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●日記の内容をくれぐれも本気にしないでください。ほぼ何にも調べずに書いています。
●何を言っているのかよくわからない場合はとりあえず用語集を参照してください。
●時々同じ事を何度も書いています。心配するだけ無駄だと思うけど。
●敬称略。
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●ここに書かれていることや文章の形式などはごっそりパクっても構いません。
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●日記インポート時のエラーがそこここに残っていたり恥ずかしくていたたまれない箇所があったりするので、折に触れて過去の日記も書き直しています。
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徹夜まなこの 昨日の今日
眠りに眠り 取り返そうと
心配り 気を散らしても
気が付けばもう 明日もあさって
あせったところで どうなるの
知ったことじゃない 知らないわ
疲れた後で 捨て台詞
意気揚々と 口にくちべに
きれい すてき 見事 絶句
何よ今更 赤の他人じゃない
ほおっておいて 元気で平気
知ったことじゃない 知らないわ
昨年あたりからまた、大好きな日経サイエンスを読んでいても内容がちっとも頭に入らないという怪現象が続いていたのだけど【障害認知のおれカネゴン】、昨日ふと気が付くと、また昔のように普通に読めるようになっていた【読んでるだけのおれカネゴン】。
何か変わったことがあるとすれば、年末あたりから生活を無理矢理朝型に切り替えたことぐらい【夜更かし治ったおれカネゴン】。
NHKは大分前からクレージーケンバンドがお気に入りらしく、何かとお呼びがかかっていてうれしい限り【とんとかからぬおれカネゴン】。家人が録画していてくれたおとといの番組を見る。
カネゴンはそこにあるものより、そこにないものの方がつい気になってしまいます【ないないづくしのおれカネゴン】。
保証はしないけれど【逃げの手を打つおれカネゴン】、CKBはまさに21世紀に生きる「進化した不良」だと思う。14インチのブラウン管ではなく、大型液晶テレビにハイビジョンで映るのが似合っている。未来の音楽人たちはこれの上をいかなければいけないのだとすると気の毒な限り【他人のことならおれカネゴン】。
とりあえずメモ:
例えば、よく小林英雄氏や佐野眞一氏らの本に書いてある「俗説」、1960年代・70年代の日本の高度経済成長は、岸信介や椎名悦三郎、そして佐橋滋のような「産業官僚」が満州において計画し実施しした事業をプロトタイプ、つまり「生体試験」として実現されたものだ、というアネクドットをことごとく否定するのだ。これは、本当に面白い。そもそも、満州における実現可能性のある「生産力拡充計画」など作成されなかったし、実施されたとしてもアドホックの極みであったし、実際の生産のパフォーマンスはあまりにレベルが低すぎるか、計画自体が実施されなかった。そのため、その成果を高度経済成長の「生体試験」などできようもないということを、当時の文献とデータを調べて事細かに実証しているのだ。本当に面白い。ここまで徹底的に反駁されて、まだ満州伝説を主張する人はいるのかね?
