例の読書猿の新しいメールマガジンが届く【狙い打たれたおれカネゴン】。
それについて何か書こうと思ったのだけど、同メルマガのバックナンバーに、カネゴンが最近思っていたことがコンパクトにまとめられていたので思わず引用【瞬時の目移りおれカネゴン】。

「難しい本を読める」という文化資本を持った人は、本を読まない人、読む時間・理由・動機・習慣等々がない人、本を読めない人がいることを、しばしば視野の外に置く。しかし「古典を読むのは当たり前」というのは、誰でもわかるように、ちっとも当たり前ではない(昔の人はもっと本を読んだというのも大ウソである。出版部数や進学率の変遷を見れば、読書家なんてのは人口のごくごく一部でしかなかったことはすぐばれる。連中は自分たち内輪の経験を過度に普遍化しているにすぎない)。
希少なものを「当たり前」にすり替える主張は、自分たちだけが《人間》だと言っているに等しい(一種の詐術だ=社会の中に人々を上下に切り分ける「望ましさ」を繰り返し生み出す、その仕組みの一端でもある)。

http://www.geocities.co.jp/WallStreet/1356/SARU/saru110.html#BOOK1

経済がらみの議論が大好きな人たちを見ていて、誰もこの疑問に答えていないような気がするのはカネゴンの読み取り能力が足りないからなのでしょうか【違うと言えぬおれカネゴン】。

関係ないのだけど、もしかするとポル・ポトだかクメール・ルージュさんたちがやったことというのは、「難しい本が読めない人たち」に代わって「難しい本を読める人たち」を成敗して回ったということだったのだろうか【逆賊必然おれカネゴン】。彼らが「難しい本を読めるようにする(難しい本をやさしく書き直すことも含む)」という発想にまったく思い至らなかったのは、金であれ知恵であれそういうものを独り占めしている人たちに復讐することに夢中になってしまったからなのだろうと推測。つくづく、仕返しはどんな行為にもまして中毒になることを痛感。
カネゴンがこれまで読んできた漫画から想像する限りでは、住み心地のよい都市部を一歩離れてみれば、インテリがどれほどひどく憎悪されているかを嫌になるほど痛感できそうな予感。「難しい本を読める人たち」は、自分たちが思っているより遥かにディープに「何をしでかすかわからない連中」と思われている。

もしかすると、21世紀にカネゴンたちに課された使命とは、アローの定理などを始めとする人類の英知を一つ残らず噛んで含めて皆に教えて回り、そうした人類の英知のありがたみをすっからかんになくしてしまい、それらの価値を片っ端からゼロにすることだったりするだろうか【目覚めてしまったおれカネゴン】。カネゴンは価値を作り出すことはまったくできないのだけど、みんなが大事にしている価値を台無しにすることなら得意中の得意です【自信に満ちたおれカネゴン】。
「知は力なり」という現代ヤクザの格言からもわかるとおり、知恵は歴然とした武器であり、相手を物理的に(しかも血を見ずに)殺す力を有するものだから、核戦争と同じくすべての人が同じだけ知恵で武装し合って知恵の価値がゼロになることで初めてバランス・オブ・パワーが成立するということでいいだろうか。
そうして知恵の価値が完全に地に堕ちてゼロになった頃に、人類はその役割を知恵と一緒に昆虫あたりに譲ったりするだろうか【触角生やすおれカネゴン】。

独占されている知恵(情報)が広く知られる(スキャンダルが暴露されることも含む)と、それまで独占していた者たちにとっては明らかに損失なのだけど、そうした情報を得たその他すべての人たちにとっては、(ワイドショーで憂さを晴らすことも含めて)利得が発生する。
これまでの会社はほぼすべてと言ってよいぐらい、情報を独占または秘匿することで利益を得てきたのだけど、社会全体で見た場合、そういう秘匿された情報が全部暴露されてしまったら全体としては得になることはあっても損にはならないと考えてしまていいのだろうか。
そういうことを研究するのが情報経済学なのかと思ってたのだけど、もしかして違うのだろうか。