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●日記の内容をくれぐれも本気にしないでください。ほぼ何にも調べずに書いています。
●何を言っているのかよくわからない場合はとりあえず用語集を参照してください。
●時々同じ事を何度も書いています。心配するだけ無駄だと思うけど。
●敬称略。
●おしゃべりがどうしても治りません。
●日記を書いていないときは何も考えていません。
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●日記インポート時のエラーがそこここに残っていたり恥ずかしくていたたまれない箇所があったりするので、折に触れて過去の日記も書き直しています。
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土日ともなると決まって頭痛【言い訳するとはおれカネゴン】。
例の読書猿の新しいメールマガジンが届く【狙い打たれたおれカネゴン】。
それについて何か書こうと思ったのだけど、同メルマガのバックナンバーに、カネゴンが最近思っていたことがコンパクトにまとめられていたので思わず引用【瞬時の目移りおれカネゴン】。
「難しい本を読める」という文化資本を持った人は、本を読まない人、読む時間・理由・動機・習慣等々がない人、本を読めない人がいることを、しばしば視野の外に置く。しかし「古典を読むのは当たり前」というのは、誰でもわかるように、ちっとも当たり前ではない(昔の人はもっと本を読んだというのも大ウソである。出版部数や進学率の変遷を見れば、読書家なんてのは人口のごくごく一部でしかなかったことはすぐばれる。連中は自分たち内輪の経験を過度に普遍化しているにすぎない)。
希少なものを「当たり前」にすり替える主張は、自分たちだけが《人間》だと言っているに等しい(一種の詐術だ=社会の中に人々を上下に切り分ける「望ましさ」を繰り返し生み出す、その仕組みの一端でもある)。
http://www.geocities.co.jp/WallStreet/1356/SARU/saru110.html#BOOK1
経済がらみの議論が大好きな人たちを見ていて、誰もこの疑問に答えていないような気がするのはカネゴンの読み取り能力が足りないからなのでしょうか【違うと言えぬおれカネゴン】。
関係ないのだけど、もしかするとポル・ポトだかクメール・ルージュさんたちがやったことというのは、「難しい本が読めない人たち」に代わって「難しい本を読める人たち」を成敗して回ったということだったのだろうか【逆賊必然おれカネゴン】。彼らが「難しい本を読めるようにする(難しい本をやさしく書き直すことも含む)」という発想にまったく思い至らなかったのは、金であれ知恵であれそういうものを独り占めしている人たちに復讐することに夢中になってしまったからなのだろうと推測。つくづく、仕返しはどんな行為にもまして中毒になることを痛感。
カネゴンがこれまで読んできた漫画から想像する限りでは、住み心地のよい都市部を一歩離れてみれば、インテリがどれほどひどく憎悪されているかを嫌になるほど痛感できそうな予感。「難しい本を読める人たち」は、自分たちが思っているより遥かにディープに「何をしでかすかわからない連中」と思われている。
もしかすると、21世紀にカネゴンたちに課された使命とは、アローの定理などを始めとする人類の英知を一つ残らず噛んで含めて皆に教えて回り、そうした人類の英知のありがたみをすっからかんになくしてしまい、それらの価値を片っ端からゼロにすることだったりするだろうか【目覚めてしまったおれカネゴン】。カネゴンは価値を作り出すことはまったくできないのだけど、みんなが大事にしている価値を台無しにすることなら得意中の得意です【自信に満ちたおれカネゴン】。
「知は力なり」という現代ヤクザの格言からもわかるとおり、知恵は歴然とした武器であり、相手を物理的に(しかも血を見ずに)殺す力を有するものだから、核戦争と同じくすべての人が同じだけ知恵で武装し合って知恵の価値がゼロになることで初めてバランス・オブ・パワーが成立するということでいいだろうか。
