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●日記の内容をくれぐれも本気にしないでください。ほぼ何にも調べずに書いています。
●何を言っているのかよくわからない場合はとりあえず用語集を参照してください。
●時々同じ事を何度も書いています。心配するだけ無駄だと思うけど。
●敬称略。
●おしゃべりがどうしても治りません。
●日記を書いていないときは何も考えていません。
●リンクは御自由に(リンクを外すのも含め連絡不要です)。
●ここに書かれていることや文章の形式などはごっそりパクっても構いません。
●万一ここに書いてあることが何かの間違いでありがたく見えてしまうときは【あるわけなかろうおれカネゴン】、あなたの精神力が弱っていますので視聴を控えてください。危険です。
●もしここからリンクされると格が下がる/貫目が落ちるとお嘆きの場合はご連絡いただければ外します。
●日記インポート時のエラーがそこここに残っていたり恥ずかしくていたたまれない箇所があったりするので、折に触れて過去の日記も書き直しています。
●こんな日記を読むより、最上の日々や最尤日記や研修用資料やactive galacticや科学と技術の諸相の方をお勧めします。
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暖かくなってきたと思ったらガクンと寒くなる、そういうのが一番苦手です【出力低下のおれカネゴン】。
yomoyomoさんのはてなでモーションポートレイトというものを今頃知る。たった一枚の写真からさまざまな角度でいろんな表情を動画で生成できる優れもの。
これを応用した指名手配の人相書きが日本全国各地の津々浦々で延々と恐ろしげかつ微妙な表情を繰り返し再生し、通りかかった子供たちを片っ端から泣かす日が一年以内に来るのを待望。
山手線の液晶画面にもモーションポートレイトの指名手配書を常時表示し、他に見るもののない通勤者たちの脳裏に下手人たちの繊細極まる濃厚な表情が否応なしに焼き付けられる日も近い【そこに映ったおれカネゴン】。
昨日の続きなのだけど、性急な結論の好きなカネゴンはとりあえず「『無駄なもの』こそ生命の構造の本質」と考えることにする。
無駄なもの、言い換えれば余裕、余地、bandwidth、拡張性、それなくしては生命は一歩も立ち行かないのではないかと。DNAの97%だかは無駄な情報しかないというのもたぶんそういうことで、その無駄こそむしろ本体で、無駄でない部分はきっと無駄な部分のおまけにしか過ぎない。
メールの9割はスパムメールというのもきっとそうで、スパムメールの方が実は本質で、重大なメールはなるべく見ずに済ませたいものだったりしないだろうか【そうして暮らすおれカネゴン】。
古代のジョークで、SFの90%はクズだというのもあったような気がする。それもきっとクズの方が本質で、むしろ出来のいいものの方がどうかしていたりするのかもしれない【どうかしているおれカネゴン】。
本でも、インクの乗った部分よりインクのない白紙の部分の方が圧倒的に多いのだけど、本質がどちらに宿っているかといえば、カネゴンは白紙の方に軍配を上げたい。情報は確かにインクの方にあるのかもしれないけど、そのインクを乗せるに十分な広さの白紙があるということの方が重要。
とにかく「無駄のない生命」「捨てる部分のない生命」というのは語義矛盾であり、盲腸のように何でこれがここにあるのかわからないような部分こそが生命の構造の根幹であり、無駄を抱えてこそ生命たりえるとも言える。
生命そのものの本質は生殖と持続とかいろいろあるのだろうけどそっちはまた後で【三歩歩くとおれカネゴン】。
自然の法則では、エネルギーや物体や光の経路などは常に最小限とか最低限のところに向かおうとする。無駄を嫌うかのように。むしろ、そのようにしか動けない。だからこそ定式化可能だったりする。
しかし、どこか宇宙の片隅でぽっと生まれたアミノ酸だか何だかという名の無駄は、たまたまピタゴラスイッチ状に構成されてしまったその絶妙な無駄さゆえに無駄が無駄を呼んで自らの無駄な領域を拡張し続け、その無駄な領域にほんのちょっぴり申し訳程度の情報を乗せて、自然律に逆らうかのように増殖しまくる。
ということで、生命はとっても不自然なものということでよいだろうか。
実に多くの人々がピタゴラ装置に強力に惹きつけられ、何時間でも飽きることなく見入ってしまうのも、そここそが生命と魂の故郷であり、母の胎内よりもさらにさらに奥深いところから、帰って来いよと自分を呼ぶなつかしい声がするからだろうか【帰る場所なきおれカネゴン】。
死刑執行のボタンと死刑執行装置の間にはもれなく豪華な特大ピタゴラ装置を据え付け、その過程が死刑囚から逐一見えるようにすることこそが、生命が生命を奪うという厳粛極まる儀式にふさわしく、被害者の遺族の無念に真に報いるものであるとカネゴン断言いたす【刑と罰ならおれカネゴン】。言うまでもなく途中で止まったら死刑は中止。そのピタゴラ装置は執行前に被害者の遺族が存分に調整するものとする(装置の省略やバイパスは不可)。
なおカネゴンの言う生命にはたんぱく質でできていないものも含まれます。カネゴンは経済も究極的には生命を持っていると考えます【死すべき定めのおれカネゴン】。
