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昭和の福岡・なつかしの記憶

2010-07-19

福博の映画館 昭和51年

09:44

 シティ情報ふくおか創刊号(昭和51年9月25日発行)に掲載されている福岡市内の映画館+α。昭和30年代前半は、東京都内の映画館数の次に福岡は映画館が多かった。映画館数は昔の方が圧倒的に多いが、スクリーン数はシネコンの台頭で減ってないらしい。最盛期には21館があった中洲地区は現在、中洲大洋のみ現存。映画街の最後の砦である。

中洲

ピカデリー1・2(城山ホテル横)

東宝名画座宝塚会館7F)

宝塚劇場(宝塚会館2F)

スカラ座宝塚会館5F)

東宝シネマ(宝塚会館地下2F)

東映パラス福岡東映地下)

□多門日活中洲3丁目)

福岡東映中洲4丁目)

東映グランド(中洲4丁目)

福岡東宝中洲4丁目)

中洲大洋中洲4丁目)

□ニュー大洋中洲4丁目)

福岡松竹中洲4丁目)

中洲映劇(中洲4丁目)

□文化オークラ(中洲5丁目)

博多

□駅前東映(駅前1丁目)

□ステーションシネマ(博多駅構内)

□駅前ロマン(駅前1丁目)

□富士映劇(店屋町)

中央区

□センターシネマ(福岡スポーツセンター)

□赤坂劇場(職業安定所横)

□みなみ東映(電気ホール前)

西区

□西新文化(西新1丁目)

□西新東映(西新1丁目)

東区

箱崎映劇(箱崎1丁目)

2010-06-07

サンプラザ(福岡朝日ビル地下)

18:48

博多駅前の福岡朝日ビル(福岡市博多区博多駅前2丁目1番1号)、地下には福博の老舗48店が軒を列ねた。地下の食堂街「味のプロムナード・サンプラザ」(B1・B2)もビルの竣工1970年2月)に伴いオープン。時代ごとにテナント飲食店の顔ぶれも変化してきた。

懐かしいところでは、下川端にあった福岡の老舗ピザ店「ビバ・クレハ(のちエル・モードが経営を引き継いでエル・クレハと名称変更)」の支店、「ラ・クレハ」があった。学生やサラリーマン,OLに人気だった。

昭和46年テナントは以下。当時のお店の解説文も簡潔に記載。

写真資料は未公開ながら※印は所有

B1F

カフェプラザ「ニュー極東」 ※博多随一の店内装飾と味

酒蔵「松竹」 久留米の名店、焼き鳥本舗

そば茶屋「文六」 創業300年の老舗

季節料理「万惣」 小倉の名店スッポン料理の店

和食の店「いしくら」 博多の老舗

中華スナック「ふるいち」 ラーメン・チャンポン

B2F

サンプラザ「シャポー」

ピザの店「ラ・クレハ」 ※当時流行り始めたイタリアン

名代「玉家寿司」 博多一の老舗

天ぷら「天八」 赤坂門の名店

焼き肉「アンガス」 中洲2丁目で人気のステーキ専門店の支店

和食の店「かじ」 中洲の名店

パーラー「チャンティ」 今では見かけなくなったフルーツパーラーの老舗

他には、書籍「福岡金文堂」、カメラの「岡林」、博多人形の「増屋」、画材の「大崎周水堂」、博多じまん本舗「明月堂」、博多最古の「土屋レコード店」、理容美容「ロビン」、カステラ文明堂」、「木村カバン店」「とうじ画廊」「サンロビン」「ヤマト」「ぼたんや」等々。

2010-05-25

柳原白蓮と赤銅御殿跡と竹久夢二

21:20

 天神3丁目、現在伊藤ビルや証券取引所がある一帯には昭和の初めまで、炭鉱王・伊藤伝右衛門が筑紫の女王と謳われた愛妻・歌人柳原百蓮のために建てた「赤銅御殿」があった。年齢差のあった伝右衛門と百蓮の夫婦仲はうまくいかず、百蓮は宮崎龍介のもとへ走った。

 昭和28年10月19日、約30年ぶりに福岡・赤銅御殿跡を訪ねた白髪の百蓮は、ビルの谷間で詠んだのが

 わかき日 わが思い出の ふる里よ

  夢もなみだも 今はこいしき

という詩である。

百蓮の詩集装丁を担当していた画家・竹久夢二は、大正7年8月に天神町の「赤銅御殿」に百蓮を訪ねている。その時の夢二の日記には当時の博多の風景を「古い博多の柳町を見る。三浦屋、みよしや、えびすやの門ばなり残ったのや医者の交って住んでいるのや土蔵の上の草を見て歩いた。」とある。旧柳町遊郭(現在の大浜)の移転跡のことを記している。