そうして知恵の価値が完全に地に堕ちてゼロになった頃に、人類はその役割を知恵と一緒に昆虫あたりに譲ったりするだろうか【触角生やすおれカネゴン】。
やっぱり今のうちに昆虫を食べる練習をしておかないと生き延びられないかもしれない【当てが当たらぬおれカネゴン】。
何にもできないけど、生きていてもいいのだろうか。何の隠し芸も宴会芸も気の利いた出し物も小噺もできないけど、必殺技もなく魔球も投げられないけど、指導力も問題解決能力も人望もないけど、秘密の通路も隠し金庫の場所も知らないけど、いいのだろうか【食べることならおれカネゴン】。
三浦先生の「論理パラドクス―論証力を磨く99問」に「投票のパラドクス」(およびそれと同等の「アンスコムのパラドクス」)というものが紹介されていた。
大雑把に言うと、民主主義の定番である「過半数での可決」という手法には本質的な欠陥があるとのことらしい。(単純な投票ではなく)複数の項目を絡めた投票を行うと、投票結果がどういうわけか多数派の意見を反映しないことがしばしばあるのだそうだ【書いて写すはおれカネゴン】。
○は賛成、×は反対を表す。A〜Yは投票者。A〜Cが多数派、XとYが少数派。
/ 提案1 提案2 提案3 A ○ ○ × B × × × C × ○ ○ X ○ × ○ Y ○ × ○ 決定内容 ○ × ○ XとYは全体としては少数派であるにもかかわらず、決定内容はXとYの望みどおりになっている。多数派のA〜Cの意見はほとんどまたはまったく反映されていない。
過半数ではなく「四分の三以上の投票」とすることでこの問題を回避できることまで既にわかっているとのこと。
カネゴンの知る限り学校でそういうことを学んだ覚えがないのだけど、このことはすべての人が知っておかないとかなりまずいような気がするのは実はカネゴンだけが知らなかったりするからなのでしょうか【夕焼け空とおれカネゴン】。
あと上の例では、A〜Cは多数派のくせに意見を揃えていないのだから負けても仕方がない、というふうに読まれてしまいそうな気がするのだけど、また何か、まずいことを書いてしまっただろうか。
コンテストの審査方式では、よく「審査員の得点群のうち、最高点と最低点を削除し、残りを合計する」という方法が用いられる。捨てられた点数がなんだかもったいないような気がしないでもない。この方式で落ち着くまでにいったいどんな骨肉の争いが繰り広げられたのか、そっちの方が気になってしまう【やはりお主はおれカネゴン】。
何年かぶりに銀座でご馳走してもらう。
night_in_tunisia
コンドルセのパラドクスは,アローにより一般化され「アローの不可能性定理」と呼ばれています.そちらも参照してみるのはいかがでしょうか.学部生の頃にこれを知って衝撃を受けました.ちなみにアローは僕が一番尊敬する経済学者で,史上最高の経済学者だと思っています.
banban
切羽詰った状態になって、初めて虫を食べては、遅いのでしょうか?
うりかねぐん
ありがとうございます。「アローの定理」ですか。こういう定理は、宇宙のどこに行っても必ず成立するぐらいに一般性を高めて欲しいですね。そのためには長ったらしい前提を何とか切り詰めたいところです。
関係ないですが、どうして経済学は論理記号を使って記述されないのか不思議で仕方がないです。
うりかねぐん
同じ食べるならおいしく食べたいなーと思います。調理法なんかもきっとまだまだ洗練の余地ありだと思うのですが。
night_in_tunisia
数学を身にまとった経済学では論理記号で記述可能なんじゃないでしょうかねぇ.ただ,どのみち「集合A」は「日本経済全体を表す」とか読み替えが必要になるので不便だと思います.
アローの定理の僕流の解釈は「話せば分かる,は幻想に過ぎない」ってことです.いかなる方法を持ってしても利害の一致させる「普遍的」な方法は存在しない,と言っているのだと思っています.ただ,アローの定理はある集合からある集合への写像の存在を議論している訳ですが,定義域を狭めることでこの不可能性定理から逃れることが可能だったと記憶しています.その狭め方が現実とどれくらい整合的なのか,などは知りませんが.
たった3人の家族であっても,どうやっても問題を乗り越えられない家族もあれば,同じような好みを持っていて問題が起きない3人家族もあるってだけのことなんですがね.
