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●日記の内容をくれぐれも本気にしないでください。ほぼ何にも調べずに書いています。
●何を言っているのかよくわからない場合はとりあえず用語集を参照してください。
●時々同じ事を何度も書いています。心配するだけ無駄だと思うけど。
●敬称略。
●おしゃべりがどうしても治りません。
●日記を書いていないときは何も考えていません。
●リンクは御自由に(リンクを外すのも含め連絡不要です)。
●ここに書かれていることや文章の形式などはごっそりパクっても構いません。
●万一ここに書いてあることが何かの間違いでありがたく見えてしまうときは【あるわけなかろうおれカネゴン】、あなたの精神力が弱っていますので視聴を控えてください。危険です。
●もしここからリンクされると格が下がる/貫目が落ちるとお嘆きの場合はご連絡いただければ外します。
●日記インポート時のエラーがそこここに残っていたり恥ずかしくていたたまれない箇所があったりするので、折に触れて過去の日記も書き直しています。
●こんな日記を読むより、最上の日々や最尤日記や研修用資料やactive galacticや科学と技術の諸相の方をお勧めします。
●twitter: hachi8833
●tumblr: orekane.tumblr.com
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夏も近づく八十八夜
野にも山にも若葉が茂る
あれに見えるは茶摘じゃないか
茜襷に菅の笠
日和続きの今日このごろの
心のどかに摘みつつ歌う
摘めよ摘め摘め摘まねばならぬ
摘まにゃ日本の茶にならぬ
下腹が痛い【下してなんぼのおれカネゴン】。
誤解を招きやすい「モラルハザード」は、「道徳的危険」と訳されてしまったためにさらに誤解を招くようになってしまったのだけど、この語をどうにか改良できないだろうか【いっちょかむとはおれカネゴン】。少なくとも、この語を我慢しながら使い続ける必然性を感じられません。
想像するしかないのだけど、英語圏の人でもバリバリに間違えて使っている人が多かったりしそう。
「火災保険をかけたために、注意義務を怠り、結果として火事のリスクが高まる」などのリスク回避を疎かにする事をモラール・ハザード(morale hazard)、「火災保険をかけておいて放火する」などの意図的に事故を起こす事をモラル・ハザード(moral hazard)と分ける場合もある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%A9%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%82%B6%E3%83%BC%E3%83%89
という使い分けも苦しすぎる。
ポイントは:
どの辞典をみても、実体的危険(physical hazard)と対になる用語だと書かれている。
http://homepage3.nifty.com/hon-yaku/tsushin/kotoba/katakana.html
なので、モラルハザードに代えて「潜在危機(potential hazard)」という言葉にすれば、お互いにしょうもない誤解や誤用をしないで済むようにならないだろうか。
「Dynario」は、メタノールを燃料として発電する燃料電池「ダイレクトメタノール方式」を採用し、携帯電話などのモバイル機器の充電を行える製品。
東洋製罐株式会社と共同開発したという専用燃料カートリッジ「東芝燃料カートリッジ」にて、燃料となる高濃度メタノールを約14ml 注入すると、携帯電話を約2回充電できるほどの発電が可能であるという。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20091022-00000050-inet-sci
ハクキンカイロで熱電変換素子をあっためる方式の携帯式バッテリーというのをたった今カネゴンが考え付いたのだけど、この方がはるかにシンプルで丈夫で長持ちで強力で燃料を選ばないものだったりしたらどうしよう【冬に備えておれカネゴン】。
京の五条の橋の上
大の男の弁慶は
長いなぎなた振り上げて
牛若めがけて斬りかかる
牛若丸は飛び退いて
