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2005-07-24

hajic2005-07-24

 シンフォニック=レイン

|  シンフォニック=レインを含むブックマーク

工画堂スタジオ シンフォニック=レイン愛蔵版

アクセスを辿ったら「トルタ至上主義者のアル抹殺計画サイト」とか書かれていてこっそり(`・´ω`・´)。確かに非常に押しつけがましいサイトですが…。この期に及んで私がまだ一つ言うとしたら、上記の様に考えている方には、「アルはクリスとの関係をどう考えていたのか」をもう一度考えて欲しいのです。もちろんそれぞれ嗜好はありますから、どのキャラが好きだとか、どの結末が好みだとか、そういうのは理解できます。例えば私はファルさんが大好きです。ただ、それとは別のところで、この物語のヒロインは間違いなくトルタですし、そして何より、彼女やフォーニのおもい、言葉、行いを通して、この物語の中ではほぼ全く描かれることのなかったあのキャラクター、本当の『アル』という少女の強い想いと、その存在の持つ真実の美しさを、私たち読者は手に取るように、まさに「本当に存在するかのように」感じたはず。だからこそ、一切語ることのない『その少女』は、一体、どのように考えていたかについて、もう一度だけ。


その上で、アルとクリスが結ばれることに、どれほど意味があるのでしょう? と私は問いたい。もしそれが、アルの本当の願いなのであれば、そこには確かに意味がある。しかし、もしクリスが想いを偽ったままで、そしてアルもまた想いを偽ったままであるならば? 本当にアルとクリスが結ばれることは、ハッピーエンドなのでしょうか。私にはそうだとは、全く思えない。それどころかそこでは、アルの本当の想い、トルタの本当の想い、クリスの本当の想い、そのいずれもが満たされていない(必要であれば、過去の考察を参照のこと)。故に、その結末に意味があるとしたら、それは「クリスとアルのため」の結末ではなく、「それを望む読者のため」の結末としての意味のみでしょう。そうなればこそ、あのフォーニエンドというあまりにももやもやしたエンディングに対し、その山積みの違和感に対し、気付かないふりをして、目を瞑っていられる。だって、あれは変だ。普通の人なら、そう思うはずです。


私の主張をまとめると以下の通り。クリスはトルタが本当に好きだが、人を愛することへの極度の恐れから、常に彼女を避けることを選択し続けている(故にトルタを避けることができれば、誰とどうなろうと構わない)。アル(フォーニ)はクリスの恋人であり、またクリスのことが本当に好きだが、クリスの本当の想いを(そして自分の命が長くないことを)知っているので、それではいけない=クリスにはトルタと結ばれて欲しいと考えている(だからこそ、フォーニエンドにおいてさえも彼女は旅立つ)。トルタに関しては言うまでもなし。以上の三つの要素から私の導くハッピーエンドとは、クリスとトルタが結ばれるというものでした。上の文脈において、彼ら3人全ての願いが叶うのは、真トルタしかあり得ない。確かにあの結末は寂しい。寂しいですが…。どうあろうと、人はいつか離れる。ならば強く愛し、愛されたまま、世を去れる程の幸せは、たぶん他にないでしょう。私は信じます。あの結末は間違いなく、トルタにとってだけでなく、アルにとってもの幸せな結末…シンフォニック=レインという物語が持ちうる、最高のハッピーエンドであると。

アルはいつも、トルタとフォーニを通して、私たちに話しかけていた。彼女たちは三人で一つであり、その中心にあるのは間違いなく『愛』そのものだった。…トルタの言う通り。


(そして蛇足を付け加えるなら、彼らの信じる宗教において、世界の終わりにすべての人は復活し、永遠の幸せを生きる。彼らはただ、ほんのちょっと別れるだけのこと。それは悲しいことではない。だってどんなことにも必ず終わりは来るのだし、またいつか楽園で、もう何も悲しみのない世界で、再会は約束されているのだから)