うりかねぐん
>night_in_tunisiaさま
「話せば分かる,は幻想に過ぎない」というのが確かに本質だと思います。これを真正面から解決しようとするとだいたい失敗するということでしょうね。
問題解決といってもいろいろありそうで、自分が好きなのは「それは実は問題でも何でもなかった」ことに気付いてもらうというものです。
以前からずっと気になっていたのだけど、「自由」というものについてどれほどの価値があるのだろう【鎖と玉とおれカネゴン】。
カネゴンは奴隷主義者なので、自由がまともに定義されていないうちから自由を無条件に「善」に設定して闇雲に追い求めるより、奴隷としての幸せを追求する方がはるかに能率がよいような気がしてしまうのはカネゴンが奴隷主義者だからでしょうか【トートロトロジーおれカネゴン】。
以前の日記で「音楽に無限の自由度があってもほとんど意味がない」というような意味のことを走り書きしたのをカネゴン思い出した。たとえば、たとえば音楽の即興演奏における自由度を拡張するとしたら「メタクソな演奏から極端にうまい演奏まで」「どうしようもなくひどい音色から極度に洗練された音色まで」自由自在かつ出し抜けに変えられるぐらいのことをしないと空間が広がらないと思ってしまう【締め切り前のおれカネゴン】。
ayahachi
歌詞の自由度についてはどうお考えでしょうか?っていうか、森進一の『おふくろさん』問題ですが‥。川内康範という人物を今日初めてテレビで見まして、両方の耳の中からビュッと毛が生えているところに目が釘付けになりました。
そぷます
コミュニケーションの手段としては無意味かも知れないけど、既成概念を打ち破ろうとする芸術的アプローチとしては意義がある気がする。勿論「ヘタクソ」「極端に上手い」「どうしようもなくひどい音色」「洗練された音色」という4つの”価値”の壁の中で遊んでいるだけでは意味がなく、それらの向こうにあるものを探求すればの話。
うりかねぐん
>ayahachiさま
ああ、それ見たかった...
>そぷますさま
その向こうに一体何があるのか、自分は確信が持てない...何かがあっても自分にその違いがわかるだろうか...って何もしちゃいないのですが。
そぷます
平たく言えば言語で規定できない無意識の世界があるんではないかと。「音楽に国境はない」っていうのはそこのレベルで語られるべき(ていうか語っては行けないん)だけど、“ジャンル”なる意識的分類がある限り「音楽にも国境がある」と。Do not talk about music. Just play.
no-name
> ああ、それ見たかった...
画像だけですが、どうぞ。
http://d.hatena.ne.jp/Maybe-na/20070222/1172149705
うりかねぐん
>そぷます氏
「語りえる言葉がないときは、沈黙しなければならない」...ってsvnseeds氏が昔作った人工無脳のセリフでした。
うりかねぐん
川内康範画像、ありがとうございます。
Wikipediaに「アルツハイマーで療養中」とあったので心配していましたが、思ったより無事そうで何よりです。
仮眠をとったマンガ喫茶の本がことごとくべたついていてショックを受ける。
常々、「心理学」と書くより「感情学」と書く方が内容を正確に表すような気がするのだけど、今からでも変えてもらうわけにはいかないだろうか。感情学というのは残念ながら既にあるらしいのだけど、どんな内容なのか勝手かつ雑に推測してみる【ネットを汚すおれカネゴン】。
ジューシィ・フルーツへの愛あふれるライナーノーツ(from スミルノフ教授)。
チェリーナ 君はかわいいピンク
チェリーナ 君はかわいいピンク
チェリーナ(G) チェリーナ(D)
チェリーナ(Em) チェリーナ(A7)
かわいいピンク チェリーナ
女性が(既婚未婚を問わず)セレブの種を入手して子供を作ってもいいということになり、かつお手軽かつ安価かつ安全な懐妊方法が確立したら、皆血相を変えて次々におなかを膨らまし、少子化問題がいつの間にかどこかに行ってしまったりしないだろうか【使ってもらえぬおれカネゴン】。
不純物に注意。