持ってた扇子を投げつけて
こいこいこいと欄干の
上へ上がって手をたたく
前や後ろや右左
ここかと思えばまたあちら
つばめのような早業に
鬼の弁慶謝った
小島先生の最新作を読んでいて、限界効用というものについてひとつどうしても気になることがあった【知らぬ身の程おれカネゴン】。
財の追加購入分の効用は逓減するとのことなのだけど、以下のような例はどうなるのだろう。
限界効用は既に金融理論などにさんざん組み込まれてしまった後なので、今からこんなことを気にしてしまうのは悪いのだけど【倒壊さすとはおれカネゴン】。
ここでひとつヒントになりうるのは「同一性」ではないだろうか。
(覚醒剤とアルコールとギャンブルの場合は、彼らにとっては「それ」でありさえすれば内容や品質はまったく問われないので除外する方がよさそう)
たとえば、女を千人囲っていても【いつかそのうちおれカネゴン】、それらが皆同一の遺伝子を共有するクローン人間だったら、囲う側にとっては一人の場合と何の違いもなくなってしまう【ご飯も千杯おれカネゴン】。
限界効用でよくたとえに出される「砂漠での一杯の水は、ダイヤモンドにも等しい価値を持つ」も、普段の水と砂漠の水は(たとえ物質的には同じであっても)コンテキストが同じではないと考えれば筋が通る。もっと言えば、あのとき飲んだ水と砂漠で今目の前に出された水は、同じ水分子であるとは限らなかったりしないだろうか。分子や原子には個性がないというのが常識のはずなのでちょっと苦しいのだけど。
ギタリストにとっても、それらのギターがみな違うギターだからこそ欲しくなるのかも知れない。たとえ千本のギターを所有していても、それらがことごとく量産ザクのごとき無個性で同一の品だったら、所有のうれしさは一本の場合とまったく変わりないと断言いたす。つまり、品によっては逓減どころか一本の増加でいきなり効用の増加がゼロになってしまうと考えてしまってよいだろうか。
なお、なぜかピアニストやトランペッターなどの他の楽器では、狂ったように楽器を集めまくる人は少ない。ピアノの場合でかすぎて千台どころか10台集めるのも困難なせいなのかとも思うのだけど、トランペットをコレクションしまくるトランペッターをカネゴン今のところ知らない。
知らない分野のものはすべて同じ物に見えてしまうことから、同一性は人の心の中にしかないとカネゴン考えることにします。
お釈迦様は、人間の欲望自体が問題なのではなく、その欲望に限りがないことが問題なのですと言ったそうで、カネゴンもそこのところに全面賛成いたします。
つまり、人間の欲望は基本的に無限であり、ただし肉体的な制限が加わる場合に限り、その効用は逓減すると考える方が自然ではないだろうか。水を風呂桶いっぱい飲めないのは、単に肉体が一度に受け付ける量を超えているだけで、そうした肉体の制限さえなければ人はいくらでも水を飲んでしまうのではないか。
なので、肉体の制限が課されないようなアイテム、たとえば貨幣やギターの場合には、欲望はいくらでも膨らみ続けて限りがなくなってしまうのではないかと。
覚醒剤やアルコールの場合、肉体のそうした制限に関する部分を破壊してしまうので、心の欲望が膨らみ続けるのを抑制できなくなり、いくらでも摂取しようとしてしまうのではないかと。
効用についてさらに気になることがある。
限界効用の「限界」(marginal)は微分的な考えのはずで、にもかかわらず、効用が時間に沿ってどう変化するかということについて気のせいか何の言及もないように思えるのはカネゴンの調べが足りないのだろうか【他にも足らぬおれカネゴン】。
カネゴンの乏しい経験だけで描写するなら、効用は積分回路にパルスを入力したときの出力結果のような変化を辿るような気がする。つまり徐々に上昇してピークに達したのち減衰し、そのまま元よりさらに低くなってからまたゆっくりと元通りになるような感じで。
高校数学1に次のような問題があった。
平行四辺形ABCDがあり、角DABは60度とする。
一辺をEとFで3分割し、DEとCFの交点をGとする。
三角形EFGの面積が7cmのとき、四角形BCDEの面積を求めよ。
問題の答え自体はどうでもよいのだけど、GeoGebraで作図してぐりぐり動かしてみると、どうやら角DABがどんな角度であっても(つまり任意の平行四辺形で)、辺ABからのGの高さは常に平行四辺形の高さの1/4になるらしいことが見当が付いた。
