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●日記の内容をくれぐれも本気にしないでください。ほぼ何にも調べずに書いています。
●何を言っているのかよくわからない場合はとりあえず用語集を参照してください。
●時々同じ事を何度も書いています。心配するだけ無駄だと思うけど。
●敬称略。
●おしゃべりがどうしても治りません。
●日記を書いていないときは何も考えていません。
●リンクは御自由に(リンクを外すのも含め連絡不要です)。
●ここに書かれていることや文章の形式などはごっそりパクっても構いません。
●万一ここに書いてあることが何かの間違いでありがたく見えてしまうときは【あるわけなかろうおれカネゴン】、あなたの精神力が弱っていますので視聴を控えてください。危険です。
●もしここからリンクされると格が下がる/貫目が落ちるとお嘆きの場合はご連絡いただければ外します。
●日記インポート時のエラーがそこここに残っていたり恥ずかしくていたたまれない箇所があったりするので、折に触れて過去の日記も書き直しています。
●こんな日記を読むより、最上の日々や最尤日記や研修用資料やactive galacticや科学と技術の諸相の方をお勧めします。
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社会党っていつの間になくなったのだろう。
近所の町内会主催の盆踊り大会を家人とカネゴン子とともに見物【酔いの回ったおれカネゴン】。転校続きのカネゴンは実は今まで盆踊りというものを踊らせてもらえる機会がなく、ほんのちょっぴりだけ踊る。曲の占拠率は今年も氷川きよしの「ズンドコ節」が完全勝利していて、ドラえもん音頭がそれに続く人気。
盆踊りは長時間踊っても疲れないよう巧妙に設計されているらしく、実はけれんみを中心に組み立てた南蛮渡来の西洋踊りと設計思想が根本から異なることに踊りながら気付く【腰みの下げておれカネゴン】。
未だにお釈迦様の教えである「悪い友達と付き合ってはならない」を論破or擁護できずに困っている【悪い友達おれカネゴン】。お釈迦様の言うとおり「悪い友達は、(自分の知らないところでなら)飢えて死んでもよい」のであれば、そのままだと優生学と大差がなくなってしまう。この困難を乗り越えられる者があれば、カネゴンが世界の王に任命したい【缶の王冠おれカネゴン】。
「収入があがるほど、それに正比例して仕事がつらくなる」「収入が減るほど、それに比例して仕事が楽になる」という完全にリニアな関係を構築し、かつ上下の移動を完全に自由にすることができれば、格差が解消されるよりもずっと皆が喜こんでくれたりして【そして降りるはおれカネゴン】。
たぶん肝心なのは、収入と仕事のつらさが比例していると「人間が実感できる」ことであって、数字の上で本当に正比例させるのが必ずしも正解ではない可能性がある【線形愛するおれカネゴン】。
「日本を変える」というからには、その前に「どうなったら日本が変わったと言えるか」という測定基準を明確に定義しておかないと後から評価のしようがなかったりして【クライテリオンおれカネゴン】。
昨日の続き。
あれほど幅を利かせていた優生学が戦後あっという間に地に落ちた(よくある話で日本では戦後も長らくハンセン氏病の患者を断種し続けていたらしいのだけど)のは、国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP)がそれを最も極端に推し進めたあげくに頓挫したからだということらしい。この業績はNSDAPの(マイナスかけるマイナスの意味での)プラスの世界遺産の一つとしてカネゴン登録しておきたい【書類審査とおれカネゴン】。
Wikipedia のフィッシャーの項にさらに愉快な記述を発見。
