鬱ゲ鬱ゲーと一口に言うけれど、その内容主体が陰鬱なのか、それとも読んだ結果鬱陶しい気分になるのかできっちり分けるべきだと思う――僕は前者を鬱ゲーと言うことに反対しないけれど後者をそう呼ぶのは大いに反対で、むしろ嫌がらせゲーの嫌ゲーとでも呼ぶことを提案したい。はっきり言って後味の悪いだけの話に僕は存在価値を認められないのである。なぜって『ハルヒ』著者の谷川氏も言っている通り、そんな話は現実を見回せばいくらでも転がっているのだ。リアルの側面を適当にピックアップして被害者を美少女に置き換えるだけでだいたいわかりやすい嫌ゲーが出来上がる。そんなのを喜んで読みたがる人がもしいるとすればよっぽど幸せなのか、あるいは想像力がどかんと欠如しているとしか思えない。難しいのは人を喜ばせるお話を作り出すこと、リアルをそっくりそのままなぞっても、良くてスティーブン・キングの日常風景なのである。現実がひどく無感動でグロテスクだからこそ、古来創作はそこに別の意味を持たせようとしてきた。その意味で喜劇という存在は現実の苛烈さの鏡像に他ならない。そんなことは有り得ないから笑うのである。笑って笑って、涙を流すのだ。本当は悲劇もあまり好きではない。悲劇そのものは悲劇でしかないし、それ自体を触るには僕は少々ナーバスすぎる。できたら皆幸せになって貰いたいのが正直なところだったりもする。けれどやはり、悲劇なくして喜劇は成り立たないのも確かだと思うのだ。人が死ねば僕らは悲しむ。ただし、生きているだけでは幸せとは限らない。喜劇はそれ自体として自由に存在出来ない。肝心なのは、喜劇的結末へと悲劇を意味づけていく手筈。悲しい悲しい悲しい出来事が、ある一点においてその色を少し変える。けして悲しみがなくなるわけではない。ただしすべての悲しみを納得と共に受け入れられる瞬間に読み手が得る喜びは、何もかもを補って余りある。喜劇とは悲劇の願われた結末であり、悲劇とは描かれぬ喜劇の落とした影なのだ。それが実際作品として描かれたかどうかは別にして、である。悲劇は喜劇と表裏の一対であればこそ無感動な現実そのものであることを脱却できる。それ自体がどれほど陰鬱なものであっても、落ちる影が見えざる光の方向を示す限り、それはけしてよくある嫌な話ではない。有り得ない話は有り得る話があればこそ、願われた結末の重みはそうでなかった結末の質量に比例する。結局のところ、読み終えた後に陰鬱な作品など、日々僕らが現実において遭遇するやり切れない事件の一つに他ならない。その出会いは一種の不幸な事件であり、天災の類である。まだ全ての出来事に神の摂理を感じられるほど信心深くはない。嫌なことは少ないほうがよいに決まっている。加えてわざわざお金を払っているのだ。医者に行ったら殴られたようなものである。これでは困る。読み進むにつれ憂鬱になる物語が、必ずしも全て読み終わってからも憂鬱なそれであるとは限らない。わざわざネガティブなネーミングをする必要もないけれど、そういう話、そういうストーリー構造を持ったゲームを便宜上鬱ゲーと呼ぶことはまあ、良いのではないかと思う。ただし、うっかりすると「ただ嫌なだけの話」との混同を招いている現状は、大変好ましくない――なぜって喜ばせるために鬱なのと滅入らせるために鬱なのとは全く別なのだ、言うまでもなく。