先月号のNewtonで大特集されていた「光合成」を食い入るように読んでしまう【わだは病葉おれカネゴン】。文章で書くとややこしいことこのうえない光合成反応を根気よくグラビアで長々と説明するところにまいってしまった。
カネゴンは光合成を何となく「光を直接エネルギーに涼しげに変換する」ようなものかと思っていたのだけど、実は葉緑体の表面にずらりと並ぶ受光体で受けた光からまず電子を生成し、そこからさらに水素イオンを生成して、さらにその水素イオンで分子モーターを1秒間に17回も回転させて摩擦熱を発生し、さらにその熱でATPの合成を促進しているのだという。最後にやっとそのATPがエネルギーとなってかのカルビン・ベンソン回路がメキメキと駆動され、貯蔵に便利なデンプンが合成されるのだとか【それをいただくおれカネゴン】。
昔誰かが「植物にとって何より重要なのは『温度』です」と言っていたような気がするのだけど、植物というか葉緑体が欲しているのは最終的にはATP生成に必要な「熱」だとしたらどことなく納得がいく。南国には葉緑体のない(葉っぱが緑でない)植物があると何かで見たような覚えがあるのだけど、こつこつ摩擦熱を発生しなくても回りが十分暖かければ葉緑体なしでもやっていけるのかもしれない。逆に岩山にへばりつく高山植物の分子モーターは必死の形相で回転しまくっているに違いない。
何も調べていないのだけど、この分子モーターとやらはきっと微生物や精子などの鞭毛と大差ないつくりと思われ、おそらく同じ先祖から受け継いだのではないかと。
追伸:家に帰ってNewtonを読み直してみると、「摩擦を化学結合に変えている」のであって「摩擦熱で化学反応を促進している」のではありませんでした。その違いは今ひとつわからないにしろ、お騒がせいたしました【ジェイルハウスとおれカネゴン】。
仮にエンジニアの視点から見れば、きっと光合成システムの設計には非常に無駄が多く、部品点数をもっと減らしてアーキテクチャをすっきりさせたい衝動にかられるのではないかと思う。
とはいうものの光合成も数億年もの間営業を続けているので、ピタゴラ装置のごとく手近な部品をいきあたりばったりで組み立てたような見苦しいつくりであっても、その無駄の多いつくりを保ったまま数億年の営みを経てそれなりに洗練され、このつくりからは想像しがたいぐらい効率も向上してきたと考えることもできそう。
ところで、無駄が多いということは少々システムに傷が入っても何とかやっていけるということでもあり、それによってシステムを動かしたままアップデートする(進化)ことも可能になる。
逆に一点の無駄も贅肉もない、カモシカの脚のように引き締まりまくったシステムだとほんのわずかな傷やささいな環境の変化でたちまちダウンするし、ちょっとした改良を加えようとするたびにシステムを一から再設計しなければならなくなったりする。
だったら最初から拡張性を盛り込んだ設計にすればよいとも言えるけど、拡張性を持たせるというのは「無駄を許容する」というのと同じことだったりする。
世の人々が交わすおしゃべりのほとんどは、しゃべりの内容という面では有効な情報交換が行われていないと考えることもできるのだけど、実はしゃべりの内容は重要ではなく、話しかけるという行為自体が「私はあなたを受け入れる(=嫌いではない)」という、圧縮すればたった1ビットで表わせる情報のやりとりになっているのだとしたらどうしよう【ビットが立たないおれカネゴン】。
暗号関連の本に書いてあったような気がするのだけど、暗号通信では、たとえ内容を読まれなくても、普段行われていない暗号通信が突然何らかのタイミングに合わせたかのように行われたというそのこと自体が重要な情報になってしまうことがあったりする。
それを防ぐために、普段から用がなくても「異常なし」みたいな内容で暗号通信を定期的に行い、そういう情報を覆い隠さないといけないとのこと。
もちろん、うっかり毎回同じ方法で暗号化してしまうと、「異常なし」のときにはいつもビット列に変化がないことから、たとえ中身がわからなくても、変化があったときにそのことだけは外部から察知されてしまう。それを防ぐために、原文が同じでも毎回異なる暗号ビット列を生成できる方法を使用しないといけないともあった。
【ちょいとひねればおれカネゴン】
斜に構えたようなこと言ってても、日常ふとこの主題歌を口ずさんだりしてるのである。この年になると「青臭い怒り」「熱血」なんてのが、遠い日の花火のようにも宝石のようにも見えたりして。
http://blog.livedoor.jp/n_tko/archives/50943800.html
童貞。
関係ないのだけど【コメント避けるおれカネゴン】、こちらのサイトの文章もさることながら、写真およびアート関連図版(エロい写真含む)の選球眼の良さに密かにしびれてしまっている。正直、鳥居みゆきもここで知りました。
何の確証もないので二週間悩んだのだけど【マーケもせぬのがおれカネゴン】、もしかするとキース・ジャレットはとっても通受けしない人だったりするのだろうか。カネゴンアイにはジャズに詳しい人ほどキース・ジャレットを敬遠しているというか居心地の悪さを感じているように見えるのは、彼の演奏が一見テクニックを贅沢に尽くしているように見えながら、実のところ山下洋輔やグレン・グールド以外は恥ずかしくて誰も真似できないぐらいの羞恥を極めたプレイだったりするからなのだろうか【単なる羞恥とおれカネゴン】。なお、キース・ジャレットが弾きながら変なうめき声を上げるのはこの羞恥にはカウントしない。