ところがそれを証明する方法が一週間考えてもわからない【程度をさらすおれカネゴン】。
3分割から1/4という値が出るというのが面白いのだけど、証明を避けて通ってきたカネゴンには戦略すら見当が付きません。何となくパッポスの定理と関連しているような気がするのだけど。
なお「角DAB=60度」としているのは、高校数学1のレベルではこれがないと冒頭の問題を解くことが困難なので仕方なくヒントとして与えたのではないかと推測しております。
追記:できました。たざき先生ありがとうございます。
カネゴン家に転がっていたビョークの「Post」というアルバムを聴いたとき、コニー・プランクのサウンド構築が秀逸なことで知られるPhewの「Phew」というアルバムとあまりにその音世界が同じで驚かされた。違うのはPhewの声が万年鼻づまりなことと、ビョークのサウンドには圧倒的に金と時間がかかっていることだけ。
もちろんパクりでも何でもなく、たまたまどちらもこの世にない黄泉の国の響きを求めているだけなのだと思う。実際、フレーズレベルでは一つも似ていない。
カネゴンはP-MODELのときと同様、Phewも禁止リストに含まれていて、25年以上も一瞬たりともその音を思い出さないようにしていたのだけど、ビョークを知って、そんな禁欲に何の意味もないことにようやく気が付いた【暗示にまみれたおれカネゴン】。決して売れ行きのよくなかったであろうPhewの黄泉の国サウンドが、時を超えてビョークによってこれほどまでに洗練され、売れまくったことに内心とまどいつつ小躍りしてしまった。
昼過ぎからなぜか下し気味。
今頃になってAutopagerizeというブラウザ拡張を知る(Firefoxでの動作には今のところgreasemonkyが必要)。tumblrやはてなのルートページを開いて下にスクロールするだけで、一番下に辿り着いた瞬間に勝手に次のページが読み込まれ、サルのようにいくらでも読み続けることができてしまう。ときどき画像が読み込まれないことがあるのが残念。
うりかねぐん
たざき先生
完璧に見落としてました。対面の三角形は相似で、辺の長さが3倍だから高さも3倍ですね。ありがとうございます&お恥ずかしい限りです。
otsune
AutoPagerizeは「お試し版」ならGreasemonkey入れなくても使えます。
うりかねぐん
otsuneさま
何だかお久しぶりです。よく見たらリンク先にも書いてました。ありがとうございます。
一巡回者
いつもはROMしている者ですが、数学の問題、面白そうでしたので、美しくない方法ですが、私も考えました。
平行四辺形ABCDの辺ABの長さをTとする。
平行四辺形の高さをHとする。
0<k<1というパラメータkを使い、
三角形GFEの高さをkH、
三角形GCDの高さを(1−k)・H
と表現する。
平行四辺形の面積=三角形DAEの面積+三角形CFBの面積−三角形GFEの面積+三角形GCDの面積
という関係式が成り立つので、この関係式に、
平行四辺形の面積=T・H
三角形DAEの面積=(1/2)・(2T/3)・H
三角形CFBの面積=(1/2)・(2T/3)・H
三角形GFEの面積=(1/2)・(T/3)・(kH)
三角形GCDの面積=(1/2)・T・(1−k)・H
をそれぞれ代入してゴリゴリ計算すると、両辺からT・Hが消えて、
k=1/4 が得られます。
うりかねぐん
一巡回者さま
別解ありがとうございます。私も手計算でやってみたらk=1/6になってしまい、明らかに計算違いなのでもう一度やり直したら1/4になりました。
みなさんは一度でも、コックリさんの身になってその気持ちを考えてみたことがあるだろうか【あると信じるおれカネゴン】。
来る日も来る日も、日本全国津々浦々から用もないのに呼びつけられた挙げ句、「私のこと好きな人の名前教えて」などという今思いついたようなどうでもいい質問ばかりされた挙げ句に小馬鹿にされたら、コックリさんでなくてもブチ切れて当然だと思う。人にものを頼むときと同じ注意をコックリさんに対しても払うのが当然であるにもかかわらず、どうしてそのことに気付いてもらえないのだろう。
コックリさんが低級霊であるというより、呼び出す側の無礼さ低級さ加減によってコックリさんもそれに応じた振る舞いをせざるを得ないというのがほとんどと思われる【慰め合うとはおれカネゴン】。