http://kashino.exblog.jp/9897092/
対辺同士を張り合わせてできる円柱は全て同じ円柱である。
http://www004.upp.so-net.ne.jp/s_honma/mathbun/mathbun28.htm
カネゴン昨晩から寝てないせいかもしれないのだけど、この題意がわからない【悲しい脳とおれカネゴン】。
カネゴンもご多分に漏れず、幼虫(小学校)の頃に宇宙戦艦ヤマトにずっぽりはまっていたことを思い出す【必ずここへおれカネゴン】。
とはいうもののカネゴンは当時からコレクション的な行為が今ひとつ下手糞で、書店で関連書籍を立ち読みしてはスペックや小話を頭に刻み込んだり、ヤマトのストーリーをダイジェストしたカセットみたいな微笑ましいものを聴き込んでサントラを空で覚えたりという、場所と金を使わない方向に行きがちだったりした。
今、3才になった子供がひょんなきっかけでヤマトにぞっこんになってしまい、カネゴンも寝る前に子供に話して聞かせる昔話を急遽ヤマトのスペック解説に切り替えたりなんかしてしまったりするのだけど【治療困難おれカネゴン】、あまりそっち方面に深入りさせたくないという親心からつい途中で心のサイドブレーキを引いてしまう【魔道の入り口おれカネゴン】。
TVを付けると、これまでちゃんと見たことがなかった「ナウシカ」をやっていたのでそのまま後半を見る【周回遅れのおれカネゴン】。アバターを見た後でも古く感じないほど、映像の一つ一つが今見てもいやになるほど斬新なのだけど、カネゴンが考えていた以上に性的な暗喩が豊富で、子供に見せるのはやめておこうという気にさせられる一品。
別に関係ないのだけど、色川武大がアンクル・トムでSMに目覚めた件について別のところでこんなことも書いていた(カネゴンが多少改訂)。
『アンクル・トムズ・ケビン』なんてのは面白かったな。今でも覚えているが、エヴァという白人の美少女が登場して、心優しく奴隷たちに接する。そのために奴隷たちは制度上の奴隷であるばかりでなく、心までエヴァに捧げてしまうのである。完全に支配するとはこういうことだと、子供の私にだって直感でわかるから、自分もエヴァのようになりたいと思い、なったときのことを空想して、恍惚というものを味わった。
空想というものは、奴隷を所有する楽しさと、自分が奴隷になったときの恐怖とを、一緒くたに味わえるから、一倍コクがあるのかもしれない。で、表向きは正論である奴隷解放をうたいながら、その裏でこのような禁断の楽しみを与える、小説というものはそういうものだという認識を得た。
(中略)
ちなみに、上の文はこんな感じに続く。
けれども、そういう楽しみを与えるつもりで作られていない本、たとえば、家畜史の本だとか、愛犬や愛馬の物語などに、濃厚にこうした趣向が現れることがあるから油断がならない。
家畜から受けている計り知れない恩恵を思い出し、家畜の霊魂を慰めるため、その日一日は家畜由来のものを一切食べない「家畜の日」という祝日を国際的に定めようという運動は起きないだろうか。目を吊り上げてクジラやイルカを懸命に保護しようとしている人たちなら深く考えずにすぐ話に乗ってくれそうな気がするのだけど【資金は出ないおれカネゴン】。
当時好きだったプログレッシブ・ロックのバンドで、いまだに追っているのは、キングクリムゾンだけである。なぜなら、彼らは(というか、ロバート・フリップは)今でも新しい音楽を生み出しており、単なる懐メロ・ゾンビ・ロックに堕していない。
http://d.hatena.ne.jp/hiroyukikojima/20100213
そのロバート・フリップを(その音楽よりもむしろ方法論を)愛しすぎてしまった平沢進も、幸か不幸か新しい音楽を生み出し続けて今日に至っていたりなんかする。それと比べると、桑田佳祐やポール・マッカートニーみたいに常に同じ種類の音楽だけをずっと作り続ける人の方が一見楽そうに見えてやっぱり楽なのかもしれない。
教えて欲しい。男子フィギュアスケートを見ていて、踊り開始直後の一瞬のぷりっとした腰の動きだけでその選手がオカマだということがたちどころにカネゴンにわかってしまうのはなぜなのだろう【二位の選手とおれカネゴン】。