フィッシャーは熱心な優生学の推進者でもあった。The Genetical Theory of Natural Selection(自然淘汰の遺伝学的理論:1930年刊)は集団遺伝学の基礎を築いた著作として知られるが、この本の3分の1ほどがヒトへの応用に割かれており、たとえば文明の凋落を上流階級の出産率の低下に結びつける理論を展開している。1911年のイギリスの国勢調査結果を利用して、出産率と社会階級とに逆関係があることを示した。そして子の少ない家庭への補助を撤廃する一方、子沢山の家庭に対して父親の収入に比例した補助金を出すことを提案している。
1929年から1934年にかけて優生学会はフィッシャーらを中心として、優生的観点から断種を容認する法律(結果的には否決されたが)の制定を求めるキャンペーンを行っている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%8A%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%BC
昔は優生学が広く科学者のたしなみであったというか、頭のよい人たちほど断種に並々ならぬ情熱を燃やしていたことを痛感。カネゴンとしては、断種というと真っ先にSMの重要なテーマのような気がしてしまう【こわごわ志願のおれカネゴン】。
1900年に2億2000万人(世界総人口の13%)だった都市人口は、1950年には7億3200万人(世界総人口の29%)に、2005年には32億人となり、世界人口の49%が都市に住むようになっている。同じ報告書によれば、2030年には都市人口は世界人口の60%(49億人)となっていると予測されている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%BD%E5%B8%82%E5%8C%96
ほどよく集まったところで網を打てば極めて能率的に収穫できると予測【大漁節とおれカネゴン】。数千年待ったかいがありました。
(ロナルド・フィッシャーは)終戦とともに新しい職探しを始め、ピアソンに招かれたものの、ピアソンに反感を抱いてこれを断り、1919年、ハートフォードシャー州のロザムステッド農事試験場(Rothamsted Experimental Station)の統計研究員に就職した。ピアソンや息子のエゴン・ピアソンらとは、のちに統計学に関して大論争を起こすことになる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%8A%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%BC
大論争とはどうもこのことらしい。
個人的には
のあたりでフィッシャーを断然支持したい【部分で判断おれカネゴン】。
以前も日記に書いたような気がするのだけど、「部分が全体を表していない」事例はカネゴンの文章を始めいくらでもありそうに思える。もちろん女子高生のスカートの丈のように統計に従う事例がないとは言わないけど【世界を曲げるおれカネゴン】。
カネゴンが折りに触れて読み返す楳図かずお講演会より抜粋/再構成:
楳図:『漂流教室』の場合は、母性愛というよりは、むしろ、親別れ、子別れの話なんですよね。
半魚:『漂流教室』については、ラストシーンで戻ったほうが、って言う読者もいますが。結局、現代に帰ることは出来ない、っていうラストシーンですよね。
楳図:そうです。だって、翔くんは一人殺しちゃったんです。自分でも、「これでもとへ戻れないんだ」というセリフもあったはずです。そこでまず、もう暗示がありますよね。
だから、へんなところへ子供たちが送り込まれてしまうんですが、一瞬、最初は、もうさんざん子供をひどい目に合わせてるとしか見えないんですけど、ですけど、その中で、子供たちが、「いや、本当はひどい目に僕たちは有っているんだろうか」、「もしかしたらひどい状態の中に一筋の希望として送り込まれたって事なんじゃないんだろうか」って、すこしづつ気持ちが別の方向に変っていくという、これがまあひとくちで言ったら、僕の『漂流教室』のストーリーなんですけど。
楳図:それでね。『漂流教室』の映画をアメリカ版でも作ったんですね。そしたら、あちらの方は、「なんで未来に行ったのか」って。「なんでのところが分かんない」って。「ここをきちんと出さないと進めない、みんな共通で分かり合えない」って言って、原因を探るところに方向が行っちゃうんですね。