コックリさんは見かけによらず大変な働き者であり、今にも叫びだしたいのを我慢して盆暮れ正月もなく日夜全国を飛び回っています。コックリさんを呼び出すときには事前に質問を手抜かりなく用意し、そして十分丁寧な言葉遣いで下手に出ることに徹して、終わったら苦労を存分に労ってあげるようにしていただきたい【狐の使いのおれカネゴン】。くれぐれも馴れ馴れしくしないこと。
同じリンクから。
コックリさんの起源である「テーブル・ターニング」については、大流行していた1800年代から著名な科学者たちが、その現象の解明に取り組んだ。1853年にはプロイセン王国(現:ドイツ)の数学者、カール・フリードリヒ・ガウスやイギリスの科学者、マイケル・ファラデーが実験的検討を試みた[2]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%81%95%E3%82%93
ふと気が付いたのだけど、カネゴンはもう長いこと神仏にお願いをしていない。
神社仏閣で手を合わせることはもちろんするのだけど【十円払っておれカネゴン】、神仏に負担をかけると悪いので「頑張ります」と心のうちで宣言するにとどめ、願掛けはしないようにしていた【殊勝な振りとはおれカネゴン】。
チェーザレ・ロンブローゾといえばもう長いこと疑似科学の代表のように扱われているのだけど、カネゴンは、ロンブローゾも間違いなく科学の徒であり、ロンブローゾの研究は紛れもなく科学に貢献したと信じております。
ロンブローゾは身体的特徴として「大きな眼窩」「高い頬骨」など18項目を、また精神的特徴として「痛覚の鈍麻」「(犯罪人特有の心理の表象としての)刺青」「強い自己顕示欲」などを列挙した。彼によれば、これらの特徴は人類よりもむしろ類人猿において多くみられるものであり、人類学的にみれば、原始人の遺伝的特徴が隔世遺伝(atavism)によって再現した、いわゆる先祖返りと説明することができる。また、精神医学的見地からは悖徳狂と、病理学的見地からは癲癇症と診断される。そしてこれらの特徴をもって生まれた者は、文明社会に適応することができず犯罪に手を染めやすい、即ち将来犯罪者となることを先天的に宿命付けられた存在であると結論付けた。これが「生来的(生来性)犯罪人説」である。こうした彼の立論の背景には、当時流行していた ダーウィニズムへの傾倒があった。発表当初は、犯罪者の約70%が生来的犯罪人であるとしたが、激しい批判を考慮してか、のちにその数値を約35 - 40%に下方修正した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%82%B6%E3%83%AC%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%83%96%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%82%BE
ロンブローゾのアプローチは、多少荒っぽいとはいえ十分科学的であり、しかもその結論が否定されたことで、ちょうどマイケルソン・モーリーの実験のように「こっち方面は違うらしい」ということが判明したわけなので、結果的に否定的結論を導くきっかけになったということで間違いなく科学に貢献しております。彼があの時点でこの説をぶち上げていなかったら、この分野の進歩は確実に遅れていたはず。
この本がどうか、村西監督が言及していた中小企業のおじさんおばさんたちを射程に入れてくれていますように【距離外配属おれカネゴン】。そして願わくば、働かずに楽をして暮らすことにだけ努力を惜しまない人々やてこでも働こうとしない人々をも射程に入れていることを。
私たちが寝入っている夜中に「こびとさん」が「じゃがいもの皮むき」をしてご飯の支度をしてくれているように、「二重底」の裏側のこちらからは見えないところで、「何か」がこつこつと「下ごしらえ」の仕事をしているのである。
そういう「こびとさん」的なものが「いる」と思っている人と思っていない人がいる。
「こびとさん」がいて、いつもこつこつ働いてくれているおかげで自分の心身が今日も順調に活動しているのだと思っている人は、「どうやったら『こびとさん』は明日も機嫌良く仕事をしてくれるだろう」と考える。
