでゾウリムシの接合の映像が流れていた。映像の完成度が非常に高く、不覚にもうっとりするほどエロいものを感じてしまう【辺りを見回すおれカネゴン】。

ゾウリムシの性の研究のパイオニアも発見。

ゾウリムシは接合後、約50回細胞分裂しないと次の接合ができない。また接合させないでおくと、六百数十回ほどの分裂で、老化して死んでしまう。このことから「ゾウリムシは接合によって若返る」と言えそうだが、じつは「接合しないと年をとって死ぬ」が正しい。年をとってからだと、若返るどころか接合することで死んでしまうからだ。

ゾウリムシの腹上死。

(中略)しかしここで、もう一つの性の意味を考えてみたい。
ゾウリムシに見られるような、形質や遺伝子の相性とは別に接合の相手を制限する能力が、どういう意味を持つのか。そうした性的隔離がなかったら、異なる環境に適応して生物の多様性が現れても、それは可逆的であって、原則的にはいつでも元にもどれる。したがって、性的隔離がないと、同じ場所に多種多様な生物が共存し、生態系をなすこともなかったはずである。

つまり性には「後戻りしない」進化の戻り防止弁としての役割があるということらしい。生命について調べるとよくお目にかかる「非対称性」がここにも。