http://www.kanazawa-bidai.ac.jp/~hangyo/hobby/ten/ten2.htm
見事な「逆ロスト・イン・トランスレーション」。カネゴンも、これはアメリカ人には理解できないというか、アメリカ人でなくても誰もが自分の見たいものしか見ておらず、知りたいものしか知ろうとしていないことを、しかも現実を再構成したうえでしか理解できないことを確信【そうして生きるおれカネゴン】。
たぶん『漂流教室』に「神」を登場させ、翔たちを未来へ送り込む絵を付け加えたら彼らは一発で理解する。でもそのようにしか理解できない。神を抜くと途端に理解できなくなる。本来『漂流教室』の良さは、(セリフはあれほど無駄に饒舌であるにもかかわらず)そういう安直な説明をしないところにあるのだけど。
カネゴンの悪い癖で、そこにあるものよりそこにないものが気になってしまう【あるとわからぬおれカネゴン】。
カネゴン以前からずっと気になっていながら言葉にできなかったのだけど、科学を誰よりも愛してやまないカネゴンにすら【愛するあまりおれカネゴン】、スーパーサイエンススクールとかに代表される公の科学プロモーションがどうにもかっこよく映らない。うまく言えないのだけど、どうにもセクシーでない。
カネゴンにとって科学者という身分は、明日のご飯の保証がないという点と当てたらでかいという点と若さが不可欠という点でロックスターと何一つ変わるところがなく、危ないおもちゃほど危険な魅力を発揮するように、科学のセクシーな部分の大半はその危なさにある【制御の棒がおれカネゴン】。公がプッシュする科学は、なぜか科学が「安全牌」であることを暗黙に前提としているような気がして仕方がないのはカネゴンの科学への愛が足りないからなのでしょうか【いっそあなたとおれカネゴン】。狭蝿(さばえ)なす荒ぶる神におわします科学の神は、俺は安全牌になどなった覚えはないと大層お怒りです【許しを請うとはおれカネゴン】。
科学の神の怒りを鎮めるためにも、入学試験と中間試験と卒業試験を、互いのすべての知力を尽くして死闘を演じる公開デスマッチに差し替えたらぐっとセクシーさが増し、興行収入も馬鹿にならないのではないかと【病院送りのおれカネゴン】。負けた者は原発で働かねばならないということにしたら作業員も一気に確保できてしまったりするのだろうか【ウランを担ぐおれカネゴン】。
ビューティーサンシャイン
ビューティペア
ビューティーサンシャイン
ビューティペア
太陽に 手を上げて
若さのまんま 駆けてゆく
悲しみよ さようなら
涙ちぎれて 飛んでゆけ
サンシャイン 愛のために
サンシャイン 生きてゆくの
青春に 傷はないけど
ただあなたが
あなたが
あなたが いるかぎり
今が旬のようなのであまり書きたくないのだけど【落ち目を愛するおれカネゴン】、福満しげゆきがモーニングに描いている漫画に登場する女性が異様になまめかしくてしかも類型的でなく、毎回夢中で読んでしまう。
カネゴンはまったくチェックする気にならないけど、たぶん世に腐るほどあるどんな私小説よりも安全なところからダメ人間を覗き見する趣味を満足させる仕上がりで、芸術の「術」の本質が「ゴミを宝に変える技術」であることを改めて痛感。世の美術学校の入学試験は、一律にこの人の漫画を読ませてそれに衝撃を受けながら耐えられる精神の持ち主のみを通すようにすればよいとすら思う。
今週号では、主人公の僕が見事バイトをばっくれる描写があり、同じ経験を持つカネゴンは心臓を不意に握りつぶされたような心地になる一方で、昔の自分を見かけてつい「元気でやっているか」と肩でもどやしてみたいような気持ちにもなる【似合っておらぬはおれカネゴン】。当時のカネゴンの場合はばっくれた後の自己嫌悪に耐えられず、ずっしり重い気まずさを無理やり押しのけて半年後に同じバイト先に復帰し、以来二度と同じことはしなくなった、と思う【天知る地知るおれカネゴン】。
とっくにセオリーとして固まっていると思うのだけど、プロモーションビデオで歌詞の内容をまんまなぞったりビートに合わせて馬鹿正直に映像を切り替えると高い確率で大変ダサくなることにカネゴンようやく気付く【修行の末におれカネゴン】。