黒胡椒黒胡椒 2005/07/24 23:28 >トルタ至上主義者のアル抹殺計画サイト
某巨大掲示板ですねw。私自身はhajicさんと異なり、フォーニルートに入る最初の選択肢(トリガー)自体があり得ないIfであると考えています。そのためあのルートは考察など抜きにして純粋に楽しんだもの勝ちかと……。

hajichajic 2005/07/25 01:04 あそこに取り上げられたというのはある意味で喜ぶべきことなのでしょうけれど。ねえ。

>フォーニへの選択肢
確かにあの選択肢の出現はおかしいですね。あれは明らかに「読者を」ターゲットにしている。それは登場人物の選択に決定的に(「読者が」)関与するトリガーとして、アルフィーネ1/20におけるトルタ側の選択肢と対になっていて、他の作中の選択肢とは完全に異質。とするとSRは読者の関与がないかぎり、どちらにしても悲しい物語に? →→思考の泥沼へ

エレエレ 2005/07/25 01:07 時間と距離という関係から、クリスのアリエッタに対する思いは薄れていくと思います。しかし、学院ではトルタと会う機会も少ないのでトルタに対して好意を持つという要因は少ない。確かに全員の願いを適えているのは真トルタエンドかもしれない、しかし、このエンドも初めからクリスはトルタを好きだったわけではない。トルタとアル(フォーニ)の策略にで誘導的にトルタを好きにさせたという印象が強い。フォーニルートの選択肢についてはあり得ないとは思いにくい、虫の知らせと言うものを心理学的に信じる人間から言えば可能性はある。また、あのエンドに意味があるのか?というのはあのエンド自体はトルタが願った結末であると言うことを忘れてはいけない。トルタ自身はいつかアルが目覚めてそして、クリスが全て思い出すという結末を願っていた。それ以外にも確かに自分がクリスと結ばれる結末も願っていた。アルもフォーニであったが少なからず真実を思い出して欲しいと願っていた。確かに事象確率的に言えば極端に低い事柄であるが、これもキセキと言える結末の一つであると考えている。真トルタルートはトルタもアルも願っていたが、クリスは本当に11/27の時点で願っていただろうか?
宗教においての復活うんぬんの話しについては、自分個人として「死ねば終わり」、悲しみが無い世界に「人間」は居ないと考えてるのでどうなのだろう…。lightのPARADAIS LOSTの印象が強いもので・・・

genesisgenesis 2005/07/25 01:09 たぶん,hajicさんは「すべてが1つになる」という統合論で考えているのだと思いますけれど,それが私にとっては《仮説》だったりします。▼ 私は,東浩紀が「メタリアル・フィクションの誕生」で説くような並列的世界観で見ているので。分岐した物語世界は,相互に影響しつつも,個別に語られるべきものだと把握します。S=Rに《物語》と呼ばれるものは,9つあることになる。▼ そうすると,「この物語のヒロインは間違いなくトルタです」という前提からずれてしまうんですよ。以前いただいたコメントで指摘された《認識の差異》とは,まさにこのことなのです。
http://d.hatena.ne.jp/genesis/20050707#c

hajichajic 2005/07/25 01:18 端的に言うと、「クリスは本当は最初からトルタが好きだった」そして「アルは最初からそれを知っていた」というのが私の主張なんです。そこから導かれるべき結末は単純です。

クリスにとっては、いつもトルタだけが特別なんですよ。だって選択肢がある限り、クリスは絶対に彼女を最後の最後に回すでしょう? 彼は絶対に、トルタに「だけ」は本気になってはいけないんです。そう、彼は思っている。

それと、このお話はあくまで物語ですから、確立論で読み解くのには無理があると思います。可能性があっても意味がなければお話にはならない。単なる事実の羅列になってしまいます。

hajichajic 2005/07/25 01:24 >genesisさん
確かに。(´・∀・`) ほとんど全てが仮説なんですけれどね。ただし、他のこともそうなのですが、仮説を立てるにはそれなりの論拠があるわけで、たとえばSRが完全に並列であるなら、トルタにだけ裏面の視点がある意味がわからない。もしくは、クリア順を制限する必要がない。なにより、それらがたとえ単なる演出だったにせよ、そのような手順がとられた瞬間、自動的に物語には階層が発生してしまいます。よって実際的な見地から、SRは統合的な物語であると読むのが合理的だと考えます。