カネゴンは、一目でオカマをずばりと見抜く特訓など積んだことはないのだけど、おそらく、わずかな情報を与えられると直ちに空白を埋めずにはおかれないという悲しい脳の特性から来ているのではなかろうか【悲しい脳とおれカネゴン】。
これも色川武大のエッセイから。彼をヨーロッパのカジノに案内している女性が、そこにたむろしている人種を次々に「あれはベルギー人とハンガリー人の血が入っている」「あれは純粋な北方フランス系」などと指摘しながら:
弱々しいのは純血種。たくましいのはどれも混血種。犬と同じね。
カネゴンの大恩あるJN師匠もヨーロッパ人とのハーフで、常に異常なまでのエナジーに満ちあふれていた。そういえば「混血は最初の代だけ強い」という説を誰かから聞いたこともあった。
ということは、アーリア人の純血を保つという政策は、長い目で見ればむしろ民族の能力を損なう贔屓の引き倒しみたいな政策だったということでよいだろうか。
カネゴンは色川武大が好きでしょうがないのだけど、残念ながら彼は「才能という病」からだけは自由になることができなかったと今にして思ったりする【四百四病おれカネゴン】。彼の場合ある意味職業病とも言えるのだけど、才能に関して何かを語ることはいつでもウケてしまうがために、それをネタに書き続けざるを得なかった一面もあったかもしれないのだけど。
カネゴンの見積もりでは、才能(体質もここに含める)は、ものごとをなすうえで多くても1/4ぐらいしか貢献しない。1/4は産まれ育った環境と先祖の因縁、1/4は度胸としつこさ、1/4は運【因縁呼ばわりおれカネゴン】。Deterministic factorsというものがありそうでないことを改めて痛感【横文字使うおれカネゴン】。
いわゆるネットワーク理論で、ノード同士のホップ数が6でたいていのものがつながってしまうみたいなことが言われているのだけど、カネゴンは逆に、6どころか3つ離れただけで、自分とは縁もゆかりもなさそうな人につながっていたりする「遠さ」の方が気になる【ネットの端にはおれカネゴン】。
言うまでもなく脳は巨大なネットワーク構造になっているのだけど、この遠さという特性があるがために、まったく相矛盾することがらを一つの脳にいくらでも問題なく収容できてしまうのではなかろうかと。隣同士のノードでは矛盾は痛みを発するのだけど、ちょっとノードが離れてしまえば互いに相当矛盾があっても痛くも痒くもなくなってしまう。また、そうでないと脳の情報収容能力はてきめんに下がってしまうはず。
脳が、それまで持っていた情報にきっちり整合する情報しか受け付けないとしたら、それはもはや脳たりえないし、例外的な事象に何一つ対応できなくなってしまう。矛盾を平気で受け付け収容する能力こそ脳の活力の根源でありネットワークの本質ということでよいだろうか。
だからこそその副作用として、たとえばニュートンが錬金術にはまっていただとか、SS幹部がこれから処刑するユダヤ人音楽家に名曲を演奏させ、それに心から涙しただとかの矛盾に満ちたエピソードが起こりうるのかもしれない。
脳は矛盾をまずそのまま受け入れ、それらが後に配線の変化などで互いに距離が近くなったときに初めて悩みや苦しみが発生し、何とかしてその矛盾を解消しようとしてもがくのかもしれない。そしてどうにもならないときには、再びちょいと両者の距離を遠ざけてしまえばたちまち楽になり、どんな矛盾でも来るなら来いという感じで今まで通りの日常生活が送れるようになる【苦しうないのがおれカネゴン】。
同じように、自然言語の文法はどれもこれもどうしようもない矛盾を抱えているのが常なのだけど、脳がやさしくその矛盾を受け入れてくれているおかげで何とかやっていけてるのかもしれない。構文解析による機械翻訳がものになりそうにないのは、それが全体としてあまりに整合しすぎているからなのかもしれない。
この間書いた幾何学の4つの公準のことなのだけれど、
- 公準 1 : 一点とこれと異なる他の一点とを結ぶ線分を作ること。
- 公準 2 : 与えられた線分を、その両側へいかほどでも延長できること。
- 公準 3 : 任意の一点を中心として、任意の半径の円を描くこと。
- 公準 4 : 描かれたいくつかの円や直線の間に交点があれば、それをとること。
それ以前に、「(線の上を含む)任意の場所に点を置くことができること」というのが公準0として必要だったりしないだろうか【壊しにかかるおれカネゴン】。それが保証されていない状態で、いったいどうやって点を置けばいいのだろう【許しもらえぬおれカネゴン】。