大学の医学部に、献体を申し出る人が増えている。解剖実習は医師免許を得るために欠かせない 課程の一つ。大学はかつて献体集めに大変な苦労をしたが、最近では希望者が多すぎて登録の制限を始めたケースもある。
http://mamono.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1206165608/-100
とりあえず「珍しい病気を抱えている順」にするのが吉【シロアリ這い出るおれカネゴン】。
自分の死に外から意味が与えられるほどの幸せはこの世のどこにもないということを痛感。そうでなければ江戸時代にあれほど多くの武士が腹をかっさばいて果てた理由が説明できない。人は外から意味を与えてくれた者にいくらでもその身を捧げてくれるということでよいだろうか。ところで人生に意味が欲しくなったららいつでもカネゴンに声をかけてください【ない者同士でおれカネゴン】。
Fantastic Plastic Machineのよい仕事、「UNIQLOCK」(家人が発見)。
アート・テイタムなどの素材をいい感じに切り刻んで再構成。今更言うまでもないのだけど、DJがあらゆる音源を素材として等分に扱うようになり、生産者の不要な思い入れやしがらみやうんちくをきれいさっぱり洗い流したことで、音楽製作がやっと第一次産業から第二次産業に進んだと考えてよいだろうか【加工貿易おれカネゴン】。
理科学研究所が配布していたポスター「ゆめみる脳科学」を眺めていて、「脳」を大和言葉で「なずき」と呼び、しかも魂の座とされていたということを初めて知る【なずきがなくてもおれカネゴン】。
念のためWikipedia様に尋ねると「うなずきトリオ」関連しか出てこなかった【うななうなうなおれカネゴン】。
我慢できずに最上先生の日記から引用【邪魔だてするのはおれカネゴン】。
天才から見ると我々凡庸な人はすばやく器用に見えるし、また天才は我々からみたら不器用なのろまに見えるのだろう
http://homepage3.nifty.com/mogami/diary/d0803.html#221
カネゴンもつい忘れがちなのだけど、天才のほかにそれを模倣して薄めて広める普通の人も実は必要だったりする。他に何の取り柄もない少数の天才と世を渡る大多数の普通の人を一つにして考えてそれ全体に短くかつ適切な名前を付けることで現象を少しでも正確に理解できたりするかもしれない【既にあるやもおれカネゴン】。
「脳の学習力―子育てと教育へのアドバイス」からかいつまむ。以下脳はすべてなずきと表記。
- 「大人になったらなずきは発達しない」という従来の学説は既に否定されている。大人でも学習するとなずきに目に見えて変化が生じる。ロンドンのタクシー運転手は普通人に比べて地図の記憶に使っている領域が極端に発達している。
- どれほど高度に習得した技能でも、三ヶ月何もしないでいると揮発する。
- 逆に、一日わずか一分でもよいので毎日繰り返していれば忘れない。実際に行えなくても、頭の中でイメージするだけで効果がある。
- 睡眠をまともに取らないとなずきの能率が落ちる。
- 適度な運動は、なずきの能率を確実に高める。
- 昼寝はなずきの能率向上によい。寝ないでぼーっとしている場合は効果なし。
- 嫌な経験・怖い経験の方が忘れにくい。感動や驚きや怒りや悲しみや復讐心など、情動とセットで覚えたことは非常に忘れにくい。
- 「なずきのよくなるくすり/食べ物」はほぼインチキか裏付け不足。どれもプラシーボ効果を上回っていない。
- 欲しいものを我慢できるかどうかを幼児に対して実験したところ、我慢できた子供はその後も成績がよく優れた社畜になれる傾向がある。
- 注意欠陥多動性障害(ADHD)の最大の特徴は「友達がいない」こと。その扱いにくさのために同年代の子供にすら疎んじられる。
- 相当多くの子供が誤ってADHDと診断されている可能性がある。行動の抑制に重要な前頭葉は成人するまで(成人しても)発達を続けるもので、子供のなずきが注意散漫なのはある程度仕方がないが、それを何とかするのが教育。
- ポルトガルの田舎には、歴史的社会的な理由でまったく読み書きを教わらずに育った人が多数いて、彼らのなずきを調べたところ、当然ながら読み書きできる人とはなずきの働きが大きく異なっていた。無意味な単語を発音させてみると、読み書きのできる人は左側頭葉であっさり処理して捨てていたのが、読み書きのできない人は前頭葉がフル回転してその無意味な単語を何とか記憶から検索しようとしていた。
【そこから先がおれカネゴン】
一部で流行った「もしもスターウォーズの公開が20年早かったら(動画)」で、使われている音楽がもろにバディ・リッチ・オーケストラの曲だったところがツボ【タイトル忘れるおれカネゴン】。
今更だけど、バディ・リッチはこういう人。
ドラムがうまいというだけでなく、曲に対する支配力が異常に強いがために、他の楽器はすべてバディ・リッチのドラムに音程をつけるためだけに存在しているような按配になってしまうせいか、バディ・リッチ以外の超有名なスター・プレーヤーがほとんどいなかったりした。