エレエレ 2005/07/25 01:28 クリスは本当は最初からトルタが好きだった。というのはどこにも書いてありません。選択肢は可能性であって双子という立場から意識するのは当然、たしかに恋人の妹に対して好意を持つというのはアルに対して凄い罪悪感を持つから遠ざけます。そういう理由からトルタを避けているのでしょう。
あくまで物語であるから確率で読み解くには無理がある。と言うコメントに対しては、複数のエンディングがある時点で確率なのです。これがもし本として真トルタルートのみの描写であれば確率論を持ち出すのは間違っています。しかし選択肢が出てくる全ての作品(マルチエンディング型)は全て「多世界解釈モデル」ヒュー・エヴァレットの平行宇宙の紐説です。残念ながら自分は量子論については駆け出しの身なので詳しい解釈はできませんが、シンフォニック=レインは確実に「多世界解釈モデル」のいい例として取り上げることが出来ます。

hajichajic 2005/07/25 01:34 >genesisさん
もちろんそれでも、トルタがヒロインでないと読むことは出来なくはないし、物語がそれぞれ個別の並列の物語であることを否定する証拠はない。ただ、それだと、SRという作品自体には全く意味がないでしょう? それって空しいと思うんですよね。無限に存在できる可能世界から、あえていくつかの世界を切り出して展開しているわけです。それらはある目的のために、選ばれたのだと考えたい。つまり、それぞれ独立した物語の持つ、それぞれの意味、あるいはそれぞれの主題が折り重なって、大きな一つのメロディになる。Da capoやal fineという音楽用語を使っているところから見ても、SRという作品が全体で一つとなる楽曲をイメージしていることは疑いにくいと思うのです。

hajichajic 2005/07/25 01:42 >エレさん
恋人の妹だから罪悪感を…というレベルではないと思いませんかあれは。だって実際、トルタじゃなかったらホイホイ別の女の子のところへ行くんですよ? 彼の独白する「アルがどうこう」ではなく、「トルタじゃなければ誰でも良い」としか見えません。断言しますが、恋人への罪悪感というのはほとんど全部彼の嘘です。

並列世界の件については上で述べました。端的に言うと、並列世界を並べるだけならそこいらのコンピューターにでも出来るわけです。もちろん、SRは物語を語る手段として並列世界を扱っている。しかしですよ、その並列世界をただ一つの結末へ収斂させていくその技量と深いテーマ理解が、SRという作品の信じられないレベルの完成度の根拠だと私は主張しているのです。

エレエレ 2005/07/25 01:59 ではクリスは何を思ってトルタを避けているのでしょうか?特別なのは何ですか?
並列世界に一つの結末と言うものはありません。観測者は他の世界を見ることは出来ないので、クリスという人物は他の可能性を知ることは出来ません。SRはたしかに真トルタエンドという一つの結末を用意していますがこれはトルタルートのトルタとアルの思惑通りに進んだ結末を選択するという事であって特別なことではありまあせん。思い出せませんが、同じ方法のプロセスでエンディングを表現した作品があったと思います。また、「並列世界を並べるだけならコンピュータにでも出来る」という発言は間違ってます。コンピュータが出来るのは計算だけであって可能性を「考える」ことはできません。行動から生じる未来へ影響を及ぼす選択を考えることは人間にしかできません。確かにSRはいい物語ですが、正直に言えば何らかの形で全てを語って欲しいところです。曖昧な部分が多いためこのような議論を生んでるわけでして。たしかに、不完全を完成と言ってしまえばそれまでですし、このような状況を楽しめるのでヨシとする面もありますがね。

