野中広務追悼―青春のひとコマに

野中広務死去。                            
野中の名を知ったのは大学院で食えなくなり右往左往している頃だった。社民連三上隆京都府会議員の事務所にアルバイトでもぐりこんで、秘書スタッフとして働き始めたため府議会の情報に接するようになる。三上隆は京大生のときあの荒神橋事件の首謀者として逮捕された経歴の著名人。
しばらくして、その伝手で今の妻が府議会議員事務局の臨時職に就いた。事務局だから党派関係なく広く議員たちとの付き合いが始まる。                            
 野中は、まだ自民党の一議員であり地味な存在だったように思えた。まさか国政に進出して官房長官にまで出世するようには誰も予想しなかったはずだ。しかし自民党だけでなく、人望はかなり有ったように聴く。妻も可愛がられて、悪い印象はなかったようだ。                                 

そうこうするうちに野中から、妻に高給をもって遇するので秘書として事務所に入って欲しいというオファーがきた。妻は既に司法試験の短答試問はパスしていて、法務にも明るかったから、野中としては若いスタッフがほしかったのだろう。   
私は相談されたが、自民党なんかクソだと当時は単純に思っていたから、蹴っ飛ばせといった。しかし野中は諦めずしつこく何度も口説いた。トラブルになってもいけないと危惧して、妻に事務局を辞めさせた。                                 
まだ彼女であった妻に、野中が女としての部分も含めてみていた気配を感じ取ったのは、私の嫉妬心からかもしれない。  彼が被差別部落の出身で、ハト派だと識ったのは国会議員として頭角を現して世に知られるようになってからだった。                               今となっては自民党宇都宮徳馬野中広務小沢一郎などは「政治」家としてみたとき、かなり高い評価をしている。                
その後野中に会う機会はなかった。                   
野中の話題になると、懐かしさとともに人物をイデオロギーで評価していた私の未熟さに自己嫌悪を覚える。ささいなエピソードであるが、野中の名前は、私たち夫婦の熱い抱擁の季節を甦らせるとともに、忸怩たる青春期の思い出である。
いまや野中も妻も想い出のなかに生きる。
合掌