その全然違う世界のドラマーの代表みたいなヤキ・リーベツァイト(Jaki Liebezeit)もカネゴンなぜか好きだったりする(上のフューの曲もドラムはヤキ)。グルーブやスイングとはまったく無縁で、その代わり音の選びのよさと、他のドラマーなら恥ずかしくてとうていできないようなダサいパターンでも平然と演奏する度胸だけで今まで生き延びている。そのせいか、音数の少ない静かな曲ほどドラムのできがよかったりする。
ジャパンのドラムだったスティーブ・ジャンセンはこれまた実に機械のように冷ややかでフラットなドラムで、密かに彼の後ろに回って口を塞いでからリズムマシンと差替えても誰も気が付かないかもしれない【置き換え可能はおれカネゴン】。それに加えてドラムの音も当時の流行でゲートでつぶしまくっているのでますますフラットに聞こえてしまう。人間はいくらでも機械に近づけるということでいいだろうか。
いつだったか英語の教科書で仮定法の例として使われていた「Men were deceivers ever.」という言葉を見かけて以来その語呂のよさがとても気に入っていたのだけど、今ふと思って出典を検索したらシェークスピアの「からさわぎ」だった。
あの名サイト「読書猿」がブログに少しずつ転載されることに。
svnseeds
あのキャリオカは名演だよねえ>Buddy Rich
ちなみにあのバンドに他にスタープレイヤーがいなかった件、彼が自分のバンドをやってた時代はビッグバンド不遇の時期=ギャラが安い、ということで、好んで学生あがりの若いプレイヤーを配していたのも理由のひとつかと愚考いたします。
リッチ自身は一時期シナトラのところで世界最高のギャラのバンドマンとして雇われたり(確かギネスブックに載ったはず)、それ以前にもドーシーバンドやなんかにいたんで、ちゃんとサイドマンとしても評価されてたはず。自信ないけど(笑)。やっぱりソロイスト要員だったのかなあ。
うりかねぐん
svnseedsさま
どもです。このキャリオカ、確かNHKで放映されたジャズの番組(オスカー・ピーターソンが進行役)からのもので、うちの片隅にビデオが転がっているはず。
それにしてもスターウォーズで使われている曲のタイトル忘れてしまいました。Willowcrestじゃないし、うーん。何か機械っぽいタイトル。
Jino
>うーん。何か機械っぽいタイトル。
ずばり”Machine”でございますよ。
ちなみにこのキャリオカはうちにあるDVDに入ってますよ。タイトルは”The 1982 Montreal Jazz Festival”です。キャリオカ以外にも名演ぞろい(特にTime Check)なのでかなりオススメです。
千字文の注釈にあった話より。
蘇秦は十年の間遊学したが、出世することなく家に帰った。兄嫁は秦を見ても立ちもせず、妻は機(はた)から降りもしなかった。秦は嘆いて「大丈夫も出世が出来なければ、妻も兄嫁さえも軽んじるのだ」と言い、やがて去って鬼谷先生のもとに身を投じ、学問に励んだ。眠くなれば錐で太股を刺し、三年も経たぬうちに学問は完成した。斉に使えて宰相となり、ついには六国の宰相にまでのぼりつめて家に帰った。
兄や兄嫁が勢ぞろいで遠くまで出迎えに来た。秦が兄嫁に「昔は私を見ても立ち上がりもしなかったのに、今は六十里も先まで私を出迎えに来てくださったのはなぜですか」と言うと、「今度はあなたが六国の宰相となって帰ると聞きました。名を天下にあげ、祖先の誉れを明らかになさったのですから、迎えに来ました」と言う。
秦は「私の栄達は、兄嫁であるあなたのおかげです」と言った。
この年になって、最後の秦の科白が強烈な嫌味だということがカネゴンにもやっとわかるようになってきました【通じてなかったおれカネゴン】。
今気付いたのだけど、Wikipediaにあった以下の言葉も十分嫌味。
故郷の親戚たちは恐れて顔も上げない様であったという。彼は「もし自分にわずかの土地でもあれば、今のように宰相の印を持つことができたろうか」と言い、それらに手厚く御礼をしたと伝えられている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%98%87%E7%A7%A6
その鬼谷先生も得意だったという観相術という技があるそうで、要するに人相や立ち居振る舞いからその人物の本質と好みと戦略を一瞬で検出して自分の有利に役立てようというものらしいのだけど、ネットでとりあず検索した限りでは、「顔の大きい人はずうずうしくて支配的な人」など、ベイズ推定を最初の一回だけで終わらせてしまったかのような箸にも棒にもかからない代物しか見当たらない【かからぬ者とはおれカネゴン】。
カネゴンの知る限り、割合は極めて少ないのだけど観相に長けた人物というのは、いる。この日記にたびたび登場するJN師匠は、鬼谷先生もかくやと思わせるほどの切れ味の鋭い観相を、本人すら自覚せずに稲妻のように繰り出していたのをしみじみ思い出す【瞬殺秒殺おれカネゴン】。