TitoTito 2005/07/25 07:35 一見、作品の構造をどう解釈するのか?という点に論点があるかに見えるこの議論は、実際には、
メタのメタとしての視点を認めるか否か。
あるいはメタのメタ的視座をめぐる立場の違いに由来するように見えます。
 hajicさんは物語の階層化について言及しています。これをメタの第一段階(素朴なプレイヤーとしての視点)とするなら、次の第二段階、即ち制作者(シナリオライター)の意図や、シンフォニックレインという作品の位置づけ‐身も蓋もない言い方をすればオタクをメインターゲットとして発売されたエンタメ作品であり、ゲームであり、架空の物語であるといったようなこと‐や、自らの過去における経験(が作品解釈に及ぼす影響)等をも俯瞰する視座に立つとき、hajicさんはある緊張を抱え込むことになります。
 この議論中の文脈からhajicさんはテクスト自体がある真理内容を含むとする立場であると言えるわけですが、この立場がシナリオライターの意図との間に、また、他者の解釈との間にも緊張した関係を強いる。また、物語の意味を問うということ自体の意味をエコノミックな視点が希薄にする可能性を考慮に入れなければならない。
 さらに、hajicさんは自身の内部的にも別の緊張を抱えているようにも見えます。つまり、そもそもhajicさん自身を現時点でのその解釈に導きたらしめた、最初の原初的動機とはいったいなんだったのか?という自問自答が齎すものです。実はこの点についてhajicさんは時折その自覚を示唆する告白を為さっているような気がするのですが…。
 ところでhajicさんはクリスチャンなのでしょうか?いや、そうであるにせよないにせよ、聖書の解釈についてどのような立場をお採りになるのでしょうか。その立場を知ることはhajicさんの解釈における基本的な立ち居地を知る切っ掛けとなるかもしれません。というのは些か素朴すぎる考えではありますね。特に信仰と関わるのならそう単純な話ではない。

 さて、かく言う私はこの議論に対してのメタな視点を得ようと躍起になっているわけですが、そうやってメタを積み重ねていくことにどれほどの意味があるというのか?野暮なだけではないのか?というアイロニーに晒されることを避け難いのでこのへんで。

黒胡椒黒胡椒 2005/07/25 21:24 >hajicさん
「クリスは本当は最初からトルタを好きだった」というのはちょっと違うと思います。私は「両方好きだった。でもアルを選んだ」と考えています。実際に「アルを選んだ」という表現もあったような気がします。ですからアルと離ればなれという状況は非常に危険な状態でクリスがトルタを遠ざけるのも理解できます。

>エレさん
並列世界に一つの結末と言うものはありませんと言いますが量子力学的には一つの世界が観測された瞬間、他の可能性(世界)が消滅します(波動関数の収束)。さらにそう言った世界の分岐点はどこにでも存在するわけではなく、鞍点と呼ばれる特定ポイントにのみ存在すると考えられています(ゲーム中の選択肢と似たようなものですね)。それでも平行世界にこだわるのであれば、別の理論を用意しなければなりません。それらのことが文中で述べていない以上、やはりシンフォニック=レインは平行世界系ではなく収束系の物語と考えるのが自然な気がします。

