あけてくれ - おれカネゴンの「算数できんのやっぱり気にしすぎとや」日記 このページをアンテナに追加 RSSフィード

[あけてくれ]

●日記の内容をくれぐれも本気にしないでください。ほぼ何にも調べずに書いています。

●何を言っているのかよくわからない場合はとりあえず用語集を参照してください。

●時々同じ事を何度も書いています。心配するだけ無駄だと思うけど。

●敬称略。

●おしゃべりがどうしても治りません。

●日記を書いていないときは何も考えていません。

●リンクは御自由に(リンクを外すのも含め連絡不要です)。

●ここに書かれていることや文章の形式などはごっそりパクっても構いません。

●万一ここに書いてあることが何かの間違いでありがたく見えてしまうときは【あるわけなかろうおれカネゴン】、あなたの精神力が弱っていますので視聴を控えてください。危険です。

●もしここからリンクされると格が下がる/貫目が落ちるとお嘆きの場合はご連絡いただければ外します。

●日記インポート時のエラーがそこここに残っていたり恥ずかしくていたたまれない箇所があったりするので、折に触れて過去の日記も書き直しています。

●こんな日記を読むより、最上の日々最尤日記研修用資料active galactic科学と技術の諸相の方をお勧めします。

●twitter: hachi8833

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2009年10月04日(日)

今日の頭音:「創世のアクエリオン」のサビ(Key=E)

こびとさんを大切に

私たちが寝入っている夜中に「こびとさん」が「じゃがいもの皮むき」をしてご飯の支度をしてくれているように、「二重底」の裏側のこちらからは見えないところで、「何か」がこつこつと「下ごしらえ」の仕事をしているのである。

そういう「こびとさん」的なものが「いる」と思っている人と思っていない人がいる。

「こびとさん」がいて、いつもこつこつ働いてくれているおかげで自分の心身が今日も順調に活動しているのだと思っている人は、「どうやったら『こびとさん』は明日も機嫌良く仕事をしてくれるだろう」と考える。

暴飲暴食を控え、夜はぐっすり眠り、適度の運動をして・・・くらいのことはとりあえずしてみる。

それが有効かどうかわからないけれど、身体的リソースを「私」が使い切ってしまうと、「こびとさん」のシェアが減るかもしれないというふうには考える。

「こびとさん」なんかいなくて、自分の労働はまるごと自分の努力の成果であり、それゆえ、自分の労働がうみだした利益を私はすべて占有する権利があると思っている人はそんなことを考えない。

けれども、自分の労働を無言でサポートしてくれているものに対する感謝の気持ちを忘れて、活動がもたらすものをすべて占有的に享受し、費消していると、そのうちサポートはなくなる。

「こびとさん」が餓死してしまったのである。

知的な人が陥る「スランプ」の多くは「こびとさんの死」のことである。

「こびとさん」へのフィードを忘れたことで、「自分の手持ちのものしか手元にない」状態に置き去りにされることがスランプである。

スランプというのは「自分にできることができなくなる」わけではない。

「自分にできること」はいつだってできる。

そうではなくて「自分にできるはずがないのにもかかわらず、できていたこと」ができなくなるのが「スランプ」なのである。

それはそれまで「こびとさん」がしていてくれた仕事だったのである。

私が基礎ゼミ学生たちに「自分の知性に対して敬意をもつ」と言ったときに言いたかったのは、君たちの知性の活動を見えないところで下支えしてくれているこの「こびとさん」たちへの気遣いを忘れずに、ということであった。