それよりレベルと精度と志は落ちるのだけど、いわゆる「女の勘」のように「(何の根拠もないのだけど)絶対この人浮気してる!」という直感が突然背中を走るとか、麻雀で牌を捨てようとした瞬間ビビビっと嫌な予感が根拠もなく脊髄を駆け抜ける【そのまま振り込むおれカネゴン】というような現象は、普通の人にもままある。しかしこれらの観相や直感や予感は、ベイズ推定を嫌になるほど繰り返すことによって獲得されたものかというと、カネゴンにはそうは思えない。
「顔のでかさ」などの代表的なパラメータだけをいくつか取り出してそれをさまざまなツールにかけて推定を繰り返すという現代までの統計的手法ではなく、リストアップするだけで一生が終わってしまうほどの膨大なパラメータを脳の下半分と五感を総動員して力技で並列処理し、脳の真ん中へんでそれらを捨てて捨てて捨てまくって、それでも捨て切れないほど強い信号がごくまれに脳の上まで浮かび上がってくる、という方が観相という技の実体に近いような気がする。
ちゃんとわかっているわけではないのだけど、脳の回路は基本的に信号を捨てる方向捨てる方向に配線されているはず【わからず書けるおれカネゴン】。
とにかく観相術は万人に教えることも万人が教わることも本に書くこともできず、億に一人ぐらいの素質のある者の素質を鍛えて伸ばすぐらいしかできないということでいいだろうか【叩いてつぶすおれカネゴン】。
岩谷宏の過去の文章が読めるサイト。だいぶ前から運営してたのだけど、なかなかこの日記に書かなかった。
なお訳詩の8割は原文の行とまったく対応していないことはずっと前から知られている。
この日記で何度も書いているように、カネゴンは岩谷宏を小田嶋隆や松田洋子と同じ種類の(=詩にネタを盛り込まずにいられない)詩人だと思っている。論説が災いしてネットで叩かれまくったせいかどうか、近年ひどく落ち込んでいるらしく、カネゴンとしては胸が痛い。
なお、カネゴンも太古の昔にいろんな意味で影響された「にっぽん再鎖国論−ぼくらに英語は分からない」という本がタイトルを変えて再発されるとのこと。
小島先生の「数学オリンピック問題にみる現代数学―難問の奥にある"ほんもの"の香り (ブルーバックス)」の読める部分だけを読んでいたところ【千に一つのおれカネゴン】、1971年にソ連(当時)のマチアセビッチ(Matijasevich)が「あらゆる素数を生成できる多項式」を編み出したという記述を見かけ、てっきり無理かとばかり思っていたカネゴンたまげる【青天霹靂おれカネゴン】。
何でも、ヒルベルトの第10問題を否定的に解決したついでにこしらえたのだそうで、19変数の多項式に自然数をぶちこんで結果が正になればそれが必ず素数になるのだとか。
どんな式だか見てみたくてネットをあれこれ検索するも、Jones・佐藤・和田・Wiensが5年後に編み出した26変数の25次多項式というものしか見つからず、しかもよくよく見ると「マチアセビッチは、素数を生み出す式が存在することを示した」とある。作ったわけではないのだろうか。確認しようにも、オリジナルの論文はライセンスがないと見られないらしい。頼みの綱のWolfram Worldにも見当たらない。
いつぞやこの日記に書いた、円周率の任意の桁の数字を一発で求める式みたいなものかと思いきや、ちょっと違うのかも【いささか混乱おれカネゴン】。
「マチアセビッチ」ではなく「マチャセビッチ」で検索するとWikipedia様が答えてくれた。
1970年にロシアの数学者ユーリ・マチャセビッチによって否定的に解決された[1]。(→計算可能性理論)この証明の副産物として、再帰的に枚挙可能な任意の整数の集合(たとえば素数の集合)には、その要素を整数解とするディオファントス方程式が、かならず存在することが証明されている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%AA%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%88%E3%82%B9%E6%96%B9%E7%A8%8B%E5%BC%8F
さらに:
素数表現多項式とは,ある多項式で,適切な整数xを選ぶとすべての素数が現れてくるような多項式のことを指します。
実は,変数が1つの場合,2次式ax2+bx+c (今回の問題は b=0, c=0 の場合でした)はおろか ,もっともっと次数を上げていってもそのような多項式は存在しない事が知られています(変数を増やした場合は存在します。つまり,適当に整数の組を入れると ,素数が出てくるような多項式が存在します。)。
http://www.edu.city.kyoto.jp/hp/horikawa/cbbjr/smc/prev01/prev01.htm
どうやら「素数表現多項式」と呼ばれているらしい。
NOTE: その後マティヤセヴィッチは素数表現多項式,すなわち,変数に適当な自然数を代入することで全ての素数を表現し,かつ値が正になるときはいつでも素数になる多項式を発見した.最初に (1971 年に ) 彼が発見した素数表現多項式は 24 変数 37 次多項式であったと言う (英訳された彼の論文では 21 変数 21 次多項式に改良されていた ).以下に,P.Jones, D.Sato, H.Wada, D.Wiens が 1976 年に発見した 26 変数 25 次の素数表現多項式を紹介しておく.これは, (私が知る限り ) 唯一の紙面に載せることが可能なサイズの素数表現多項式である.