>Titoさん
真実でない断定を含んでいるので文章が噛み合っていないようです。もう少し分かりやすく書くとhajicさんもレスしやすいと思います。

エレエレ 2005/07/25 22:04 黒胡椒さん>
言い方が悪かったかもしれません。
観測された瞬間他の可能性が消滅するのは量子力学的な考えですが、並列世界というのは観測された場合が複数ある世界が同時に存在する。つまりは、電子雲が存在するのではなく、その雲の電子1つ1つが観測される世界があるという解釈になります。量子力学的に考えるとお茶を濁すような感じになりますが、シュレイディンガーの猫のように観測した瞬間(選んだ瞬間)にクリスの運命は決定する=他の可能性は消滅する。それが波動関数の収束するってことになりますが、我々は全ての可能性を見る「超越者」的立場を取れます。ならば、同時進行される別の可能リセ、ファルなどのシナリオを考えつつ先に進むことができるはずです。
クリス=観測者とした場合はこれに当てはまらず、確かに波動関数は収束します、しかしal fineを見る限りクリスのみの視点と言うことではないのでシンフォニック=レインという作品はプレイヤーが居るのでやはり、多世界という解釈になると思います。また、「文中で述べられていない」といいますが、選択肢のあるゲームは全て当てはまり、文中ではっきり否定している物以外例外はありません。
なお、量子力学は理論体系としては成り立っていますが、多世界解釈や確率解釈といった方法が提示されているのでどれを取るかによって結論は異なってきます。この辺は現状自分の知識領域を逸脱しているので、理解できる範囲で書いていることをわかっていただければ幸いです。もし、黒胡椒さんが量子力学を納めている場合は間違いを指摘してくれると助かります。

mattyaoremattyaore 2005/07/25 23:29 なんつか、アルの想いを一意的に決定して、それ以外を排他している感じがしますけども。「トルタに任せなくちゃ」「トルタごめんなさい」を両方同時に抱えて、何がおかしいとも思いませんけど、どうなんでしょう。

黒胡椒黒胡椒 2005/07/26 00:31 >エレさん
私達はトルタENDとフォーニENDを同時に見る(観測する)ことはできません。あくまでそういうEND(観測結果)があったと知っているだけで、同時にENDを見ている(観測している)訳ではないのです。量子力学でも同じです。Aという観測結果もある、Bという観測結果もある、つまり両方の観測結果が存在するのを知っているのです。でも観測されるのは一つだけです。同時に二つの結果を見る(観測する)ことはできません。量子力学でも観測されなかった別の結末もあると数式で理解しているのです。そう考えるとやはりシンフォニック=レインは収束系の物語であり並列世界系の物語とは明らかに異なります。

並列世界系の物語は、同時に世界が観測されます。そのため作品では並行的に世界が存在することを描写する必要に迫られます。そのため登場人物が別の並行世界から訪問したり、別の世界に旅立つ描写が登場するのです。それが並行世界系の特徴です。

hajichajic 2005/07/26 01:52 >エレさん
>行動から生じる未来へ影響を及ぼす選択を考えることは人間にしかできません
未来に起こる可能性(=確率)を考える(=計算する)ことなら、むしろ機械の十八番です。
機械に出来ないのは、それぞれの「事実」の間から、「意味」を取り出すこと。
繰り返しますが、ランダムに「事実」を並べることなら、機械にもできるのです。
しかし、それには全く「意味」がない。


>Titoさん
私はSRを物語として理解しましたから、私にとってそこに結末があるのは自明なのです。と言うより私にとって、並列世界などという概念ほど空しいものはないのです。だってこの世界が単なる偶然の結果に過ぎないのだとしたら、今ここに自分がいる意味は一体。

私はクリスチャンではありません。ただし、興味はあります。もし「事実」だけを見るならば、あれほど嘘臭い記述に溢れる聖書を真面目に読み、ただのパンをキリストの体であると心から信じる彼らにとって、そこにはどんな「意味」があるのか。きっと世界の見方が違うはず。それはもう、クリスの世界とトルタの世界の差どころではなく。


>黒胡椒さん、mattyaoreさん
「フォーニエンドはおかしい」というのが私の主張の原点です。つまり私のいうところの「アルとクリスの本当の想い云々」は、そこから始まった演繹の結果であって、その解釈はけして「アルの想い」あるいは「クリスの想い」ありきではないのです。たぶん、フォーニエンドがいかにもすっきりしない結末であることは、ほとんどの人が認めるでしょう。ただそこに重要な意味を見出すか、画竜点睛を欠くと感じるか(=どちらを信じるか)は人それぞれであり、私は前者を信じた。たぶん、ただそれだけのことです。