野添 實野添 實 2010/07/20 15:56 この記事を初めて読んだ時、あれっ?と思ったのです。というのも「赤銅御殿」と柳原白蓮は関係ないのでは?と思っていたからでした。たとえば中央区のホームページにも「その頃、伝右衛門は天神町にあった伊藤家の別邸・赤銅御殿(あかがねごてん)を白蓮のために大改装していました。屋根をすべて銅でふいた豪壮な建物でしたが、完成したのは離婚劇以後のことで、白蓮はこの豪邸に住むことはありませんでした。」などと書かれており、この記述に従えば、「伊藤家の別邸=赤銅御殿」ということになり、まるで白蓮は「福岡の伊藤家の別邸とは無関係」というように読めるからです。そこでこれを機に当時の新聞などをちょっと調べてみましたら、分かりました。どうも人によって「赤銅御殿」の意味するところが違うようです。本来、「赤銅御殿」とは「福岡の伊藤家別邸の白蓮失踪後に完成した増築部分」であり、「福岡の伊藤家別邸全体」を意味するものではなかったのですね。その増築部分が立派だったために「福岡の伊藤家別邸全体」を「赤銅御殿」と呼ぶようになったようですね。従って、白蓮との関係でいえば、「福岡の伊藤家別邸の増築部分」としての「赤銅御殿」に白蓮は住むことはなかったわけですが、「福岡の伊藤家別邸」はやはり白蓮にとって「一番心に残った家」(昭和28年当時の白蓮の談話−西日本新聞)であったようです。話がややこしくなりましたが「白蓮と赤銅御殿は無関係」と思っていた私にとってはひとつの大きな発見でした。やはり、調べてみるといろいろ面白いものですね。

2010-05-22

松本清張と福岡市

03:04

 北九州小倉出身の文豪・松本清張の作品には、地元九州を舞台にしたものも多い。福岡市を舞台にした作品の代表といえば「点と線」香椎海岸(現在は埋め立てで風光は一変)や西鉄香椎駅(旧駅舎)はこの作品で全国へ存在が広まった。

 松本清張は自伝的本「半生の記」などに若い頃の苦労話しや、画工(デザイナー)見習いとして過ごした時期のことを断片的に記しているが、全集や単行本に未収録で福岡市の観光ガイド(昭和42年刊行)に記した寄稿文は、松本清張記念館でも把握していないそうだ。

 わずか1200字ほどの文章だが、そこには他では触れられていない福岡市でのエピソードや通ったお店の名が記されている。東中洲那珂川の袂に開店したばかりのカフェ・ブラジレイロのこと(高級感あって敷居が高く外から眺めるだけだった)、千日前にあった大衆食堂「千里十里」に入るのが最高の贅沢だったこと、千代町角にあった古書店「山内書店」に通っていたこと、印刷会社・島井精華堂でのデザイン修行のこと(博多豪商・島井家の末裔)等々。

 記憶力の良い氏にあっても、さらっと書いた30年も昔の福岡博多)の思い出話は、所々で記憶違いや勘違い解釈も見受けられて、それも面白い。休日には西鉄電車(当時は博多湾鉄道、現在の貝塚線)で名島香椎海岸に行ったことも書かれていて、そこで東洋一の「雁ノ巣飛行場」のダグラス機が飛んでいたのが懐かしいと記しているが、氏がデザイン修行で博多にいたのは昭和8年末から昭和9年春まで。この時、まだ雁ノ巣飛行場は開場していない。

 「点と線」香椎を舞台にした理由も細かく綴られているが、氏の福岡での行動をもっと細かく知りたい。

2010-05-15

番外・文明堂のカステラ:長谷川町子

07:40

宮内省御用達」と書かれ、コケシに扮したサザエさんカツオ、ワカメの三人とカステラが描かれた栞がある。発行は文明堂昭和20年代のものと思われるが正確な発行時期は現在まで未確認。店舗網の記載があるので、文明堂さんだったら判るかもしれない。

福岡の記憶で番外で取り上げる理由は、福岡出身の漫画家長谷川町子のサイン入り画が掲載されているから。しかも本文にはオリジナルの4コマ漫画まで掲載されている。

サザエさんが正式に(バッタものでなく)登場している広告は、古いものだとそう多くない。福岡市では昭和20年代に柳橋サザエさんの等身大看板が店頭にあるお肉屋さんがあったそうだが、これは無断だったのか公式なものかは調査中。長谷川町子は戦前、家族とともにこのすぐそばに住んでいた(春吉小卒)ことから、正式なものだった(長谷川町子本人が描いた)可能性は高いと思われる。

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(文章@益田啓一郎 http://www.asocie.jp/