その逆の例になるかどうかわからないけど、カネゴンが25年ほどすっかり忘れ続けていたキャバレー・ヴォルテールというプチ前衛バンドが今でも活動していることを知って何だかほっとすると同時に、当時はまったく見たことのなかった映像が思いのほか出来がよくて意表を衝かれる。
魂って、本当にいいもんですね【しょっちゅうなくすおれカネゴン】。
深夜の民放で甲野善紀が動いているところを初めて見る。己にない分、他人の運動神経を観察するのが大好きなカネゴンは、甲野氏のたたずまいに武術家特有のピリピリした緊張感がまったく見当たらないことと、動作の端々に何ともいえない愛嬌が満ちていることと、ともするとあいまいになりがちな自分の身体感覚を言葉で表現することに極めて長けていることに気付く。
カネゴンの知る限り、彼の動きに一番近いのはリンゼイ・ケンプだと思う。残念ながらYouTubeのどこにも落ちていなかったのだけど、ダンサー/俳優として著名なケンプが白南準と組んだパフォーマンスで、すっぴんのケンプが淡々と踊る不思議なダンスを衛星中継で地球を一周させてもとの映像に重ねてそれをさらに衛星中継し、音楽で言うエコーマシンのような効果を映像で出していた作品を大昔NHKで見たことがある。甲野氏ならたいていのダンスもあっという間に習得してしまいそうな予感【もっこりタイツでおれカネゴン】。
一応本人の演武映像。
カネゴンたちはつい、たかだか数人の女/男と付き合っただけで「男ってこんなもん」とか「女なんてみんな一緒だ」などと過激な一般化をついつい推し進めてしまったりすることから考えて、人間のデフォルト設定はもう間違いなく「1,2,3,たくさん」であることをカネゴン確信。これこそ人間らしさの根源であり、人工知能や牛さんや豚さんに一刻も早く実装して人類を亡き者にするために欠かせない一品であるとカネゴン断言いたす。
統計的に有意な結果を得ようと思えば、少なくともサンプル数は一万人は欲しいところであり、今こそムガール帝国を復活させてこうした貴重な統計をじゃんじゃん採取できればと一部の社会学者が野望を抱いていたらどうしよう【献体希望のおれカネゴン】。その際「人間は自分と同じようなタイプの人間としか付き合おうとしない」という重大な特性を打ち消す必要があり、実験体にはあみんも醜女も好き嫌いせずに何が何でもよく食べてもらわなければならない【鼻をつまんでおれカネゴン】。
台風が過ぎ去った今、南の空にさそり座がはっきり見える。
かの「高校数学+α 基礎と論理の物語」の大学生向け姉妹編「高校数学+α なっとくの線形代数」が7/11に出版された。数学を必殺技に高めたい方に。皆の者、神輿じゃ、死ぬほどでっかい神輿を担ぎ出せい。
カネゴンこの年まで生きてみて、少なく見積もって6割以上の人が政治家の顔だけ見て投票しているということがうっすらわかってきた。立候補者は老若男女を問わず一律にこの鎧を装着してもらい、自らの名前のみをおでこに黒々太々と大書するようにしてもらえれば、顔や言動に左右されずに純粋に政策だけで勝負できるようになったりしないだろうか【左右されるはおれカネゴン】。声ももちろん一人残らずボコーダーで処理すること。
この鎧は他にも何かと便利で、たとえば色気やカリスマに依存せずに純粋に芸術性だけで勝負したいミュージシャンや職人や芸人が装着してもよし、どんなにがんばっても友達のできない子供が(いろんな意味で)一発逆転を狙って装着するもよし【あの頃あればおれカネゴン】。
税金と呼ぶのをやめて、国民料と呼ぶようにしたらまずいだろうか(inspired by いしいひさいち)。
21世紀にもなって昔ながらの選挙をのんびり実行することなどやめて、内田裕也であるかどうかを問わず立候補した人を全員議員にしたらだめだろうか。
その代わり、議員は自分の得票数をそのまま議決の得票数として行使するようにすれば、一票の格差問題もスムーズに解決し、もしかしたら政党すら不要になるかもしれない【泡沫確定おれカネゴン】。
ぼくスピノザ先生の遺した最大級の問題の一つ(といってもカネゴンが勝手にそう読み取っただけなのだけど)に、「物理法則は宇宙のどこに行っても変わらないのか」という問いかけがある。
