自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【1653冊目】井上ひさし『日本語教室』

日本語教室 (新潮新書)

日本語教室 (新潮新書)

井上ひさし東日本大震災福島第一原発の事故を知らずに亡くなったのは、ご自身にとっては幸運だったかもしれないが、日本人にとっては不幸だったように思う。

なんといっても『吉里吉里人』を書いた作家だ。井上ひさしほど、東北を愛し、かつ日本を愛した作家はいなかった。そんな井上ひさしが生きていれば、本当に東北の人々の立場に立ち、渾身のペンを揮ったに違いない。それで復興政策や原発政策が変わることはないかもしれないが、多くの人の心に、何か暖かく確かなものを灯してくれたと思うのだ。

2010年4月9日が命日。あと1年半、井上ひさしには生きていてほしかった。

そんなふうに改めて思ったのは、本書に(冗談まじりにではあるが)「東北弁がかつては標準語だった」というくだりがあったからだった。そういうことを言う人は、ああ、この人くらいなのだなあ、と呼んで感じた。まあ、確固たる証拠がある話ではなく一種の仮説なのだが、しかし非常に面白い。

どういうことかというと、もともと縄文時代の日本語(原縄文語)が日本を覆っていた時代があった。ところがそこに、稲作技術をもった人々が北九州あたりに上陸してくる。彼らは自分たちの言葉と原縄文語を混ぜ合わせながら使っていくが(なんとそれが「関西弁」になったそうである)、技術に関わる言葉は輸入語がそのまま使われる。

この勢力が北九州から大和一帯を征服し、チャンポン言語が周囲を圧していく、と。これが「やまとことば」のスタンダードになっていく。一方、新たな人々がやってこなかった東北地方や最後まで新勢力に抵抗した出雲のあたりは、原縄文語がかなり原型に近い形で残された、という。お気づきのように、このストーリーを神話的になぞったのが「古事記」である。この話はなかなか象徴的だ。

「日本語」「やまとことば」という固定的な言語があるわけではない、ということが、ここから読み取れる。言葉はほかの言葉とぶつかり、重なっていく。重なっていった言葉を使う親を見て、子どもたちは、それが正しい言葉だと思う。言語の歴史とは、要するにその繰り返しだ。言葉は生きて、変化し続けているのだ。

「まだまだ日本語は完成されていないのです。また、そもそも日本語というものがあること自体がおかしいとも言えます。一人一人の日本語はあるんです。私の日本語はあります。でも、総和の日本語というのはありえないんですよ、実は」(p.108)


だから、現代で言えば外来語、カタカナ語が圧倒的な勢いで入ってきているが、井上ひさしはそのこと自体は否定しない。「日本語と英語をチャンポンにしたものが次の日本語になってくる」(p.111)と考えている。むしろ大事なのは、その中で一人一人が日本語を勉強し、正確に、情感を込めて人に伝えることができるようになることなのだ。

むしろ面白いのは、外来語を使うなら現地音で発音する、という提案だ。それによって「この言葉は私はまだ日本語とは認めていませんという意思表示になるし、言葉に対して一歩一歩正確に対処していく姿勢が培われる」(p.173)ためらしい。まあ、現実問題ちゃんと発音できるかどうか、ということのほうが気になるし、ちょっと恥ずかしい気もするが……。でも筋は通っている。

以上、書いたことは本書のごく一部を切り取ったにすぎないのだが、とにかく日本語というものの面白さを堪能できる一冊だ。個人的には、なぜ日本語に駄洒落が多いのか、といったところで、目からウロコが落ちた。井上ひさし、さすがの名講義、名調子也。

吉里吉里人 (上巻) (新潮文庫) 古事記 (岩波文庫)