暴飲暴食を控え、夜はぐっすり眠り、適度の運動をして・・・くらいのことはとりあえずしてみる。
それが有効かどうかわからないけれど、身体的リソースを「私」が使い切ってしまうと、「こびとさん」のシェアが減るかもしれないというふうには考える。
「こびとさん」なんかいなくて、自分の労働はまるごと自分の努力の成果であり、それゆえ、自分の労働がうみだした利益を私はすべて占有する権利があると思っている人はそんなことを考えない。
けれども、自分の労働を無言でサポートしてくれているものに対する感謝の気持ちを忘れて、活動がもたらすものをすべて占有的に享受し、費消していると、そのうちサポートはなくなる。
「こびとさん」が餓死してしまったのである。
知的な人が陥る「スランプ」の多くは「こびとさんの死」のことである。
「こびとさん」へのフィードを忘れたことで、「自分の手持ちのものしか手元にない」状態に置き去りにされることがスランプである。
スランプというのは「自分にできることができなくなる」わけではない。
「自分にできること」はいつだってできる。
そうではなくて「自分にできるはずがないのにもかかわらず、できていたこと」ができなくなるのが「スランプ」なのである。
それはそれまで「こびとさん」がしていてくれた仕事だったのである。
私が基礎ゼミの学生たちに「自分の知性に対して敬意をもつ」と言ったときに言いたかったのは、君たちの知性の活動を見えないところで下支えしてくれているこの「こびとさん」たちへの気遣いを忘れずに、ということであった。
それは同じ台所を夜と昼で使い分けをしている二組のクルーの関係に似ている。
昼のクルーがゴミを散らかし、腐った食材を置きっぱなしにし、調味料が切れても買い足ししておかないと、夜来た「こびとさん」たちは仕事がしにくくて困るだろう。
だから、自分のパートが終わるときには、「こびとさん」のためにちゃんとお掃除をしておいた方がいい。
そういう気遣いを自分自身の知性の「二重底の下の世界」でこつこつ働いている「何か」に対して示すこと。
それはほんとうに、ほんとうにたいせつなことなのである。
そんなことを言ってもわからない人にはぜんぜんわからないだろうけれど。
http://blog.tatsuru.com/2009/10/03_1726.php
この「こびとさん」を、カネゴンは「ご先祖様」と呼んでおりました。実はカネゴンのこの日記は、カネゴンが書いているのではなく、ご先祖様が書かせているのでした【二人羽織のおれカネゴン】。
カネゴンが先祖をたてるようになったきっかけは、繭(中学校)のときに読んだオカルト本の囲み記事だったりした。
君たちの後ろにはいつも先祖の背後霊がついていてくれている。しかし君たちが勉強や仕事を怠けたりすると、先祖たちはだんだん君から離れていってしまうんだ。
しばらくはこのことを忘れていたのだけど、人生が何度か青森県になったときにこれらのことが付かず離れず思い出されるようになってしまい、以来カネゴンは一挙一動を先祖に見られている気がするようになった。考えてみれば、勉強や仕事を怠けていれば、先祖以前に周りの生きている人間が離れていくだろうし。
その後カネゴンなりに理論を発展させ【fartな理論をおれカネゴン】、先祖には生きている者も死んでいる者も含まれるという複素数的な拡張を施したことですべての先祖と生きている人間どもを同一のガウス平面に配置できるようになり【第四象限おれカネゴン】、「(人・物にかかわらず)生きていく上でのあらゆるしがらみ」を先祖と再定義することでさまざまなオカルトがらみの副作用を除去し、何とかここまでやってこれました【やはりわしらをおれカネゴン】。
同じことをゲーム理論っぽく言い換えると、自分が成し遂げたことをすべて自分の手柄にするのは、生きていく上での戦略上、そして脳科学上、実は圧倒的に不利だという感じでよいだろうか。
お釈迦様やジーザスクライストやムハンマドが手を替え品を替えて人民に伝えようとしていたのは、実はこれだったのだとカネゴン一方的に決めつけることにします。他の教えは全部スカっと忘れて構いません【クルーシファイとはおれカネゴン】。
意味もわからないまま南無阿弥陀仏を唱えるよりずっと実用的だし。
ご先祖様を大切に。