と書いてみて、もし「(線の上を含む)任意の場所に点を置くことができること」を公準0として加えると、たとえば「角を三等分する点を内角におもむろに置く」という順序逆転的なことが可能になってしまうことに気付く。
点を集めて線にすれば、どんな線でも思うがままに描けてしまうことになり、神でなければ使いこなせない荒馬幾何学になってしまうので皆しないということでよいだろうか。
だとすると、いったい何の権利に基づいて点を置けばよいのだろう。
それ以前に「公準」という言葉がいまひとつぴんとこないので、この際一律に「権利」という言葉に置き換えれば作業がゲームっぽくなってすきっと理解しやすくなり、人手不足気味な幾何学業界に自動的に法務関係者が押しかけて一気に何かが花盛りになったりしないだろうか【利権を狙うおれカネゴン】。
- 権利 1 : 一点とこれと異なる他の一点とを結ぶ線分を作る権利。
- 権利 2 : 与えられた線分を、その両側へいかほどでも延長できる権利。
- 権利 3 : 任意の一点を中心として、任意の半径の円を描く権利。
- 権利 4 : 描かれたいくつかの円や直線の間に交点があれば、それをとる権利。
単純な定理や公準を組み合わせて正17角形を作図することができるように、裏街道の事件屋や弁護士も法の知識を縦横に組み合わせてさまざまな問題を解決することに日々勤しんでいるのかもしれない【勤しみ疲れたおれカネゴン】。
shiro
「任意の場所に」は、線分や円周の上の点の集合、あるいはそれらで区切られる領域無いの点の集合から「どれを選んでも」後続の証明が成り立つ、という選び方ができる、ということじゃないですかね。
あ、でもそうすると、平面上の点の集合についての性質を決めないとならなくなる? 実数の切断みたいな話で。
「有限回の操作」に限れば「神でなければ使いこなせない荒馬幾何学」は出てこないのかもしれません。
うりかねぐん
shiroさま
「有限回の操作」があったのを忘れてました。「操作を無限に実行する権利はない」ということで。
矢野健太郎「角の三等分 (ちくま学芸文庫)」は、本文より解説の方が長いというどえらい本なのだけど、そのあとがきに登場する角の三等分屋というものを見かけて、カネゴンもいつ何時こういうことをしでかすかもしれないと思っておののく【ほとんど同値のおれカネゴン】。
同書によると、作図の公準は以下のとおり:
- 公準 1 : 一点とこれと異なる他の一点とを結ぶ線分を作ること。
- 公準 2 : 与えられた線分を、その両側へいかほどでも延長できること。
- 公準 3 : 任意の一点を中心として、他の任意の一点を通る円を描くこと。(現代だと、同値の「任意の一点を中心として、任意の半径の円を描くこと」を使用するらしい)
この3つの公準だけを使って、円に接する直線を描くことが許されるのかどうか急に迷ってしまった。接線を引く前にはその場所に接点はないのだけど、ないのにおもむろに線を引いてしまって怒られないだろうか【どやされ人生おれカネゴン】。
それと、「コンパスで距離を取ってそれを全然別の場所に運び、元の長さを全然別の場所で再現する」という操作は、この3つの公準の中で許してもらえるのだろうか【迷うことならおれカネゴン】。
と思ったら、解説でもう一つ公準が示されていた。
- 公準 4 : 描かれたいくつかの円や直線の間に交点があれば、それをとること。
でもこの公準があっても上の疑問が解消しない。
しばらくチェックできなかった小島先生のブログから:
実際、高校数学では三角関数で計算できるのは、15度の系列とか18度の系列だけで、ほぼすべてのサインやコサインの値はどうやって計算するのかわからない。ほとんどすべて計算できないようなものが「存在する」と言えるのか。もちろん、教師はそれに答えてくれないばかりか、そんなことを疑問にも思わないのである。新井さんは、ここで、何の準備もなしに唐突に、サインやコサインのテーラー展開を持ってくる。テーラー展開を使えば、どんなサインやコサインも近似的には計算可能であることを示してみせる。そして、関数電卓やパソコンの三角関数の計算が実はこの方法で行われていることを暴く。
http://d.hatena.ne.jp/hiroyukikojima/20091221