これは、「もし仮に宇宙のどこかに、物理法則がこの地球上で観察されるそれと違っている世界があったとしたら、カネゴンたちはそれについて何かを知ったりできるのだろうか」とも言い換えられる。
古今東西の物理学は、「物理法則は宇宙のどこに行っても変わらない」ということを無意識に前提にしている。「加速器でビッグバン当時の宇宙を再現する」という実験は、まさにこれが前提になければ絶対に成立しない。「物理法則そのものが違う世界というものがありうるか」という問いかけについてはたぶん「今のところ反証が見つからない」という説明で終わってしまいそうな気がする。
なのだけど、もしたとえば遠い銀河では物理法則が微妙に違っていて、それによって観測値に影響が生じているようなことがあったとしたら、それを判別することはできるだろうか。式を立てるうえでは、左辺と右辺で何か不変のものが必要になるはずなのだけど、唯一頼りになるはずの物理法則自体が遠方では違っている可能性があるとして、それでも式を立てることはできるだろうか【もう寝る時間のおれカネゴン】。
別に遠方でなくてすぐそこにそういう世界(たとえばプランク定数が違う世界)があったとしても、それを観測することはできるのだろうか。暗黒物質だか星間ガスだかによる擾乱と区別できるだろうか。もしかすると、カネゴンたちのスコープは「物理法則が一定の世界の内側だけ」に限られていて、そこから一歩たりとも踏み出すことはできなかったりするだろうか。
もしそうだとしたら、今のところ根拠はないのだけど、これを解決するにはたぶん物理学だけでは不足で、論理学の助けが必要な気が何となくする【そして寝るとはおれカネゴン】。
私達は嗅覚を犠牲にして知性を発達させたらしい。
http://kamakura.ryoma.co.jp/~aoki/vital/Smell.htm
カネゴン思うに、嗅覚のために脳に空きエリアができたのではなく、嗅覚それ自体に本質的な限界があるのではないかという気がする【電波飛来のおれカネゴン】。
嗅覚は他の感覚と違って実に即物的で、「この匂いがしたらメス」「この匂いがしたらエサ」「この匂いがしたら敵」という反射以外の行動が呼び起こされない【そうして暮らすおれカネゴン】。この感覚と行動の間には、いかなる抽象化も不要だったりする。とたとえ嗅覚が犬や蛾のように強くても、それによって行動が質的に変わるとは思えない。
たぶん(視覚の発達した鳥類とかは別にしても)たいていの動物の行動はほとんど嗅覚に対する反射で説明できてしまうし、嗅覚をベースに言語を構築したり高度な推論を行う事自体たぶん本質的に無理があると思う。たとえば「匂いの順序が意味に影響する」嗅覚言語というものをカネゴン想像できない。もしかりにありえたとしても、ニンニクの匂い一発で全部消し飛んでしまいそう。
ヒトはわざわざ嗅覚を犠牲にしたというより、こういう本質的な限界を持つ嗅覚をたまたま失ったためにそっち方面が発達してしまったのではないかとカネゴン推測【発達障害おれカネゴン】。
というわけで、その辺の動物たちの鼻を片っ端から塞いで回れば、激しい怒りとともに高度な知性を急激に発達させた動物たちがあっという間に人間どもに取って代わったりするのではないかと【ドクターモローとおれカネゴン】。
banban
こんにちは
最近、ライアル・ワトソンの『匂いの記憶』(光文社 2000/11/25)
を読みました。
その中で、
「1966年という早い時期にすでに、ニューヨーク医科大学のハリー・ウィーナーは、こうしたシステム(嗅覚によるコミュニケーション)に適合できないことこそが、人類に広く行き渡っていながらいまだによく理解されずにいる一部の疾患の原因なのではないか、と考えはじめた。」
「ウィーナーが想定したのは、外的な化学的メッセンジャーによって伝達される共通言語があり、それによってヒトという種のメンバーの間では口を開くことなく会話が行われうる、ということだった。」
「そうした合図とそのシステムの全体を意識的にとらえることのできる感受性をもって生まれてきた人がいたとしたら、どういうことが起こるか、と彼は考えたのだった。」