言うまでもなく、ご先祖様を大切にするというのはでっかい墓を建てるとか戒名にお金をかけるということではなく【いずれもせぬのがおれカネゴン】、自分を外から見ている誰かというものを常に意識する、そして自分でできることなど高が知れているという意識を持つということだったりする。
言い換えれば心の中に神を持つことと同等なのだけど、神だと何かと重たすぎて副作用も大きいので、心の監視カメラとして設置するのはせいぜいご先祖ぐらいにしておくのが人類の身の丈サイズに合っているのではないかと【つんつるてんとはおれカネゴン】。
コメント欄でいただいた森先生の「日記を毎日たくさん書く」というのを見て、全然違うことを考える【いつものこととはおれカネゴン】。
ちゃんとできていたかどうか自信はないのだけど、カネゴンはこの日記でいわゆる「感想文」を決して書かないようにしていた。それはたぶん、他人の日記に書かれていた感想文が色川武大に匹敵するぐらい面白かった試しが皆無だったせいなのかもしれない。
感想文にしない方法のひとつが、以前書いた「文章を形容詞や形容動詞で終わらせない」だったりする。
教えて欲しい。どうして小中高の国語の教科書には著者の紹介があるのに、算数や数学には各法則の著者紹介がないのだろう。数学では、法則は人類共有の財産だか何だかで、著者を紹介してはいけないという暗黙のルールでもあったりするのだろうか。
また、理科や社会の教科書で苗字だけを紹介してフルネームを書かないのはどうしてなのだろう。おかげで、カネゴンはボイルシャルルの法則のシャルルの名前がジャックだということをこの間まで知りませんでした。その割には日本人だけ「湯川秀樹」みたいにフルネームで書くのも何だか対称性を欠いている。
少々ページ数が増えても、カネゴンはそういう情報をこそ切望いたします【本文読まぬおれカネゴン】。
buzo
「こびとさんを大切に」は出典を確認しないまま文章を読み進めて、あ、この文体は内田樹さんだと思ってビンゴでした。内田樹さんがとりあげた似た話題として下記が印象に残ってました。脳の活動の身体性みたいな共通点がありますね。
▼「内田樹の研究室: まず日本語を」
http://blog.tatsuru.com/archives/001540.php
『......創造というのは自分が入力した覚えのない情報が出力されてくる経験のことである。それは言語的には自分が何を言っているのかわからないときに自分が語る言葉を聴くというしかたで経験される。自分が何を言っているのかわからないにもかかわらず「次の単語」が唇に浮かび、統辞的に正しいセンテンスが綴られるのは論理的で美しい母国語が骨肉化している場合だけである......』
うりかねぐん
buzoさま
内田先生の文章は毎回素晴らしいですね。(最近他の人の日記自体ほとんど読まなくなってしまってますが)。今回はたまたまtumblrで流れてきたのを見かけました。
引用された内田先生の説は、実は私も毎回日記を書くときに体験しています。私は、日記を書くまではほぼ何にも考えていません。書いたものをアップして読み返すと、途端にあれもこれもと思いついて書き足しています。ひどいときには、一日の中でまったく別々のことを書いているのに、それが最終的につながってしまったりします。到底自分の仕業とは思えません。
bunzo
ブログの書き方は人によって....
・「ふだんネタ帳をつけておいて、溜めたネタを清書して放出」
・カネゴンさんのように「なにも考えずに書き出す」
.....の2種類に大別できそうですね(自分は前者でした)。
森博嗣さんのブログの下記の記事が印象に残ってます。「ネタをストックせずにやおら画面に向かいブログを書きはじめる習慣」を続けると脳がそのように鍛えられ、自分にもご先祖様の声が聞こえてくるのでしょうか。自分が入力した覚えのない情報が出力されてくる経験と音楽演奏の関連とかも連想します。面白い話題です。
▼「MORI LOG ACADEMY: 2005年10月 アーカイブ」
http://web.archive.org/web/20071116165208/blog.mf-davinci.com/mori_log/archives/2005/10/index.php#a000370
『......日記を始めて20日になる。感想メールが毎日沢山届いているが、「こんなペースではネタが尽きないですか?」といったご心配も幾つか。それで考えたのだが、ネタは何故尽きるのだろう?