http://ocw.nagoya-u.jp/files/16/eng_c02_08.pdf
結局本家の素数表現多項式はわからずじまい。
TXJ
書きとめた人、千年以上にわたって伝えた人・読んだ人の全てが強烈な嫌味だと受けとめていながら、言った秦本人だけは本心からだったら味わい深すぎてどうしよう。(ソンナワケナイ俺○○)
うりかねぐん
>TXJさま
言われた兄嫁もまったくこたえてなさそうですね。このちゃっかりさ加減がまるで旧約聖書の登場人物のようで。
SG68
http://en.wikipedia.org/wiki/Facial_Action_Coding_System
http://en.wikipedia.org/wiki/Microexpression
うりかねぐん
SG68さま
ありがとうございます。既にいろんなアプローチがあるんですね。私の検索キーワードが古すぎました...
nogu
どう考えても兄嫁の開き直りっぷりに、秦ぼろ負けです。
うりかねぐん
noguさま
手のひらは何回ひっくり返しても痛くも痒くもなさそうという感じです。
hokuto-hei
かねごんさんのいう観相術とはずれるかもしれませんが、
「顔占い」(ISBN978-4-7790-0139-0)という本があります。
これはトレーニングによって見えるようになるという、血色、気色、画相を使って、人相や手相から直近に起こりそうな出来事を判断する術です。見える人に、ここにこういう色が出ていると示してもらう体験を積むと見えてくるみたいです。
うりかねぐん
hokto-heiさま
情報ありがとうございます。このISBNで検索したらこのページだけ出てきてびっくりしましたが、ハイフンを抜いたら見つけられました。
カネゴンアイには、水木しげると白川静は本質的に同じタイプの人間として映っているのだけど、前者は
精霊の存在は祭礼や踊りを通じて直接的に感知することができる。決して文字を通じてではない。
http://d.hatena.ne.jp/hachi/20001125#p3
と、後者とほぼ逆の結論を出していたりする【知ったところでおれカネゴン】。
とは言うものの、水木しげるのいう文字は、文字そのものではなくて文章とかセマンティクスとかそういうものを指しているのかもしれない。
さらに、白川静(または取り巻き)に言わせると、古代人の魂を感じるのは古代文字を書き写しているときなのだそうで、もしかすると古代の金文の一つ一つを、ちょうどダンスのステップ図とみなし、その動きをペン先で再現することによって古代を実感していたのだとしたら、実は二人は同じ結論に達し、同じようなものを目撃していたということもありかもしれない【fartな理屈とおれカネゴン】。
ウィトゲンシュタインが選んだのが最も苦悩の深い哲学であり、実際彼は哲学を創造する過程でわれわれ凡人には訪れないたぐいの苦悶を経験したからである。哲学は、いってみれば、「自分との対話」といっていい。他の分野なら、「人を感動させる」ことで自分にも満足感が得られるだろうが、哲学はそうとはいえない分野である。そういう意味で、彼は、自分の生い立ちと引き替えに、最も困難な分野でのひどい苦悩を与えられることになったといえそうである。天は公平なのかもしれない。
http://d.hatena.ne.jp/hiroyukikojima/20080305
ウィトゲンシュタインの悩みの内容については避けて通ってきたのだけど、まるでお釈迦様のようなウィトゲンシュタインの人生。不思議に、こういう苦悩に満ちた作業をチームプレイで民主的に軽減しようという話を聞かない【苦労を避けるおれカネゴン】。
NHKで色川武大の特集をやっているらしいのを録画し忘れる。
カネゴンとしては、色川武大が真顔で繰り出す類まれなるギャグの数々について言及して欲しいと切に願うのだけど、どうも叶わなさそうな予感。ちょうどこちらのブログで快著「私の旧約聖書」が長めに引用されているのでコピペ【苦労を厭うおれカネゴン】。
旧約が面白いのは、人間が神とほぼ互角にわたりあっていくことなのですね。すこしあとですけれども、イェホバ氏がぐうたらしていると、人間の方がハッパをかけて、「お前さんが何もしてくれないならそれでもいい。そのかわり、お前さんの存在が疑われるのだよ。お前さんは、俺たちを幸せにすることでしか、存在を立証できないのだからね」なんてことをいいだす場面があります。こういうところが、まことにリアリティを感じさせるのですね。そうして、いったん相互契約を結んでしまった以上、浮くも沈むも共同体、という感じがあって、だからこそ、イェホバさんに多少の欠落があっても問題にするに足りません。私のような者が読んでいても、導入部ではいろいろ難癖をつけたくなるのですが、お互いコンビを作ってしまったあとでは、イェホバ氏が何をしようと、神は神、人間は人間、という図式がすんなり納得がいくのです。