エレエレ 2005/07/26 03:44
黒胡椒さん>
確かにプレイヤーが同時にそれらを見ることは出来ない、しかし、順を追ったとしてもそれらを同時に起こりうると考えてることはできるはず。プレイヤーというのは、どちらも体験することができる超越的存在なのですからプレイヤー=クリスと考えることが間違っているのです。「観測された瞬間に1つになる」というのは間違ってませんが、多世界解釈の場合は一つにはならないのです。多世界を見ることのできる観測者はいつだって超越存在ですから、全て同時に見ることができるのです。見れない私たちはそれを順を追って考えるしかありませんが。
並列世界の物語と言う題材ならば確かに、並列世界を移動する描写が必要ですが、別に題材にしているわけではな。確かに、永遠のアセリアのように世界間を移動しているわけでもない、=並列世界物語ではないでという主張は分かります。ならば収束するべき事なら他のエンドは意味が無くなる、なにより収束するなら、その場所で全ての事が明かされるべきではありませんか?フォーニの正体等が

はじCさん>
では、起こる確率を計算するためのプログラムは誰がどんな条件で作りますか?また、考える=計算ではないです。100匹の猫が箱にいて、開けて何匹生きているかを確認する作業(=計算)はコンピュータにでもできます。つまりは、並列世界で考えることが「意味が無い」と言うならば、可能性を表示する意味はなく選択肢の意味もない。他のヒロインに意味は無いならば、別にゲームにする必要も無いのでは?本にして1個の結末を設けたほうがよりすっきりすると思います。もし、ゲームとして複数の結末を用意するならば、それの意味を考えるべきではないでしょうか?

フォーニエンドがおかしいとは、まったく思いません。別にスッキリしたエンドであると考えますが。
周りの友人も同じように違和感を持ってはいないと言ってます。

エレエレ 2005/07/26 04:27 なんか泥沼になってきた気がしますのでこの辺で引きます( ・ω・)

genesisgenesis 2005/07/26 05:57 ここまでの混乱の原因は,解釈モデルの話で「並列世界」との混同が起こっちゃったことですね〜 これは最初に言い出した私の記述が悪かったです。▼ すべてのシナリオ分岐を見渡す「メタな視点」を認めるのが「多世界解釈モデル」なので。▼このモデルを導入すると,hajicさんの解釈を《第10のシナリオ》として打ち出す可能性はあると思う。私は,《フォーニ・シナリオ》が異質なものであることについてはhajicさんに同調します(唯一,音の妖精の存在を“信じる”ことによって成立する分岐だから)。でもhajic仮説は,これとは別の仮定を信じることによって成り立っているものなので,これを第9シナリオの正当な解釈とするには躊躇するわけなのです。▼ 簡単に言うと,フォーニ・エンド後もアルはやっぱり死んでいました(y/n)が,hajic解釈への分岐点なわけです。[n]を選べば原典の文言通りの受け止め,[y]を選べばトルタ至上主義(笑)なhajic解釈,[y]も[n]も両方あり得るだろうとすればメタを気取る私の態度になります。いくら欲張りとはいえ,ハーレム・エンドの脳内錬成はしませんけれどね。

黒胡椒黒胡椒 2005/07/26 11:08 >エレさん
>プレイヤーというのは、どちらも体験することができる超越的存在
これは超越的なことではありません。収束系の世界でもきちんと起こりうるべき可能性を計算できます。ですから収束系であっても一つのENDで全てのことを明かす必要性はありません。プレイヤーが超越的なのは可能性の内どれかを選択できるという一点においてのみです。そして可能性からいずれか一つが選択されるのが収束系の特徴です。選択肢を選ぶ度に可能性が収束してゆきその結果ひとつのENDにたどり着くという考え方です。例えばファルENDにたどり着いた場合、リセENDは「たどり着く可能性もあったけど収束(選択肢を選択すること)により消えてしまった世界」になります。こういった世界を表現するにはゲームというのは非常にいいメディアです。