「そのような人は大変な問題をかかえることになる、と彼は指摘した。
・・・そのような人は、自分の察知したことのリアリティを他の人に説明したり説得したりしようとするたびに、馬鹿にされることになる。彼は自分の独自性に説明をつけることができず、疑念と迫害の感覚に悩まされる。恐慌状態や妄想に悩まされやすくなる。自分自身とも他人ともうまく折り合いがつけられず、やがて引きこもるようになって衰退していく。この状態にはもちろん、名前がある。精神分裂症(統合失調症)と呼ばれているのである。」()は私が入れました。
長い引用ですみません。
仮定の話ですが、嗅覚が鋭いとこうなるのかもと思うと想像を超えた世界なんだろうと思います。
うりかねぐん
>banbanさま
「自分一人だけ超感覚を身につけてしまうと不幸になる」というのは、平井和正を始めとして今やお話作りの基本と化し、ハリウッドのシナリオ生成ソフトウェアにすらきっと組み込まれていると想像しています。それは非常に遠回しで根の深い、凡人たちの嫉妬の表現なのではないかと。
駅に貼ってあった女性誌の広告で「あなたは『浮気』をどう定義しますか」というキャッチコピーがあった。もしかすると定義を変えるだけで浮気が浮気でなくなったりするのだろうか【どこかへすっ飛ぶおれカネゴン】。
人生楽ありゃ 苦もあるさ
涙の後には 虹も出る
歩いてゆくんだ しっかりと
自分の道を 踏みしめて
人生勇気が必要だ
くじけりゃ 誰かが先に行く
後から来たのに 追い越され
泣くのがいやなら さあ歩け
【勇気がないとはおれカネゴン】
YouTubeでLed Zeppelinを探しては見まくり、改めてこのバンドの音楽の作られ方がほかのバンドとあまりに異質であることを痛感。当人たちすら当時と同じことが二度とできなかったということからわかるように、音楽の組み立てがはらはらするほど危うく、再現性が異常に悪いがために、うかつにコピーすると悲惨なことになってしまう。どんなにいいパーツを集めても同じものを組み立てられない自動車のよう。
コピーが許されるのは、音楽の組み立てられ方が同じぐらい危ういクイーンぐらいしかないかもしれない【単に危ういおれカネゴン】。
みなはどう思っているかわからないけど、カネゴンにはレッドツェッペリンの音楽はこれっぽっちもブルースと思えない【石持て追わるるおれカネゴン】。それ以上に、ブルースっぽいかどうかということは、レッドツェッペリンの音楽の異様さと完成度の高さについて何の関係もないとも思う。そして、ボーカルのロバートプラントはいつも苦し紛れに曲の間を埋めているだけだとも思っている(譜面にしたら何の意味もない歌しか歌っていない)。
「かっこよさ」は数学的対象となることをこの世の終わりまで拒むことが予想されるのだけど、その原因としてかっこよさは加法性を持たない(値を持たず、順位のみを持つ)ことが考えられる。人間の「馬鹿」という性質も、同様に加法性を持たないことはカネゴンの中でのみ思い知らされている【豊富に有するおれカネゴン】。ほかにも「エロさ」など、加法性を持たないがゆえに理論的研究を拒絶する分野はいくらでもある。
上でリンクしたツェッペリンのコピーでは、かっこよさが加法性を持っているはずだということを演奏者が無意識に前提としているがために、結果的にかっこ悪さが100倍増しとなってしまっている。かっこよさが加法性を持っているという思想に染められてしまったら、「これとこれができたら倍かっこよくなる」というかっこよさの加工貿易的思想でしか音楽に取り組めなくなる。ツェッペリンの音楽は、あのドラマーなしでは本人たちすら再現不可能という究極の再現不可能性により、かっこよさをテクニックで奪い取ろうとする者たちを未来永劫自動的に懲らしめるようにできている【こんな刑罰おれカネゴン】。
せっかちなのであらすじをぐぐってみたのですが、さすがに短編のネタをばらす人はいなかった...「カミロイ人の初等教育」というのは大昔何かのSF選集で読んだことがあったようななかったような。
元の曲は「ミネソタの卵売り」なのだそうですが、CMの方が断然ゴロがよいです。