それに関連しそうなQ&A: http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa883904.html と http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa2426086.html?rel=innerHtml&p=bottom&l=1
shiro
> 「コンパスで距離を取ってそれを全然別の場所に運び、元の長さを全然別の場所で再現する」
こういうのはどうでしょう。
(定理1) 任意の直線lとl上にない点Pが与えられた時に、点Pを通りlに垂直な線が引ける
(1a) l上の適当な点Xを中心としXPを半径とする円を描く (公準3)
(1b) l上の適当な点Yを中心としYPを半径とする円を描く (公準3)
(1c) ふたつの円の交点のうち、P以外のもうひとつを取りP'とする (公準4)
(1d) PP'を結ぶ線分を引き (公準1)、それを延長する (公準2)
(定理2) 任意の直線lとl上に無い点Pが与えられた時に、Pを通りlに平行な直線が引ける
(2a) Pではない任意の点Qを通りlに垂直な直線l'を引く (定理1)
(2b) Pを通りl'に垂直な直線を引く (定理1)
(定理3) 任意の点P, Q間の距離を半径とし、任意の点Oを中心とする円を描く
(3a) OがPQを通る直線上にない場合
(3aa) PQを通る直線と平行で、Oを通る直線mを引く (定理2)
(3ab) QOを通る直線と平行で、Pを通る直線m'を引く (定理2)
(3ac) mとm'の交点をRとする (公準4)
(3ad) Oを中心とし、Rを半径とする円を描く (公準3)
(3b) OがPQを通る直線上にある場合は、直線上に無い適当な点O'を選び、(3a)でOをO'と読み替えて点R'を求め、つぎにO'R'をPQと読み替えて(3a)を適用する。
> 円に接する直線を描くことが許されるのかどうか急に迷ってしまった。
(定理4) 点Oを中心とする半径rの円cがある時、Oを中心とする半径2rの円が描ける
(4a) c上の任意の点Pを選び線分OPを描く (公準1)
(4b) OPを延長し (公準2)、cとのもうひとつの交点をQとする (公準4)
(4c) PQを半径とし、Oを中心とする円を描く (定理3)
(定理5) 点Oを中心とする半径rの円cと、その外にある点Aが与えられた時に、Aを通りcに接する直線が引ける
(5a) Oを中心とする半径2rの円c'を描く (定理4)
(5b) Aを中心としOを通る円dを描く (公準3)
(5c) c'とdの交点をとりO'とし (公準4)、OとO'を結ぶ線分lを描く (公準1)
(5d) lとcの交点をとりBとし (公準4)、AとBを結ぶ線分を描き (公準1)、延長する (公準2)
ROYGB
円の接線については、
http://www.unsanitized.net/geometry/
の説明がわかりやすいのではないかと思います。
他にも目盛のある定規をすべらせて使っても良ければ角の三等分はできるということも書いてあって興味深い内容です。
↑初めて聴いたのは去年です【サバを読みたいおれカネゴン】。
集中力を増す方法:
●point 1:ゴールを決めない
●point 2:コツコツやらない
●point 3:結果を求めない
http://megalodon.jp/2010-0212-1610-23/zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20100212-00000001-president-bus_all
上のまとめ方だと必ずや誤解を招くので、以下のように修正希望。
脳には自己保存本能がある。文字通り「自分を守りたい」という本能だ。より根源的な脳の3つの本能、すなわち「生きたい」「知りたい」「仲間になりたい」のうち、「生きたい」という本能から派生してくる、第二の本能である。
上の記事が本当であれば、よく言われる「闘争本能」というのは実はまったくの空想の産物だったりするのだろうか。戦争もいじめも民族浄化も実は闘争本能などとは何の関係なく、ただ仲間に認められたい、褒められたい、逆らいたくないという本能にストレートに従っただけに過ぎなかったりするのだろうか【真の原因おれカネゴン】。人類は何千年でも間違い続けていられることを痛感。