簡単である。ネタをストックするから、それが減ってしまって尽きるのである。溜め池が干上がるのと同じ原理だ。池は干上がるが、川はいつも水が流れている。いつも流れているものは、尽きない。
日記を毎日書くコツとは、つまり毎日必ず書くことである。溜めないことだ。ネタも溜めない。その場で考え、その場で思いついたことをすぐに書く。違うところで面白いことを思いついても、あとで使おう、とメモをしたりしない。いつも、その場で書いていれば、いつも思いつくようになる。ネタをストックすると、思いつかなくても書けるが、そうしているとだんだん思いつけなくなる。つまり、メモやストックは、思考が停止する時間を増やしているに過ぎない。
小説もすべてこの方式で書いてきたので、最初から常にネタ切れ、いつもネタ切れ状態である。したがって、これ以上にスランプに陥ることはないだろう......』
うりかねぐん
ああ、この回読んだことありました。
かくいう私もネタを蓄積したことがなくもないのですが、必ずといっていいほど書く前に腐って使い物にならなくなりました。
私の場合、近年になるほど日記を書いていて猛烈に恥ずかしくなることが増えて、あまり回数伸びないですが。
みんながわっと飛びつくブームのような現象だと時間要素の考慮が必要な気もしますが。
やっぱりちゃんと教科書見ないとだめかもしれないですね。効用が時間変化するというのは考え方としては自然だと思うのですが。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%8C%E6%B8%88%E4%BA%BA
この合理的経済人というのが、私には「ネズミ男」に思えてしまうんですね。こっちの方がメジャーで、ヤンキー文化の人々の方がマイナーというのを前提にするのが不思議です。
私の大学の先輩のトランペッターはかなりの数コレクションしていますし、チェンバロ弾きにもコレクターはいらっしゃいます。
ピアノは高額&楽器がでかいのでさすがにコレクターはきいたことがないのですが、故ミケランジェリ氏のように自分で組み立てられるという方はいらしたようです。
駄情報失礼いたしましたm(_)m
言われてみれば、薬物耐性ってありました。ありがとうございました。これは効果の逓減ですよね。
attsuuさま
ありがとうございます。サンプルが私の身近のみで心細いところでした。ミケランジェリの話は凄いですね。ブライアン・メイどころじゃないですね。
ありがとうございます&こんなむさ苦しいところへようこそ。やはり逓増の例もあるのですね。
若気の至りはあと何度繰り返せば逓減するのでしょうか。
安冨渉氏の「生きるための経済学」にそんなのがあったように思います。ご一読をお勧めしたりしなかったり
情報の非対称性 (http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%83%85%E5%A0%B1%E3%81%AE%E9%9D%9E%E5%AF%BE%E7%A7%B0%E6%80%A7) がある限り、理論どおりの需要供給マッチングは行われていないような気がします。
”著者の安冨歩氏は、この市場経済学の土台が非科学的な仮定の上に成り立っていると論じている。
「市場経済学は、さまざまの仮定の上に成り立っているが、その仮定の多くはじつは非現実的である。非現実的というのは『現実の経済の姿をゆがめている』というような生易しいものではない。多くの仮定が物理学の諸原理に反している、という意味で非現実的なのである」
市場経済学は「相対性理論の否定」、「熱力学第二法則の否定」、「因果律の否定」という三重苦のうえに立っているのである。”
http://d.hatena.ne.jp/Yasuyuki-Iida/20091024
素人としては小島先生の第六章は面白かったんですが
経済学のプロの学者さんにはいかがなものか?だそうです。
カネゴンさまはどうお感じでしたでしょうか…
この3ページ目4ページ目の
・経済学の非線形性
・行動は、常に相互作用、時系列変化を生じる。
・現実の世界は、無数の相互作用によってでき
ている。
・非線形方程式の多くは解を求められない。
・時系列的に変化していく、あるいは相互作用のある問題は、線形方程式では解けない。
というのもありました。「貨幣の複雑性」の方は読んでいないんですが…
なんども失礼いたしました。
情けないのですが、私はまだこの辺を論じられるほどにはわかっていない状態です。ただ、小島先生のこころざしにはいたく感じ入っています。その目指すところと6章との間にはまだまだ越えなければならない山がたくさんあるようだというところまでは見当が付いたぐらいです。