もちろん、セレブになった男には精子をせっせと社会に提供するよう義務付ける必要もある。精子には当然賞味期限があるので、セレブ男たちは毎日のように提供し、薄めたうえで厳重に規格を揃えてパッケージングしてコンビニの棚に並べられるようにしなければならない。
そしていつしか、その精子パッケージの価格がやがて変動制となって取引市場が登場し、さらに何かの間違いで発展して通貨にまで昇格すれば、人類は理想の「賞味期限つきのお金」をその手にできることになったりしないだろうか【イカの臭いとおれカネゴン】。
青木雄二漫画短編集 (広済堂文庫―漫画文庫)によると、美しい女性は、本人が気付かないうちに、たとえば喫茶店でウェイターがこっそりチンコを突っ込んだ飲み物を飲まされる運命から逃れられないらしい。
1950年代に書かれたクラークの「幼年期の終わり」というという泣ける小説の中で、空想の技術として「100%確実な方法で子供の父親を特定できる技術」が登場していた【今は泣かないおれカネゴン】。
ふと気付いてみれば、ほぼそれと同等の技術をいつの間にかカネゴンたちは手にしていた。
Phewの方法論は一貫して「楽曲のキーとまったく違うキーで唄う」、これに尽きる。下手だからちゃんと唄えないのではなく、あきらかに意図的に調子っぱずれにやっている。この辺がパンクの真髄なのだろうか。声質が邪悪で陰気で滑舌が悪いのは生まれつきなのかもしれないけど。後、誰も指摘していないのだけど、Phewはいつも鼻づまりがひどい【最も詰まるおれカネゴン】。
漫画家の渡辺和博が亡くなったことを家人経由で知る。
以前も書いたとおり、この人の似顔絵と文章のうまさは超一級であったにもかかわらず、「ヘタウマ」という先入観のせいでどうやら誰もそう思わなかった【先入観ならおれカネゴン】。
カネゴンはこの人を「熊猫人民公社」という単行本で最初に知ったのだけど、カネゴンが中学の頃から立ち読みしていた(が決して買わなかった)「ガロ」の自己満足風漫画とはまるで違っていて、まずそのことに驚いてしまった。
本人は真顔のまま決して相好を崩さないのに、相手を爆笑させたり、一転して心胆寒からしめたりと読者を完全に手玉に取る。ものすごい文章テクニックなのに、フュージョン臭くも文学臭くもならない(業界臭くはある)。時事ネタ・業界ネタが極めて多いにもかかわらず妙に普遍性が高い。まったく天然ではなく、明らかに作為の産物なのだけど、その作為のバリエーションがものすごく多い。
どうにもうまく説明できないのだけど、たぶんどんなに練習してもこの人のような文章は書けるようにはならないことは確実。カネゴン「金魂巻」は数ページ立ち読みしただけですが【オール立ち読みおれカネゴン】。
渡辺和博はある意味エイドリアン・ブリューのように、あまりにもあっさり天才として突き抜けているにもかかわらず、悲壮感がどこにも漂わないのでありがたみがない、ちょうどそんな感じ。
例のMind Hacksで、最後の方に次のような実験がいくつか紹介されていた。例によって記憶から。
被験者にクイズを解かせる。実は被験者には内緒で、あるグループにはクイズに攻撃的な言葉を織り交ぜ、対照群には普通の言葉を使用する。すると、攻撃的な言葉を織り交ぜられたグループの被験者は物腰が知らず知らずのうちに乱暴になる割合が増えた。
ポジティブな言葉をいっぱい聞かせたグループと、ネガティブな言葉をいっぱい聞かせたグループにそれぞれ試験を受けさせた結果、前者の方が成績がよかった(だったか速く走れるだったか忘れた)。
これらの実験がどのぐらいの精度で行われたのか知らないのだけど、西洋人はこういうのが心の底から好きらしいことを痛感。カネゴンアイにはこれらは実験というより自分たちのあらまほしき願望を確認する作業のように見えてしまう【叶わぬ願いとおれカネゴン】。とかく脳がらみの実験は、実験者側の意図とか願望が思った以上に強く結果に作用しがちというか、客観性を保つのが難しいというか、自分の座っている木の枝を切るようなことになりそうというか。
怪奇大作戦がNHKハイビジョンで「怪奇大作戦 セカンドファイル(PDF)」として復活するとの情報【録画の予約とおれカネゴン】。
少し前のRadium Software Developmentの「Unskilled and Unaware of It」より:
最後に Kruger らは,「論理的解釈」に関してテストを行ったのちに,被験者を2つのグループに分け,一方のグループには論理的解釈に関する簡単な訓練を施しておき,再びテストを行うという試みを行った。その結果,訓練を施されたグループに関してのみ,能力の低い者は自己を低く見積もるようになり,能力の高い者は自己を高く見積もるようになるという変化が見られた。これはつまり,正しい知識の獲得が自己評価を正す方へと働いたと見ることができる。
http://www.radiumsoftware.com/0609.html#060919
どこに行ったらこの訓練を受けられますか。カネゴンがこの訓練を受けたら、これ以上根拠のない自信で舞い上がることもなくなりますか【天まで高くおれカネゴン】。
自分でも理由がわからないのだけど、最近なんだかYouTubeでピストルズとかジョン・ライドンとかPILを繰り返し視聴するようになっている【自分で自分がおれカネゴン】。こういうのをこれまで映像で見たことがなかったせいか、ちょっとだけ飢餓感が癒されたような気がしないでもない。
ピストルズはやはりドラムが小憎らしいほどうまく、さらにこうして見てみるとジョン・ライドンの立ち居振る舞い一つ一つが惚れ惚れするほどかっこいい【地べた這いずるおれカネゴン】。ジョン・ライドンはジャズを憎悪しているそうで、そういうところもまたいい。
今見つけた、PILのCareeringという曲は、ドラムはそれほどでもないけど、ぞっとするぐらいかっこいいと個人的に思ってしまう。これまでカネゴンあんまり気にしていなかったのだけど、PILのキース・レヴィンのグチュグチュしたギターと鋭角的なノイズシンセは、ブライアン・イーノが前頭葉をどこかに落っことしたみたいでとてつもなく素晴らしい。これほど確信を持って徹底的にクチャクチャとギターを弾き続けられる人はあと何人いるだろうか。素晴らしすぎて本人すら二度と同じクォリティでの演奏はできないだろうというのが容易に想像できるのだけど。
そしてカネゴンどういうわけか、キース・レヴィンの演奏にはマイルス・デイヴィスのそれと同じものを感じてしまう。紛れもなく、キースのギターはマイルスのトランペットと完全に互換性があり、いつでもほいほい差し替えられる。どちらも演奏の内容を全然問題にせず、音それ自体の価値だけを偏執的に追求しようとしているからだろうか【そんなオチではおれカネゴン】。
と書くと、そんな風に聴こえてきませんか【振り子で眠るおれカネゴン】。
ついこの間日経サイエンスを買ったはずなのに、もう新しいのが出ている。この一月、カネゴンは寝ていたのと変わらないのかも【空飛ぶ記憶のおれカネゴン】。うう。
idonokaibutu
やはり初期PILはキースレヴィンのバンドだったのだと再確認する次第です。コレをあのピストルズ直後にやったのも驚異だけど...ひょっとして楽譜とかが存在していて再現可能な音楽だったとしたら...と思うと、恐怖です。
ごくたまにフリクションとか聞き返すときに、フトよぎる恐怖と同じです。
たざき
「日本人コンテスト」面白いけど、審査基準でもめそうだなあ。
「芸能人っぽくないコンテスト」とかどうだろう?
うりかねぐん
>idonokaibutuさま
というものの、私は「Flowers of Romance」一枚しか聞いたことなkったのですが...この間やっと「Second Edition」(旧「Metal Box」)買いました。
うりかねぐん
>たざきさん
「関西人コンテスト」ぐらいならありそうなのに、「日本人コンテスト」までレンジを広げると途端になさそうになるのが妙ですね。
たご
http://blog.goo.ne.jp/tagomago1021/e/8205ef1642f6201ad8e39fcad87c04b9
映像を見るとかなりガッカリできます
うりかねぐん
>たごさま
そこまでLowだとある意味見ものかもしれないですね。ジャズとかだと、相当の大物でも信じられないようなダメライブアルバムがざらにあったりしますが。
お久しぶりです。事情を知らないととうてい察知できそうにないひねりですね。”FM”という曲はまだ聴いたことなかったので家で視聴してみます(あ、サビまで届かないか)。