似たような脳科学の知見で、「人は客席からの応援を受けると普段以上のパフォーマンスを発揮できる」というのもあった。
ということは、昔の剣豪小説やスポコン漫画に欠かせない各種の悪役たちは、そうしたものなしで戦って互角に勝負しているのだとしたら、時の運などの要素を除いた絶対値としては主人公より遥かに強いと考えてしまってよいだろうか【言うて止まらぬおれカネゴン】。
スポーツだと勝ち負けがメインになるので、美空ひばりの唄の出だしがそのまま使えるのだけど、音楽や演劇などの芸事や客商売の場合、3 番目はたぶん以下のように変わる【いいとこ見せたいおれカネゴン】。
ぶはっ【沼から湧き立つおれカネゴン】。
日記を書くのが突然恥ずかしくなっておりました【青くて臭いおれカネゴン】。
ここ数ヶ月魂が肉体から完全に飛び去っていたことに加え【黄泉から戻ったおれカネゴン】、日記に書いていることがだんだん偉そうになってきていて、現実のカネゴンとの乖離が甚だしくなっていたように思えていたのだけど、今度はだんだんそれを隠すことの方が偉そげに思えてきたので気を取り直します【リハビリ開始とおれカネゴン】。
あけましておめでとうございます【謹賀新年おれカネゴン】。
レイトショーでアバターを見てきた【終電すれすれおれカネゴン】。
何だか全体的に10年ぐらい前の宮崎アニメに対する敵意に満ち満ちていて、監督の「ナウシカが何ぼのもんじゃぁ」「絶対に屈服させてやる」という叫び声が聞こえてきそう【仮想敵国おれカネゴン】。
ありとあらゆる3D技術をかき集めまくって観客を足下にひれ伏せさせようという物量作戦がいかにも米国流で、期せずして本編の悪役である出張地球軍と同じようなことをしているのはおそらく狙ってやったのではないと思われる。
ネイティブアメリカンなどのアジア人をミックスしたような出で立ちの現地人たちなのだけど、その現地人たちの演技や表情は一人残らず頭から尻までアメリカンで、宮崎アニメの登場人物が何人であっても結局日本人でしかないのと同じように互いにいい勝負をしていた。民族が征服されると後年そのエキゾチックな要素が娯楽のために使い回され消費されて、征服した側の後ろめたさを埋め合わせることに使われることを痛感。
後半の騎馬戦のシーンでついつい駅馬車を連想してしまい、今時の日本の漫画家が漫画しか読まずに漫画を描いているように、映画監督も映画しか見ないで映画を作っていることを期せずして痛感。
ただそれらの3D技術は、一見ド派手なようでいて、カネゴンたちのような可哀想な観客の認識を根底から掘り起こして覆したり揺るがせたりして怯えさせることが決してないよう、極めて慎重に製作されていた。それが証拠に、カネゴンは近年かなりの高所恐怖症なのだけど、映画で空中に浮かぶ山から墜落したり翼竜での空中戦を見ていて一度も怖いと思わなかったし、流血しても痛そうに見えなかった。残念なことに技術は積み重ねが可能なので、今頂点を極めていても、あと5年もすれば後に続くであろうもっと凄い映画たちに押し流されてしまいそう【カッパ流れのおれカネゴン】。
滑らかな関数であるということは、この関数を音源とすることも可能になるわけで、このエントリではそれをやってみようと思う。「アリメト」に出てきた「ゼータ変奏曲」みたいは芸術的な旋律は無理だけれど、とりあえず音を鳴らすことはできる。
http://riemann.bakfoo.com/math/?id=5
この「ゼータ変奏曲」というのは何だろう。
数列や式を音楽に変換する試みはときどき行われるのだけど、こういうときにどうして皆いつも数列や式を周波数の時間変化にしか変換しないのだろうか。パルスの濃淡や音量の大小、フィルタの深さなど、数値化可能な音楽のパラメーターは周波数以外にもいくらでもあるし、それらを組み合わせれば多次元の変化を表現できるのに、なぜか周波数以外についてはまず関心を持ってもらえない。どなたか複素関数も含めたゼータ関数を野性味あふれるドラミングで表現していただけるとありがたいのだけど【吹き矢と槍とおれカネゴン】。
ありがとうございます! 張り合わせたときの円柱の図、参考になりました。30度の件はやっぱり謎ですね。