それは同じ台所を夜と昼で使い分けをしている二組のクルーの関係に似ている。

昼のクルーがゴミを散らかし、腐った食材を置きっぱなしにし、調味料が切れても買い足ししておかないと、夜来た「こびとさん」たちは仕事がしにくくて困るだろう。

だから、自分のパートが終わるときには、「こびとさん」のためにちゃんとお掃除をしておいた方がいい。

そういう気遣いを自分自身の知性の「二重底の下の世界」でこつこつ働いている「何か」に対して示すこと。

それはほんとうに、ほんとうにたいせつなことなのである。

そんなことを言ってもわからない人にはぜんぜんわからないだろうけれど。

http://blog.tatsuru.com/2009/10/03_1726.php

この「こびとさん」を、カネゴンは「ご先祖様」と呼んでおりました。実はカネゴンのこの日記は、カネゴンが書いているのではなく、ご先祖様が書かせているのでした【二人羽織のおれカネゴン】。

カネゴンが先祖をたてるようになったきっかけは、繭(中学校)のときに読んだオカルト本の囲み記事だったりした。

君たちの後ろにはいつも先祖の背後霊がついていてくれている。しかし君たちが勉強仕事を怠けたりすると、先祖たちはだんだん君から離れていってしまうんだ。

しばらくはこのことを忘れていたのだけど、人生が何度か青森県になったときにこれらのことが付かず離れず思い出されるようになってしまい、以来カネゴンは一挙一動を先祖に見られている気がするようになった。考えてみれば、勉強や仕事を怠けていれば、先祖以前に周りの生きている人間が離れていくだろうし。

その後カネゴンなりに理論を発展させ【fartな理論をおれカネゴン】、先祖には生きている者も死んでいる者も含まれるという複素数的な拡張を施したことですべての先祖と生きている人間どもを同一のガウス平面に配置できるようになり【第四象限おれカネゴン】、「(人・物にかかわらず)生きていく上でのあらゆるしがらみ」を先祖と再定義することでさまざまなオカルトがらみの副作用を除去し、何とかここまでやってこれました【やはりわしらをおれカネゴン】。

同じことをゲーム理論っぽく言い換えると、自分が成し遂げたことをすべて自分の手柄にするのは、生きていく上での戦略上、そして脳科学上、実は圧倒的に不利だという感じでよいだろうか。

釈迦様やジーザスクライストやムハンマドが手を替え品を替えて人民に伝えようとしていたのは、実はこれだったのだとカネゴン一方的に決めつけることにします。他の教えは全部スカっと忘れて構いません【クルーシファイとはおれカネゴン】。

意味もわからないまま南無阿弥陀仏を唱えるよりずっと実用的だし。

先祖様を大切に。

言うまでもなく、ご先祖様を大切にするというのはでっかい墓を建てるとか戒名お金をかけるということではなく【いずれもせぬのがおれカネゴン】、自分を外から見ている誰かというものを常に意識する、そして自分でできることなど高が知れているという意識を持つということだったりする。

言い換えれば心の中に神を持つことと同等なのだけど、神だと何かと重たすぎて副作用も大きいので、心の監視カメラとして設置するのはせいぜいご先祖ぐらいにしておくのが人類の身の丈サイズに合っているのではないかと【つんつるてんとはおれカネゴン】。

コメント欄でいただいた森先生の「日記を毎日たくさん書く」というのを見て、全然違うことを考える【いつものこととはおれカネゴン】。

ちゃんとできていたかどうか自信はないのだけど、カネゴンはこの日記でいわゆる「感想文」を決して書かないようにしていた。それはたぶん、他人の日記に書かれていた感想文が色川武大に匹敵するぐらい面白かった試しが皆無だったせいなのかもしれない。

感想文にしない方法のひとつが、以前書いた「文章を形容詞や形容動詞で終わらせない」だったりする。

教えて欲しい。どうして小中高の国語教科書には著者の紹介があるのに、算数や数学には各法則の著者紹介がないのだろう。数学では、法則は人類共有の財産だか何だかで、著者を紹介してはいけないという暗黙のルールでもあったりするのだろうか。

また、理科や社会の教科書で苗字だけを紹介してフルネームを書かないのはどうしてなのだろう。おかげで、カネゴンはボイルシャルルの法則のシャルルの名前ジャックだということをこの間まで知りませんでした。その割には日本人だけ「湯川秀樹」みたいにフルネームで書くのも何だか対称性を欠いている。