http://d.hatena.ne.jp/sun-child/20060430
松本人志あたりからは絶対に出てこない暗黒のギャグセンスだとカネゴンは思うのですが。カネゴンの夢はこれを英訳させて彼の地に火を投じることです。
デザインとは、橋の形を考えることではなく、向こう岸への渡り方を考えることだ。
http://d.hatena.ne.jp/kokokubeta/20080223/1203707854
カネゴンは、向こう岸に渡らずに済む方法ばかり考えてしまいます。
「入門 正規表現(岩谷宏訳)」の書評を読んで思い出す。
カネゴンの職場の片隅に転がっている正規表現の説明(それ自体は別のソフトウェアの説明のほんの一部)はHTMLでさらっと書かれているだけなのだけど、初心者向けの正規表現の説明としてはカネゴンの知る限りたぶん世界で最も簡明でわかりやすく、正規表現をとにかく今使う必要に迫られている人にとってこれほどありがたい存在はないと言ってもよいほど【ないと動けぬおれカネゴン】。
何が違うのかを文章だけで具体的に説明するのは非常に難しく、強いて言うならレイアウトと色使いと言葉遣いとサンプルの選択が極限まで洗練されていて、さらに字数も実に少ない。作った人の底知れない力量と慈愛の心を感じさせる。この言葉に出来ないパラメータの方が、理解のしやすさを大きく助けるものであることを痛感させるのだけど、カネゴン以外の誰もその素晴らしさに感激していない様子。内部資料なので外に公開できないのが実に残念【甘い誘惑おれカネゴン】。
カネゴンの1才4ヶ月になる子供は髪の毛がかなり薄く、仮におでこに絆創膏を張ったら写楽保介そのものと言ってもいいぐらい似ていることにある日気付く【子供はみんなおれカネゴン】。いつしか第三の眼を獲得し、人類をその足元にひれ伏させる日がくるまでカネゴン全面的にサポートします【雷落ちるおれカネゴン】。
小島先生の「数学でつまずくのはなぜか」を入手。できるだけちびちび読む予定。小島先生のどの本にも言えるのだけど、扱っている問題が昨日今日思いついたとか編集部で企画したのが見えみえというようなものでなく、問題意識に一つ残らず年季が入っているのが素晴らしい。カネゴン自分の実力も省みず、読んでいてああも言いたいこうも補足したいという気持ちを抑えられず夜中に悶えてしまう【火照った身体とおれカネゴン】。
生徒が胸を躍らせるようなよい(数学の)文章題は本当に少ない。ほとんどの文章題は、味も素っ気もない、問題のための問題でしかない。
そういう問題を探して生物学や物理学を調べたがこちらでもいい問題になかなかめぐり合えず、当時「何でもあり」に思えた経済学にたどり着いて調べているうちに経済学にはまり、ついに経済学者になってしまった。
小島先生が同書で「数学のセンスは十分あるのに、記号や規則に従うのが苦手or嫌いなために拒否反応を示す生徒」について言及しているのを見て、カネゴン即座にいしいひさいちを連想する。
大昔のいしいひさいちの四コマ漫画より記憶から:
人はどう思うかわからないのだけど、カネゴンはこういうところに数学的センスを感じてしまう【壊れたアンテナおれカネゴン】。
小島先生の「数学でつまずくのはなぜか」を読んでて、数学教育において一番厄介なのはもしかすると「間違えてはいけない」という強迫観念だったりするのではないかと思いつく【豊富な間違いおれカネゴン】。
ところで、子供たちはまるで間違えることが罪ででもあるかのように間違いをいっせいにはやしたてて可能性の芽を片っ端から葬り去るものであり、要領よく間違えずに解答用紙を埋められる人が後に世渡り上手になるものだったりする【泥舟乗ったおれカネゴン】。
ところで、何か新しいものを創造したり形作ったりするには、少々の間違いやほつれなど気にせずずんずん先に進み、壁にぶち当たっても止まろうとしない馬鹿さ加減がブレンドされていることが往々にして必要だったりする。
ところで、世の中は世渡り上手だけでもうまくいかず、クリエイティブで雑な人たちだけでもうまくいかず、両方いて互いに利用しあって何とかバランスを保っているのだろうか。世渡り上手だけで固めた県とクリエイティブで雑な人たちだけを固めた県を作り、どっちの県が長持ちするかを観察することでこれを検証しようという勇者の登場が待たれる。
ところで、昔誰かが「アルファベットは26文字ではありません。文字と文字の間のスペースがないと成立しないのだから、スペースも含めて27文字です」と書いていた。
ところで、メールの90何%はスパムなどの無意味なメールらしいのだけど、届くメールが全部自分にとって重大な意味があるものだったら大変疲れてしまうような気がする。