少々ページ数が増えても、カネゴンはそういう情報をこそ切望いたします【本文読まぬおれカネゴン】。

buzobuzo 2009/10/04 09:48 「こびとさんを大切に」は出典を確認しないまま文章を読み進めて、あ、この文体は内田樹さんだと思ってビンゴでした。内田樹さんがとりあげた似た話題として下記が印象に残ってました。脳の活動の身体性みたいな共通点がありますね。

▼「内田樹の研究室: まず日本語を」
http://blog.tatsuru.com/archives/001540.php
『......創造というのは自分が入力した覚えのない情報が出力されてくる経験のことである。それは言語的には自分が何を言っているのかわからないときに自分が語る言葉を聴くというしかたで経験される。自分が何を言っているのかわからないにもかかわらず「次の単語」が唇に浮かび、統辞的に正しいセンテンスが綴られるのは論理的で美しい母国語が骨肉化している場合だけである......』

うりかねぐんうりかねぐん 2009/10/04 10:38 buzoさま
内田先生の文章は毎回素晴らしいですね。(最近他の人の日記自体ほとんど読まなくなってしまってますが)。今回はたまたまtumblrで流れてきたのを見かけました。
引用された内田先生の説は、実は私も毎回日記を書くときに体験しています。私は、日記を書くまではほぼ何にも考えていません。書いたものをアップして読み返すと、途端にあれもこれもと思いついて書き足しています。ひどいときには、一日の中でまったく別々のことを書いているのに、それが最終的につながってしまったりします。到底自分の仕業とは思えません。

bunzobunzo 2009/10/04 11:15 ブログの書き方は人によって....
・「ふだんネタ帳をつけておいて、溜めたネタを清書して放出」
・カネゴンさんのように「なにも考えずに書き出す」
.....の2種類に大別できそうですね(自分は前者でした)。

森博嗣さんのブログの下記の記事が印象に残ってます。「ネタをストックせずにやおら画面に向かいブログを書きはじめる習慣」を続けると脳がそのように鍛えられ、自分にもご先祖様の声が聞こえてくるのでしょうか。自分が入力した覚えのない情報が出力されてくる経験と音楽演奏の関連とかも連想します。面白い話題です。
 
▼「MORI LOG ACADEMY: 2005年10月 アーカイブ」
http://web.archive.org/web/20071116165208/blog.mf-davinci.com/mori_log/archives/2005/10/index.php#a000370

『......日記を始めて20日になる。感想メールが毎日沢山届いているが、「こんなペースではネタが尽きないですか?」といったご心配も幾つか。それで考えたのだが、ネタは何故尽きるのだろう?

 簡単である。ネタをストックするから、それが減ってしまって尽きるのである。溜め池が干上がるのと同じ原理だ。池は干上がるが、川はいつも水が流れている。いつも流れているものは、尽きない。

 日記を毎日書くコツとは、つまり毎日必ず書くことである。溜めないことだ。ネタも溜めない。その場で考え、その場で思いついたことをすぐに書く。違うところで面白いことを思いついても、あとで使おう、とメモをしたりしない。いつも、その場で書いていれば、いつも思いつくようになる。ネタをストックすると、思いつかなくても書けるが、そうしているとだんだん思いつけなくなる。つまり、メモやストックは、思考が停止する時間を増やしているに過ぎない。

 小説もすべてこの方式で書いてきたので、最初から常にネタ切れ、いつもネタ切れ状態である。したがって、これ以上にスランプに陥ることはないだろう......』

うりかねぐんうりかねぐん 2009/10/04 19:54 ああ、この回読んだことありました。
かくいう私もネタを蓄積したことがなくもないのですが、必ずといっていいほど書く前に腐って使い物にならなくなりました。
私の場合、近年になるほど日記を書いていて猛烈に恥ずかしくなることが増えて、あまり回数伸びないですが。

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