ところで、記号の配置の可能性としては、たとえば1=2や100<1のように間違っている配置の可能性の方が、間違っていない可能性よりも断然多いことは容易に想像がつく。まるで、自然数と無理数では圧倒的に無理数の方が多いことにも似て、無意味になる可能性が圧倒的に高いからこそ、意味のある記号の配置が成立するということはないだろうか。有意味が富士山の頂上のほんの先っちょの部分で、無意味がその下のすべての土砂岩石であるかのように、圧倒的多数の無意味がないと有意味がその高さを保てなかったりするだろうか。
ところで、この世のあらゆる悪人がある日突然一人残らず清く正しい人たちばかりになったとしたら、または今はそうでなくても10年後ぐらいにそうなってしまうことが確実だとしたら、皆お互いに対してどんなことを思うだろう。
ところで、この世のあらゆる馬鹿がある日突然一人残らず究極に賢い人々になったら、または今はそうでなくても十年後ぐらいにそうなってしまうことが確実だとしたら、皆お互いに対してどんなことを思うだろう。
ところで、たとえば1=2のような間違いはそれ自体に意味がないのだけれど、「間違いの集合」と「間違っていないものの集合」の関係を考えている間ぐらいは、間違っているものにも意味を見出せてしまう。何とかして「間違い空間の方が豊穣」というふうに持っていきたいのだけど、どなたか勇者が手伝ってくれたりしないだろうか。
ところで、「あらゆる間違いの集合」は「あらゆる集合の集合」の次ぐらいに巨大な空間だったりするだろうか【強弁止む無しおれカネゴン】。
富士山は、30年以内に必ず爆発します。
小島先生の日記を見ていて「ブルバキズム」という言葉が何を指しているのか今ひとつわからず【知ろうとせぬのがおれカネゴン】。検索したところ、どうやらカネゴンが決して近寄るまいとかつて20年ほど前に誓った構造主義あたりと関連しているらしい。
Wikipediaによると構造主義は「何らかの形で構造を重視する立場である」とあるのだけど、構造主義は構造を重視することと引き換えに一体何を軽んじているのか知りたくなってくる。民主主義は国民だけを重んじてそれ以外の動植物自然科学数学礼儀作法皇室一切を軽んじ、共産主義が財産以外のすべてを軽んじているみたいな感じで、構造さえあればそれ以外のあらゆるものを亡き者にされても痛くも痒くもないという主張でよいのだろうか。
hizzz
「アウトサイダーアート」に限らず「アート」語り全般がとても気恥しく時にはいたたまれないのは、日本のそれが「私小説」状態だからなのかと、ワタクシ思えます。
うりかねぐん
>hizzzさま
そう考えると「鑑定団」は実にいい番組ですね。まがりなりにもあらゆるアートというかお宝に価格というものさしを当てることで比較を可能にするというのは、それ自体アートをとってもおびやかしててよいです。
カトー
アート(芸術性)は私小説ですよ。私的な表現です。ほとんどの場合、作者の表現する事は一般人の理解を超えていて、千人か万人かに一人が勘違いとか、思い込みで強くコネクトしちゃったりするものです。芸術性とはそういう物よ。「鑑定」は「芸術性」とまったく、無関係。鑑定のもの止しは芸術性をはかっているのでなくて「市場での価値(人気)があるかどうか」で。
カトー
(私は「作者の私的表現こそ芸術性」と言う立場ですが)市場に出回るアート作品の多くは私的な表現だけで構成されている訳でなく様々な要素が絡むと思います。例えば・・鑑賞者を意識してのサービス。(作者によっては「サービスこそ作者の主張したい事」の場合もあります。一般的鑑賞者のためにサービスとマーケティングだけで構成した作品(大ヒットしてます)などもありますが。ところで「アウトサイダーアート」は、鑑賞者を意識する事のない、一般的な美術訓練を受けていない、作品なわけ。(そういうジャンルなんだもん)サービスがない分、鑑賞者は直接、作者の純粋な私的表現(それが私は芸術性だと感じていますが)に触れる事が容易い。その私的表現の内容は、イノセントな根源的な事柄、(例えば幼い頃に体験する長閑な友人や遊び、風景など)で感情移入する人は多い。サービスがない分直接イノセントな私的表現に感情移入しやすい。これがアウトサイダーアートの魅力。
サービスになれきった人達は興味すら湧かないのかもしれない。むしろサービスが好きって人が多いから。
でも!「アウトサイダーアート」と言うジャンルが確立されている今現在、市場での需要が当然あります。「鑑定団」がお好きなあなた!投機目的だけで今の市場の価値だけで、アートを見てみるのも良いと思いますよ
うりかねぐん
カトーさま
コメント遅れました。アウトサイダーアートにも今やマーケットが出現しているということを初めて知りました。後100年もしたら鑑定市場は今の姿からは想像もつかないものになりそうですね。
カネゴンのブログがやばいです。
一瞬何のことだかわからなかったのですが、「カネゴンのブログ」で検索して了解しました。
http://d.hatena.ne.jp/newslife/20080401/1207013262